第11話 血の祭壇の誘惑
神殿の石階段を一歩踏みしめる度に、足裏から伝わる冷たさが骨の髄まで染み渡った。この感覚を俺は知っている。死体安置所に入った時の、あの張り詰めた空気だ。違うのは、ここには生者の絶望が渦巻いていることだった。
「まじで気味悪い場所ね」
レイナが俺の耳元で呟く。その声は普段の軽やかさを失い、かすかに震えていた。俺も同感だったが、口には出さない。今は冷静さこそが命綱だった。
神殿の外壁は黒い石で築かれ、苔が這いまわっている。月明かりが雲に遮られると、建物全体が闇に溶け込んで見えなくなりそうだった。窓という窓からは不気味な赤い光が漏れ、まるで巨大な獣の目玉のようだ。
俺たちは物陰から神殿を見上げていた。高さは五階建てほどもあり、尖塔が夜空を突き刺している。正面入り口には松明が灯され、黒装束の衛兵が二人立っている。だが、問題はそれだけではなかった。
「あそこ」
レイナが顎で示した先には、神殿の周囲を巡回する衛兵たちの姿があった。俺は腕時計を確認する。午後十一時十五分。
「巡回パターンは?」
「北側から時計回りに一周、約十二分。交代は三十分ごと」
刑事時代に身につけた観察の癖が、自然と働いていた。人の行動にはリズムがある。そのリズムを読めば、隙は必ず見つかる。
「十二分の間に侵入して、アリアを見つけて、脱出する」
「無茶言うなよ」レイナが苦笑いを浮かべた。「この神殿、地下まで含めたらどれだけ広いと思ってる?」
「だからお前の技術が必要なんだ」
俺はレイナの肩に手を置いた。彼女の体が小さく震えているのを感じる。恐怖を押し殺しているのが分かった。
「信頼してる」
その言葉に、レイナの瞳がわずかに潤んだ。
「……ったく、そういうこと真顔で言うのやめなさいよ」
彼女は頬を染めながら視線を逸らす。だが、その手つきが確実になったのを俺は見逃さなかった。信頼は、時として最強の武器になる。
巡回の衛兵が角を曲がった瞬間、俺たちは動いた。
神殿の側面には、雨樋に沿って小さな窓が並んでいる。レイナが軽やかに石壁を駆け上がり、窓の鍵を器用に外していく。盗賊としての彼女の技術は、やはり一流だった。
「開いたわ」
レイナの合図で、俺も壁を登る。三十歳の体にはきつかったが、筋力だけは自信があった。窓から滑り込むと、鼻を突く血の匂いがより濃くなった。
神殿の内部は、外観以上に異様だった。
廊下の壁には、奇怪な文字が刻まれ、それが赤い光を放っている。天井は高く、そこから垂れ下がる鎖には頭蓋骨が吊るされていた。足音が石造りの廊下に響き、まるで亡霊の足音のように聞こえる。
「こっち」
レイナが先導する。彼女の足音は猫のように静かだった。俺も極力音を立てないよう、慎重に歩を進める。
廊下の向こうから、低い唱和の声が聞こえてきた。カルトの信者たちが何かの儀式を行っているのだろう。その単調なリズムが、この場の不気味さを一層際立たせていた。
「あそこ」
レイナが指差したのは、螺旋階段の下り口だった。地下へと続く暗闇に、より強烈な魔力の気配が漂っている。
階段を降りていくにつれ、空気が重くなった。まるで水の中を歩いているような息苦しさだ。壁に刻まれた文字の光も、ここでは血のように濃い赤になっている。
そして、俺たちは地下祭壇にたどり着いた。
「……ッ」
息を呑んだ。
円形の広間の中央に、石の祭壇が置かれている。その上に、アリアが横たわっていた。両手両足を鎖で拘束され、意識を失っているようだった。彼女の黒い鱗が、周囲の魔術陣の光を受けて不気味に輝いている。
祭壇を囲むように、黒装束の信者たちが輪を作って立っていた。その数、約二十人。全員が頭を垂れ、何かを唱えている。
そして、祭壇の正面に、あの男がいた。
「アシュヴィン・ゼルティス」
俺の口から、その名前が漏れ出た。
アシュヴィンは振り返る。月光のように美しい銀髪、氷のように冷たい蒼い瞳。貴族らしい気品を湛えた立ち姿は、この異様な光景の中でも一際目を引いた。だが、その美貌に宿る狂気を、俺は見逃さない。
「ああ、来てくれたのですね」
アシュヴィンの声は、まるで古城のホールに響く音楽のように美しかった。だが、その響きの奥に、計り知れない闇が潜んでいる。
「黒崎悠斗。貴方が彼女を愛しているのは分かります。その瞳に宿る炎を見れば、明らかですから」
俺は一歩前に出る。レイナが俺の袖を引っ張ったが、振り払った。
「アリアを解放しろ」
「解放?」アシュヴィンが微笑む。その笑みは、まるで悲しげな詩人のものだった。「彼女は解放されるのです。この腐った世界の苦痛から、永遠に」
「お前の理想のために、彼女を犠牲にするつもりか」
「理想」アシュヴィンが俺の言葉を反芻する。「貴方は理想を軽々しく口にしますね。では、問いましょう。貴方の正義は、何人を救いましたか?」
その言葉が、俺の胸を突き刺した。
救えなかった部下の顔が、脳裏に浮かぶ。あの時、もっと早く気づいていれば。もっと的確な判断ができていれば。
「私は知っています」アシュヴィンが続ける。「貴方もまた、正義の無力さを知る者だということを。だからこそ、貴方には分かるはずです。この世界を根本から変えなければ、真の救いは訪れない」
アシュヴィンが手を上げると、祭壇を囲む魔術陣がより強く光った。アリアの体が宙に浮き上がる。
「やめろ!」
俺は剣を抜いて駆け出した。だが、目の前に透明な壁が現れ、俺の体を弾き飛ばす。魔術の障壁だった。
「焦ってはいけません」アシュヴィンが諭すように言う。「まずは対話を。私は貴方という男を、もっと知りたいのです」
俺は立ち上がりながら、周囲を見回した。信者たちは依然として唱和を続けている。レイナは柱の陰に隠れ、機会を窺っているようだった。俺一人が、アシュヴィンの注意を引く必要がある。
「なぜアリアなんだ?」
「彼女はドラゴン族の王女。その血には、古代の契約が宿っています」アシュヴィンの瞳が遠くを見つめた。「邪神との契約が」
「邪神を復活させて、何になる?」
「浄化です」アシュヴィンの声に、狂信的な熱が籠もった。「この世界は腐敗しきっている。権力者は民を踏みにじり、弱者は絶望の中で死んでいく。私の家族もそうでした」
アシュヴィンの表情が、一瞬だけ少年のように無防備になった。
「父は政敵に毒を盛られ、母は政略結婚を強いられて自ら命を絶った。妹のエリーゼは……」
声が詰まる。俺は息を呑んだ。これは、演技ではない。本当の痛みだった。
「エリーゼは病気でした。治療薬はあったのです。だが、我が家の没落により、その薬を手に入れることができなかった。彼女は七歳で、私の腕の中で息を引き取りました」
アシュヴィンの拳が、小刻みに震えている。
「『お兄様、痛いよ』彼女の最後の言葉です。私は何もできなかった。ただ、見ているしかできなかった」
俺の胸に、重い石が落ちたような感覚があった。この男の痛みは、俺が味わったものと同質だった。救えなかった者への罪悪感。無力感への怒り。
「だからといって」俺は声を絞り出した。「世界を破壊していい理由にはならない」
「破壊?」アシュヴィンが首を振る。「私は創造するのです。邪神の力により、腐敗した権力を一掃し、真に公正な世界を築き上げる。そこでは、エリーゼのような子供が死ぬことはない」
「その過程で、どれだけの無関係な人間が死ぬ?」
「犠牲なくして、革命は成し得ません」アシュヴィンの瞳に冷酷さが戻った。「貴方も刑事なら理解できるでしょう。時として、一人を切り捨てることで、多くを救うことがある」
俺は歯を食いしばった。この理論は、俺も何度も直面したものだった。だが、今は違う。
「アリアは切り捨てられる『一人』じゃない」
「愛ゆえの盲目ですね」アシュヴィンが哀れむような目で俺を見た。「しかし、それもまた人間らしい。美しくもあり、愚かでもある」
その時、祭壇のアリアが微かに呻いた。意識が戻りかけているのかもしれない。魔術陣の光がより激しく明滅し、彼女の体を包む鎖が熱を帯び始めた。
「時間がありません」アシュヴィンが祭壇に向き直る。「儀式を完了させましょう」
「待て!」
俺は再び剣を構えたが、魔術の障壁は破れない。歯がゆさで血管が切れそうだった。
その時、突然の爆音が神殿に響いた。
「何事だ!」
信者の一人が叫ぶ。神殿の上方から、戦闘の音が聞こえてくる。アシュヴィンの眉が僅かに顰められた。
「ルキウスめ……」
アシュヴィンが呟いた名前を、俺は聞き逃さなかった。
「誰だ、ルキウスって?」
「私の部下の一人です」アシュヴィンが振り返る。その表情に、初めて苛立ちの色が浮かんだ。「どうやら、貴方たちの侵入を手助けしたようですね」
上からの騒音がより激しくなる。衛兵たちの足音が慌ただしく駆け回る音が、石造りの天井を通して響いてきた。
「なぜ?」俺は問うた。
「なぜ、彼が裏切ったかですか?」アシュヴィンの口元に、皮肉な笑みが浮かんだ。「人の心とは、実に不可解なものです。私が妹を想うように、彼もまた、誰かを想っているのでしょう」
その瞬間、俺は理解した。ルキウスという男も、大切な何かを失うことを恐れている。アシュヴィンの理想に従えば、その何かまで失われてしまうかもしれない。
「貴方は面白い男だ」アシュヴィンが俺を見詰めた。「私と同じ痛みを知りながら、なぜ絶望に染まらない? なぜ、この腐った世界に希望など抱けるのです?」
俺は剣を構えたまま、アシュヴィンの瞳を見返した。その奥に宿る深い孤独を感じ取る。
「俺も絶望したことがある」
俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
「部下を死なせた時、この世界に正義なんてないと思った。俺の判断ミスで、若い命が失われた。その時の無力感は、今でも俺を蝕んでいる」
アシュヴィンの表情が、わずかに変わった。
「だが、それでも俺は信じることを選んだ」俺は続ける。「アリアの笑顔を、レイナの優しさを、人の心に残る温かさを。完璧な世界なんてない。だが、不完全だからこそ美しい瞬間がある」
「甘い考えです」アシュヴィンが首を振る。「その美しい瞬間とやらが、どれほどの悲劇に支えられているか」
「知ってる」俺は即答した。「だが、悲劇を悲劇で塗り替えることが答えじゃない」
アシュヴィンの瞳が、一瞬だけ揺らいだ。その隙を、俺は見逃さなかった。
「お前だって本当は分かってるんじゃないか? エリーゼは、お前が世界を滅ぼすことを望んでいたか?」
「黙れ!」
アシュヴィンの叫びと共に、俺を包む魔術の障壁が激しく光った。だが、同時に祭壇の魔術陣にも亀裂が走る。感情の動揺が、魔術に影響を与えているのだった。
その瞬間を、レイナは見逃さなかった。
柱の陰から飛び出した彼女が、手に握った短剣を祭壇の魔術陣に向けて投げつける。刃は正確に魔術陣の中核を貫き、陣全体に走る光が乱れた。
「何を!」
アシュヴィンが振り返るが、既に遅い。魔術陣の崩壊と共に、俺を包んでいた障壁も消え失せた。
俺は迷わず駆け出す。祭壇まであと十歩。八歩。五歩。
だが、アシュヴィンの手が宙に舞った瞬間、新たな魔術が発動する。今度は攻撃魔術だった。
炎の槍が俺に向かって飛来する。咄嗟に剣で受け流すが、その熱量で剣身が赤く光った。
「貴方の剣技、なかなかのものですね」
アシュヴィンが魔術を詠唱しながら言う。その顔には、戦いを楽しんでいるような表情があった。
「だが、魔術師相手に剣だけでは限界があります」
次々と放たれる魔術を、俺は必死に避ける。氷の矢、雷の鞭、闇の触手。どれも一撃で致命傷を与えかねない威力だった。
だが、俺には刑事時代に培った洞察力がある。アシュヴィンの魔術詠唱には、僅かな癖があった。詠唱の際、必ず左手の指先が微かに震える。そのタイミングを読めば、攻撃を予測できる。
「そこ!」
左手の震えを確認した瞬間、俺は右に跳んだ。炎の槍が俺の頬をかすめていく。
「ほう」アシュヴィンの瞳に興味深そうな光が宿った。「観察力に長けているのですね。さすがは元刑事といったところでしょうか」
「観察力だけじゃない」
俺は剣を構え直す。アシュヴィンとの距離は約十メートル。この距離なら、一気に詰めることもできる。
「俺には、信念がある」
「信念」アシュヴィンが苦い笑いを浮かべた。「私にもありますよ。より強固な信念が」
「それが、アリアを苦しめていいという理由になるか?」
「彼女の苦痛は一時的なもの。儀式が完了すれば、この世界の全ての苦痛が終わるのです」
俺は首を振った。この男は、本気でそう信じている。だからこそ厄介だった。純粋な悪意よりも、歪んだ正義の方が始末に負えない。
「エリーゼの話をしたな」俺は声を低めた。「お前の妹は、他の子供たちが死ぬことを望んでいたか?」
アシュヴィンの詠唱の手が、一瞬止まった。
「お前が愛した妹は、世界中の子供たちが笑っている姿を見たかったんじゃないか? それとも、お前の復讐のために、無関係な子供たちが犠牲になることを望んでいたか?」
「黙れと言ったはずです」
アシュヴィンの声が震えている。その震えは、怒りだけではなかった。迷いがあった。
「エリーゼ……エリーゼなら……」
彼の呟きが、石造りの祭壇に響く。その時、信者たちの唱和が一瞬止まった。彼らもまた、アシュヴィンの動揺を感じ取ったのだった。
「ルキウスが裏切ったのは、誰かを守りたかったからだろう?」俺は一歩ずつアシュヴィンに近づく。「お前だって同じはずだ。エリーゼを守りたかった。その気持ちに嘘はない」
「だが、もう遅いのです」アシュヴィンが顔を上げる。その瞳に、絶望的な決意があった。「私は既に多くを犠牲にした。後戻りはできません」
「できる」俺は断言した。「今ここで止めれば、まだ間に合う」
「甘い!」
アシュヴィンが両手を天に掲げると、祭壇全体が激しく光った。アリアの体が更に高く舞い上がり、彼女の鱗から血のような光が立ち上る。
「儀式は既に最終段階です。もはや誰にも止められない!」
だが、その時だった。
「お兄様……」
微かな声が、祭壇に響いた。アリアの声ではない。もっと幼い、少女の声だった。
アシュヴィンが凍りついたように動きを止める。信者たちの唱和も途切れた。
「お兄様、なぜそんなに悲しい顔をしているの?」
声は空気中に漂い、どこから聞こえてくるのか分からない。だが、その声にアシュヴィンは全身で反応していた。
「エリーゼ……?」
「お兄様の理想、とても素敵だと思う。でも、それで他の人が泣いちゃうのは、エリーゼは嫌だな」
幻聴なのか、それとも何かの魔術現象なのか。俺には分からなかった。だが、その声がアシュヴィンに与えている影響は明らかだった。
「エリーゼ、私は……私は正しいことをしているのです」
「お兄様が正しいことをしたいのは分かる。でも、お兄様が笑っていないと、エリーゼも悲しいよ」
アシュヴィンの両手が震え始めた。魔術の詠唱が乱れ、祭壇の光が不安定になる。
「私は……私は……」
その隙を、俺は逃さなかった。
魔術の障壁が弱まった瞬間、俺は全力で駆け出す。アシュヴィンとの距離を一気に詰め、剣を振り上げた。
だが、俺が狙ったのはアシュヴィンではなく、祭壇の鎖だった。
剣撃が鎖を断ち切ると、アリアの体が祭壇に落下する。俺は咄嗟に彼女を抱き上げた。
「アリア!」
彼女の瞳がゆっくりと開く。焦点が定まらず、まだ完全に意識が戻っていないようだった。
「くろ……さき?」
「ああ、俺だ。もう大丈夫だ」
俺はアリアを抱きしめる。彼女の体は熱く、魔術の影響で高熱を発していた。
「許しません……!」
アシュヴィンの叫び声が響く。振り返ると、彼の瞳が完全に狂気に染まっていた。
「儀式を中断させるなど……エリーゼの願いを踏みにじるなど……!」
アシュヴィンが両手を広げると、祭壇全体に巨大な魔法陣が浮かび上がった。これまでとは桁違いの魔力が集束していく。
「レイナ!」
俺の叫びに応じて、レイナが影から飛び出してくる。
「逃げるわよ!」
「待て」俺はアリアを抱いたまま立ち上がった。「あいつを止めなければ、他の場所でも同じことを繰り返す」
「正気? あんな魔術、まともに受けたら死ぬわよ!」
レイナの言う通りだった。だが、ここで逃げたところで根本的な解決にはならない。アシュヴィンは諦めない。彼の痛みと狂気が続く限り、悲劇は繰り返される。
「俺に考えがある」
俺はアリアをレイナに託した。
「頼む」
「ちょっと……!」
レイナの制止を振り切り、俺はアシュヴィンに向き直った。
「アシュヴィン!」
詠唱を続ける彼に向かって、俺は叫んだ。
「エリーゼの声、聞こえただろう? あれが本当に幻聴だと思うか?」
アシュヴィンの詠唱が僅かに乱れる。
「彼女は今も、お前を見てるんじゃないか? お前が復讐に囚われて、他の家族を苦しめている姿を」
「黙れ……黙れ……!」
アシュヴィンの魔力が暴走し始めた。制御を失った魔術は、術者にも危険を及ぼす。
「エリーゼが本当に望んでいるのは、お前の笑顔じゃないのか? お前が幸せになることじゃないのか?」
「私に幸せなど……!」
「ある」俺は断言した。「お前がエリーゼを愛した気持ちは、今も美しいままだ。その愛が、お前を支えているじゃないか」
アシュヴィンの動きが完全に止まった。魔法陣の光が急速に薄れていく。
「愛……」
彼の唇から、その言葉が漏れ出た。
「私は……私は愛のために戦っていたのか? それとも、憎しみのために?」
その問いに、俺は答えなかった。それは、アシュヴィン自身が見つけるべき答えだった。
沈黙が祭壇を支配する。信者たちも、魔術の暴走に怯えてざわめいていた。
やがて、アシュヴィンがゆっくりと両手を下ろした。魔法陣が完全に消失し、祭壇に静寂が戻る。
「貴方は……」アシュヴィンが俺を見た。その瞳には、もう狂気はなかった。代わりに、深い悲しみと混乱があった。「貴方は強い。私よりも、ずっと」
「強くなんてない」俺は首を振った。「俺だって迷ってる。正解なんて分からない。ただ、大切な人を守りたいだけだ」
アシュヴィンが、かすかに微笑んだ。それは、今夜初めて見る、人間らしい表情だった。
「そうですね……私も、ただエリーゼを守りたかっただけなのかもしれません」
その時、祭壇の上からルキウスという男が現れた。三十代半ばぐらいの、精悍な顔つきの男だった。黒装束を身に纏っているが、どこか信者たちとは異なる雰囲気を持っている。
「アシュヴィン様」ルキウスが膝をついた。「申し訳ございません。私は……私は妻子を思うと、この儀式を見過ごすことができませんでした」
アシュヴィンは立ち上がると、ゆっくりとルキウスに近づいた。月光が差し込む石造りの窓から、その美貌に影を落とす。まるで古典絵画から抜け出してきた貴公子のような佇まいだった。
「ルキウス」アシュヴィンの声は、氷のように冷たく、しかし不思議な慈愛を帯びていた。「君は十五年間、私の傍で共に戦ってくれた。君の家族への愛情も、この世界への疑念も、私は理解している」
俺は息を呑んだ。アシュヴィンの表情に、計算ではない真の感情が宿っているのを見て取った。刑事として数多の犯罪者を見てきたが、この男の複雑さは異質だった。単純な悪人ではない。むしろ、理想に燃える革命家に近い何かがあった。
「だが」アシュヴィンが続けた。「君にも分かるはずだ。この腐敗した世界では、君の愛する家族もいずれは苦しむことになる。権力者たちの私欲に巻き込まれ、理不尽な死を迎えるだろう。私の浄化こそが、真の救済なのだ」
ルキウスは顔を上げた。その瞳には迷いと苦悶が交錯していた。「しかし、アシュヴィン様。あの娘は……あのドラゴンの娘は、何も悪いことをしていない。無垢な魂を犠牲にして得る世界に、本当に価値があるのでしょうか」
祭壇に縛られたアリアが、微かに身じろぎした。紫水晶のような瞳が、僅かに開く。魔術の影響で意識が朦朧としているはずなのに、その視線は真っ直ぐに俺を見つめていた。
『助けて』
アリアの唇が、音もなくその言葉を形作った。声は出ていない。だが俺には確実に聞こえた。いや、感じ取った。彼女の絶望と、それでも諦めずに俺を信じる心が、胸を貫いた。
俺の拳が、自然と握りしめられる。元部下の田中の死んだ顔が脳裏に蘇る。あの時も俺は、大切な人を守れなかった。だが今度は違う。絶対に失わせはしない。
アシュヴィンがルキウスの頭に手を置いた。その動作は驚くほど優しかった。「君の心の痛みは私も知っている。だからこそ、私は君を理解し、愛している。このために、私たちは十五年も共に歩んできたのではないか」
ルキウスの目に涙が浮かんだ。「アシュヴィン様……」
「安心したまえ」アシュヴィンが微笑む。その笑顔は、悪魔的な美しさを湛えていた。「君の家族は、新しい世界で永遠の平安を得るのだ。苦しみも、悲しみも、死の恐怖も存在しない楽園で」
レイナが俺の袖を引いた。彼女の顔には珍しく、真剣な表情が浮かんでいる。
「おい、黒崎」レイナが囁く。「あの男、完全にイカれてるが、部下を本気で愛してやがる。こういう奴が一番厄介なんだよ。自分の正義を疑わないからな」
俺は頷いた。確かにその通りだ。アシュヴィンは単なる狂信者ではない。歪んではいるが、確固とした信念を持っている。そして何より、部下や理想への愛情は本物だった。こういう相手との戦いは、肉体的な戦闘よりも精神的に消耗する。
神殿の奥で、魔術陣が不吉な光を放ち始めた。血の赤と紫の光が混じり合い、空気が重苦しく震える。儀式が本格的に始まろうとしていた。
「時間がない」俺が呟く。
その時、ルキウスが立ち上がった。彼の顔には、何かの決意が浮かんでいる。
「アシュヴィン様」ルキウスが深々と頭を下げた。「私は……私は妻子を愛しています。そして、あなたも愛しています。だからこそ、お止めします」
突然、ルキウスが袖から短剣を抜いた。それは祭壇の魔術陣に向けられている。
「なに?」アシュヴィンの表情に、初めて動揺が走った。
「この儀式を止めさせていただきます!」
ルキウスが魔術陣の中央に向かって短剣を投げた。だが、その瞬間――
「愚かな」
アシュヴィンの指先から紫の光線が放たれた。それはルキウスの胸を貫き、彼の身体を祭壇の石に叩きつけた。短剣は虚しく石床に落下し、金属音を響かせる。
「ルキウス!」俺は思わず叫んでいた。
血を吐きながら、ルキウスが苦しげに呼吸を続けている。アシュヴィンは彼に近づくと、膝をついて彼の頭を抱き上げた。
「ルキウス」アシュヴィンの声が震えていた。「なぜだ……なぜ君は理解してくれないのだ」
「アシュヴィン様……」ルキウスが血で濡れた唇を動かす。「あなたの……痛みは……分かります。でも……間違って……います」
「間違っている?」アシュヴィンの瞳に、狂気にも似た光が宿った。「この腐敗した世界で、愛する者を失う痛みを知っているのは君だけではない。私も……私も妹を、家族を、全てを失ったのだ!」
その叫び声が神殿に響いた。石の壁に反響し、まるで亡霊の慟哭のように聞こえる。アシュヴィンの仮面が、完全に剥がれ落ちた瞬間だった。
俺は胸を締め付けられるような感覚に襲われた。この男も、俺と同じように大切な人を失っているのだ。違うのは、その痛みへの向き合い方だけ。俺は正義感で立ち直ろうとしたが、アシュヴィンは絶望から復讐を選んだ。
「分かるよ」俺が影から歩み出た。「お前の気持ちは分かる、アシュヴィン」
信者たちがざわめき、武器を構える。だが俺は手を上げて、敵意がないことを示した。
「黒崎悠斗」アシュヴィンがルキウスの身体を祭壇に横たえ、立ち上がった。「君が来ることは予想していた。だが、私の心に共感するとは思わなかった」
「俺も部下を死なせた」俺は一歩ずつ前に進む。「田中という、家族想いの良い奴だった。俺の判断ミスで、爆発に巻き込ませてしまった。その時の無力感は、今でも俺を苦しめる」
アシュヴィンの瞳に、一瞬だけ驚きが浮かんだ。「君も……そうだったのか」
「ああ」俺が頷く。「だが、だからこそ分かるんだ。復讐や破壊では、その痛みは癒されない。大切な人を失った痛みは、別の大切な人を守ることでしか昇華できない」
「甘い考えだ」アシュヴィンが冷笑する。だが、その表情の奥に微かな揺らぎを感じ取った。「君のような甘い正義感が、この世界をここまで腐敗させたのだ」
「そうかもしれない」俺が認めた。「でも、俺にはアリアがいる。彼女の笑顔を守ることが、俺の新しい正義だ。お前にも、そういう大切な人がいたんだろう?妹さんのことを話してくれないか」
アシュヴィンの顔が歪んだ。苦痛に満ちた表情だった。
「セレスティア」彼が呟く。「私の妹の名だ。十六歳で、花のように美しく、鳥のように明るい娘だった。彼女は私を慕い、私も彼女を世界で一番愛していた」
俺は静かに聞いていた。レイナも固唾を呑んで見守っている。
「だが貴族社会の権力争いは残酷だった」アシュヴィンが続ける。「政敵は私の家族を狙った。セレスティアは人質にされ、拷問を受け、最後は毒を盛られて死んだ。私が政治的な妥協をしなかったからだ」
その瞬間、神殿の空気が変わった。アシュヴィンの周囲に、紫の魔力が渦巻き始める。怒りと悲しみが混じり合った、凄まじいエネルギーだった。
「私は誓ったのだ」アシュヴィンの声が反響する。「このような理不尽が罷り通る世界を、必ず浄化すると。セレスティアのような無垢な魂が苦しまない世界を創ると」
俺は胸が詰まった。この男の痛みは、確かに理解できる。だが、だからといって無関係な人々を巻き込む権利はない。
「お前の妹さんは、本当にそれを望んでいるのか?」俺が問いかけた。「愛するお前が、他の人の大切な人を奪うことを」
「黙れ!」アシュヴィンが叫んだ。魔力の波動が神殿を揺らし、石柱にひびが走る。「君に何が分かる!君は大切な人をまだ失っていない!」
「失ったさ」俺が静かに答える。「田中だけじゃない。俺の両親も、事故で死んだ。恋人だった彩香も、俺の仕事の危険を嫌って去っていった。俺は一人になった」
アシュヴィンの魔力が微かに揺らいだ。
「でもな」俺が続ける。「それでも俺は、人を守ることを諦めなかった。なぜなら、田中が最後に言った言葉があるからだ。『黒崎さん、俺が死んでも、あなたは人を守り続けてください』って」
アリアが祭壇の上で、微かに微笑んだ。魔術の拘束で身動きは取れないが、その瞳は俺への信頼に満ちていた。
「お前の妹さんも、きっと同じことを言うはずだ」俺がアシュヴィンを見据える。「『お兄様、私のために他の人を傷つけないで』って」
アシュヴィンの顔が青ざめた。彼の握り締めた拳が震えている。
「分からない……分からないのだ」アシュヴィンが、まるで呪いを吐き出すかのように呟いた。「セレスティアの声が聞こえない。あの日から、もう二度と」
彼の魂が、俺の言葉によって完全に裸にされた瞬間。
その千載一遇の隙を、影に潜むハイエナは見逃さなかった。
レイナが動いた。
床を滑るように駆け抜けた彼女の動きに、信者たちが気づいた時には、既に遅い。俺は、彼女がこれから何をしようとしているのかを瞬時に理解し、アシュヴィンの注意を繋ぎ止めるために、あえて一歩前に踏み出した。
「お前が聞こえないんじゃない。聞こうとしてこなかっただけだ、アシュヴィン!」
「黙れ!」
アシュヴィンが俺に意識を集中させた、まさにその刹那。
レイナの手の中で煌めいた短剣が、祭壇を囲む魔術陣の中核――ひときわ大きく輝く紫水晶の魔石へと、深々と突き立てられた。
パリンッ、と。
まるで薄い氷が砕けるような、甲高い音が神殿に響き渡る。
次の瞬間、祭壇を奔っていた幾何学模様の光が激しく明滅し、魔力の奔流が制御を失って逆流を始めた。儀式の心臓が、破壊されたのだ。
「なっ……!?」
アシュヴィンが、信じられないものを見る目で振り返った。その視線の先で、レイナは悪戯が成功した子供のように、片目をつぶって笑ってみせる。
「悪いわね、司祭様。宝石の目利きと、錠前破りは、アタシの専門分野なのよ」
その言葉を最後に、魔力の暴走によって巻き上げられた紫電の嵐が、俺たちの視界を完全に奪った。




