第10話 血の祭壇の誘惑
月も見えない暗い夜空の下、俺とレイナは崖の上からカルトの神殿を見下ろしていた。巨大な石造りの建物は、まるで地獄の入り口のように暗闇に沈んでいる。窓という窠からは赤い光が漏れ、不気味な詠唱の声が風に運ばれてきた。
血の匂いが鼻を突く。それは、ただの血ではない。竜の血特有の、鉄と硫黄が混じったような匂いだった。
「あそこにアリアが――」
俺の拳が震える。アリアが連れ去られてから、既に六時間が経過していた。あの誇り高いドラゴンが、今頃どんな目に遭わされているのか。
「黒崎」
レイナが俺の肩に手を置く。普段の軽口は鳴りを潜め、彼女の声にも緊張が滲んでいた。
「焦っちゃダメよ。アリアは強い子。きっと何とか持ちこたえてる」
「分かってる。でも――」
「でも、心配で心配で仕方ない、ってところね」
レイナが苦笑いを浮かべる。
「正直で結構。それが、あんたの良いところだから」
俺は深く息を吸う。刑事時代に培った冷静さを取り戻さなければ。感情に振り回されては、アリアを救うことなどできない。
だが、胸の奥で何かがざわめいている。聖剣から伝わってくる、微かな共鳴のようなものだった。
「神殿の構造は?」
「盗賊仲間から聞いた話だと、地下三階建て。最下層に祭壇がある。ただ――」
レイナが懐から小さな紙切れを取り出す。神殿の簡易な見取り図だった。しかし、その紙は古く、まるで遺跡の発掘品のようだ。
「この神殿、実は古代魔導帝国の遺跡なのよ。アシュヴィンは既存の遺跡を利用してる。つまり、古代の魔術機構がまだ生きてる可能性がある」
「魔術機構?」
「自動迎撃システム、といったところかしら。侵入者を感知すると、石像が動き出したり、床が崩落したり――」
レイナの表情が引き締まる。
「正面入口は衛兵が十二人。でも、北側の排水路から侵入できる。ただし――」
「ただし?」
「魔術の罠だらけ。一歩間違えれば、あんたも私も灰になる」
レイナの指が短剣の柄を撫でる。その仕草に、ただの盗賊にしては妙な慣れがあった。
「それでも行くのよね?」
「当然だ」
俺は聖剣の柄を握る。剣は微かに光り、俺の決意に応えているようだった。だが、その光に混じって、何か別の感情も伝わってくる。
『――お主は、本当にその娘を救いたいのか』
剣から声が聞こえた。今まで一度もなかったことだった。
『それとも、ただ自分の正義感を満足させたいだけか』
「何を言ってる」
俺は心の中で答える。
『この剣は、偽善者の手に宿ることはない。お主の本心を見極めさせてもらう』
聖剣の重みが増した気がした。
「じゃあ、行きましょうか。地獄の神殿見学ツアーの始まりよ」
レイナが立ち上がる。その仕草には、いつもの軽やかさがあったが、目だけは真剣だった。
崖を下り、神殿の北側に回り込む。古い石材で作られた排水溝の入り口が、まるで怪物の口のように口を開けていた。
そこには、古代文字で何かが刻まれている。
「何て書いてあるんだ?」
「『血を流す者のみが、血を清める者となり得る』――古代魔導語よ。ずいぶんと物騒な警告ね」
レイナが文字を読み上げる。その流暢さに、俺は改めて疑問を抱く。
「レイナ、お前本当は何者なんだ?」
「今は関係ないでしょ。後で話すから」
彼女が排水溝に身を屈める。
「ここから入るのか」
「嫌なら正面から堂々と行く? 『アリアを返せ!』って叫びながら」
「遠慮しておく」
俺も排水溝に身を屈める。湿った石の匂いと、かび臭い空気が鼻を突いた。さらに、微かに血の匂いも混じっている。
狭い通路を這うように進む。途中、レイナが何度か立ち止まり、壁に手を当てて何かを確認している。
「魔術の痕跡を調べてるの。ここに罠があったら、私たちは蒸発よ」
彼女の指先が微かに光る。それは、ただの盗賊技術ではなかった。古代魔術の痕跡を読み取る、高度な魔導士の技だった。
「やっぱりただの盗賊じゃないな」
「ちょっと器用なだけよ」
レイナがウィンクするが、その表情には何かを隠しているような影があった。
やがて、通路の向こうに薄い光が見えてくる。神殿の内部だ。
「ここからが本番ね」
レイナが短剣を抜く。俺も聖剣に手をかける。
石の格子を慎重に押し開け、神殿の廊下に足を踏み入れる。暗い廊下に松明の炎が踊り、壁に刻まれた禍々しい紋様が不気味に蠢いているように見えた。
だが、よく見ると、それらの紋様は単なる装飾ではない。古代魔導帝国の技術で作られた、監視システムの一部だった。
「あの紋様、動いてるわ」
レイナが小声で指摘する。確かに、紋様の一部がゆっくりと回転している。
「監視カメラの古代版ね。私たちが映らないよう、影を歩きましょう」
足音を殺しながら、俺たちは奥へと進む。途中、黒いローブを着た信者たちとすれ違ったが、フードを深く被っているため、顔は見えない。
だが、彼らの歩き方には統一感がない。まるで、それぞれ違う目的を持っているようだった。
「衛兵の巡回パターンは?」
レイナが小声で尋ねる。俺は耳を澄ませ、遠くから聞こえる足音に意識を集中した。
「左の通路を三十秒間隔。右は一分おき」
刑事時代に培った観察力が役に立つ。音の間隔、歩幅、呼吸のリズム――全てが情報だった。
「だが、妙だ。パターンが不規則過ぎる」
「どういう意味?」
「普通の警備なら、もっと機械的になるはずだ。まるで、何かに怯えているような歩き方をしている」
俺の直感が警告を発する。この神殿には、アシュヴィンすら制御しきれない何かがある。
「交差点で五秒の隙がある」
「十分ね」
レイナが頷く。
俺たちは影から影へと移動し、衛兵の目を盗んで神殿の奥へと向かう。やがて、石段が見えてきた。地下への入り口だ。
石段の手前に、古代文字で刻まれた石碑があった。
「ここから下が本当の神殿よ」
レイナが石段を見下ろす。下からは、より強い血の匂いと魔術の気配が立ち上ってきた。
そして、微かに聞こえる歌声。それは詠唱ではなく、どこか懐かしい子守歌のようだった。
「あの歌――」
「聞こえるの? あんたにも」
レイナが驚いた顔をする。
「古代竜族の子守歌よ。アリアが歌ってる」
俺の胸が熱くなる。アリアは意識があるのだ。しかも、恐怖に負けることなく、歌を歌っている。
「急ごう」
石段を降りると、廊下はより広く、天井もより高くなった。壁には古代文字で何かが刻まれており、それが魔術の光で浮かび上がって見える。
「何て書いてあるんだ?」
「『血は鍵、魂は扉、死は始まり』――でも、その下に別の文字もある」
レイナが壁により近づく。
「『されど歌は闇を払い、愛は死をも超える』――これは後から刻まれたものね。文字の彫りが新しい」
「誰が刻んだんだ?」
「さあ。でも、これでひとつ確信したわ」
レイナが振り返る。
「この神殿には、アシュヴィン以外にも誰かがいる。しかも、彼に反対する立場の人が」
俺の心臓が高鳴る。味方がいるかもしれない。
さらに奥へ進むと、廊下の奥から足音が聞こえてきた。俺たちは慌てて壁の陰に身を隠す。
現れたのは、黒いローブを着た男だった。だが、他の信者とは明らかに違う。ローブには金の刺繍が施され、歩き方にも品格がある。
「司祭クラスね。きっとアシュヴィンの側近よ」
レイナが小声で囁く。
だが、男の表情をよく見ると、どこか苦悩に満ちている。まるで、自分のしていることに確信を持てないような顔だった。
俺は男の後を追うことにした。きっと祭壇へ向かうはずだ。
男の後をつけながら、俺たちはさらに地下深くへと降りていく。空気はどんどん重くなり、魔術の気配も濃くなっていった。
そして、アリアの歌声がより鮮明に聞こえてくる。
『月が沈み 星が消えても
愛は永遠に 心に宿る
血に刻まれし 古き絆よ
闇を照らせよ 希望の光』
古代竜族の言葉だが、なぜか俺にも意味が分かる。聖剣が翻訳してくれているのかもしれない。
やがて、巨大な扉が見えてきた。扉には複雑な魔術陣が刻まれ、赤い光を放っている。
「あれが祭壇への入り口ね」
レイナが緊張した面持ちで呟く。
「扉の前に衛兵が四人。どうする?」
俺は周囲を見回す。左右に細い通路があり、どちらも祭壇の間に続いているようだった。
だが、左の通路から微かに泣き声が聞こえる。女性の、しかも若い女性の声だ。
「あの声――」
「アリアじゃない。もっと幼い声よ」
レイナが眉をひそめる。
「まさか、他にも犠牲者が?」
俺の拳が強く握られる。もしそうなら、アリアだけでなく、その少女も救わなければならない。
「左から回り込む。お前は右から」
「分かった。合図は?」
「俺が動き出したら、お前も動け」
レイナが頷く。俺たちは別々の通路へと向かった。
左の通路は狭く、天井も低かった。這うようにして進みながら、俺は心の中でアリアの顔を思い浮かべる。
あの気高い瞳。時折見せる、子供のような笑顔。そして、俺を信じてくれる真っ直ぐな眼差し。
『――お主は、本当にその娘のために戦うのか』
再び聖剣の声が響く。
『それとも、自分の過去の罪を償うためか』
「どちらでもいい」
俺は心の中で答える。
「アリアを救いたい。それだけは確かだ」
『ならば、この剣の真の力を授けよう』
聖剣が暖かく光る。その光に包まれ、俺の体に力が満ちてきた。
通路の終わりに格子が見えた。その向こうが祭壇の間だ。格子の隙間から、中の様子を伺う。
広い石の間の中央に、血の祭壇があった。そして、その上に――
「アリア!」
心の中で叫ぶ。アリアが祭壇の上に横たわり、銀の鎖で縛られていた。彼女は意識があるようで、小さな声で歌を歌い続けている。
だが、祭壇のすぐ側に、もうひとつの台があった。そこに縛られているのは――
「子供?」
十歳くらいの少女が、同じように鎖で縛られている。その顔は蒼白で、恐怖に震えていた。
祭壇を囲むように、黒いローブの信者たちが円陣を組んで詠唱を続けている。そして、その中央に――
「ようこそ、黒崎悠斗」
低く響く声。黒と金のローブに身を包んだ男が振り返る。アシュヴィン・ゼルティス。
整った顔立ちには冷酷さが宿っているが、同時に深い悲しみも感じられる。鋭い眼差しの奥に、何か大切なものを失った者だけが持つ感情が見えた。
「君が来ることは予想していた。だが、遅すぎたな」
アシュヴィンは優雅に手を広げる。
「儀式は既に始まっている。邪神は間もなく復活し、この腐った世界を浄化する」
俺は格子を蹴破り、祭壇の間に飛び込む。同時に、反対側からレイナも現れた。
「アリアを離せ! その子供もだ!」
「離す?」
アシュヴィンが冷笑する。
「彼女の血こそが、新しい世界を作る鍵なのだ。そして、あの子は――レイリアの代わりだ」
「レイリア?」
「俺の妹の名前だ」
アシュヴィンの声が僅かに震える。
「君には分からないだろうな、黒崎。この世界がいかに腐敗しているかを」
「腐敗?」
俺は聖剣を抜く。剣が青白い光を放つ。
「確かに理不尽なことはある。救えない命もある。でも、だからといって全てを壊していいわけじゃない」
「甘い」
アシュヴィンが手を振り上げる。瞬間、魔術の暴風が俺を襲った。
俺は聖剣で身を守るが、強烈な衝撃で壁に叩きつけられる。石の欠片が頬を切り、血が滴った。
「君は恵まれていた。正義を信じ、人を救い、感謝される――そんな綺麗な世界で生きてきた」
アシュヴィンの声に、僅かな棘が混じる。
「だが、俺は違う。あの日、レイリアの『お兄様、痛いよ』という声が、頭から離れない――」
その名前を口にした時、アシュヴィンの仮面が一瞬剥がれた。深い悲しみと憎しみが、その瞳に宿っている。
「たった十歳だった。政敵に毒を盛られ、俺の腕の中で息を引き取った。そんな世界が、存在していていいはずがない」
俺の胸に、刑事時代の記憶が蘇る。救えなかった被害者たち。あの日の部下の最期。
だが、台の上の少女を見て、俺は気づく。彼女の顔が、どこかアシュヴィンに似ていることに。
「まさか、その子は――」
「レイリアそっくりだろう?」
アシュヴィンが苦笑する。
「魔術で作り出した、完璧な複製体だ。彼女の魂を移し、真のレイリアとして蘇らせる」
俺の背筋が寒くなる。その子は、レイリアの身代わりとして作られた人形なのか。
「だから、もう誰も失わせたくなかった」
アシュヴィンが再び魔術を構える。
「俺だって――」
「俺だって、完璧な世界で生きてきたわけじゃない」
立ち上がりながら答える。
「それでも、破壊じゃ何も解決しない」
「解決?」
アシュヴィンが魔術を放つ。
「君のような偽善者には理解できまい。真の浄化を」
再び魔術が俺を襲う。だが今度は、俺も準備ができていた。聖剣の光で魔術を切り裂き、アシュヴィンに向かって突進する。
「お前の痛みが俺と重なって――でも、俺は、負けたくなかった」
俺の剣がアシュヴィンの魔術と激突する。青い光と黒い闇が火花を散らし、石の間全体が揺れた。
だが、俺の力では足りない。魔術の衝撃で再び吹き飛ばされ、床に倒れ込む。
「無駄だ、黒崎」
アシュヴィンが俺を見下ろす。
「君程度の力では――」
その時、祭壇から声が聞こえた。
「――黒崎」
アリアだった。彼女がゆっくりと目を開け、俺を見つめている。
「アリア!」
「私は――大丈夫」
アリアが身を起こそうとするが、魔術の鎖がその腕に絡みつく。
「っ!」
彼女の顔が苦痛に歪む。
「やめろ!」
俺は立ち上がろうとするが、アシュヴィンの魔術で動けない。
「儀式は完了する」
アシュヴィンが詠唱を始める。祭壇の魔術陣が激しく光り、アリアの血が一滴、祭壇に落ちた。
だが、その時――台の上の少女が声を上げる。
「お兄様――やめて」
その声は、確かにレイリアのものだった。アシュヴィンの魔術で、記憶まで移植されていたのか。
アシュヴィンの手が止まる。
「レイリア?」
「お兄様が、こんなことするなんて――私、悲しいよ」
少女の瞳に涙が浮かぶ。
「お兄様は、優しい人だったのに」
アシュヴィンの顔が歪む。魔術の詠唱が乱れ始めた。
「私は、もう"鍵"なんかじゃない」
アリアの声が響いた。彼女の瞳に、強い意志の光が宿っている。
「私自身の意志で、この世界を守る」
アリアが逆呪文の詠唱を始めた。それは古代竜族の浄化の歌だった。
『闇に沈みし 魂たちよ
光を思い出せ 愛を思い出せ
血に刻まれし 絆の記憶
今ここに 蘇れ』
彼女の声は小さいが、確実に魔術陣を揺らしていく。
「何を――」
アシュヴィンが驚愕の表情を浮かべる。
「まさか、古代浄化術を?」
「選ぶのは、誰かのためじゃない、私自身のため」
アリアの詠唱が続く。魔術陣にひびが入り始めた。
そして――微かに、別の声が混じり始める。幼い少女の声。レイリアの声だった。
『お兄様――もう、いいよ』
『私は、お兄様が笑ってる方がいい』
台の上の少女が、レイリアの記憶と共に歌い始める。二つの声が重なり、浄化の歌がより力強くなる。
「させん!」
アシュヴィンがアリアに魔術を向ける。だが――
「させるか!」
レイナが短剣を投げ、アシュヴィンの手を狙う。短剣は彼の袖を切り裂き、魔術が逸れた。
その隙に、俺は立ち上がる。
「アリア、頑張れ!」
「お前さえ――救えれば、俺の命なんて、いらねぇ!」
俺は聖剣を構え、アシュヴィンに向かって突進する。
『――お主は、真の騎士だ』
聖剣の声が響く。
『この剣の、最後の力を授けよう』
剣が眩いばかりに光る。その光は、破壊のためではなく、守るためのものだった。
「愚かな――」
アシュヴィンが魔術で応戦するが、俺はひるまない。アリアの声が、俺に力を与えてくれる。
聖剣と魔術がぶつかり合い、激しい光が間を満たす。その光の中で、俺はアシュヴィンの瞳を見つめた。
そこには、確かに悲しみがあった。妹を失った兄の、深い孤独と絶望が。
「アシュヴィン」
俺は剣を下ろす。
「お前の妹は、こんなことを望んでいるのか?」
「それは――」
「罪のない人を犠牲にして、世界を破壊して――それが妹の願いか?」
アシュヴィンの手が震える。魔術の光が弱くなった。
そして、台の上の少女――レイリアの記憶を持つ少女が言う。
「お兄様――私、お兄様に生きていてほしいの」
その言葉に、アシュヴィンの瞳から涙が溢れる。
「俺は――俺は、ただ――」
「守りたかったんだろう。大切なものを」
俺は一歩前に出る。
「でも、破壊じゃ何も守れない。お前の妹も、きっとそれを望んじゃいない」
アシュヴィンの膝が崩れる。
「守る価値が――ない世界だと思ったのに――」
その時、アリアと少女の歌声が最高潮に達した。
『愛は永遠に 心に宿る
血の呪いも 愛に変わる
闇を照らせよ 希望の光
新しい朝が 今、始まる』
祭壇の魔術陣が完全に崩れ、邪悪な気配が霧散していく。代わりに、暖かい光が間を満たした。
「アリア!」
俺は祭壇に駆け寄り、彼女の鎖を聖剣で断ち切る。
「黒崎――」
アリアが俺の胸に倒れ込む。
「よく頑張った」
俺は彼女を抱きしめる。
そして、少女の台に向かう。彼女もまた、鎖で縛られていた。
「大丈夫だ。もう安全だ」
鎖を断ち切りながら声をかける。少女は俺を見上げ、微かに微笑んだ。
「ありがとう、お兄さん」
彼女の声には、レイリアの記憶と、しかし彼女自身の意志もあった。
アシュヴィンが、ゆっくりと立ち上がる。
「俺は――何をしていたんだ」
彼の瞳から、狂気が消えていた。代わりに、深い後悔と自責の念がある。
「まだやり直せる」
俺は彼に向かって言う。
「アシュヴィン」
「……もう、遅い」
アシュヴィンが首を振る。
「俺は多くの血を流した。償いきれないほどに」
「それでも――」
「いや、これでいい」
彼が微かに笑う。そして、初めて手をかざして差し込む朝日を遮ろうとする――が、その手を下ろした。陽の光を、素直に受け入れる。
「君たちを見ていて、少し分かった気がする。希望というものが、どういうものかを」
神殿の外から、騎士団の声が聞こえてくる。レイナが連絡を取ったのだろう。
だが、レイナが俺の側に歩み寄る。
「黒崎――私、本当のことを言わなきゃ」
彼女が深呼吸する。
「私――王立魔術院の調査官よ。アシュヴィンの監視任務で、あなたに近づいた」
俺は驚く。だが、なぜか怒りは湧かなかった。
「だが、今は違う。あなたと一緒にいて――本当の仲間になりたいと思った」
レイナの瞳に、偽りはなかった。
「ドラゴンの姫を頼む」
騎士団が神殿に踏み込んでくる前に、アシュヴィンが俺に言う。
「彼女は――希望だ。そして、あの子も」
彼が少女を見つめる。
「彼女には、レイリアの記憶があるが、それでも彼女自身の人生を歩む権利がある」
俺は頷く。
「最初からそのつもりだ」
騎士団が間に踏み込んできた。アシュヴィンは静かに手を上げ、降伏の意を示した。
「アシュヴィン・ゼルティス――邪神復活の罪で逮捕する」
騎士団長が宣告する。
だが、連行される前に、アシュヴィンが振り返る。
「黒崎――ありがとう」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
「君が教えてくれた。破壊ではなく、再生こそが真の救いだということを」
神殿を出ると、夜明けの光が空を染め始めていた。
「朝が、こんなに優しい色をしてるなんて」
俺が呟くと、レイナが笑った。
「あんた、詩人みたいなこと言うのね」
「アリア、大丈夫か?」
俺は腕の中のアリアを見下ろす。
「ええ――でも、少し疲れたわ」
アリアが微笑む。
「私には私の道がある。あなたの世界がどうあれ、私だけの未来があるから」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
少女が俺の手を引く。
「お兄さん――私、どうしたらいいの?」
レイリアの記憶を持ちながらも、彼女は確実に自分自身の意識を持っている。
「君の好きなように生きればいい」
俺は彼女の頭を優しく撫でる。
「君はレイリアじゃない。君自身だ」
少女が明るく微笑む。
「ありがとう。私――私の名前、考えてもいい?」
「もちろんだ」
朝日が昇り、神殿の影が薄れていく。俺たちの影も、長く地面に伸びている。
レイナが伸びをする。
「さあ、新たな旅の始まりだ」
アリアが俺の腕の中で微笑む。
「朝が来た」
彼女の言葉と共に、神殿の最後の闇が消えた。
俺は聖剣を鞘に収める。剣は満足げに光を収めた。
『――お主は、真の騎士となった』
剣の最後の言葉が心に響く。
『この剣は、もうお主には必要ない。お主自身が、光となったのだから』
聖剣がただの剣に戻る。だが、俺の心には、確かな光があった。
少女が空を見上げる。
「きれいな朝ね」
「ああ、本当にな」
俺も空を見上げる。雲ひとつない青空が、どこまでも続いている。
アリアが俺の胸で呟く。
「これからどうしましょう?」
「どこでも行こう。君が望むところなら」
レイナが荷物を背負い直す。
「まずは街に戻って、まともな食事でもしない? 地下神殿の空気で、お腹が空いちゃったわ」
みんなで笑う。その笑い声が、朝の静寂に響いた。
俺たちは神殿に背を向け、朝日に向かって歩き始める。
新しい一日が始まる。俺たちの物語は、まだまだ続いていく。
道の途中で、少女が振り返る。
「あの神殿――もう、怖くない」
確かに、朝日に照らされた神殿は、もう恐ろしい場所には見えなかった。ただの古い遺跡に戻っている。
「すべてが終わったのね」
アリアが安堵の息を漏らす。
「いや」
俺は首を振る。
「すべてが始まったんだ」
朝の風が頬を撫でる。その風は、新しい季節の匂いを運んでいた。
俺たちの旅は続く。希望と共に、愛と共に。
そして、背後の神殿から、微かに歌声が聞こえた。浄化の歌。アリアが歌ったあの歌が、まだ神殿に残響している。
闇は去り、光が戻った。
本当の意味で、すべてが始まったのだ。




