第1話 黒鱗の怒り
「俺が、君の『D』になる――」
死んだはずの俺が目を覚ましたのは、赤い空と黒い砂の世界だった。
麻薬密売組織のアジトに踏み込んだ瞬間、世界が白く染まった。子供達の泣き声。爆音。熱風。そして意識が途切れた。部下の田中が「黒崎さん、危ない!」と叫んだ声が、最後に聞いた音だったはずだ。
なのに、俺は今、生きている。
いや、これは夢なのか?
黒崎悠斗。三十歳、刑事だった男だ。過去形で語るべきなのか、それとも――もう分からない。
目を開けると、そこは見たことのない荒野だった。
空は血のように赤く染まり、黒い砂嵐が地平線の向こうから吹き荒れている。足元には乾いた赤土が広がり、ところどころに朽ち果てた石塔が倒れている。まるで古代文明の墓場のような光景だった。
風が吹く。熱い。しかし、その熱さの中に死の冷たさが混じっている。この土地で多くの命が失われたのだと、刑事の勘が告げていた。
「ここは…どこだ?」
俺は立ち上がり、周囲を見回した。体に痛みはない。爆発の影響も感じられない。まるで、全てが夢だったかのようだ。しかし、この荒涼とした風景は確実に現実だった。
刑事として培った観察力で状況を把握しようとする。しかし、どこを見ても見慣れた日本の風景はない。空気も違う。重く、何かが混じっているような感覚がある。魔力――そんな言葉が頭に浮かんだ。荒唐無稽だが、それ以外に説明がつかない。
そして俺は気づく。自分の服装が変わっていることに。刑事の制服ではなく、中世風の黒いコートを着ている。腰には見覚えのない剣が下がっていた。
剣を抜いてみる。重量感が手に馴染む。なぜか扱い方が分かる。まるで長年使い慣れた道具のように。
「これは一体…」
俺は呟いた。現実なのか、幻覚なのか。死後の世界なのか、それとも別の何かなのか。刑事としての論理的思考が、この状況を受け入れることを拒んでいる。
しかし、五感で感じる全てが現実を告げている。乾いた空気。肌を刺す熱風。足裏に伝わる砂の感触。
「――人間」
空気が凍りついた。
低く、怒りを含んだ声が背後から響いた。俺の首筋に鳥肌が立つ。この声には、ただの怒りではない何かがある。絶望。憎悪。そして深い、深い悲しみ。
刑事として数え切れないほどの犯罪者と対峙してきた。その経験が告げている。この声の主は、危険だと。
俺は振り返る。
息を呑んだ。
そこに立っていたのは、この世のものとは思えない美しい女性だった。しかし、普通の人間ではない。黒い鱗が肌の一部を覆い、瞳は黄金色に光っている。長い黒髪が風に舞い、その姿は神秘的でありながら、どこか危険な雰囲気を纏っていた。
彼女の美しさは、まさに「美しすぎて危険」という言葉が相応しい。近づけば焼き尽くされそうな、そんな印象を受ける。
「…あなたも、仲間なの?」
突然、彼女の表情が変わった。先ほどまでの敵意が薄れ、困惑の色が浮かぶ。
「仲間?」
俺は眉をひそめた。「俺が誰かの仲間だって?」
「その服装…黒いコート。それに剣」
彼女が俺を見つめる視線に、僅かな希望が宿る。
「アシュヴィンの部下ではないの? なら、もしかして抵抗勢力の…」
「待ってくれ」
俺は両手を上げた。「俺は誰の仲間でもない。というより、ここがどこなのかすら分からない」
彼女の表情が再び変わる。希望が消え、警戒心が戻ってきた。
「なら、なぜここに? この聖域は人間が足を踏み入れる場所ではない」
「俺も分からないんだ」
俺は正直に答えた。「気がついたら、ここにいた」
「気がついたら?」
彼女の瞳が細められる。その視線には、刑事である俺が見慣れた色がある。尋問する側の目だ。
「爆発に巻き込まれて…死んだと思ったら、ここにいた」
「死んだ?」
彼女の表情に、再び困惑が浮かぶ。
「転移魔法…いえ、でも人間がそんな高等魔法を」
「魔法?」
俺は首を振った。「そんなものは使えない。というより、信じてもいなかった」
彼女は俺を見つめ続ける。その瞳に、ゆっくりと理解の色が宿った。
「あなた…もしかして、異世界から?」
「異世界」
その言葉が、俺の中で何かを決定づけた。これは夢でも幻覚でもない。現実なのだ。
「ああ、そうかもしれない」
俺は彼女を見つめた。先ほどまでの敵意が薄れ、代わりに複雑な感情が渦巻いている。
「なら…あなたには関係のないこと」
彼女が呟く。その声に、先ほどまでの強さはない。
「でも、ここは危険よ。すぐに立ち去った方がいい」
「人間の言葉など信用できない」
彼女の口元から小さく炎が漏れる。ドラゴン――彼女はドラゴンなのだと直感した。そして、その炎の温度が尋常ではないことも。
「この一族を滅ぼしたのも、聖域を汚したのも、全て人間だ」
一族を滅ぼされた。
その言葉が、俺の胸を鋭く刺した。部下を失った時の無力感が蘇る。田中の顔が脳裏に浮かんだ。守れなかった後悔が、再び俺を襲う。
「君の痛み……」
俺は一歩前に出た。彼女が炎を吐く準備をしているのが見える。死の危険を感じる。しかし、俺は止まらない。
「俺にも、誰かを守れなかったことがある」
彼女の瞳が揺れた。ほんの一瞬だが、確実に。
「だから、放っておけなかった」
「黙れ!」
炎が噴き出した。
俺は刑事として培った反射神経で横に飛んだ。炎は俺がいた場所を焼き尽くし、地面を焦がす。熱風が頬を撫でていく。あと一歩遅れていれば、確実に死んでいた。
しかし、俺は立ち上がる。
「君と戦うつもりはない!」
俺は再び両手を上げた。「ただ話がしたいだけだ!」
彼女は戸惑ったような表情を見せる。きっと、人間に対してこんな態度を取られたことがないのだろう。その戸惑いが、彼女の孤独を物語っていた。
「なぜ…なぜ戦わない」
「戦う理由がないからだ」
俺は彼女の瞳を真っ直ぐ見つめた。そこには、俺と同じ痛みがある。守れなかった者への後悔。一人で背負い続けてきた重荷。
「君が俺を敵だと思うなら、それは俺の行動で証明するしかない」
彼女の黄金の瞳が揺れる。その瞬間、俺は彼女の鱗に刻まれた数多くの傷に気づいた。戦いの傷だ。一人で戦い続けてきた証拠。どれほど長い間、一人で戦ってきたのだろう。
風が吹く。彼女の黒髪が舞い、その美しさがより際立つ。しかし、俺が見ているのは美しさではない。その孤独な背中だった。
「君の名前を教えてくれない?」
「…アリア」
小さく、それでもはっきりとした声で彼女は名乗った。
「美しい名前だ、アリア」
俺は微笑んだ。「俺は黒崎悠斗。黒崎と呼んでくれ」
アリアは複雑な表情を浮かべる。警戒は残っているが、先ほどまでの殺意は薄れている。
「あなたは…本当に普通の人間なのね」
「ああ。魔法も使えない、ただの元刑事だ」
「ケイジ?」
「悪人を捕まえる仕事だ。人の心を読むのが得意でな。」
俺はアリアを見つめた。
「君の瞳には、俺と同じものが映っている」
「同じもの?」
その時だった。
大地が震えた。
俺とアリアは同時に振り返る。砂塵の向こうから、悪夢のような影が現れた。体長五メートルはある狼のような魔獣だ。赤い眼が血のように光り、牙からは毒々しい唾液が滴っている。
「シャドウウルフ…」
アリアが呟く。その声に、初めて恐怖が混じった。
「この時間に現れるとは。普通なら深夜にしか―」
魔獣は説明を待ってはくれない。唸り声を上げながら、俺たちに向かって駆け出した。地面を蹴る度に土煙が舞い上がる。その速度は尋常ではない。
「アリア、下がって!」
俺は咄嗟にアリアの前に出る。腰の剣に手をかけるが、こんな化け物相手に人間の武器が通用するとは思えない。それでも、俺は抜刀した。
刑事として、危険な現場を潜り抜けてきた。しかし、これは次元が違う。
それでも、俺は後退しない。アリアを守る。それだけを考えた。
しかし、アリアは俺を制した。
「下がるのはあなたよ」
彼女の声が変わった。威厳に満ちた、王者の声。
彼女の体が光に包まれる。そして次の瞬間、彼女の姿が変わった。黒い鱗に覆われた巨大なドラゴンの姿に。
圧倒的だった。
アリアは翼を広げ、シャドウウルフに向かって突進した。空気が震える。爪が魔獣の胴体を貫き、一撃で倒す。血飛沫が舞い、魔獣は絶命した。
しかし、その直後、アリアの体が光を失い、人間の姿に戻った。
そして、彼女はその場に崩れ落ちた。
「アリア!」
俺は駆け寄り、彼女を支えた。意識はあるが、顔色が悪い。
「大丈夫か?」
「…力を使いすぎた」
アリアは俺の腕の中で小さく呟いた。顔色が悪い。額に汗が浮いている。
「ドラゴンの力は、今の私には重すぎる。一族の血が薄れているから」
俺は周囲を見回した。夜が近づいており、シャドウウルフの血の匂いが他の魔獣を呼ぶ可能性がある。近くに洞窟があるのが見えた。
「あそこで休もう」
俺はアリアを抱き上げた。彼女は抵抗しようとしたが、力が入らない。
「人間に…触られるなど」
「今は非常事態だ」
俺の声は、自分でも驚くほど強かった。「プライドより命を優先しろ」
アリアは俺を見上げる。その瞳に、僅かな安堵が宿った。きっと、長い間、誰かに支えられることがなかったのだろう。
俺はアリアを抱いたまま、洞窟へ向かった。彼女の体は思ったより軽く、そして温かかった。ドラゴンだというのに、人間らしい温もりがある。
洞窟は思ったより奥行きがあった。入り口から十メートルほど進んだところで、俺はアリアを岩に座らせた。
「ありがとう」
アリアが小さく呟く。その声には、先ほどまでの敵意はなかった。
「礼を言われることじゃない」
俺は洞窟の奥を調べる。安全そうだ。魔獣の気配もない。戻ってくると、アリアが自分の腕を見つめている。
そこには、不思議な光景があった。
シャドウウルフの血が付着した部分の鱗が、淡く光っている。まるで星のような、美しくも不吉な光だった。しかし、それだけではない。
俺の刑事としての観察力が、何かを捉えた。
血の付着パターン。光の強弱。そして、アリアの表情の変化。
「この血…単なる魔獣の血じゃないな」
俺の言葉に、アリアが顔を上げる。
「なぜそう思うの?」
「刑事の勘だ。それに」
俺はアリアの腕を指差した。
「血が付いた部分だけ光っている。これは君の血と何らかの反応を起こしている証拠だ」
アリアの瞳に驚きが宿る。
「あなた、魔法が使えないのに、魔素の反応が分かるの?」
「魔素?」
「この世界のあらゆるものに宿る力よ。普通の人間には見えない」
「見えないが、分析はできる」
俺はアリアの腕をよく観察した。「刑事として事件現場を数多く見てきた。痕跡から真実を読み取るのが俺の仕事だった」
「…呪われた血よ」
アリアは苦い表情を浮かべた。その表情に、深い絶望が刻まれている。
「ドラゴン王家に流れる血。この血こそが、私の一族を滅ぼした原因」
「どういうことだ?」
俺はアリアの隣に座った。彼女の体が僅かに震えているのが分かる。
「詳しくは話せない。でも…」
アリアは俺を見上げた。その瞳に、もう敵意はない。代わりにあるのは、深い疲労と孤独だった。
「なぜあなたは私を助けたの? 人間にとって、ドラゴンは恐るべき存在のはず。利用価値もないのに」
俺は少し考えてから答えた。
「君の瞳を見たからだ」
「瞳?」
「君の瞳には、俺と同じ痛みがあった」
俺は自分の手を見つめた。田中の顔が浮かぶ。あの時、俺が もう少し注意深ければ。もう少し早く気づいていれば。
「大切な人を失った痛み。一人で戦い続けてきた孤独感。それが、君の瞳に映っていた」
「……私の血が、あの男にとっての鍵なの」
アリアの声は、風に溶けるように弱かった。
俺は息をのむ。血が鍵。それが意味することは――
「闇の司祭によって滅ぼされた」
アリアの声が震える。涙が頬を伝った。
「アシュヴィン・ゼルティス…元貴族で、今は狂った理想を抱く男」
「狂った理想?」
「世界の浄化。そのために、封印された古い力を復活させようとしている」
アリアの拳が握りしめられる。
「一族は皆、私を守ろうとして死んだ。父も、母も、兄たちも。最後まで私を逃がそうとして」
彼女の声が途切れる。
「一人で戦うしかなかった。誰かを巻き込みたくなかった。また、大切な人を失いたくなかった」
アリアの涙を見て、俺の胸が締め付けられる。この痛み、この孤独感。俺にはよく分かる。
「でも、もう疲れた」
アリアの声が震える。
「一人で戦い続けるのは、もう…」
俺は立ち上がり、アリアの前に膝をついた。
「なら、一人で戦う必要はない」
「え?」
アリアが顔を上げる。涙に濡れた瞳が、俺を見つめた。
「俺が君と一緒に戦う」
「なぜ?」
アリアは驚いた表情を見せる。「あなたには関係のないこと。巻き込むわけには―」
「関係がある」
俺は彼女の瞳を見つめた。
「君が一人で痛みを抱え込んでいるのを見過ごすことはできない。それが俺という人間だ」
「でも、あなたは普通の人間でしょう? 魔法も使えない。邪神やアシュヴィンと戦えるはずが―」
「確かに魔法は使えない」
俺は拳を握った。
「でも、刑事として培った観察力と判断力がある。そして何より―」
俺は立ち上がった。
「君を守りたいという気持ちがある。それだけで十分だ」
アリアの瞳に涙が浮かぶ。今度は悲しい涙ではない。
「なぜ…なぜそこまで」
「理由なんてない」
俺は彼女に手を差し出した。
「ただ、君を一人にしておけないだけだ」
俺は立ち上がった。「明日から一緒に旅をしないか? 君の敵が誰であろうと、俺が君を守る」
アリアは俺を見上げる。その瞳に、初めて希望の光が宿った。
「本当に…一緒に戦ってくれるの?」
「ああ。約束する」
俺は右手を差し出した。「刑事の誓いだ。俺は君を守り抜く」
アリアはゆっくりと手を伸ばし、俺の手を握った。彼女の手は思ったより温かかった。
「ありがとう、クロサキ」
「どういたしまして、アリア」
洞窟の外では風が吹いている。明日からは険しい旅路が待っているだろう。しかし、俺の心は不思議と軽かった。
久しぶりに、守るべきものができた。
久しぶりに、生きる理由ができた。
俺は洞窟の入り口を見つめながら、心の中で誓った。
アリア、君の痛みを俺が引き受ける。君の戦いを俺が支える。そして君の未来を、俺が守り抜く。
夜が深くなり、アリアは疲労から眠りについた。俺は彼女を見守りながら、この異世界での新たな人生について考えていた。
元の世界に戻る方法があるのかもしれない。しかし、今はそれより大切なことがある。
アリアを守ること。
彼女の笑顔を取り戻すこと。
それが、新しい俺の使命だった。
「明日から、君は一人じゃない」
俺は眠るアリアに向かって小さく呟いた。
荒野の風が洞窟に吹き込み、二人の新たな物語の始まりを告げていた。




