前編 災難だらけの王子は災難だらけの姫君を娶りました
眠り姫シリーズ3です。
あと二つあるので短編で出します。お待ちあれ。
「本当にここだな?」
ゲルトが双子の弟ゲアドに聞く。
「ただの薄暗い屋敷だな」
ゲアドも判断が付きかねるようだ。
「入るか」
ゲルトが入るとお馴染みのホラーバージョンの精霊に出会う。
「ああ。君たちはいらないの。さっさと天にお還り」
ゲアドが棒を振るとあっという間に精霊が消える。
”あいつら、魔術師だ。殺される前に逃げろー”
さぁっ、と精霊が逃げていく。
「薄情な精霊だな」
「お前のせいだ。姫君に後で何を言われも知らないからな」
そう、ここはエドウィンとアリーナが最初にいた屋敷である。一度平和になった帝国は別の帝国の侵略によってまた、戦争状態になった。アリーナの父、魔皇帝は見かねて孫娘達も眠りにつかせた。アリーナと血のつながっていないクリスタと次に生れた、妹のアメリアである。魔皇帝達が亡くなって数百年。新たな帝国が支配した王族の中から、その姫君を眠りから覚めさせるという命を持って派遣された王子達がやって来た。時代は魔皇帝やエドウィン達が生きていた時代より新しい。侵略した帝国の子孫である王子達だ。この二人にかかると災難続きのため災難王子と呼ばれていた。その災難はかの魔皇帝の国を滅ぼした呪いと言われ、その血筋の姫君を眠りから起こすことで厄払いができる、と帝国付の魔術師が予言した。そういうわけでこの双子の王子達はこの屋敷に入ったのである。が、そうは簡単にはいかない。眠れる姫の寝台の前にはトラップや精霊達で埋め尽くされていた。それを最短距離でたどり着いたのが姫君達の父親、破壊王だったのだが、この王子達はそんな気はさらさない。楽に適当に、がモットーである。性根をたたき直すつもりで派遣したのだろうが、この二人には関係ない。やはり、精霊はゲアド、トラップやその他もろもろはゲルトが担当し、無事姫君の眠る部屋の前まで来た。ここには最大の精霊がいると聞いている。扉をそぉーっと開ける。そしてぱたん、と開けたゲルトが閉じだ。
「どうしたんだ?」
「精霊じゃない。動物がいる」
「なんの?」
「犬」
がく、とゲアドは力が抜けた。
「犬ぐらいで閉めるな」
ゲアドが杖でゲルトの頭を叩く。
「いてー」
ゲルトが言っている間に扉がぱっと開いた。前のめりになっていた王子二人は部屋の中にスライディングする。
「い、犬ー」
ゲルトが何かにしがみつく。
柔らかい・・・いい香りがする・・・ん?
「ゆーれーだっ!!」
ゲルトが弟ゲアドを探してとっさにしがみつく。
「失礼ね。エルマ、ビアンカお座りしてなさい。このへたれ王子様にはお帰りいただくから」
クリスタが言うと、犬たちはおとなしく座った。
「お姉様?」
クリスタの隣の寝台からアメリアが起きてくる。
「アメリア、まだ、起きなくていいわよ。おじい様の魔法はこの屋敷を出るまでは解けないから寝直しても大丈夫よ」
「はぁい」
そう言ってアメリアはまた眠る。
「魔術師とその他の王子様みたいだけど、私達は理想が高いの。あなた達みたいなへたれはいらないわ。とっととお帰りなさい。出口はあっちよ」
なんの危険性もない出口が用意されている。ゲルトがすたこらさっさと逃げようとしたのをゲアドが引き留める。
「このまま災難王子と言われていいのか? 姫君を連れて帰れば、汚名返上だぞ。金も食べるものも自由な王子になれるぞ」
あなた、と呆れたクリスタの声がする。
「食べ物のためにわざわざ、ここまで? ご愁傷様。私とアメリアはあなた達について行く気は無いわ。無理矢理、というのならこの犬けしかけるわよ」
ひぃー、とゲルトが逃げようとする。ゲアドはその首根っこを引っ張ってとどめる。
「それでは我々も困るのだ。災難王子の汚名を返上するには旧帝国の血筋の姫を連れ帰らねばならないのだ」
「災難?」
「王子?」
クリスタとアメリアが交互に言う。アメリアはまだ寝直していなかった。この風変わりな王子達が気になったのだ。
かくして、二人の王子と二人の姫君のおとぎ話は幕が上がった。
☆
王子に連れられ、私達が来たのは白亜の宮殿だった。
「ぜーんぶ、真っ白なのね」
無邪気に妹のアメリアが言うのを聞いて私は言う。
「馬鹿丸出しの感想を漏らすのはやめなさい」
「お姉様。なんだかおかしいわ。いつももっと優しいのに」
この状態でどーして心が広くなるわけっ。連行されてるのよ。私達。王子の土産としてっ。
きーっと叫びたくなるのを私は抑える。ここで取り乱しちゃ、おじい様の魔皇帝の名が廃るわ。
「不機嫌だね。姫君」
「ゲルトには関係ないわよっ」
「そう言う姫君も好きだよ」
ぞわわっ。私の背中に悪寒が走る。歯の浮いたような台詞言われたって、せいぜい側室止まりよ。こんな男に心を明け渡すもんですかっ。ゲアドとアメリアはなにか意気投合している。へっぽこ魔術師かぶれのへたれ王子のなにがいいのかしら。
「君はゲアドの事なんて見ないでいいんだ。俺さえ見てれば」
「あいにく馬に乗ってると顔は見れないわね」
「それは残念。あとでしっかりと見せてあげるよ」
「いらないわよっ」
「それはもったいない。美貌だけは自慢なんだけど。頭にはお花が咲いててもね」
「よくわかってるじゃない。でも、あの屋敷から連れ去った責任は返してもらうわよ。あなたと結婚なんてするもんですか。いい屋敷といい待遇を要求するわ」
「そんなこと言ってると父上の妾にされるよ」
め、妾!
恐ろしい響きに私は凍る。
「だから君は俺で我慢しなきゃ。お花は生えてても武術や魔術はできるからね。ゲアドには及ばないほどの魔術だけど」
「犬が怖い人には嫁げないわ。エルマとビアンカは私の最後の家族よ」
「妹がいるじゃないか」
「私は両親の血を引いてないのよ。それも書物にはなかったの? 眠り姫辞典に」
どうやら、おじい様は自分の手で眠らせた姫君をまとめて書いていたみたい。エレオノーラ伯母様はお母様の生きていた時代に目覚めて家庭を築いていた。ただ。エリアーナ叔母様はまだ眠っているらしい。双子の王子だから二人で寝ている姫君のところへ行かされたようね。どっちの王子も嫌だけど妾なんてさらにゴメンだわっ。
「だろう? だから君は俺の姫君ってわけ」
ん? だろう?
「ちょっとっ。あなた人の心を読めるの?」
「飛んでくるんだよ。特に姫の叫び声は」
「なんですってーっ!」
私が、ああ、面倒くさい。あたしが言うとにやり、とゲルトが笑う。
「君が俺に惚れてないのも重々承知だ。その上で、結婚を申し込むつもりだ」
「愛のない家庭は不毛だわ」
「不毛でも何でもしないといけないんだよ。王族というのは」
「おじい様やお母様はそんなこと一つも言ってなかったわ。愛のある家に嫁ぎなさいって。そう言われて眠ったのに、どうしてこんなへたれ王子に嫁がなきゃいけないのよっ」
「わかったから少し静かにしてくれ。馬を下りて父王にお目通りをするから」
馬が止まる。馬番が手綱を預かると、ゲルトが降りてあたしに手を広げた。
「そんなことされなくても降りれるわ」
私はお母様の教え通りに馬から下りた。と、視線が合う。
「何、見てんのよっ」
「いや、綺麗に降りるんだな、て・・・」
「当たり前でしょ。あたしは皇帝の孫よ。楚々として嫁ぐようにお母様からしっかり教育受けてるんだから」
「の割には妹姫は無邪気だけど?」
「まだ、物がわからないのよ。まだ十三歳だもの」
「十三歳ー!!」
ゲルトが叫ぶ。なんだ、とゲアドが見る。
「お前、結婚申し込む前に婚約を申し入れろ。その子はまだ十三だ」
ええー、と声が上がる。そこへ重厚な服装をした女性が出てきた。
「ゲルト、ゲアド。無事でしたか。そしてその姫君達が魔皇帝の子孫なのですね。さぁ。姫君達はこちらへ」
「母上、姫君をどうなさるおつもりで?」
ゲルトが鋭い声で聞く。
「心配しなくていいわ。この時代の服に着替えてもらうだけだから。お父様の妾にはしませんよ」
妾、の言葉にまた震えあがったけど、母上と言われている女性が肩を叩く。そして優しく抱き寄せする。
「大丈夫。取って喰うわけじゃないのですから。私の夫は妃を持ちすぎなのよ。これ以上増やす気はありません」
「お妃様・・・」
「第一妃よ。六人までいるから、あとで名前と顔を覚えるのね」
ろ、六人!!
「大丈夫。私の息子達は権力争いから外れているから命に別状はないわ」
わ、割り切ってる。ふつー、自分の息子を跡継ぎにしたいんじゃないだろうか。それが顔に出ていたのか、また息子と一緒で考えがとんで行ったのか、第一妃様がにっこり笑う。
「陰謀渦巻く世界になんて大事な息子達を入れたい母親はいないわ。安心しなさい」
そのお妃様の顔にお母様の顔がダブる。
「お母様・・・」
涙で世界がブレる。
「辛かったわね。うちの王子でよければいくらでも上げるわ。心の傷を癒やして。私の息子達は優しいから大丈夫よ」
背中に手を回してとんとん、と叩く。まるでお母様が抱きしめているみたいであたしは、大号泣をして、そして気を失ったのだった。
あたしは夢の中にいた。お母様やお父様、おじい様、おばあ様がいる。エルマとビアンカはちょこんと座っている。
「いらっしゃい。クリスタ」
お母様が手を伸ばす。あたしはその手をつかんだ、はずだった。ごつごつとしたさわり心地に慌てて飛び起きた。
「誰?!」
「俺だよ。ゲルト。父王に会う前に気を失ってしまったんだ。それで俺の宮殿内の部屋に運んだ。そうでないと父王のなんかになるからね」
「なんかって・・・!」
「母上からその三文字は禁句にされた。ひどく気にしていたらしいから。母上もそのつもりで来てもらったわけではないのよ、ときつく叱られた。心が傷ついている、そう言われた。気づかなくてごめん。そりゃ、そうだよな。いきなり違う時代に目を覚まして、いきなり住んでいた館でない宮殿につれてこられたんだもんな。ショックってやつ? 母上はカルチャーショックって言ってた。現実を受け入れる前に連れてきしまって悪かった。あのままにしておくとなんとかになるから母上の判断で俺の宮殿に入れた。これで事実上、俺の婚約者となる。アメリア姫は君から十三歳と聞いていたらとっさに母上に話せば、自分の宮殿に連れて帰ったよ。会いたかったらいつでも来なさい、って伝言を預かっている。お腹は空いてる? 俺たちの文化はなじみがないだろうけど、一応、この国の一般的な料理と君たちのもの用意したよ。食べてて。机はそこにあるから。何か必要な物がいるならあとで同じ年頃の子よこすから、その子に言えばいい。服はそこに置いてある。わからなかったら、その子に聞いて。俺は母上のところのアメリア姫の様子を見に行ってくる。ゲアドだけじゃ頼りなくてね」
へたれなのに命一杯頭を使って心遣って言葉を紡いでくれた。あたしの心の中にぽっと光が灯ったような気がした。
「あ。俺が必要ならいつでも言って。姫君の元へ参上するから」
きらりん、と歯と瞳を輝かせて去って行く。
あたしの好意をかえせーっ。絶対抜け出してやるっ。
物騒な考えが頭によぎった。
抜け出してどうするの? 路銀もない。身寄りもない。本当に何も知らない世界に放り込まれたのだ。胸がチクチク痛い。
「お父様、お母様、どうすればいいの?」
ぽろぽろ涙をこぼしているとハンカチが差し出された。
「姫様付きになった、アンナです。姫様」
「ありがとう。あたしはクリスタ。言葉使いが悪くてごめんなさいね。お母様の癖が出てきて止まらないの」
「良かったじゃないですか」
へ?
「ご家族がいらっしゃらないと仰っていたと聞きましたから。お母様の癖の一つや二つがあれば少しは心の中にご家族がいらっしゃると言うことですわ」
「そうね。私の家族は心の中にいるわね。一つ、お願いがあるんだけど」
「なんでしょうか。姫様」
「クリスタでいいわ。アメリアに子犬をあげて。エルマとビアンカはこちらに来てるみたいだし。アメリアの家族がいないわ」
「それでしたら、ゲアド様が先ほど子猫をプレゼントなさってましたわ」
「そう。ゲアドは気の利く王子みたいね」
「ええ。気配り王子の異名をお持ちですわ。ゲアド様に憧れる女性はあまたいると言われています。ゲルト様も素敵ですが、やはりどこかいまいちぱっとされないと噂されています。私から見るとゲルト様の優しさの方がよろしいかと思いますが。姫様にもつきっきりでした。とてもお優しい表情で見ておられましたよ」
あの、ゲルトがねぇー。似つかわしくない光景を思浮かべると急にどきどきしだした。動悸やつかしら? あたしは病気の名前を探す。途中でアンナが名前を呼ぶ。
「どうか、なさいましたか?」
「あ。いいえ。アンナ、まず、この時代の服に着替えたいのだけど?」
「もう、夕闇が落ちています。夜着になされて、日中の服は明日召されては・・・」
「そうね。そうするわ。食べ物があるって聞いたけど」
あたしが言うとアンナはとんで行く。お盆に、フルーツや懐かしい郷土の料理が並んでいた。その外にみたことのない食事がある。
「どうしたの? これ。この国にはないでしょう?」
「ゲルト様が古文書を読み解かれて作ったレシピを元に料理長が作りました。お気に召すといいんですが、おしゃっておられませんでしたか?」
「ゲルトが・・・」
そーいやそんな言葉も聞いたっけ。
少しだけ、ゲルトの評価が上がった。ほんのちょっとだけどねっ。負け惜しみだろけど、みすみすおとなしく結婚なんてするもんですかっ。あの優しい声と瞳にあたしの心は自然となびいていた。だけど、その心の片隅に近づいちゃだめ、と言う警戒音が鳴り不備いていた。
「姫~。食べた~?」
「入るなっ」
枕を投げる。ゲルトの顔に命中する。
「次は食器類投げるからね」
「ああ。それだけは止めて。文化財級の食器なんだ。投げるならフォークを」
「ふぅん。フォークならいいんだ」
「あ。姫、着替えてなかったんだね。俺は逃げるっ」
ゲルトはそう言ってぴゅーっと逃げる。その姿がヘタレらしくてあたしは笑う。
「笑った」
アンナが喜ぶ。
「そんなにおかしかった?」
「だって。姫様涙ばかりで少しも笑ってくださらなかったから。心がほぐれた証拠ですわ。さぁ。ゲルト様が戻る前に着替えてお食事にしましょう」
「普通、逆じゃないの? 服汚れない?」
「それなら第一妃様が背丈に合う物をいくつかご用意しておられるので心配は無用です」
なんだかいたせり、つくせりの応対に警戒するあたしだ。
「妃様は何も考えておられません。ただ、姫君の心の傷が癒えるようにと。明日は、ゲルト様の花嫁として全ての妃様に会わねばなりません。ゆっくりなさいませ」
アンナの言葉に手にしたフォークがポトリ、と落ちた。
☆
朝から、あたしは極度の緊張にさらされていた。隣には第一妃様。そしてゲルト。今からあと五人の妃様とご対面だ。どんな意地悪を言われるのかとびくびくしていた。その自分自身を叱咤激励する。
あの勇敢なお母様の娘よ。今更、びびってどうするのよっ。
かと言っても緊張感で体が凍っていた。やがて、派手なドレスに身を包んだ幾人かの若い女性が入ってきた。
「お初にお目にかかります。クリスタ姫。私たちは国王の側室、アデーレ、カミラ、コローナ、ダニエラ、ディアナにございます」
「えーと」
「大丈夫ですよ。第一妃以外の称号はないのです。二番も三番目もありません。側室、というくくりで構いませんよ」
余裕綽々で第一妃様が言う。アデーレと言ったこの五人の中で老けている側室がきっと第一妃様をにらんでいる。が、一向に気にしてない。
大物だわ。この方は。
そう思っているとディアナ、と第一妃様は呼ぶ。
「あなただけここに残りなさい。後は下がって構いません」
「はい。それでは失礼いたします」
一番若い子が残った。
「クリスタは今の年齢は?」
「眠る前なら十七でした」
そう、と思案気な表情をする。
「ディアナはあなたより三つほど上の二十歳よ。何かあれば、私か彼女に。ディアナは素直な子。きっと力になってくれるでしょう。挨拶してらっしゃい」
「はい」
あたしは一段上の椅子から降りるとディアナ様と握手する。
「よろしくお願いします。ディアナ様」
その手に思いっきり力を込められた。痛いほどに。爪が食い込む。
「こちらこそ。クリスタ様」
にっこり笑うが目が笑ってないーっ。もしかして、もしかすると。後ろを振り返ると第一妃様はああ、と言う。
「ゲアドの花嫁として迎え入れたのだけど、国王が寝取ったのよ」
寝取ったって・・・。そんな簡単に言っていいのーっ。
「それじゃぁ・・・」
「同じゲアド様の花嫁として選ばれた同士仲良くいたしましょう」
思いっきりにらみつけてからディアナ様は去って行った。
「あらあら。ディアナでは無理のようね」
朗らかに笑ってらっしゃるけど、そんな簡単にすむ問題じゃないわっ。恋敵よ。恋敵。ん? 今、あたし、恋敵って言った? ん?
一人百面相をしていると第一妃様が降りてくる。
「あなたも災難ね。一番年の近い側室が恋敵なんて」
「もしかして、知ってて近づけましたか?」
「さぁね。あなたにもゲアドの花嫁として認識してもらわないとね。ディアナの嫌がらせを退散できればあとの妃なんてネコよ」
「ネコ・・・」
呆然とつったているとゲアドがやってくる。
「恋敵って・・・脈あり?」
「なしよっ」
思いっきりゲアドの足を踏んづけてあたしは外へ出る。ここは第一妃様の宮殿。だたっぴろい。ゲアドの宮殿も別にあるし。そこへアメリアが走ってきた。あたしはお母様がよくやっていたように両手を広げる。アメリアが飛び込んでくる。
「お姉様。会いたかった」
「ごめんね。ちょっと居場所が異なってしまったのよ。アメリアは第一妃様に助けてもらって立派に生きるのよ」
「お姉様?」
可愛く小首をかしげる仕草に愛を感じずにはいられない。
「子猫もらったんですってね」
「エマ、というの。お姉様にも会わせてあげる」
「今日はいいわ。少し疲れたの。側室様がたの面通りがあってね」
「側室?」
「ああ。アメリア。あなたはそんな言葉は知らなくていいのよ。ゲアドはいい人でしょ?」
「うん。でも、私より大人の人が好きみたい」
ほんの少し寂しげに見えるアメリアをぎゅっと抱きしめる。
「あの子はまだまだ伸びしろがあるわ。こっちと違ってね。大事に関係を築き上げなさい。姉から言えるのはこれぐらいよ」
「お姉様?」
アメリアは不穏な気配を感じ取ったみたいだけど、あたしは隠し通した。まさか、この城を出て行くつもりなど言ってはならない。これがお母様のあの時の事と同じだとは思っていたけど、気持ちはもう走り出していた。お母様もそんな風に思ったのね。意にそぐわない結婚を無効にしようと。意には沿っていただろけど、あたしがお母様を一度拒否した。その事であたしを嫌わず、逆に寂しい心をくんで下った。そしてあたしのために出て行かれた。あの時のお母様の優しい眼差しを思い出す。
「さぁ。クリスタ様。戻りましょう」
「アンナ!」
「先ほど使いがやってきてこちらに迎えに出るように、と」
「そう。じゃ、アメリアまたね」
可愛い妹の顔を心に刻みつつ、あたしはゲアドの宮殿に戻った。
そろそろ昼食ね。時計を見て思う。この部屋にはあたしのいた世界と同じ物があった。字もなにもかも当時のまま。ゲアドが指示したんだろうか。ここであたしは過去と見つめ合うことになる。失われた時間を。ぽろ、と涙が出る。
「いっそ、全部違えばいいのに」
愛すべき人の顔が浮かんでは消える。それも、今日まで。この部屋ともおさらばよ。あたしはこっそり、脱出計画を練っていた。
「姫。何を考えてるの? この宮殿警備は重厚だよ。突破できるの? 俺、君の心の声が聞こえるって忘れた?」
「ゲルト!」
「出てどうするの? 逃げても死ぬしかないんだよ。折角取り戻した命、失ってもいいの?」
「あなたに何が解るというの?! この世界に取り残されたあたしの何が解るって言うの?!」
あたしはそこらに置いてる物すべてをゲルトに投げた。ヒステリーを起こしているのは解ってるけど、止められなかった。陶器が割れる。それを手にして投げようとした。割れ目で手が切れると解っていても耐えられなかった。だけど、あたしの指は切れなかった。ゲルトが寸前で止めて逆にゲルトの掌から血が流れていた。
「ゲルト! ちょっと離しなさいよ。手を怪我してるじゃないの」
「やだね。姫が出て行かないって約束しない限り」
「わかったから。出て行かないからそれを離してっ」
頭では何を言ってるかも解らなかったけど、ゲルトが悪いんじゃないのは解っていた。あたしの代わりに傷ついた。ゲルトが陶器の欠片を落とすとあたしはとっさにその切り傷が出来ている手を握った。
「姫?」
「いーから黙ってなさいっ」
あたしは目を閉じると呪文をとなる。おじい様っ子だったあたしはいろいろな魔術を教えてもらっていた。魔力はほぼない。それでもあの長い眠りについていた間に屋敷の魔力があたしに染みついていた。
「傷が・・・ない? 君がやったの?」
「それが?」
あたしはそっぽを向く。とっさにとはいえ、治癒魔術をかけた事が妙に照れくさかった。
「クリスタ! 君はなんて可愛い魔姫なんだ」
ゲアドがあたしを抱きしめる。余りにも強く抱きしめられて息が苦しい。
「苦しいわ。離して」
「いーや。離さない。俺の姫だ。親父になんか渡さない。ディアナ妃はこちらには通さないようにしてある。それでも来るだろう。俺の妃の立場を狙って。君を殺しに来る。だけど、もう失うのは嫌だ。誰にも殺させない」
ひどく凍った感情が飛び込んでくる。これがゲルトの思い出の何か?
「ゲルト、あなた・・・」
「今の話は気にしないで。今日は一緒に夕食取ろう。ここで」
「どーしても逃がさないつもりね」
「当たり前」
そう言って彼はあたしの頬にキスをした。
どっひゃー!!
あたしの最大の叫びが宮殿の天井を遥かに超えていった。
「き・・・キス!!」
「やり逃げー」
そう言ってまたゲルトは逃げていく。
「アンナ!」
「はい」
ひかえていたアンナがくる。
「塩をまいて頂戴。塩を」
「塩? ですか?」
「そうよ。キスされたのよ。キスを。厄払いしないとっ」
アンナはがしっとあたしの肩を持つ。
「どこに、キスされたんですか?」
「ここっ。ここよっ。ほっぺによ」
「クリスタ様。それぐらいなら近所の子供でもしますわ。厄払いなんて必要ありません」
「でも、子供でも出来たらどーすんのよっ」
「キスではできません。恋のいろはを知りたかったら早く嫁いで下さい」
こ、恋のいろは? 何それ? 食べれるの?
あたしの慌てぶりが相当おかしかったのか、アンナがクスクス笑う。
「姫様はまず、王子様と恋に落ちないといけないようですね」
「こ、恋?」
「一度、一人の人間として王子と向き合って下さい。そこからが始まりです。それでは夕餉の支度をして参りますわ。今夜はゲルト様もご一緒と聞いてますので」
「あ、アンナ?」
「はい?」
「あの・・・いいわ。そのまま行って頂戴」
ゲルトの心の底にある氷。あれはなんなのか。知りたかったけど、開けてはいけない箱にも感じられた。あれを癒やすのには、溶かすには、真の愛情が必要。あたしは、その愛情を今、持っていない。ならば開けてはいけない。一度開ければ、最後まで見届けなければいけないから。今のあたしにお母様ほどの深い愛情を持つことはまだできなかった。たった一度会っただけの娘を我が子として認めたお母様とあたしは違う。器の小さいただの子供。ふいに涙がこぼれた。
「お母様。会いたい。どうすればいいの・・・?」
あたしはただ静かに涙を流したのだった。
☆
夕餉の時刻になるとあたしの部屋は急にうるさくなった。部屋の前に衛兵がついたり、女官が慌ただしく行ったり来たりする。その内、ゲルトが現れると、その人たちはさぁーっと蜘蛛の子散らしたように出て行く。
「なに? みんないてくれないの? アンナ?」
「よろしくおやり遊ばせ」
意味深な言葉を行ってアンナまでいなくなる。とたんに寂しくなった。
「どうしたの? 姫君。寂しそうだけど。俺じゃダメ?」
ゲルトがあたしの瞳をのぞき込んでいた。ゲルトの瞳の中に頼りない女の子がぽつん、といた。
「ダメ、とかそうじゃないの。あたしにはお母様程、勇気のある、優しい女の子じゃないの。そういう自分に嫌気がさしてたのよ。急に人が消えて、寂しかったの」
涙が出そうになる。泣くもんかっ、と涙をこらえる。ゲルドの手が頬に触れた。
「泣きたいときは泣いたらいい。我慢すると凍ってしまうよ?」
「ゲルトは? ゲルトの心も凍っている。何を凍らせるの? いえ、あたしが聞いてはいけない話ね、きっと。結婚でもしない限り話さないものね」
あたしがぽつぽつと話すと、ゲルトの顔が急に輝いた。
「姫には。クリスタには。光があるんだね。その光が眩しいよ。いつか話せるときが来たら、話すから。さぁ。夕食を食べよう。俺も復元して欲しいとは言ったけど。君の郷里の料理は食べたことがないんだ。食べてもいい?」
「どうして、あたしに聞くの? 料理なんだから食べればいいじゃない」
「姫のふるさとだから。勝手に食べればいいってもんじゃない。じゃ、いただきまーす」
半分真剣に話したかと思うとまた頭にお花の生えた王子に戻って無邪気に食べ始める。
「姫も食べないと姫の分も食べるよ?」
きらきらお目々であたしの皿をロックオンする。その視線から皿をどけるとあたしも食べ始める。懐かしい味にまた泣きそうになる。
「おいしい」
「姫、泣いていいんだよ」
察したゲルトが先回りして言う。ずるい。その言葉を今、言うだなんて。
「うん。おいしいね。ゲルト」
あたしは小さな女の子にでもなったようにぐすぐす鼻を鳴らしながら夕食を食べたのだった。
「姫の国にはどんな本があったの?」
夕食を食べ終えてあたしとゲルトは宮殿のバルコニーで話していた。あたしが泣いていたこともあって、この顔をアンナ達には見せたくなくてバルコニーに出れば、ゲルトもやってきてそんなたわいのない言葉をかけた。
「ゲルトは本が好きなの?」
そうだね、と考えながら話し出す。
「戦の話は好きじゃないけど、魔術や生活の話に興味あるな。いつも、図書室で読んでるよ。今度一緒に図書室へ行こう。姫の時代の本もあるよ」
気を遣って行ってくれているけど、あたしにその気は無かった。
「ありがとう。でももう昔を振り替えたくないの。もう泣きたくない。お母様やお父様に誇れるあたしでいたいの。未来に向かって歩き出したい」
外の何も見えない暗闇にあたしは告げる。さようなら。お父様、お母様。
「そうなんだ。なら、一層、来るべきだよ。この国の文字も伝説も神話も学んでおけば困らないよ。生活様式だって違うし。俺が護衛してあげるから、姫は大丈夫だよ」
「大丈夫って?」
「もちろん、父王たちだよ。父は君たちを狙ってるからね。ディアナ妃も君の命を狙ってくる。しょっちゅう護衛の者をつけると大仰だし、俺なら多少は君を守れる」
「多少?」
眉間にしわを寄せて睨む。
「いや、絶対。絶対守ってみせる。クリスタ」
顔が近づいてくる。おっと、そうは問屋が卸しません。あたしはバルコニーから一歩後ろにひいた。
どたっ。ゲルトが床とキスしている。それがおかしくてクスクス笑う。
「あ。姫が笑った」
床と仲良しのまま言うゲルトがさらにおかしさを誘う。げらげら笑っているのにゲルトはじっと見ていた。
「ゲルト?」
「いや、姫は何してもかわいいなーって。ちゅー」
「しません」
あたしは上着を翻すと部屋に入る。
「姫ー。ちゅー」
「いたしません」
「ちぇ。まぁ、もう、夜も更けてるから早めに寝た方がいいよ。寝首はかかれないように注意してね」
て。おい。そこは自己責任かい? あたしを許嫁にしておいて。
「大丈夫。護法結界ひいておくから。姫もいくつかのその類いは知ってるんでしょ?」
「まぁね」
「じゃ。おやすみのちゅー」
「いたしません」
近づくゲルトをうまい具合によけてまた転びかけるが、そこで踏ん張る。
「ふーん。多少は運動神経あるんだ」
「多少って」
「あたしもお母様に習って剣ぐらいは握れるのよ。感覚は薄れてると思うけど」
「おお。それは頼もしい。じゃ、姫。お休み」
今度はちゅーを言わず去って行く。なんだか寂しそうでほっぺにちゅーぐらいは良かったかしら、と思って慌てて首を振る。
あんな亊、誰がさせるもんですかっ。
あたしは寝台に入って、おじい様から教えられた身を守る魔法をかける。ついでに、短刀も枕の隣に置いて。これはお母様から護身用にもらった短刀。使う日が来るとは思わないけど。一応、念のため置いて眠っただった。
それからというもの、ゲルトは図書室へ連れ出しに来る。あたしも多少は興味が出てきたので、ついて行くとそこは宝の山だった。ゲルトはゲルトで何かを読み、あたしは山のような歴史書に目を通していた。神話から時代を彩った王国の物語まで。史実なのか作り話かわからないものまで読みふけった。幼い頃、あんなに嫌いだった勉強が好きになっていた。かといってゲルトにありがとう、なんて言えばまた「ちゅー」がやってくる。心の声は届くだろうが、みすみすキスなんてさせるわけにはいかなかった。
そこへ、ゲアドとアメリアが入ってきた。アメリアは綺麗なこの国の服を身に纏っていた。胸元には可愛いネコが抱かれていた。
「お姉様、ずっと本を読んでるの? あんなにお勉強大っ嫌いだったのに」
「いいのよ。お母様の本の虫が出てるだけ。面白いのよ。この神話とか。もっと昔に学んでおくべきだったわ」
だった、だ。もう過去は振り向かない。思い出の人たちは心の奥底にしまって、今をあたしは生きようとしていた。毎日、ゲルトも気が晴れるようにって図書室に誘ってくれている。もがいている沼からあたしは抜け出ようとしていた。
「ゲルト。たまには遠乗りぐらいさせてやれよ。馬も乗れるんだから」
いーや、とゲルトは言う。
「クリスタ用の馬具が全部傷つけられていた。あんなものつけて乗ったら事故死する。今、作らせているところだ。あとは俺の部屋に置いておく」
それを聞いてあたしはため息をつく。
「ゲルト。いくら危ないからと言っても馬に馬具をつけないままじゃ、馬も受け付けないわよ。それこそ、事故死よ」
物騒な会話をあたしとゲルトはする。それを聞かないようにアメリアに耳栓を入れるゲアドでだ。そりゃ、十三歳にこの事故死の話は物騒よね。
それを聞き終ったゲアドがため息をつく。
「純真なアメリアの前でする話じゃない」
「だって、あたし達では日常会話なんだもの。そりゃ、場所は悪いけど」
「どんな会話してるんだ? 二人は」
「別にふつーよ」
「うん。普通に。だってちゅーさせてくれないんだもん」
「ちゅーはいたしません」
ゲアドはだめだこりゃ、と言うと再びアメリアに耳栓をする。
「当分、兄とクリスタにはアメリアを会わせない。いいね。その物騒な頭をお花に変えてから来てくれ。アメリアはお姉様がいないと毎日泣いてたんだぞ」
「アメリア! ほんとなの?」
思わず振り向かせて聞く。が、アメリアは耳栓をしているため不思議そうな顔をしている。
「ごめんね。姉のあたしが、こんなに遊びほうけて。また遊びに行くわ。その時にエマに会わせてね」
「お姉様、涙が」
耳栓をとってアメリアが頬に触れる。
「これは目から水がでてるのよ。涙じゃないわ。元気でね。ゲアドに優しくしてもらうのよ」
あたしは涙を拭きつつ、妹姫を送り出す。
「なんだか今生の別れみたいな言葉だな」
「そんなものよ。アメリアはもう別の道を歩き出したのよ。ゲアドと共に」
「俺たちも歩き出さない?」
ゲルトが瞳にひょうきんな色を見せて言う。
「いたしません」
そう言って本を読む振りをして涙を拭いていると後ろから抱きしめられた。
「ちょっ・・・」
振りほどこうとしたゲルドの腕の力は強かった。
「泣かないで。姫。俺の姫はクリスタだけだ。側室なんていらない。クリスタだけがいてくれればいいんだ」
「ゲルト・・・あなた。何があったの?」
「色ボケしたな。少し外の空気を吸ってくるよ」
そう言ってゲルトは扉の向こうに消える。なんだか、泣いているようだった。だけど、扉の向こうには来ないでくれ、という気持ちがあった。一人になりたい、という気持ちが飛んできた。切なくてあたしはまた涙をぽろっ、と落としたのだった。
☆
「姫。ちゅー」
あたしはお盆でばしんと顔を防御する。あのあと、ゲルトは戻ってくると少し散歩しようと言ってきた。あたしも体が読書でかちこち、だったから、体を伸ばしついでについて行く。庭園は、ゲアドとアメリアがいたこともあり、城、というか宮殿の周りをちょこっと回っただけだった。緑が多くてとても心が和んだ景色だった。その後、またお昼ご飯になると宮殿に戻る。必ず、外から帰るときは見せつけるためかあたしの手を引いて帰る。ディアナ妃がきーっ、となっている気配をあたしは感じていた。そんなによけりゃ熨斗つけてあげるのに。なんてことを考えていたらあっという間に宮殿に着いた。そして昼食を取って夕食を共にした。昼食の後は鍛錬があるからと行って出て行っていたけど、夕食前にはまた戻ってきてまた「ちゅー」を迫ってきていた。あたしはアンナからぶんどった戦利品、銀のお盆で阻止する。便利な道具が出来たわ、と内心しめしめ、と思っていた。それを持ってバルコニーにでる。髪が風になびいて心地いい。ゲルトは機嫌のいいあたしを見て満足しているのか、何もしてこなかった。
ゲルトの心もどこかで泣いている。それだけがあたしの憂慮している事だった。もう、泣かせたくない。ネコでも三日飼えば情がわくのよっ。そう自分に言い聞かせながらも、結局、ゲルトは肝心の本心を見せてくれることはなかった。
☆
宮殿が急に慌ただしくなった。
「どうしたの? アンナ」
あたしは着替えながらアンナに聞く。そっとアンナが耳打ちする。
「戦ですわ」
「戦!!」
「声が大きすぎます。昨夜、国境が何者かの手によって襲われたと連絡があったそうです。これから姫様の元にゲルト様がこられますわ。勝利を祈って差し上げて下さい」
「勝利って・・・。ゲルトも行くの?」
「もちろんです。男手はいくらあっても足りませんわ。姫様もそのおつもりで」
「おつもりって・・・」
ゲルトが死ぬって言うの? あの、あたしの国で起こった悲劇がまた起こるの? 手が震える。ゲルトが駆け込んできた。
「クリスタ!」
「聞いたわ。戦ですってね」
「ああ。君も無事で、父も出向くことになっている。布陣をはるんだよ。ディアナ妃に気をつけて」
そのまま去ろうとするゲルトの手をあたしは握った。
「キス、してもいいわよ。必ず帰ってくると約束してくれるなら。どこでだっていいわよ」
姫、とゲルトの顔が輝く。
「じゃ、額に」
そっと口づけをすると風のように去って行ってしまった。
「ゲルト。またもどってきて、ちゅーって言ってよ」
そう言ってあたしは人がバタバタする中、図書室へ向かった。図書室で一人静かに本を読んでいるとアメリアが飛び込んできた。
「お姉様!」
「アメリア」
その頬は涙で濡れていた。本を乱暴に横に置くと、アメリアを抱きしめる。
「ゲアドも行ったのね」
「ええ。お姉様。大丈夫よね? 帰ってくるわよね?」
「もちろん、帰ってくるわ。戦ならあたしも何度か後方支援に行った事はあるけど、ゲルトもゲアドも剣の腕はたしかよ。掌に思いっきりつぶしたまめがあったもの。あれは相当鍛錬しないとできないもの。お父様と同じ掌だった。大丈夫よ。第一妃様の元へもどりなさい。みんな、慌ただしいわ。迷惑かけちゃダメよ」
「お姉様は?」
「私はここで罠を張ってるの。だから危ないから帰りなさい」
「お姉様?」
罠の意味がわからないらしい。むろん、ディアナ妃がけしかけてくる罠だ。この好機を逃す相手ではない。
「さぁ。エマの元へおかえりなさい」
そう言って愛おしい妹の背中を見送る。そのすぐ側で短刀が首筋に当てられた。
「よくもまぁ、こんな危ないもの放り出していましたわね」
「それは、母の形見よ。普通に置いていたわけじゃないわ」
「?」
ディアナ妃が意味を図りかねたとき、動き止まった。
「なによ。動かないじゃない」
「その短刀にあたし以外が触れると動きが止まる魔法がかかっているのよ。魔皇帝の魔術よ。時代を超えてもかかるのよ。そうでなければそんなところに置いてないわよ。馬鹿な人ね。何に目がくらんだのかわからないけど、好きな人じゃない人に嫁ぐなんてね」
「あなたに何がわかるの?! 私は、ゲルト様に嫁ぐためだけに来たのよ。それがあの好色ジジィが無理矢理・・・!」
その後の言葉は容易に推測がついた。お手つきというやつだ。息子に嫁がすのが惜しくなったのかそのまま襲ったのだろう。あたしはその手から逃れるためにだけにあのゲアドの宮殿に入ったのだ。そうでなければ同じ事が起こっていただろう。
「あなたもとことんついてないわね。とっとと離縁でもしてそこらの金持ちハンサムと跡継ぎ作ってればいいのに」
「離縁なんてどうするのよっ。国王の後ろ盾で私の国は守られてるのよ」
「だったら、ゲアドに横恋慕するのは諦めるのね。ゲルトはあたしの夫よ。決ってるの。術を解いてあげるからさっさとお帰りなさい」
あたしはおじい様に習った通りの呪文を唱える。すっと、腕が下がった。その切っ先であたしの首筋が少し切れた。
「動ける・・・。あなたも馬鹿ね。ここで殺されなさいっ。自害したと報告してあげるから」
短刀が振り落とされる。あたしは目をつむった。その中に寂しげな目をしたゲルトがいた。
ゲアド、ごめん。
その時、あのゲルトのちゅーと言っている顔が浮かんだ。キスでもなんでもさせてあげれば良かったかしら。そんなことをつらつら思っていても、短刀は振り落とされなかった。ばたり、と人の倒れる音がした。
目を開けるとそこにはディアナ妃が倒れていた。床に血が流れている。
「ディアナ様!」
助け起こそうとした途端手が止められた。第一妃様の力強い手だった。
「息子、ゲルト王子の妃を殺害しようとした罪でディアナ妃は命で命をあがなうことになったのよ。あなたはこの場面をみなくていいわ。衛兵と一緒に宮殿に帰りなさい」
「でも!」
人が死ぬのを見るのはもう嫌だ。後方支援で山ほど見た。
「これでよかったのよ。侵略してきた国はディアナの国なの」
「!」
「さぁ、あなたは湯浴みしてゲルトの帰りを待っていなさい。図書室への入退場は私が責任持って付き添いますから」
「妃様!」
「それぐらいはさせて頂戴。あなたは私の娘なのだから」
「む・・・すめ?」
「あなたの母君の血を引いた子孫が私です。直系ではないけれど。それぐらいは調べました。だから、あなたはこの世界で私の娘なのよ」
「はい。お母様」
自然と声が出ていた。震える手を押さえるとそっと抱きつく。ぎゅっと一瞬抱きしめてくれた。それでいい。あたしは泣きながら宮殿へ帰った。
それから幾日かたった。あたしのライバルのディアナ妃は一命は取り留めものの、幽閉の身となったとアンナが教えてくれた。同盟の代りの妃だったらしい。まるでお父様とお母様の出会いと一緒だけど中身は全然違った。お父様とお母様は愛で結ばれた。けれどディアナ妃には愛はひとつもなかった。ただ、王の夜伽だけに生きる日々。どれほど、むなしかっただろうか。心だけでも体だけでもダメなことはあたしでさえ知っていた。そして、あたしにはゲルトには両方ない。まだ、恋もしていなかった。ただ、いつしか同盟を組んだ仲間のような気持ちはできあがっていた。お互い、凍った氷の持ち主。図書室で二人で静かに本を読むだけ、だった。
ゲルトが帰ってくれば、何かが変わる気はしていたけど、考えたくなかった。妻になる事も考えたくなかった。どういうことかは頭では解っても心は着いてこなかった。ただ、じゃれ合う日々が欲しかった。
あたしは第一妃様と毎日、図書室へ通っていた。ただただ、読みふけるあたしを第一妃様はそれを和やかに見ては編み物をしていた。
「その編み物は?」
ふいに、顔を上げて聞きたかった質問をした。
「おくるみよ。夏の」
「どなたか出産なさるのですか?」
「やぁね。クリスタ。あなたに決ってるじゃありませんか。戦いから戻って時期が来れば挙式ですよ」
ええーっ!!
「本当にあなたは魔皇帝の孫娘ね。ゲルトから聞いていましたけど、心の声が飛んでくるなんて、魔皇帝の孫娘でないと、できませんもの」
「って・・・。って・・・。お母様にも飛んでるんですか?」
「もちろん」
にっこり言われてあたしはがっくり首を落とした。おじい様に心の声のことを聞いておけば良かった。
「この王室の方々は魔術師かなんかですか? あたしの、国ではおじい様ぐらいでしたわ」
「まぁ。魔力をひどく受け継いだ一族ですけど、あなた達と祖先は一緒。そう変わった事ではないわ」
・・・って。言われても・・・。挙式って・・・。挙式って・・・。あたしとゲルトの間には何もないのよっ。
「大丈夫よ。何もなくても。今から式を準備しても一年間はないから」
「い・・・一年!? 準備にそんなに時間かかるんですか?」
ああ、もうざっくばらんに話しているけど、あたしの知らないところで話が進んでるっ。
「そりゃ、ドレスや、パレードに使う馬車やその他諸々、一から作るのですから、時間はかかりますよ。私は三年かかりましたからね」
どひゃー。
この国の風習ってそんなに複雑だったっけ? あたしは本を探し出す。確かこの辺に・・・。
「あった。列王記!!」
あたしは急いでページをめくる。だけど。花嫁のことに関しては何も書いていない。
「これですよ。結婚式にまつわる話が書いてある本は」
すっと差し出された本に目をやるとお母様(もう第一妃様というのが面倒になったから、これからはお母様よっ)がにっこり笑っていた。あたしはひったくるように取りかけて慌てて丁寧に受け取る。
「そういう礼儀正しいところがあなたのいいところ。大事にしなさい。ゲルトもあなたのそういう素直なところが好きなんだと思いますよ」
「ゲルトが・・・あたしを?」
好きも何もあの「ちゅー」しか言ってこないのに。
「ゲルトには凍った扉があります。それを溶かせるのはあなただけ、なのです。母には出来なかったこと。最愛のあなたにならできるはず」
「最愛の・・・あたし?」
信じられなかった。ゲルトにはただの結婚相手と割り切られいたような気がしていた。最愛なんて、そんな事を示された覚えもない。ただ、一緒に本を読んで夕食を食べてバルコニーでぽつぽつと話す。それだけだった。
「その、静けさがあの子には今、必要なんですよ。あなたはそれを自然としている。息子の嫁としては大合格よ」
「お母様・・・」
「さぁ。その本を読んでまた叫んでていてちょうだい。わたくしは少し席を外します」
「お母様?」
少し顔色が悪い。
「どこかお加減が・・・」
「あなたは知らなくていい事よ」
そう言ってすっと出て行く。後を追いかけそうになって本が落ちる。
「ああ。ごめんね。本さん」
表紙をなでなでして謝る。その側でくすくす笑う声がした。
「げ・・・ゲルト?」
ゲルトが図書室のドアに背をもたれさせて立っていた。
「相変わらず、姫はかわいいな」
「ゲルト!!」
あたしは本を放り出し抱きついていた。
「いてっ」
「どこか怪我してるの?」
「背中に一太刀浴びて無事生還してきた」
「ゲルト!! どーして早くそれを言わないのっ」
鬼気迫るあたしにゲルトがびっくりしている。
「治癒魔術かけてあげるからそこ、座ってっ」
あたしが、言うとゲルトは首を振る。
「魔力には量があるって知ってる?」
「知ってるわよ。魔術を教えてもらったおじ様が言ってたわ」
「姫の魔力は弱い。アメリア姫の方は血を引いているからか高いみたいだけど。あの屋敷の魔力が移っただけの姫には治癒魔術は命取りだ。みすみす花嫁を死なせるわけにいかないんでね」
ゲルトにどこか自虐的な笑みが浮かぶ。
「ゲルト?」
あたしは不思議に思ってゲルトの瞳をのぞき込む。
あたしがのぞき込むとゲルトはふっと、視線を外した。心の闇がそこにはあった。理解できなければこの人の妻にはなれない、そう感じる闇だった。
「ゲルト。一年後に挙式とは言われたけど意に沿わぬ婚姻なら破棄してもいいのよ。あたしはまた薬でものんで眠り姫に戻るから」
「え」
意外そうな言葉に今度はゲルトがびっくりしていた。
「もう一度眠り姫になれるの?」
「ええ。もう一度だけ眠り姫に戻れるわ。薬を一つだけ持っているの。アメリアもよ。アメリアは幼すぎてその事は解ってないかもしれないけど。アメリアはうまく行っているようだもの。今更破談に持ち込む気は無いわ。ゲアドならアメリアを大切にしてくれるわ」
「そして、俺は失敗者の烙印を押されるわけだ」
ひどく落ち込んだ声でゲルトが言う。
「失敗って?」
「王の使命を果たせなかった王子としてまた災難王子になるんだよ。眠り姫を起こして妻に出来れば呪いはとけると。この帝国にかけられた前帝国の呪いを解くために君たちを起こしに行ったんだよ」
「呪い? おじい様は呪いなんてかけないわ」
「君たちの真実は必ずしも俺たちの真実とは限らないんだ。気分が悪い、宮殿に戻るよ」
「ゲルト。あたしもいっしょに戻るわ。少し待って」
「俺一人で戻りたいんだ」
そしてあたしは図書室に取り残された。ゲルトは今、心の中の闇に捕らわれている。どうすれば、解けるの? あたし達にかけられた呪いを。悲しくなってそっと涙を流した。何時間そうしていたか。あたしはぼーっと図書室に座っていた。読もうと思っていた本は表紙をめくっただけだった。そのまま、あたしは途方に暮れていた。
「クリスタ! まだそこにいたのですか? 早く宮殿におもどりなさい。夜盗かなにかに襲われればひとたまりもありませんよ。ゲルトは何をしてるのかしら」
「ああ。お母様。ゲルトを叱らないであげてください。今から、私も帰りますから」
「クリスタ?」
やや落ち込んでいるのを見て取ったお母様が聞く。
「なんでもありません。何もないんですもの」
泣きたくなったけど、そのまま本を持って帰途につく。お母様が立ち尽くして見てるのを知っていても説明ができなかった。ゲルトの闇に触れてあたしの闇も思い出したのだ。過去という闇に。置き忘れた心を。
宮殿の前ではビアンカとエルマがちょこんと座って待っていた。
「ああ。あなたたちのお散歩もなかったわね。今からいくわ。ちょっと兵隊さん。この子達の散歩にでかけるから戸締まりはもう少し待って」
「しかし。姫様」
「おねがい。ちょっとだけ目こぼしして」
にっこり笑うと兵隊さんはしかたなく頷く。部屋に戻れば夕食の用意があった。だけどゲルトはいなかった。あたしはリードを二つ持つと入口へ向かった。
「いい子ね。ビアンカ、エルマ。お散歩に行きましょう」
「俺もついていっていい?」
「ゲルト! 怪我は・・・」
「大丈夫だ。先ほど母上から伝言が来て君の様子がおかしかったと聞いて。俺のせい?」
少し戸惑った子犬のような目でみてくる。あたしは、静かに首を振った。
「ちがうわ。あたしの心の中の問題よ。これ以上は言えないわ。あなたも隠しているもの」
図星、そんな感じの表情だった。
「姫・・・」
「一人にさせて。必ず帰ってくるから。エルマ、ビアンカいくわよ。今日はボールはないからね」
その言葉に不満げな声を上げた二匹だったけど、散歩に行くのが嬉しくて尻尾をふりふりする。
「さぁ。いつもの所を回るわよ」
あたしは声を明るくした。空元気も元気の内。そんな言葉を思い出してあたしは散歩へと向かった。
夜の森は静かだった。フクロウの鳴く声が聞こえる。時間が相当、夜だったのに気づく。今後頃ゲルトは傷を癒やしているかしら。夕食は取ったかしら。そんなことばかりを考えていた。あたしにもっと魔力があれば。お父様とお母様の血を引いていれば。悔しさがこみ上げる。あたしは泣きながら森を何回も回った。宮殿の衛兵が立っている所に行く頃にはあたしの涙は乾いていた。心も渇いていた。なにもないすっからかんの心を抱えて戻ってきた。
「クリスタ!」
「ゲルト?」
「帰りが遅いから心配したんだよ。ちょっとっと言う割には随分時間が経っていたから。夕食を食べよう。温め直してもらってるから」
ごめんなさい、とあたしは言う。
「食べたくないの。あなたとも。一人にさせて」
そう言ってその横をすり抜けた。ゲルトがあたしの拒絶に唖然としているのに気づきながらも彼のことを思った行動は取れなかった。あたしと彼の間には深い溝ができていた。いつものじゃれ合いさえできないような。
あたし達の同盟はついに、壊れてしまったのだった。
☆
ゲルトとの間に溝ができたあの夜から、あたしはゲルトと会うことは止めた。ただ、図書室からお母様から本が届く。嫁ぐに当たって読むべき本、とメモ書きがあった。それをただ、一人で読み進める。ゲルトと「ちゅー」とじゃれ合った日が懐かしい。そんな日がずっと続いた。扉の向こうにゲルトがいる気配も感じた。だけど、入ってこなかった。あたしはそのままにしていた。かける言葉も失っていた。ごめん、と一言謝ればいいのかもしれない。でも拒絶されてあたしにはなすすべがなかった。表面的な言葉では取り繕えなかった。ビアンカとエルマはそんなあたしの足下に座って心配そうに見ていた。ふっと、視線に気づく。
リードを加えた二匹がいた。散歩はアンナに任せっきりだった。
「誰が、リードを・・・」
「俺だよ」
「ゲルト」
「ずっとここにこもってるって聞いたから。たまには外の空気を吸わないと。元気になれないよ」
「別に元気になりたいわけじゃないもの」
「そして、また、俺を置いていくの?」
「ゲルト?」
あたしはまだ、彼を置いて出て行った覚えはない。また、って・・・。
「いや、今のは忘れてくれ。さぁ。散歩に行こう」
「聞き逃すのは嫌だ、と言っても散歩に行けるの?」
「クリスタ・・・。ちょっとした行き違いじゃないか。結婚したらこんなことはしょっちゅうだよ。そのたびに、籠城するの?」
「その言葉、そっくりそのままあなたにお返しするわ。ゲルトこそどうして自分の築いた城の中に閉じこもっているの? 何があったの? 話してくれないと一緒に行動はしないわ。挙式だってするつもりもないわ。あたしの短刀はあたしだけ使えるの。命を絶つことも可能よ」
言ったとたん、ものすごい勢いで来るとゲルトは強く抱きめる。
「ダメだ。死んじゃ。死ぬぐらいならあの屋敷に送り届けてあげるよ。そんなに俺のことが嫌いだったら」
「嫌いじゃないのよ。あなたを支える力がないあたしが嫌いなの。あなたの傷も治せない。心の闇も氷もどうして上げることも出来ない。ただのお人形なの。あたしは。なにもできないお人形なの。ただ、話す言葉と赤い血が流れてるだけ」
「クリスタ! 自分を責めないで。俺の闇は、どうすれば消えるかわからないんだ。ただ。クリスタを失えばまた深くなる。解ってるんだ。それだけは。もう死なせたくない。誰も」
「誰かが亡くなったのね」
ついに、あたしは核心を突いた。びくり、とゲルトが身じろぎする。
「そうなのね。いつか話せる時が来たら教えて。ビアンカとエルマをたのむわ。私には今、無理なの」
涙声になっているのに気づいてもどうすることも出来なかった。飼い主のあたしの異変を感じてビアンカとエルマが吠え出す。アンナが飛び込んできた。
「姫様! あ。失礼いたしました」
「アンナ! いいの。この子達を散歩に連れて行ってあげて」
力のないあたしの声にアンナもいぶかり出す。
「姫様、どこかお加減が・・・」
「大丈夫よ。それはお母様に言ってあげて。第一妃様はどこかお加減が悪いわ。早めに医師にみせたほうがいいわね」
「母上が」
ようやくあたしから離れたゲルトが言う。
「そうよ。なんのご病気かも仰らないけどあれは体のどこかで異変が生じている気だったわ」
「姫は人の気も読めるの?」
「付け焼き刃程度にはね。さぁ。ゲルトもこんな所で油売ってる暇ないわよ。お母様のところに行って医師を連れて来るのね」
クリスタ、ゲルトが名を呼ぶ。
「話をすり替えても無駄だよ。今、君が決意していることは筒抜けだよ」
「ゲルト・・・最後まで言わせないで。あたしはあなたを愛してはいない。もう、用済みよ。きいたわ。この大陸の支配を国王様が掌握してると。もう、この大陸は安全。眠り姫になんか頼らなくても好きなお相手と結婚できるわ。私はどこかに行ってどこかの村の息子と一緒になって生きていくわ」
「姫は誰にも渡さない。俺の姫だ」
また、ぎゅっと抱きしめられる。
「だったら、あなたの闇を教えて。それが出来なければあなたを想う亊もできない。素のあなたを知らないまま、愛は生れないわ。あたしの素もあなたは知らないはず。こんな偽りの関係終わりにしたいの」
「だったら。散歩に行こう。そこで話す。あそこなら誰もいないから。二人で話そう。お互いの関係を修復しようよ」
「ゲルト・・・。本当に修復したいの? 心が思い出して痛むのに?」
「姫を失うぐらいなら、俺はすすんで心の闇でもなんでも差し出すよ」
しばらくあたしとゲルトは見つめ合う。緊迫した空気が流れる。あたしは目をそらした。そして言う。
「わかったわ。散歩に行きましょう。その前にピクニックの用意をさせて。そこでじっくりお互いの話をしましょう。アンナ!」
側にひかえていたアンナを呼ぶ。
「姫様?」
「急いで軽食をバスケットに入れて。ピクニックしてくるから」
アンナの顔がぱっと輝いた。
「わかりました! すぐに」
アンナが走り去る。ゲルトの表情も輝いていた。
「君はやっぱり俺の光だ」
そう言ってぎゅっと抱きしめると出て行く。
「馬を用意してくる!」
確かに今、ディアナ妃はいないも同然。馬具は無事作られてつけられているとゲアドがいっていた。
「どこへいくのかしら?」
まだ、あたしは行き先を知らずにいた。呑気にも。
☆
あたしとゲルトは遠乗りにでかけていた。アンナが渡したバスケットをあたしは抱え、ビアンカとエルマも乗せて器用にゲルトは馬に乗っていた。森の中を走ること数刻。ぱっと目の前が広がった。花畑が一面絨毯のように広がっていた。だが、あたしはその中にある異質なモノを目にした。
「あれが、そうなのね」
「ああ」
ゲルトは短く答えた。そこには墓標があった。
「メアリ、と言う姫だった。俺に嫁ぐ婚約者として他の大陸からやってきた姫だった。俺は姫が好きになって夢中になった。毎日、話をしてデートして、人生が薔薇色だった。なのに、彼女は何故か自死した。原因はわかっている。ディアナ妃が父王の元へ差し出した。彼女は辱められ自死した。俺は父を恨んだよ。強欲に目がくらんだ父を。そしてディアナ妃も。ディアナ妃も俺へと連れてこられて父の夜伽の相手にさせられた。その恨みで俺への妻となる姫がくると必ずディアナ妃の手にかかった。父はそれを知っていながら何もしなかった。いや、出来なかったと言っていた。父の敵国だった姫のディアナ妃が裏で糸を引いて確証のない殺人事件を繰り返していたんだ。勝手に捕まえるなどすれば、戦争をけしかける原因を作ってしまう。だから、父には何も出来なかった。夜伽の相手になったのも別の誰かの手があったらしい。父は先日その事で、謝罪してくれた。そして、異常とも言える俺への執着がすべての姫を惨殺させていたんだ。王の妻となっても俺への偏愛が勝っていたんだ。そのディアナ妃は君を襲おうとして簡単に捕まった。そしてその国の王も亡くなった。俺は戦地でディアナ妃が幽閉されたと知ってびっくりしたよ。それと同時に君を心配した。あんな簡単にディアナ妃が負けるなんて思ってなかった。さすがは魔皇帝の孫娘、だと思った。出会ってからずっとくすぶっていた君への想いが形になったけど、君は死ぬ覚悟だった。何も悪いこともしてないのに。俺がただ、頑なになっただけなのに。どうすればその覚悟を止めさせられるか悩んだよ。母上はただ、見守りなさい、と言った。側にいてあげなさいと。でも君は俺を拒絶した。メアリを亡くした時以上に悲しかった。なんとかして君の頑なな心を溶かしたかった。君も同じ思いだったんだね。俺を思って何も出来ないと落ちこんでいたのになんの手も差し出せなかった。だから、今日、散歩しようと言った。そこから始まるような気がして・・・」
つらそうに話すゲルトが切なくてあたしは彼を抱きしめた。彼は泣いていた。小さく肩をふるわせながら。あたしはぎゅっと抱きしめた。そして言う。
「ありがとう。あたしに闇を話してくれて。あたしもあなたの闇と共にいきていくわ。それならいい? 死なないから。あなたのメアリ姫への想いごとあなたを愛したい。メアリ姫はあなたの心の奥底にいる。そこにはあたしはもうたどり着けない。でも今はあなたの側にいられる。いつかメアリ姫のところへ行くまでそばにいるわ」
「クリスタ・・・。焼き餅も妬かないんだね。そんなに大事に思ってくれるなんて」
「焼き餅なんて思いっきり妬いてるわよ。でも仕方ないじゃない。一番心の奥底に眠っている人への愛を奪うことはできない。その人への愛があるから今のゲルトはいるんでしょ? だったらまるごと愛してあげる。辛いときは泣いて嬉しいときには笑って。素のあなたが見られるだけで十分よ。メアリ姫には出来ないんだから」
それからあたしは彼を離して目をのぞき込む。
「大好きよ。ゲルト。あなたを愛している」
あたしの素直な言葉だった。不器用で優しい彼はお父様と一緒だった。そんなお父様を愛したお母様の気持ちが今、わかった。あたしはゲルトを愛している。ずっと宝石のように眠っていた思いが言葉になった。
「クリスタ・・・。君はなんて優しい人なんだ。こんなちっぽけな男を愛せるなんて。俺には君を愛する資格なんてないと思った。違う人を想い続けて君を想うのは失礼だと思った。だけどそれごと俺を愛してくれるんだね。俺も今日から君と一緒に生きる。メアリ姫の事は過去だ。今から俺はクリスタだけを愛する。もう、焼き餅なんて妬かなくていいから。俺の姫。クリスタ」
あたしたちは花畑の中に倒れ込んだ。だけど。そこまでだった。
「ちゅー」
面白そうにゲルトはあの「ちゅー」を復活させたのだ。あたしははっと我に返って体をずらしてゲルトはお花とキスをした。
「いたしません。愛しているけどまだまだいたしません」
「えー」
「結婚してから」
「一年もあるー」
「それ以上に延びるかもよ。戦争でとりあえずは国力の強化に乗り出すはずだから、挙式の準備なんて後回しに決ってるじゃない。お母様なんて三年かかったって言ってらっしゃったわ」
「三年!!」
「我慢比べね。王様もそのフラストレーションから側室コレクションに走ったんじゃない?」
「それは言えるかも。母上は本当に綺麗だけどプライドが高いって嘆いていたから」
ふふっ、とあたしが笑うとゲルトはぽーっと見ている。
「クリスタって笑うと可愛いんだなー」
「今更何を言ってるの。ほら。お腹空いたでしょ。食べましょ。あら、これはなんて言うの?」
「サンドウィッチという軽食だよ。君の夕食はでなかったんだね。お昼にたまに食べるんだ。おいしいよ。君の時代には黒いパンしかなかったけど、この時代には白いパンがあるんだよ」
「これがパン・・・」
あたしは白いパンに何かが挟まったものをじっと見つめる。それをゲルトが嬉しそうに見ている。あたしはそれだけで満足だった。それはメアリ姫にはできない事だったから。あたしはその事実をやっと自分の中でかみ砕くことができたのだった。
「君の闇、はなんなの?」
「簡単だけど割り切れない、ものよ」
あたしとゲルトはサンドウィッチにぱくつきながらシリアスな話をまたしようとしていた。
「割り切れない?」
「過去、よ。あたしの。あたしの中にある記憶はもう失ってしまったモノ。元には戻れない。お母様もお父様も、もちろん、おじい様達ももう会えないの。あの家に戻れないの。あたしの家族はビアンカとエルマだけ。つらかった。本当に。きっとアメリアも同じね。でもあたしはあの子の本当のお姉さんでもない。父の親友の娘、なの。戦死した。生みの母は私を産んですぐなくなったと聞いているわ。その頃に父も亡くなった。育ての父と母がいるの。育ての母に出会ったのは本の小さな時。それでもあたしには生みの母への想いがあった。父から新しいお母様だよ、と言われてもあたしは拒否した。そのたった一瞬の事で育ての母はあたしに生みの母への想いが強いことを察してくれたの。そして死にそうになった。森の中をさ迷って。あたしと同じ事をしようとしたの。死のう、と。母がいなくなったとき、すごく怖かったのをおぼえているわ。生みの母のように消えてしまう、と。あたしが拒絶したからって。父と必死で探したわ。母は崖に落ちてもう少しで帰らぬ人となるところだった。傷が深くて、心の傷も深くて。父が激怒して部屋を出ても何一つ文句言わなかった。あたしにもエルマをプレゼントするって言われて父の元へ行くようにいわれたわ。でも、あんな一瞬で心を見抜いて大事にしようとしてくれた人をもう失いたくなかった。お母様、って呼んだの。嬉しそうに微笑んでくれた。それからあたしはお母様とお父様の愛情を一身に受けて育った。でも戦争がすべてを壊した。それで、おじい様はあたしと本当の嫡子のアメリアを眠り姫にしたの。そして、この時代に眠りから覚めた。まだ、あの眠りについた日を思い出すわ。お母様は泣いていた。お父様も悲しんでいた。あの目が忘れられない。時折、夢にうなされて起きるの。お父様やお母様が戦争で亡くなる夢を見るの。本を読んだ限りではお父様達は生き延びているようだったけど。なのに火にくるまれて焼け死ぬ両親の夢を見るの。何度も泣いたわ。あの時代に生きていたかったと。お父様達と生きたかったと。それがあたしの闇。氷。だれにも溶けない氷。話した所でなんの解決にもならないわ。こんな闇持ちでいいの? ゲルト」
ゲルトの指がそっと涙をすくう。
「その闇ごと愛してあげる。愛しいクリスタ。君の強い愛を見習って俺もその愛で君を包んであげる。もう、泣かないで。俺のクリスタ。大好きだ。愛してるよ」
そっとゲルトが唇を重ねる。ほんのりと暖かい人肌に、びっくりしつつも、これが人のぬくもりと解った。そっとゲルトが唇を離す。
「ちゅーって言わないから避けようがなかったじゃないの」
強がりを言うあたしをゲルトが抱きしめる。そして言う。泣いてもいいよ、と。あたしはこの時代に目覚めて初めて人の腕の中で泣いた。
泣くだけ泣いて、まだ、鼻をぐすぐす言わせているとまた「ちゅー」という声が聞こえてくる。あたしはゲルトの胸に手を突いて離れるとそっぽを向く。それから、何時もの言葉を言う。
「いたしませんっ」
「ちゅーしようよー。姫ー」
「さっき勝手にしたでしょ。不意うちで。よけようがないじゃないのっ」
「もっと大人のちゅーしよー」
「大人ってなにっ。大人ってっ。ちゅーに子供も大人もないわよっ」
「しかたないなぁ。結婚するまで待つか。大人のちゅーは。さぁ。姫、帰らないと宮殿が大騒ぎになるよ」
そして手を出し出す。あたしはその手を握る。引き寄せられて、キス、かと思ったけど、本当に結婚するまでしないのか、何も言わず、馬にビアンカ達を乗せ始めた。ビアンカとエルマは着いたときにリードを外して遊び回っていた。それが落ち着くとあたし達の側で居眠りをしていた。急に起こされ、また乗り心地の悪い馬にのせられてゲルトにうなっている。
「エルマ。ビアンカ。うなっているとお家に帰れないわよ」
あたしが言うとぴたり、と止まる。それをすごい、という目でゲルトは見ていた。
「エルマは元々お母様の犬なの。護衛にビアンカと一緒に眠りにつかされたのよ。おかげであたしはこんな闇を抱えても家族が動物だけでもいるの」
「俺も姫の家族になるよ?」
「一年以上経ってね」
「ちぇ。姫は本当に清い仲を保つつもりなんだね」
「って。それ以外どーするのっ」
「今夜、俺のベッドにこない?」
「行きません。今頃、宮殿大騒ぎになるんじゃないの?」
「わかりました。いたしませんから姫も馬に乗って」
「わかったわよ。メアリ姫、ゲルトをお持ち帰りさせてもらうわね」
墓標に視線をやる。
「どうぞっ、て言ってるよ。さぁ」
あたしは差し出されたゲルトの手を握って馬に飛び乗った。
宮殿に帰ると案の定、大騒ぎしていた。あたし達の姿を見つけたお母様がすっと寄ってくる。あたし達の顔をじっと見つめるとため息をつく。
「本当に災難な息子と娘ね。ひやひやしましたよ。でも、問題は解決したようね」
にっこり笑って言う。強い。強すぎる。メンタルが。
「はい。母上。全てを話しました。その上で姫は・・・・もがっ」
「それ以上は言っちゃだめ。恥ずかしいから。言ったら刺すわよ」
物騒な会話にもお母様は動じない。逆に復活したじゃれ合いにほっとしていた様子だった。
「もう。クリスタ。口塞いだら苦しいじゃないか」
「その減らず口を封じるにはそれしかないのよ」
「他の方法試してみない?」
「人前では結婚してもいたしませんっ」
「えー。ちゅーしようよー」
「このスケベ王子!」
いつまでも続くじゃれ合いに皆、安心して見ていたのだった。
☆
あの、遠乗りの日からまた日常が戻った。あたしとゲルトは相変わらず、図書室で本を読む。それからお昼と夕食を一緒に摂る。その合間に「ちゅー」が来るがお盆でガードする。そんな日々の中にまた新たな要素が加わった。婚礼の準備だ。いつもの図書室へ行く時間にまで食い込んでくる。やれ、ドレスの採寸だ。靴の採寸だ、と何から何まで採寸だらけ。それが一段落すれば、衣はなにがいいやら、靴は革か木か、なんてどうでもいいことまで絡んでくる。
「何着作る気なのー!!」
側にひかえるアンナに言えば・・・。
「一年分でございます。あとはお世継ぎの衣も選んでいただきます」
お世継ぎってあたしのお腹の中にはさっき食べたデザートぐらいよ。入ってるのはっ。ぎゃーぎゃー叫んでると、ゲルトとお母様がやってきて文句を言う。
「その心の声をなんとかして頂戴」
「それじゃー。この作業を止めて下さいっ」
「それは無理な要求よ。私は五年分作りましたからね」
ひーっ。
言われる側から悲鳴がでる。
「クリスタ。心の声を止める方法は聞いてないの?」
「聞いていません。そもそも、心の叫び声を聞き取る人なんていませんっ。おじい様だって知らないのにっ」
「じゃ、ゲルト本で探しておいて」
「はい。母上。綺麗なドレス楽しみにしてるよ」
きらりん、とまたキザに歯を光らせてゲルトは行く。
「ちょっと助けてくれないのーっ」
言うも意味がない。こうしてあたしの婚礼準備は日を追ってすさまじくなっていった。
「もう。くたくた~」
お母様の部屋で部屋のカーテンの生地まで決めさせられてあたしはぐったりしていた。
「お。姫の弱みにつけいるチャンス。ちゅー」
「いたしません!」
ばん、と持っていたお盆でぶったたく。
「もう。最近はさらに凶暴になったなぁ」
「じゃ。あの地獄の婚礼準備止めさせてっ」
「それは無理だよ。父上も母上も初の娘ができて嬉しいから」
「初の娘ってあとは男ばかり?」
「うん。我が国にはなぜか男ばかり生れてね。女の子がかなり少ないんだ。お嫁さんに来てもらうのは一世一代の勝負所だよ。アメリアもそろそろ婚礼準備はしておいてもいいかもね。ゲアドと釣り合う頃にはいい年になっているよ」
「あの子にはもうしばらく、穏やかな生活をさせてあげて。やっと落ち着いたんだから」
「そうだね。最近泣かなくなったって聞いたから」
「でしょ?」
にっこり応対するとまた「ちゅー」がやってくる。
ばこん、とお花の咲いた頭にぶつける。
「笑うだけではいたしません!」
「じゃ、何すればちゅーなの?」
「何してもダメ!」
「もう。姫ー。ビアンカ達が待ってるよ。散歩いかないの?」
見ればビアンカがボールを持って尻尾を振っている。
「それをどーして早く言わないのっ。ビアンカ。エルマ。ボール遊びに行くわよ」
そう言うとゲルトはリードを渡す。一本は私。もう一本はゲルトとなっている。二匹ともゲルトに慣れて来る度にあそぼ、と尻尾を振るようになった。護衛の意味がないわ。ため息をつきながらリードをつける。
「どうしたの? 姫」
「別に、二匹とも慣れたわねぇと。護衛の犬なのに」
「だからじゃないか。旦那さんには慣れないと」
「まだ、旦那さんじゃないっ。慣れる必要性はないわっ」
「姫、叫んでばかりいると体力消耗するよ」
誰がやらしてるんだっ。誰がっ。
「はい、俺。だって。姫の心の声楽しいんだもん」
そんなので楽しむなーっ。
「それがいいんだろう? 姫の秘密の声を聞くのが最近の楽しみなんだ」
「って。お母様に防ぐ方法を探せって言われたんじゃないの?」
「うん。見つけたけど、ちゅーをしてくれない限りは教えない」
ぶちっ。頭の線が一本切れたような気がした。
「ゲルトー!!」
ビアンカを引き連れながらゲルトを追い回す。いつの間にかのいつもの散歩コースに出ていた。気づけばあたしもゆっくりした気持ちでビアンカを散歩させていた。ここはあの花畑のように広い。ただ、花がないだけで。
「ここに花を植えさせようか?」
あたしの思考を読み取ったゲルトが言う。
「それじゃ、ボール遊びができないわ。ほら。取っておいで」
小さなボールを投げる。二匹がボールを追いかける。やんちゃなビアンカが取ってきてあたしの前に落とす。
「今度はエルマの番よ。ビアンカはゲルトにお菓子もらいなさい」
ビアンカがゲルトのお菓子に気を取られている間にエルマにボールを投げる。エルマは遠く投げたボールをしっかりくわえて走ってくる。
「エルマ、いい子ねー。さすがはお母様の犬ね。賢いわね」
幼い頃両親と行った散歩を思い出す。お母様、あたし、何年後には嫁ぎます。あなたの娘として名誉に傷をつけないように。ぽとり、涙がこぼれた。しゃがんだままあたしは顔を膝に埋める。エルマがきゅんきゅん鳴く。
「ごめんね。エルマ、少しだけ泣かせて」
そう言って涙を流す。このボールも昔のものだ。お母様が思い出にと持たせてくれていた。お母様、会いたい。
「そんなに会いたい?」
「ゲルト?」
両親達はもうとっくに亡くなっている。
「本を探している途中で魔皇帝一家が逃げ延びた土地の名前を見つけたんだ。そこに行けば何かある。行って見る?」
「って、婚礼準備は? 遠いのでしょう? それに旅費だっているし」
「一ヶ月くらい婚礼準備を止めたって幾ばくも影響ないよ。まだ、仮縫いもしてないんだから」
「一ヶ月もかかるの?」
いや、とゲルトが言う。
「数日だよ。往復で一週間とちょっとかな?」
「その間、エルマとビアンカは?」
「一緒だよ。行こう。そこへ」
力強いゲルトの言葉にあたしも強く頷いたのだった。
☆
あたしとゲルトは馬に乗ってぱかぱか、移動していた。流石に長距離を二人いっぺんに乗ると馬が潰れる。ちょうど馬にも乗れるあたしは一人で乗ってゲルトの後をついて行った。ビアンカとエルマはどちらかの馬に一匹ずつ乗っている。よく、ここまで慣れたものよ。ついちょっと前までうなっていたのに。
「クリスタ。物思いにふけっていると馬から落ちるよ」
「言われなくても解ってるわよっ」
前方のゲルトに向かって叫ぶ。叫ぶ必要はないけど、口で言っている方が健全的だわ。ゲルトにはあたしの思考が筒抜けだった。いつの間にかそうなっているらしかった。
「だから、クリスタ!」
再度、ゲルトから注意が飛ぶ。お母様のいた土地に行くとあって、あたしの思考は千々に乱れていた。それを阻止しようとゲルトが注意を何回もしている。
「はいはい。わかったから。前向いて。そっちが危ないわよっ」
あたしは、前方に注意を向けた。
野宿を三日もしたころ、小さな集落が目に入ってきた。集落の入口でゲルトが馬を下りて手綱を引く。あたしもそれに習って馬から下りた。
「君がじゃじゃ馬姫で助かったよ」
「それ、嫌味? 馬から下りられて、じゃじゃ馬って」
「単に賞賛しただけだよ。アメリア姫ならこうも行かないだろうからね」
それは言えている。アメリアにはまだ、馬は早かった。あたしはお転婆と言ってはばからなかったお母様の後をついて回って馬も乗ったし、剣も握った。お父様は女にしておくにはもったいない、とおじい様がお母様に言っている言葉をあたしにむけた。二代続けての筋金入りのお転婆娘ってわけ。
「こっちだ。住所によると」
進んでいくとそこはかなり人が減った集落だった。夕方ともあって誰にも会わなかった。ゲルトの誘導に従って道を歩くと突き当たりに大きな館があった。
ゲルトが鉄輪をつかんでノックする。出てきた男性は、あの、あたしの館の執事とそっくりだった。驚愕しているあたしに彼はあたしの名前を言い当てた。あなた、誰? というあたしの問いは夕闇に消えていく。
「当時のお姿のままなのですね。私はあなた様の執事の子孫です。どうぞ、お入りください。あなた様の到来を待ち望んでおりました」
どうして、あたしの姿がわかるの?
その答えはすぐに見つかった。屋敷の壁のど真ん中に肖像画があった。おじい様に始まってエリアーナ叔母様、エレオノーラ伯母様、お母様もお父様も。もちろん、あたしとアメリアも肖像画があった。それぞれの絵画の下に名前がプレートに彫ってある。
「アメリアはまだ、ここを知らないの。到底これる距離じゃないから」
「はい。さようでございますか。今後来られる予定は?」
「わからないわ。アメリアは馬に一人で乗れないし、ここの存在も、ゲルトが調べてわかったの。ここへ来ていることは誰もしらないわ。ただの旅行ぐらいにしか思われてないから」
「それでは、お渡しするモノがあります。少々お待ちください。準備して参りますので」
執事にそっくりな彼はすっと部屋に入ると何やら小さな箱を持ってきた。
「おじい様の魔術がかかってる箱だわ」
おじい様の気を纏っているのがすぐに解った。ここにおじい様の生きていた証がある。それだけで泣きたくなった。ゲルトがそっと肩を寄せる。あたしはそのままにしていた。何が出てくるの?
彼が取り出したのは手紙、だった。羊皮紙で書かれている。この国では紙が使われているから間違いなくあたしの時代の手紙だった。封筒に「愛しいクリスタへ」とお母様の字で書かれていた。
「お母様・・・。手紙を置いてくれてたの?」
彼から封筒を渡される。すぐにでも粉々になるかと思っていたそれはあたしの手の中にしっかりとあった。そこにはお母様達がどうやって生きてきたかかかれていた。苦労なことはなかったと。ただ、あたしとアメリアの事だけが心配だと書いていた。そして簡潔な短い手紙はあたしへの愛で締めくくられていた。涙がこぼれる。
「お母様、会いたい。どうして眠り姫にしたの? 一緒に生きたかった」
ぽろぽろ涙が出てくる。今はもういない人の気配を感じてあたしは静かに泣いた。ゲルトが優しく涙を拭ってくれる。それでも涙は次々とあふれる。
「つらいな。この現実は」
ぽつん、とゲルトが言う。あたしはゲルトの肩に顔を埋めて泣きじゃくった。どれぐらい時間が経っただろう。あたしは椅子に座って暖かいスープを飲んでいた。よくお母様が風邪の時に作ってくれたスープ。この家でずっと伝え続けたスープだと執事の子孫の彼は言っていた。これを必ず伝えてと言っていたという話が残っていると言って。あたしはそこでまた涙をこぼす。スープの中にポタポタ入ってろくに飲めなくなった。ゲルトが代わりに持つ。
「君の涙の味になってしまうよ」
「ゲルトー」
またあたしは枯れない涙を流した。どれぐらい泣いただろか。何度も泣いて涙を拭いて。また泣いて、と一生分の涙を流したんじゃないかと思うぐらい泣いた。この姿をアメリアに見せなくて良かった。あの子が心細くなる。アメリアを思い出したとき、ふっと涙が止まった。
「アメリアにも手紙があるのね?」
涙を拭きながら聞く。
「ございます。来られないのでしたらお預けいたします。この家にいるのはこの手紙を守るため。役目を果たせば、また好きな所にいけばよいと、先祖から伝わっています」
「お役目ご苦労様でした。アメリアの手紙はしばらく第一妃様に預けてアメリアが結婚したときに渡してもらうわ。その頃ならこの手紙の事実を受け入れられるでしょうから」
「絵画を持ってお帰りになりますか?」
いいえ、とあたしは首を振った。
「燃やして頂戴。もうあたしたちは過去に生きる人間じゃないの。手紙だけで十分。あなた達一族の幸運を祈ります」
「姫様・・・。お辛いでしょうが、ゲルト様と幸せになってくださいませ。それがお父君、お母君のお心です」
「ええ。しっかり借りはかえしてもらうわ。この時代に目覚めさせてくれたお礼を」
ちょっと、とゲルトが言う。
「君の心の声の事を探していて俺が見つけたんだぞ。借りを返してもらうのはこっちだよ」
「そう言ってまた、ちゅーっていい出すんでしょ。いたしませんからねっ」
「ちぇっ」
ゲルトがすねてその場は小さな笑いに包まれた。
お父様、お母様、クリスタは元気です。そして幸せです。
そう、心の中で呟いていた。
出発するにはもう時間が遅い、と言われてあたしとゲルトはその館に泊まった。もちろん、別々の部屋で。寝る間際、また「ちゅー」って言った来たので鉄拳制裁を加えておいた。暴力はんたーい、というゲルトの声を聞きながら部屋に入ったのだった。
この旅で早起きが定着していたあたしは起きると背伸びをしてまた乗馬服に着替えた。アメリアになんと言うべきか、なんて迷ったけど、第一妃様におまかせしよう、と決めた。決ったらすっと心が軽くなった。なんでもかんでも背負うもんじゃないのね。お母様。と全部しょいこむ癖のあったお母様の肖像画を見て呟いた。
朝食もまた懐かしい、黒いパンだった。白いパンは都にしかないらしい。でもあたしはそれを懐かしく思いながら食べた。最後の黒いパンになるかもしれないと思いながら。一瞬また、ぽろっと涙が出かかったけどあえてこらえた。メソメソしてたらお母様の娘の名がすたるわ。あたしは冬の子風の子元気な子、だもの。明るいのがあたしの取り柄。お母様もお父様もそこがお前のいいところだ、と何時も言っていた。なら、元気にならなきゃ。あたしは気を奮い起こして外へ出た。後ろ髪に引かれる思いだったけど、執事の子孫の彼はもう自由の身になる。もうこの屋敷には誰もいなくなるのだ。見納めてからあたしはゲルトより早く馬に乗った。
「姫ー。置いてかないでー」
ゲルトが走ってくる。あたしはくすり、と笑うと馬を歩かせ始めた。すぐにゲルトが追いつく。
「置いてけぼりは卑怯だよ」
「誰も置いていってないわ。ゲルトがどんくさいだけよ」
「ひどっ」
まるで子供みたいなゲルトにあたしは救われていた。もう、おじい様の魔法の時間は切れてしまった。最後の最後までやってきて。アメリアへの手紙にはまだ残っていたけど。それもいずれ消えていく。あの屋敷に魔術が架かっていたのだ。それがなくなると言うことはこのアメリアへの手紙も劣化していくということだ。なんとかしてそれを防げないかと、無心で考え続けて馬を動かした。
「姫? どうしたの? 心の声も聞こえないけど」
「え? ああ。考え事をしてたのよ。このアメリアへの手紙を守る方法を考えていたの」
「ゲアドにまかせたらいい。あいつは魔術があるからね。三年ぐらいはもつんじゃないか?」
「三年ならもう十六歳ね。それならちょうどいいわね。今渡すとショックだろうから」
「十三歳の心には痛いね。君がぼろぼろ泣いたんだから。妹姫はもっとつらい。大人になってから渡してあげるのが一番だね。って、君、いくつだっけ?」
初歩の初歩中の質問をされてあたしは馬から落ちるかと思った。ビアンカがきゃんきゃん、鳴いて気を引き締めたけど。
「十七よ。お年頃の姫よ」
「年上かー。俺、十六。姉さん女房もいいねー」
ちょっとっ! 年下!!
「お。姫の叫びが聞こえる。そうだよ。年下だよー。いい嫁さんもらったー」
そう言ってゲルトは馬を駆けさせる。
「ちょとと待ちなさいよっ」
あたしも馬の胴を蹴って追いかけた。
早駆けさせたせいか、予定より早く宮殿に着いた。厩で馬番に手綱を渡す。
「早かったのですね。もう少しかかるかと思いましたよ」
「お母様」
お母様の顔を見たらほっとしてまた泣き出してしまった。それを優しくお母様は抱きしめてくれる。
「辛かったわね。現実を受け止めると言うことは。でも、もう吹っ切ったのでしょう? どうして泣いているのですか?」
「お母様の・・・、顔を見たらほっとして」
まぁ、とお母様が声を上げる。
「本当に母として私に接してくれているのね。ありがとう。クリスタ」
ぎゅっと抱きしめられる。過去にあった感触と一緒だ。母という人は何時の時代もこうなのだろう。肩に手が置かれる。顔を見なくてもわかる。ゲルトだ。励ましてくれている。頭にお花が咲いているなんて言ったあたしは馬鹿だった。ゲルトは優しい。そして想ってくれている。それだけであたしは救われた。あたし、やっぱり相当ゲルトが好きなのかも。漠然とした想いがわき上げる。
「ゲルト。今ならちゅー許すけど?」
照れ隠しにちろん、とゲルトを見て言う。
「だめです。クリスタは婚礼の日までちゅーは禁止です。娘になんてこと言わせるのですか。ゲルトは」
「いや、今のはクリスタが自発的に言ったんだけど・・・」
「自発的だろうがなんだろうが、クリスタは渡しません」
ん? 親子で取り合いが勃発している?
「母上。クリスタは私の妻になる姫ですよ」
「妻になるまでまだ日があります。それまでは私の実の娘と同じです。アメリアもクリスタも息子にあげるなんてなんてもったいないのでしょう。行きましょう。クリスタ。おいしいお菓子がありますよ。アメリアともお話ししていきなさい」
お母様に連行されながらあたしはゲルトに視線を送る。手紙はゲルトが持っていた。ゲアドに預けて二重に魔術をかけてもらうこととなっていた。ゲルトが安心してと言外に言っていた。あたしはありがとうとアイコンタクトを送ってお母様に連行されたのだった。
部屋に入ると、湯浴みの用意ができていた。
「お母様、いつ帰る時刻が解ったのですか?」
「仮にもゲアドの母ですよ。魔力の一つや二つ持っていますよ。水鏡で見ていたのです。それで帰り着くところを逆算しただけですよ」
敵わない。この人には。母として最大の愛情を注ごうとしてる方だった。あのゲルトの母親らしい人だ。
「お母様。ありがとう」
抱きついて礼を言う。花の香りがした。あの、お母様と一緒の。
「あ。お着物を汚してしまいましたか?」
慌てて身を引こうとすると逆にぎゅっと抱きしめられる。
「クリスタはなんていい子なんでしょう。ちょっとした気配りも優しさも兼ね備えて。本当にあの息子達の花嫁にはもったいないわ。私がめとりたいぐらいですよ」
「って。お母様。女性同士の婚礼など聞いたことがありませんわ」
その突っ込みにお母様はけらけら笑われる。そんなにおかしな亊いったかしら?
「そういう国もあるそうよ。どういう事情かはわからないですけど。我が国も女性が少ないですからね。その内、男性同士の結婚でも始まるんじゃないいかしら?」
それはそれで、不思議な光景だ。でも、さもありなん、というこの国の事情もある。
「あなた達も娘を持つのは難しいかもしれませんね。まぁ、それは将来の楽しみに取っておきましょう」
そういうお母様の顔は少し、悲しげだった。だけど次の一瞬でその色は消えた。
「さあ。湯浴みの用意をしてありますよ。湯浴みしてお着替えなさい。アメリアが待ち焦がれていますよ。お姉様がエマと遊んでくれないとすねていましたから」
まぁ、とあたしは驚く。そして、その幼さに胸が痛い。こんな純真な状況で未来の世界に放り出された妹。どうすれば理解していくだろう。
「考え事していると浴槽に沈みますよ」
お母様の言葉ではっと我に返ると目の前に浴槽があった。薔薇の花が敷き詰められている。薔薇の香りが立っていてもわかる。
「それでは、旅の疲れを癒やしていらっしゃい」
お母様が出る。あたしは、乗馬服を脱いで浴槽に身を浸す。暖かく、そのまま眠りに引き込まれそうになる。そこへなじみの「ちゅー」がやってきた。あたしははっと我に返ると湯涌に湯を入れて用意する。
「クリスター。ちゅーしよー」
「男子禁制よっ」
バシャッと湯桶ごと湯がとんでいく。弓の腕もあるあたしのコントロールは完璧だ。
「あちー。あ、薔薇の花びら。姫と同じ香のもとー」
ゲルトが立ち去ろうとしないのであたしは次の湯涌を用意する。するとゲルトの声が遠のいていく。ほんと、油断も隙もありゃしないんだからっ。
「お姉様!」
アメリアが飛び込んでくる。あたしはどうして上げればいいのか解らず躊躇する。
「お姉様?」
「ああ。アメリア、久しぶりね。変わりはない?」
「ええ。お姉様はもう婚礼の準備に入っているのね。私もお姉様が旅行中に準備に入ったの。毎日が大変よ」
「よかったわね。でも嫁ぐのはもっと後よね?」
あの手紙を何時渡すことになるのかあたしは戦々恐々となる。
「ええ。三年後ならいいのでは、とお母様が。三年もあるなんて退屈だわ」
その発言にあたしはぎょっとする。
「婚礼って何を意味するか解っているの?」
「結婚でしょう?」
「それで何が起こるかはわかってるの?」
「赤ちゃんを産むの。ゲアドにそっくりな」
その言葉にまたぎょっとする。
「あなた、もしかして・・・」
「なにもないわ。お姉様みたいな事は。ゲアドはちゅーも言わないですもの。退屈しちゃう」
早熟な妹にあたしはどきどきする。その年で解ってるって。あたしはその頃は剣術と馬術に夢中だったわ。
「お姉様。顔が赤いわ。どうなさったの」
「なんでもないわ。ゲルトが戻ってくる前にお風呂から上がらないとね。着替えたらそちらに向かうわ。エマと遊ばせて」
それを聞くとアメリアはにっこり笑う。ああ。お母様にそっくり。
「やっとエマと遊んでくれるのね。エマが大きくなっちゃったわ。じゃ、お姉様あとで」
頬に軽くキスをすると去って行く。
頬にキスなんて誰に教わったのーっ。ゲアドが仕込んだのね。痛い目に合ってもらおうかしら。
つらつら考えながら着替える。部屋をでるとゲアドが立っていた。
「あなたっ。アメリアに変な事教えてないでしょーねっ」
「変な、とは?」
ゲアドはひどく真面目だ。
「頬にキスなんてあの子しなかったわ。どこで覚えたのかしら?」
「それぐらい許嫁なら当然だろう。ちゅーなんてふざける気は俺にはない。で、例の手紙に術をかけていいのだな? 三年経つまで触れられぬようにするが」
「ええ。そうしてちょうだい。あの子には早すぎるわ」
「そうでもないと思うがな。アメリアは聡明な子だ。理解できると思うが」
「理解できても感情が追いつかないわ」
「感情・・・か。厄介なモノだな。アメリアが待ちかねている案内する」
「ありがとう。あなたにあの子のすべてを託すわ」
あたしはついて行きながら、妹のことを願った。
案内されていくと、そこにはゲルトとアメリアとお母様がいた。子猫にしてはやや大きくなった子猫がそこにはいた。
「エマー。おいでー」
あたしがビアンカやエルマに言うように言うとすっと子猫はこっちにくる。
「お姉様すごい。エマは人見知りが激しい子なのに、一回でそっちへ行ったわ」
「エマも人柄がわかるのよねー」
そう言って喉を撫でる。エマはゴロゴロ喉を鳴らす。
「まぁ。可愛いこと。あたしも猫飼おうかしら」
「お姉様にはエルマとビアンカがいるでしょう? エマおいでー」
あたしの膝の上からすたっと降りると主人の下へ一目散に戻って行く。
「やっぱりエマはアメリアが大好きなのね」
「アメリアは俺にとっても可愛い妹だ。エマもね」
ゲルトが子猫にお菓子をあげる。
「ずるい。ゲルトお兄様。お菓子でつるなんて」
アメリアがぷぅっと頬を膨らませる。
「ほら。エマ。私の方がもっとおいしいおやつを持っているぞ」
ゲアドがアメリアの横に座ってゲルトを押しやるとお菓子をだす。エマが飛びつく。そこには絵に描いたような恋人達がいた。
「やっぱり、今、渡すべきだったのかしら?」
ぽそ、っと一人言を呟く。
「いや、あれはまだ早い。クリスタの判断が正しいよ」
そう言うゲルトの手の甲の皮をつねる。
「いたっ。何するんだよー。ちゅーも言ってないのに」
あたしは、ふん、とそっぽを向く。アメリアの横にいたゲルトがあまりにも似合いすぎてなんだか嫌な気持ちになった。何が、とはわからない感情が胸を横切ったのだ。
「ふぅん」
「ちょっとっ。またあたしの心読んだわね」
「読んだんじゃなくて飛んできたんだよ」
「言い訳無用よっ。当分、あたしの部屋に近づかないでっ。アメリア、またね。疲れて頭が痛むの。またエマと遊ばせて」
「あ。お姉様・・・」
アメリアの悲しげな声に少し気が引けたけど、この気持ちは変わらない。あたしは嫉妬していたのだ。アメリアに。ゲルトともゲアドとも仲の良いアメリアに。あたしはあの輪の中に入っていけなかった。アメリアの側にゲルトがいるだけで気分が悪くなった。実の妹なのに。いえ。血はつながっていなかったわね。その事実が胸に刺さる。私は異端児。魔皇帝の血筋でもないあたしにはあそこにいるいわれはなかった。
部屋に帰り着くとアンナが待っていた。あたしはその顔を見るとぽろぽろ涙を流す。最初に出会ったときのように。
「姫様。何があったのですか?」
優しく聞いて抱きしめてくれる。あたしはあまりにも悔しくてつらくて泣き崩れていた。
その夜からあたしは高熱を出した。寝台に横になってアンナがずっと水につけた布を額にあててくれていた。いつしか、眠りに落ちていって次に目覚めたときはゲルトが布をあてていてくれた。
「どうしたんだい? あんなにヒステリックになって。アメリア姫が泣いていたよ」
「誰にも解らない事よ」
あたしは壁に向かって体の向きを変えた。額のお布がおちる。
「俺、焼き餅妬いた。ゲアドの横に君が立っているのを見たとき。すぐにそこへとんで行きたかった。でも君にはゲアドがよく似合っていた。俺じゃ、ダメなのかな?」
自信なさげな声にあたしははっとした。焼き餅を妬いたのはあたしだけじゃなかった。ゲルトも抱いていた。大事な事を忘れている。そんな気がしてまたゲルトの方に体を動かした。
「クリスタ?」
「あたしも。あたしも焼き餅を妬いたの。アメリアの側にいるあなたが似合いすぎて。呪いを解く魔皇帝の血を引いているのはあの子だけ。あたしはウソで塗り固められた魔皇帝の偽りの孫なの。ゲルトの呪いを解くことができない。それが悔しかったの」
ぽろぽろ涙がこぼれる。こんなにゲルトの前で泣いたのはあの旅以来だった。
「偽りでもなんでもいい。俺の妻はクリスタだけだ」
ゲルトが見つめてくる。視線を外せなかった。顔が近づいてくる。そこへお母様の声が入ってきた。
「ちゅー、は厳禁です! 弱みにつけ込むんじゃありませんっ。ゲルトはクリスタの心の声を防ぐ方法を探してきなさい!」
「お母様?」
そんなに激高することかしら。不思議に思うとお母様がふっと泣き笑いの顔になった。
「あなたが熱を出したと聞いて、なんとかアメリアの元にいたけれど、なかなか下がらないと聞いて飛んできたのです。私の血はあなたの血。決して、偽りの姫ではないわ。私が生きていられるのも魔皇帝一家が逃げてくれたから。あなたの子孫にあたる血もそこに混じっていたのよ。あなたは正統なる姫。それを忘れないで」
「母上?」
ゲルトが不思議そうにしている。血がつながっているというのは初めて聞いたらしかった。
「ゲルトはもう、ここはいいから図書室へ行ってらっしゃい。怒鳴って悪かったわ。私も取り乱していたから。あなたもそうなのね」
ゲルトはその言葉に答える事なくあたしの額に軽くキスすると出て行く。
「ゲルト!」
「続きはまた今度。君の魔法を探してくるよ」
続きってどっちの? 話の方? キスの方?
「どっちもだよ。姫」
またあたしの声が聞こえたのか、にっ、と笑って、ゲルトはそう言って部屋を出て行った。
高熱はなかなか下がらなかった。あの土地で昔、蔓延していた病に感染したのでは、と医師が言った。あたしが止めるのも聞かず、ゲルトはあたしの部屋に居座ってしまった。本を山ほど持ち込んで。お母様まで。その内、ゲアドとアメリアまで来てしまった。
「人が密集すると危ない病気なのよ。みんな、自分の部屋に戻って」
力ない声であたしが言うが、みんな聞いてない。アメリアはずっと泣きっぱなしだ。
「アメリア。あなただけでもゲアドと戻りなさい。あなたまで失ったらあたしは自分を許せないわ」
「大丈夫だ。ここにいる人間には私が作った解毒剤を飲んでいる。その病の対処法は私が随分前に知っていた。あの地に出かけるなら前もって飲ませておいたものを。ゲルトは何を考えていたのか」
ゲアドが言うとゲルトの表情が固まった。けれど、何も言わない。
「二人ともケンカはやめなさい。行くことを許したのは私です。母に文句を言いなさい。それとゲアドとアメリアはここにいる必要はありません。戻りなさい」
「でも。お姉様が・・・」
最後まで言わなかった。死ぬかもしれないと。医師からその格率はかなり高いと言われていた。
「大丈夫よ。アメリア。あなただけでも幸せにおなりなさい。あたしには身に余る程の幸せだったわ」
「クリスタ! 君まで何を言い出すんだ。俺たちはもうすぐ婚礼の日を迎えるんだ。病気一つで大げさにするもんじゃない」
「ゲルト・・・二人だけで話したいの。みんな、少しの間でもいいから元の部屋に戻ってて」
そう言ってあたしは咳き込む。お母様はその背中をなでてくれる。
「お母様。それはダメよ。咳に病があるのだから」
あたしは顔を背けて咳き込む。
「クリスタ・・・。わかりました。ゲルトと二人きりで話しなさい。思い残すことのないように。行きましょう。アメリア。ゲアド」
「お姉様・・・っ」
泣きながらアメリアはゲアドに連れて行かれる。お母様は一度外に出てまた戻ってくるとあたしをぎゅっと抱きしめる。
「病に負けるのではありませんよ」
「はい。お母様」
にっこり笑う。その顔を見るとお母様は安心して出て行った。
「ゲルト。一定の距離を開けてそこに座って」
あたしが言うとゲルトはしかたないといった具合にクッションの上に座る。
「あたし達、途中で話すことを止めていたわね。あの焼き餅の話から。そうよ。あたしはあなたが好き。それが愛なのか、恋なのかわからないけど、アメリアでさえ焼き餅を妬くぐらいあなたが好きよ。ちゅーのふざけ合いも楽しかった。過去に涙してもあなたはそっと寄り添ってくれた。ありがとう。もう。思い残すことはないわ。メアリ姫の代わりになれなくてごめんなさい。あなたを思いっきり幸せにしようと思っていたのに。それが出来ないかもしれない。もし、あたしがこの病から戻れたら、あなたの奥さんにして。婚礼の日の前でもいいから。早く、あなたの妻になりたい。幸せにしたい。闇事かかえて愛してあげるから。もう少し待って。この病から戻る日まで。だから、ゲルトもここから出て図書室で本を読んで。あたし、がんばるから。あなたを幸せにできるようにがんばるから。それがこの国への偽りの名にそって出来る事よ」
そう言ってあたしは泣き笑いの顔をする。わかっていた。あたしの命の火がもうすぐ失われることを。今夜が峠だと、あたしのカンが告げていた。
「クリスタ! 何を言うんだ? 俺たち結婚するに決ってるじゃないか。幸せだよ。俺は、もう。君に出会えてよかった。だけど、もっと幸せになるんだよ。闇事なんて愛さなくていい。俺にはもう闇なんてない。全部クリスタが愛に変えてくれた。解ってるんだね。今夜が峠だと。君の思考が流れてくるよ。最後の挨拶なんだね。でも、そんなことはさせない。君が死ぬなら俺も死ぬ。それぐらいの覚悟はある。今だって、君の声じゃなくて病を治す方法を探しているんだ。グアトが読み落としたんじゃないかって。お願いだから、死ぬなんて思わないで。思った瞬間からそう運命は動く。だから生き延びる可能性を信じて。俺のクリスタ、もう一人にはさせない。つらかったね。一人、血がつながってないなんて。厄払いができないことが辛いんだろう? 厄払いなんてどうでもいいよ。君さえ残ってくれれば。子供もいらない。君と一緒に歩ければ、なんだっていい。頼むから生き延びて」
ゲルトから手が伸びる。刹那、あたしはゲルトの腕の中にいた。
「ゲルト・・・」
あたしは泣きじゃくった。この人を幸せにしたい。でもできないかもしれない。怖かった。一人になるのが怖かった。
「大丈夫。大丈夫だから」
その時、本が落ちた。ゲルトが膝に置いていた本だ。あるページが開かれていた。そこになじみの気配を感じた。
「おじい様?」
「え?」
ゲルトが本を取り上げて見ると、そこにはおじい様の字で病の事が書いてあった。ゲアドが見逃した箇所だった。ゲルトが文章に目を走らせる。そしてものすごい勢いで抱きしめられた。
「クリスタ! 君は生きていける! 薬の処方だ。ゲアドに、いや、俺が薬を作ってくる。待ってて。俺の姫君!」
ゲルトがものすごいスピードで出て行く。あたしは期待を持ちつつ、そして、気持ちをすべて言えた亊に満足して寝台に横になった。
気がつけば、また、ゲルトがいた。口元になにか液体の入ったコップがある。
「クリスタ。治療薬だよ。君のおじい様がしっかりと書いていたんだ。君のおじい様はすごい人だね。流石に魔皇帝と言われた事のある人だ。そしてその処方箋の中に一通、手紙が入っていた。なんの検査と処方かわからないから、今、ゲアドと医師に調べさせている。アメリアもしっかり立ち直って君と会うのを楽しみにしているよ。さぁ。飲んで」
コップの中の液体を飲む。それは薬と言うには余りにも果汁のような味がした
「これが藥? なんだか果物の味がするんだけど」
「そうだよ。果物から取った液体が主成分なんだ。この国にはこの宮殿にしかない果物だった。君のおじいさんはそこまで見ていたのかもしれないね」
「おじい様・・・」
幼い頃、たくさん遊んで可愛がってくれた。いろんなドレスを作って着せてくれた。誕生日は必ず祝ってくれた。思い出が蘇る。もう、振り返らないって決めたのにおじい様やお母様の思い出が次々とあふれてくる。涙がまたあふれて止まらなくなる。
「ゲルト。思い出が・・・」
泣きながらゲルトの胸にしがみつく。
「思い出もまた家族だよ。俺にとっても。君の命を救った魔皇帝は俺にとっても大事なおじい様だ。また、墓参りに行こう。あの屋敷はないだろうけど、墓はあるはずだ。報告に行こう。結婚します、と。ゲアドにはまた行くのか、って怒られそうだけど、君にはもう免疫も出来ているし。俺も解毒剤を飲んでいる。もう、危ない土地じゃないから」
「ゲルト、大好き。愛してる」
泣きながら言うとゲルトは顔をのぞき込む。
「もう一度、言ってくれたね。俺のクリスタ。俺は、病が治って、君から愛を告白されるまではちゅー、と言うだけにしようと思ってた。君を今すぐ、俺のモノにしたい。でも病み上がりの君を襲うわけにはいかないからね。今はこのキスで我慢するよ」
そう言ってそっと唇を盗む。
「やっぱり男の子なのね。キス魔」
「君もすぐにそうなるよ。それじゃぁ、俺は仕事してくる」
「仕事?」
「一応、正妃の息子だからね。遊び歩いてたけど身を固めるなら仕事しろってさ。書類仕事をこなすことになったんだ」
まぁ、とあたしはびっくりする。第一妃様は権力争いから外れているって言ってたのに。
「ようやく、皇太子らしくなったかってさ。父上は」
皇太子ですってーっ。
「あ。姫の叫びが復活した。これも俺だけに聞こえるように術を改良してかけてあげる。どんな声も聞きたいからね」
「どんな声って・・・」
「あんな声やこんな声を・・・」
「このむっつりスケベっ」
「想像はご自由に。じゃね。あと、数回はアンナが飲ませてくれるよ」
そう言って風の如くゲルトは去って行く。それに交代するようにアメリアが飛び込んできた。
「お姉様!」
「アメリア。どうしたの? そんなに涙を目にためて」
「もう少しでお姉様とさよならするところだったんですもの。怖くて仕方なかったわ」
「ゴメンね。心配かけて。でもおじい様が助けてくれたの。おじい様が処方を書いてくれてたの。そしてこの宮殿にしかない果物が薬の元らしいわ。怖かったわね。死にそうな人を見るのは」
「もう。お姉様が病から戻られたからもういいの。今日はここに一日いてもいいでしょう? お姉様とたくさん話がしたいわ」
「アメリア?」
「もう。後悔したくないの。お姉様との思い出は今しか出来ないですもの。お母様の宮殿にこもってお姉様のことを考えなかったなんてなんて悪い妹かしらって思っていたの。これからはそんな思いをしないようにたくさんお話しましょう。エマも連れてきているの。ビアンカやエルマのお友達、いえ、家族にしてあげて」
「アメリア・・・。知っているのね。あたしがお父様とお母様の実子でないということを」
「ゲアドが渡してくれた書物に家系図があったの。そこにはお姉様の名前がなかった。私が嫡子になっていたの。お母様がお姉様とだけに話していた話を少し聞いていたの。お姉様もそれらしいことを口走っていた。そこからすぐに解ったわ。お姉様があんなに私の幸せを祈ってくれた理由を。お姉様はアメリアの、私の家族よ。唯一の。ゲアドが旦那様になってもお姉様だけ。お母様とお父様の思い出を共有できるのは。エルマとビアンカの思い出もお姉様としか思い出を共有できないわ」
「アメリア。あなたは本当に賢い子ね。ゲアドが好きになる気持ちがわかるわ。あたしだってあなたが愛おしい。でも、ときどき焼き餅を妬くの。あなたの隣にゲルトが立てば。妹のはずなのにすごく気分が悪くなるの。ごめんね。アメリア」
「それが、恋よ。お姉様。私も恋をしてるからわかるの。私はゲアドに恋をしているけど、ある一定の距離からは近づけないの。いつもふざけ合っているお姉様とゲルトお兄様が素敵だった。私もあんな風になれたら、ってずっと思ってた。悪い妹でごめんなさい。私も焼き餅妬いてたの」
ぐすぐす鼻を鳴らして泣く妹をあたしはぎゅっと抱きしめる。
「恋する乙女は複雑ね。あなたも大人の階段を上り始めたのね。でもあたしの方が一足お先に恋する乙女から愛する女性へと変わるわ。ゲルトと結婚します、っておじい様のお墓にお参りに行くの。前は館に行くだけだったけど。今度はちゃんと報告に行くわ」
「私も行きたい。お姉様連れて行って!」
「あなたは三年後に婚礼の日を迎えるわ。その時に渡すモノがあるの。それを読んでから参りなさい。それがおじい様達が暮らしていた地を教える条件よ」
「お姉様だけずるーい。三年なんて遠いわ」
「じゃ、また眠り姫する?」
「いや」
妹の頑固な面が出てあたしは思わず微笑んでいた。
薬を数回飲んで、あたしの体はあっという間に元に戻った。剣を握るには体力は減っていたけど、ゲルトがそんなことする必要はないから、っていうから鍛錬はしていなかった。筋肉が落ちた分、体重が細くなってまたドレスの採寸が再開された。今日も、何着目かのドレスの採寸と仮縫い。
「姫~」
ちょうど採寸しているところにゲルトが来る。
「男子禁制っ。針山投げるわよっ」
「わかった。わかったから。ゲアドからの伝言。心の声を抑える魔術ができあがったから、午後から母上の宮殿に来て欲しいってさ。俺でもできるのに」
すねた声にあたしは小さく笑う。
「ゲルトじゃ魔力が足りないのよ。今度、遠乗りに連れて行って。たまには馬にも乗らないと」
「その前にアメリア姫にも会ってあげてよ。またお姉様が取られたってゲアドに八つ当たりしてたから」
八つ当たりーっ?
あたしの叫び声にゲルトは頷く。
「あの子も一人の女の子なんだよ。君と同じでね。じゃ、伝言は伝えたよ。午後から一緒に行こう」
「ええ。ゲルト。ありがとう」
ゲルトにだけ聞こえる声になるということがなぜかくすぐったくてあたしは照れ笑いになる。
「楽しみにしているよ。奥さん」
「もう。ゲルトったら。まだいたしませんっ」
「はいはい。じゃ、また後でね」
鼻歌が聞こえてくる。相当ご機嫌ね。
「ゲルト様のあんなに嬉しそうな顔初めてですわ」
側についていたアンナが言う。
「そうね」
面はゆい感情があたしの中に駆け巡る。ゲルトが嬉しそうな声を出しているのを聞いてあたしも嬉しかった。闇を抱えていた王子は明るい太陽のような光の王子になっていた。その光が眩しい今日この頃。まだ、婚礼の夜に何が待ってるかはわからないけど、何か特別な夜になる事だけは解っていた。
「姫様も嬉しそうですね」
アンナがにこにこして言う。
「ゲルトの頭のお花がうつったのよ」
照れ隠しに言う。
「素直に嬉しいとおっしゃっていいのですよ。姫様。夫婦とは切っても切れぬ仲。仲睦まじいのがよろしいに決ってるじゃないですか」
「そんなこと意地でも言うもんですか」
ふん、とそっぽを向くけど、アンナにもあたしの隠している恋心には伝わっていた。もう、宮殿の誰もがしっている。あたしとゲルトが相思相愛になったと。ただ、口に出さないだけ、と。相変わらず、ちゅー病は収まらない。それが違うモノに変わるのは婚礼の夜と解っている。二人とも照れくさくて今更熱々のカップルよろしくいちゃつくのが出来なかった。婚礼の式を挙げても「ちゅー」のやりとりは残るかもしれない。それぐらいあたしとゲルトはただじゃれ合っていた。それが楽しい今日この頃なのだ。恋に浮かれているのはゲルトだけでなくあたしもそうだった。恋が愛に変わっていても。恋の振りを続けていた。そうでないとあっという間に跡継ぎになりかねないから。そう。婚礼の夜はそういうことなのだ。結婚すればすることはひとつしかない。それは解っているけど、やっぱり解らない振りをしたいのだ。あたし達はそれがまだ恥ずかしかった。まだ、恋人でじゃれ合っていた。ゲアドとアメリアはその辺はどうもうまく行ってるようで、あたし達の子供っぽい恋とは違う恋をしているようだった。あんなに幼いと思っていた妹はいつしかあたし達を超えた存在になっていた。
「アメリアに、旦那の操縦方法教えてもらわないとね」
「アメリア様に、ですか?」
まだまだ、幼いと同じように思っていたアンナがびっくりする。
「どんどん、恋する乙女は成長しているみたいね。お母様の宮殿に部屋があってよかったこと」
「はぁ」
アンナには予想が付いていないらしい。
「アンナも恋をすれば変わるわ」
「そんなもの、私には必要ありません。姫様とゲルト様が添い遂げられるように努めるのが側に仕える者の役目です」
「あなたもいつかは一人の人を愛して家庭を持たなきゃ。家庭を持ってもここに仕事に来る使用人はいるじゃないの」
「そうですけど」
不承不承な様子のアンナが面白かった。あたしもアンナと最初は同じだったから。恋なんて、結婚なんてするもんですか、って思ってた。それがこんな風に百八十度変わるなんて。今でも信じられない。でも半分はあの、ゲルトの闇の話を聞いたときから変わっていたのかもしれない。あの人の氷を溶かしたい、と思ったあの日から。
「はい。姫様。今日の予定は終了いたしました。昼食を頂いて、第一妃様の宮殿へ参りましょう」
「今日のお昼は何?」
「姫様の大好きなサンドウィッチですよ」
「やった」
小さくガッツポーズをして喜ぶあたしをアンナが優しい目で見つめる。
「アンナ?」
「最近、姫様の表情がくるくる変わるので見ていて飽きないのです。それに、嬉しくて。ご病気をなさったときは本当に恐ろしかったですわ。その方が今は幸せそうになさっているのを見れるなんて。なんて幸せなんでしょう」
アンナが嬉しげに涙をこぼしているのを見るとあたしはアンナを抱きしめる。
「大丈夫よ。もう、あんなことは起こらないから」
「そうでしたね。一度かかれば二度とかからないご病気ですものね。さぁ。姫様。ゲルト様が待ちわびてますわ」
「そうね。行きましょうか」
あたしはゲルトが待っている部屋へ向かった。
婚礼の日が間近に迫ったある日、ゲルトが早朝やってきてあたしの寝込みを襲う。
「姫~。ちゅー、じゃない。墓参りに行くよ」
「うん・・・。アンナ、もうちょっと・・・」
寝言を言ってなかなか起きないあたしにゲルトは思いっきり耳元で言う。
「起きないとちゅーするよ!」
「わぁっ。ちょっと。ゲルト、乙女の部屋に乱入とはどういうことなのっ」
「だから、墓参り。早駆けで行くから短時間で済ませるよ。ほら。着替えて。着せて欲しいなら着せるけど?」
あたしは差し出された服をひったくる。
「着替えるから覗かないでよっ」
「ちぇ。まぁ、いっか、結婚したら見放題だもんな」
なんですってーっ。
今ではゲルト以外は聞こえない心の声を最大限にして叫ぶ。
「いたしませんっ。もう。スケベねっ」
「男は並べてスケベなの。俺は父上の血をしっかり引いてるみたいだからね」
そう。ゲルトはただの頭にお花の咲いた王子じゃなかった。いつのまにか手腕を発揮して国王の右腕となっていた。その政治手腕は大陸の向こうまで響いていると噂されていた。よくもまぁ。こんな短期間で変わること。
「何か言った? 姫」
「言ってません。のぞくなーっ」
枕を投げる。見事命中。早く行くと言った割には遊びが入っている。
「わかったよ。結婚しても妻の着替えは覗きません」
「言ったわね。破ったら離婚だからねっ」
「わかったから早くして。ゲアドに見つかったら意地でも止められるよ」
それはまずい。ひじょーにまずい。結婚報告なしに婚礼はあり得ない。あたしは猛スピードで着替えて部屋を飛び出る。アンナとぶつかる。
「姫様。これを。携帯食事です」
「ありがとう。アンナ大好きよっ」
言って厩へ走る。ゲルトはもう馬に乗っていた。馬首にはビアンカが乗っている。もう一頭の馬にはエルマが乗せられていた。もちろん落下防止のかごの中だけど。
「おまたせ、行きましょう!」
あたしは馬に飛び乗ると早駆けさせはじめる。道は覚えている。
「ちょっと。姫。飛ばしすぎー」
ゲルトの声が追いかけてくる。あたしは少しスピードを落とす。
「姫は目的地にまっすぐなんだから。旅を楽しもうよー」
「却下。とっとと結婚報告するのよ。置いていてもいいけど?」
”ひーっ”
そんな声が聞こえてきた。
馬を停止してゲルトを待つ。隣にやってきたところで速歩にする。
「ゲルト。今、わめいた?」
「どうして?」
「声が聞こえたわ」
あたし達は顔を見合わせる。
「二人だけの声?!」
あまりにもびっくりしたけど、なんだか嬉しい。ゲルトの気持ちがわかるようになる。
「姫、嬉しいの?」
「当たり前よっ。あなたの心が見えなくて泣きたいときだってあったんだから」
ゲルトがにやーっと笑う。
「もう嫌らしい笑い方止めてよ」
「だってさー」
男の妄想が伝わってくる。
「あとで罰ゲームしてもらうからね」
ドスの利いた声をだすとあたしは馬の胴を蹴った。すごいスピードが出る。こうしてあの地にあたし達は向かったのだった。
苔むす墓標にあたしは手に触れる。
「おじい様。おじい様の薬で病気が治りました。私は無事、大好きな人のところへ嫁ぐ事ができます。ありがとうございました」
そう言って手を合わす。ゲルトも手を合わせていた。
「姫を下さってありがとうございます。姫を一生幸せにします。どうか、ご安心なさってください」
「ゲルト・・・」
「クリスタ」
あたしとゲルトは見つめ合う。だけど、なぜか墓標が気になる。見られてるみたいであたし達は照れ笑いして墓参りを終えた。
「なんかあのお墓、視線感じるんだよね」
ゲルトが言う。
「まだお墓の下で眠っているのよ。不埒なことはしてはいけませんって言われたのよ」
「不埒って」
「婚礼の夜は好き放題していいから。今はこれだけで我慢して」
そう言って頬にキスする。と同時に男の妄想が流れ込むけどあたしはシャットアウトした。
「あ。姫、今、止めたね。どうやって止めるの?」
「さぁ?」
「さぁって。これが罰ゲーム?」
「どうかしらね。さ。戻るわよ」
あたしは馬にすらり、と乗るとまた我が家となる宮殿に向かって馬を駆けさせた。
☆
鐘が鳴る。皇太子として正式に認められたゲルトの妻としてあたしは真っ白な婚礼衣装に身をつつんでゲルトの元へ歩く。ゲルトは嬉しそうな笑顔で待っていてくれた。
若い身空で父親代理人となったゲアドからゲルトに腕が渡される。
「クリスタ」
「ゲルト」
あたし達は見つめ合う。こほん、という咳払いで我に返る。大僧正が古代語で神話を述べ、誓いの言葉を伝える。あたしたちはその言葉を繰り返して愛を誓う。今夜が待ち遠しい。どんな夜になるのか。ゲルトの妄想教育で大方想像は付くけど。それでも感覚は違う。お互いの声しか聞こえない状況でどんな夜になるのか。夢想してるとゲルトがにっと笑う。思いっきり足を踏む。もう。あたしまでむっつりスケベじゃないのっ。
”それが狙いだよ”
ゲルトが声をかけてくる。
ちょっとは静かになさいっ。
そう叫んで、また足を踏む。大僧正が、チラ見する。あたしは素知らぬふりをして式を続行する。
謝辞
noteで読んで下さったフォロワー様に捧げます
災難な王子と姫君 二千年の恋人3
災難な王子と姫君
謝辞1
災難な王子と姫君 二千年の恋人32
あとがき145
奥付148
「本当にここだな?」
ゲルトが双子の弟ゲアドに聞く。
「ただの薄暗い屋敷だな」
ゲアドも判断が付きかねるようだ。
「入るか」
ゲルトが入るとお馴染みのホラーバージョンの精霊に出会う。
「ああ。君たちはいらないの。さっさと天にお還り」
ゲアドが棒を振るとあっという間に精霊が消える。
”あいつら、魔術師だ。殺される前に逃げろー”
さぁっ、と精霊が逃げていく。
「薄情な精霊だな」
「お前のせいだ。姫君に後で何を言われも知らないからな」
そう、ここはエドウィンとアリーナが最初にいた屋敷である。一度平和になった帝国は別の帝国の侵略によってまた、戦争状態になった。アリーナの父、魔皇帝は見かねて孫娘達も眠りにつかせた。アリーナと血のつながっていないクリスタと次に生れた、妹のアメリアである。魔皇帝達が亡くなって数百年。新たな帝国が支配した王族の中から、その姫君を眠りから覚めさせるという命を持って派遣された王子達がやって来た。時代は魔皇帝やエドウィン達が生きていた時代より新しい。侵略した帝国の子孫である王子達だ。この二人にかかると災難続きのため災難王子と呼ばれていた。その災難はかの魔皇帝の国を滅ぼした呪いと言われ、その血筋の姫君を眠りから起こすことで厄払いができる、と帝国付の魔術師が予言した。そういうわけでこの双子の王子達はこの屋敷に入ったのである。が、そうは簡単にはいかない。眠れる姫の寝台の前にはトラップや精霊達で埋め尽くされていた。それを最短距離でたどり着いたのが姫君達の父親、破壊王だったのだが、この王子達はそんな気はさらさない。楽に適当に、がモットーである。性根をたたき直すつもりで派遣したのだろうが、この二人には関係ない。やはり、精霊はゲアド、トラップやその他もろもろはゲルトが担当し、無事姫君の眠る部屋の前まで来た。ここには最大の精霊がいると聞いている。扉をそぉーっと開ける。そしてぱたん、と開けたゲルトが閉じだ。
「どうしたんだ?」
「精霊じゃない。動物がいる」
「なんの?」
「犬」
がく、とゲアドは力が抜けた。
「犬ぐらいで閉めるな」
ゲアドが杖でゲルトの頭を叩く。
「いてー」
ゲルトが言っている間に扉がぱっと開いた。前のめりになっていた王子二人は部屋の中にスライディングする。
「い、犬ー」
ゲルトが何かにしがみつく。
柔らかい・・・いい香りがする・・・ん?
「ゆーれーだっ!!」
ゲルトが弟ゲアドを探してとっさにしがみつく。
「失礼ね。エルマ、ビアンカお座りしてなさい。このへたれ王子様にはお帰りいただくから」
クリスタが言うと、犬たちはおとなしく座った。
「お姉様?」
クリスタの隣の寝台からアメリアが起きてくる。
「アメリア、まだ、起きなくていいわよ。おじい様の魔法はこの屋敷を出るまでは解けないから寝直しても大丈夫よ」
「はぁい」
そう言ってアメリアはまた眠る。
「魔術師とその他の王子様みたいだけど、私達は理想が高いの。あなた達みたいなへたれはいらないわ。とっととお帰りなさい。出口はあっちよ」
なんの危険性もない出口が用意されている。ゲルトがすたこらさっさと逃げようとしたのをゲアドが引き留める。
「このまま災難王子と言われていいのか? 姫君を連れて帰れば、汚名返上だぞ。金も食べるものも自由な王子になれるぞ」
あなた、と呆れたクリスタの声がする。
「食べ物のためにわざわざ、ここまで? ご愁傷様。私とアメリアはあなた達について行く気は無いわ。無理矢理、というのならこの犬けしかけるわよ」
ひぃー、とゲルトが逃げようとする。ゲアドはその首根っこを引っ張ってとどめる。
「それでは我々も困るのだ。災難王子の汚名を返上するには旧帝国の血筋の姫を連れ帰らねばならないのだ」
「災難?」
「王子?」
クリスタとアメリアが交互に言う。アメリアはまだ寝直していなかった。この風変わりな王子達が気になったのだ。
かくして、二人の王子と二人の姫君のおとぎ話は幕が上がった。
☆
王子に連れられ、私達が来たのは白亜の宮殿だった。
「ぜーんぶ、真っ白なのね」
無邪気に妹のアメリアが言うのを聞いて私は言う。
「馬鹿丸出しの感想を漏らすのはやめなさい」
「お姉様。なんだかおかしいわ。いつももっと優しいのに」
この状態でどーして心が広くなるわけっ。連行されてるのよ。私達。王子の土産としてっ。
きーっと叫びたくなるのを私は抑える。ここで取り乱しちゃ、おじい様の魔皇帝の名が廃るわ。
「不機嫌だね。姫君」
「ゲルトには関係ないわよっ」
「そう言う姫君も好きだよ」
ぞわわっ。私の背中に悪寒が走る。歯の浮いたような台詞言われたって、せいぜい側室止まりよ。こんな男に心を明け渡すもんですかっ。ゲアドとアメリアはなにか意気投合している。へっぽこ魔術師かぶれのへたれ王子のなにがいいのかしら。
「君はゲアドの事なんて見ないでいいんだ。俺さえ見てれば」
「あいにく馬に乗ってると顔は見れないわね」
「それは残念。あとでしっかりと見せてあげるよ」
「いらないわよっ」
「それはもったいない。美貌だけは自慢なんだけど。頭にはお花が咲いててもね」
「よくわかってるじゃない。でも、あの屋敷から連れ去った責任は返してもらうわよ。あなたと結婚なんてするもんですか。いい屋敷といい待遇を要求するわ」
「そんなこと言ってると父上の妾にされるよ」
め、妾!
恐ろしい響きに私は凍る。
「だから君は俺で我慢しなきゃ。お花は生えてても武術や魔術はできるからね。ゲアドには及ばないほどの魔術だけど」
「犬が怖い人には嫁げないわ。エルマとビアンカは私の最後の家族よ」
「妹がいるじゃないか」
「私は両親の血を引いてないのよ。それも書物にはなかったの? 眠り姫辞典に」
どうやら、おじい様は自分の手で眠らせた姫君をまとめて書いていたみたい。エレオノーラ伯母様はお母様の生きていた時代に目覚めて家庭を築いていた。ただ。エリアーナ叔母様はまだ眠っているらしい。双子の王子だから二人で寝ている姫君のところへ行かされたようね。どっちの王子も嫌だけど妾なんてさらにゴメンだわっ。
「だろう? だから君は俺の姫君ってわけ」
ん? だろう?
「ちょっとっ。あなた人の心を読めるの?」
「飛んでくるんだよ。特に姫の叫び声は」
「なんですってーっ!」
私が、ああ、面倒くさい。あたしが言うとにやり、とゲルトが笑う。
「君が俺に惚れてないのも重々承知だ。その上で、結婚を申し込むつもりだ」
「愛のない家庭は不毛だわ」
「不毛でも何でもしないといけないんだよ。王族というのは」
「おじい様やお母様はそんなこと一つも言ってなかったわ。愛のある家に嫁ぎなさいって。そう言われて眠ったのに、どうしてこんなへたれ王子に嫁がなきゃいけないのよっ」
「わかったから少し静かにしてくれ。馬を下りて父王にお目通りをするから」
馬が止まる。馬番が手綱を預かると、ゲルトが降りてあたしに手を広げた。
「そんなことされなくても降りれるわ」
私はお母様の教え通りに馬から下りた。と、視線が合う。
「何、見てんのよっ」
「いや、綺麗に降りるんだな、て・・・」
「当たり前でしょ。あたしは皇帝の孫よ。楚々として嫁ぐようにお母様からしっかり教育受けてるんだから」
「の割には妹姫は無邪気だけど?」
「まだ、物がわからないのよ。まだ十三歳だもの」
「十三歳ー!!」
ゲルトが叫ぶ。なんだ、とゲアドが見る。
「お前、結婚申し込む前に婚約を申し入れろ。その子はまだ十三だ」
ええー、と声が上がる。そこへ重厚な服装をした女性が出てきた。
「ゲルト、ゲアド。無事でしたか。そしてその姫君達が魔皇帝の子孫なのですね。さぁ。姫君達はこちらへ」
「母上、姫君をどうなさるおつもりで?」
ゲルトが鋭い声で聞く。
「心配しなくていいわ。この時代の服に着替えてもらうだけだから。お父様の妾にはしませんよ」
妾、の言葉にまた震えあがったけど、母上と言われている女性が肩を叩く。そして優しく抱き寄せする。
「大丈夫。取って喰うわけじゃないのですから。私の夫は妃を持ちすぎなのよ。これ以上増やす気はありません」
「お妃様・・・」
「第一妃よ。六人までいるから、あとで名前と顔を覚えるのね」
ろ、六人!!
「大丈夫。私の息子達は権力争いから外れているから命に別状はないわ」
わ、割り切ってる。ふつー、自分の息子を跡継ぎにしたいんじゃないだろうか。それが顔に出ていたのか、また息子と一緒で考えがとんで行ったのか、第一妃様がにっこり笑う。
「陰謀渦巻く世界になんて大事な息子達を入れたい母親はいないわ。安心しなさい」
そのお妃様の顔にお母様の顔がダブる。
「お母様・・・」
涙で世界がブレる。
「辛かったわね。うちの王子でよければいくらでも上げるわ。心の傷を癒やして。私の息子達は優しいから大丈夫よ」
背中に手を回してとんとん、と叩く。まるでお母様が抱きしめているみたいであたしは、大号泣をして、そして気を失ったのだった。
あたしは夢の中にいた。お母様やお父様、おじい様、おばあ様がいる。エルマとビアンカはちょこんと座っている。
「いらっしゃい。クリスタ」
お母様が手を伸ばす。あたしはその手をつかんだ、はずだった。ごつごつとしたさわり心地に慌てて飛び起きた。
「誰?!」
「俺だよ。ゲルト。父王に会う前に気を失ってしまったんだ。それで俺の宮殿内の部屋に運んだ。そうでないと父王のなんかになるからね」
「なんかって・・・!」
「母上からその三文字は禁句にされた。ひどく気にしていたらしいから。母上もそのつもりで来てもらったわけではないのよ、ときつく叱られた。心が傷ついている、そう言われた。気づかなくてごめん。そりゃ、そうだよな。いきなり違う時代に目を覚まして、いきなり住んでいた館でない宮殿につれてこられたんだもんな。ショックってやつ? 母上はカルチャーショックって言ってた。現実を受け入れる前に連れてきしまって悪かった。あのままにしておくとなんとかになるから母上の判断で俺の宮殿に入れた。これで事実上、俺の婚約者となる。アメリア姫は君から十三歳と聞いていたらとっさに母上に話せば、自分の宮殿に連れて帰ったよ。会いたかったらいつでも来なさい、って伝言を預かっている。お腹は空いてる? 俺たちの文化はなじみがないだろうけど、一応、この国の一般的な料理と君たちのもの用意したよ。食べてて。机はそこにあるから。何か必要な物がいるならあとで同じ年頃の子よこすから、その子に言えばいい。服はそこに置いてある。わからなかったら、その子に聞いて。俺は母上のところのアメリア姫の様子を見に行ってくる。ゲアドだけじゃ頼りなくてね」
へたれなのに命一杯頭を使って心遣って言葉を紡いでくれた。あたしの心の中にぽっと光が灯ったような気がした。
「あ。俺が必要ならいつでも言って。姫君の元へ参上するから」
きらりん、と歯と瞳を輝かせて去って行く。
あたしの好意をかえせーっ。絶対抜け出してやるっ。
物騒な考えが頭によぎった。
抜け出してどうするの? 路銀もない。身寄りもない。本当に何も知らない世界に放り込まれたのだ。胸がチクチク痛い。
「お父様、お母様、どうすればいいの?」
ぽろぽろ涙をこぼしているとハンカチが差し出された。
「姫様付きになった、アンナです。姫様」
「ありがとう。あたしはクリスタ。言葉使いが悪くてごめんなさいね。お母様の癖が出てきて止まらないの」
「良かったじゃないですか」
へ?
「ご家族がいらっしゃらないと仰っていたと聞きましたから。お母様の癖の一つや二つがあれば少しは心の中にご家族がいらっしゃると言うことですわ」
「そうね。私の家族は心の中にいるわね。一つ、お願いがあるんだけど」
「なんでしょうか。姫様」
「クリスタでいいわ。アメリアに子犬をあげて。エルマとビアンカはこちらに来てるみたいだし。アメリアの家族がいないわ」
「それでしたら、ゲアド様が先ほど子猫をプレゼントなさってましたわ」
「そう。ゲアドは気の利く王子みたいね」
「ええ。気配り王子の異名をお持ちですわ。ゲアド様に憧れる女性はあまたいると言われています。ゲルト様も素敵ですが、やはりどこかいまいちぱっとされないと噂されています。私から見るとゲルト様の優しさの方がよろしいかと思いますが。姫様にもつきっきりでした。とてもお優しい表情で見ておられましたよ」
あの、ゲルトがねぇー。似つかわしくない光景を思浮かべると急にどきどきしだした。動悸やつかしら? あたしは病気の名前を探す。途中でアンナが名前を呼ぶ。
「どうか、なさいましたか?」
「あ。いいえ。アンナ、まず、この時代の服に着替えたいのだけど?」
「もう、夕闇が落ちています。夜着になされて、日中の服は明日召されては・・・」
「そうね。そうするわ。食べ物があるって聞いたけど」
あたしが言うとアンナはとんで行く。お盆に、フルーツや懐かしい郷土の料理が並んでいた。その外にみたことのない食事がある。
「どうしたの? これ。この国にはないでしょう?」
「ゲルト様が古文書を読み解かれて作ったレシピを元に料理長が作りました。お気に召すといいんですが、おしゃっておられませんでしたか?」
「ゲルトが・・・」
そーいやそんな言葉も聞いたっけ。
少しだけ、ゲルトの評価が上がった。ほんのちょっとだけどねっ。負け惜しみだろけど、みすみすおとなしく結婚なんてするもんですかっ。あの優しい声と瞳にあたしの心は自然となびいていた。だけど、その心の片隅に近づいちゃだめ、と言う警戒音が鳴り不備いていた。
「姫~。食べた~?」
「入るなっ」
枕を投げる。ゲルトの顔に命中する。
「次は食器類投げるからね」
「ああ。それだけは止めて。文化財級の食器なんだ。投げるならフォークを」
「ふぅん。フォークならいいんだ」
「あ。姫、着替えてなかったんだね。俺は逃げるっ」
ゲルトはそう言ってぴゅーっと逃げる。その姿がヘタレらしくてあたしは笑う。
「笑った」
アンナが喜ぶ。
「そんなにおかしかった?」
「だって。姫様涙ばかりで少しも笑ってくださらなかったから。心がほぐれた証拠ですわ。さぁ。ゲルト様が戻る前に着替えてお食事にしましょう」
「普通、逆じゃないの? 服汚れない?」
「それなら第一妃様が背丈に合う物をいくつかご用意しておられるので心配は無用です」
なんだかいたせり、つくせりの応対に警戒するあたしだ。
「妃様は何も考えておられません。ただ、姫君の心の傷が癒えるようにと。明日は、ゲルト様の花嫁として全ての妃様に会わねばなりません。ゆっくりなさいませ」
アンナの言葉に手にしたフォークがポトリ、と落ちた。
☆
朝から、あたしは極度の緊張にさらされていた。隣には第一妃様。そしてゲルト。今からあと五人の妃様とご対面だ。どんな意地悪を言われるのかとびくびくしていた。その自分自身を叱咤激励する。
あの勇敢なお母様の娘よ。今更、びびってどうするのよっ。
かと言っても緊張感で体が凍っていた。やがて、派手なドレスに身を包んだ幾人かの若い女性が入ってきた。
「お初にお目にかかります。クリスタ姫。私たちは国王の側室、アデーレ、カミラ、コローナ、ダニエラ、ディアナにございます」
「えーと」
「大丈夫ですよ。第一妃以外の称号はないのです。二番も三番目もありません。側室、というくくりで構いませんよ」
余裕綽々で第一妃様が言う。アデーレと言ったこの五人の中で老けている側室がきっと第一妃様をにらんでいる。が、一向に気にしてない。
大物だわ。この方は。
そう思っているとディアナ、と第一妃様は呼ぶ。
「あなただけここに残りなさい。後は下がって構いません」
「はい。それでは失礼いたします」
一番若い子が残った。
「クリスタは今の年齢は?」
「眠る前なら十七でした」
そう、と思案気な表情をする。
「ディアナはあなたより三つほど上の二十歳よ。何かあれば、私か彼女に。ディアナは素直な子。きっと力になってくれるでしょう。挨拶してらっしゃい」
「はい」
あたしは一段上の椅子から降りるとディアナ様と握手する。
「よろしくお願いします。ディアナ様」
その手に思いっきり力を込められた。痛いほどに。爪が食い込む。
「こちらこそ。クリスタ様」
にっこり笑うが目が笑ってないーっ。もしかして、もしかすると。後ろを振り返ると第一妃様はああ、と言う。
「ゲアドの花嫁として迎え入れたのだけど、国王が寝取ったのよ」
寝取ったって・・・。そんな簡単に言っていいのーっ。
「それじゃぁ・・・」
「同じゲアド様の花嫁として選ばれた同士仲良くいたしましょう」
思いっきりにらみつけてからディアナ様は去って行った。
「あらあら。ディアナでは無理のようね」
朗らかに笑ってらっしゃるけど、そんな簡単にすむ問題じゃないわっ。恋敵よ。恋敵。ん? 今、あたし、恋敵って言った? ん?
一人百面相をしていると第一妃様が降りてくる。
「あなたも災難ね。一番年の近い側室が恋敵なんて」
「もしかして、知ってて近づけましたか?」
「さぁね。あなたにもゲアドの花嫁として認識してもらわないとね。ディアナの嫌がらせを退散できればあとの妃なんてネコよ」
「ネコ・・・」
呆然とつったているとゲアドがやってくる。
「恋敵って・・・脈あり?」
「なしよっ」
思いっきりゲアドの足を踏んづけてあたしは外へ出る。ここは第一妃様の宮殿。だたっぴろい。ゲアドの宮殿も別にあるし。そこへアメリアが走ってきた。あたしはお母様がよくやっていたように両手を広げる。アメリアが飛び込んでくる。
「お姉様。会いたかった」
「ごめんね。ちょっと居場所が異なってしまったのよ。アメリアは第一妃様に助けてもらって立派に生きるのよ」
「お姉様?」
可愛く小首をかしげる仕草に愛を感じずにはいられない。
「子猫もらったんですってね」
「エマ、というの。お姉様にも会わせてあげる」
「今日はいいわ。少し疲れたの。側室様がたの面通りがあってね」
「側室?」
「ああ。アメリア。あなたはそんな言葉は知らなくていいのよ。ゲアドはいい人でしょ?」
「うん。でも、私より大人の人が好きみたい」
ほんの少し寂しげに見えるアメリアをぎゅっと抱きしめる。
「あの子はまだまだ伸びしろがあるわ。こっちと違ってね。大事に関係を築き上げなさい。姉から言えるのはこれぐらいよ」
「お姉様?」
アメリアは不穏な気配を感じ取ったみたいだけど、あたしは隠し通した。まさか、この城を出て行くつもりなど言ってはならない。これがお母様のあの時の事と同じだとは思っていたけど、気持ちはもう走り出していた。お母様もそんな風に思ったのね。意にそぐわない結婚を無効にしようと。意には沿っていただろけど、あたしがお母様を一度拒否した。その事であたしを嫌わず、逆に寂しい心をくんで下った。そしてあたしのために出て行かれた。あの時のお母様の優しい眼差しを思い出す。
「さぁ。クリスタ様。戻りましょう」
「アンナ!」
「先ほど使いがやってきてこちらに迎えに出るように、と」
「そう。じゃ、アメリアまたね」
可愛い妹の顔を心に刻みつつ、あたしはゲアドの宮殿に戻った。
そろそろ昼食ね。時計を見て思う。この部屋にはあたしのいた世界と同じ物があった。字もなにもかも当時のまま。ゲアドが指示したんだろうか。ここであたしは過去と見つめ合うことになる。失われた時間を。ぽろ、と涙が出る。
「いっそ、全部違えばいいのに」
愛すべき人の顔が浮かんでは消える。それも、今日まで。この部屋ともおさらばよ。あたしはこっそり、脱出計画を練っていた。
「姫。何を考えてるの? この宮殿警備は重厚だよ。突破できるの? 俺、君の心の声が聞こえるって忘れた?」
「ゲルト!」
「出てどうするの? 逃げても死ぬしかないんだよ。折角取り戻した命、失ってもいいの?」
「あなたに何が解るというの?! この世界に取り残されたあたしの何が解るって言うの?!」
あたしはそこらに置いてる物すべてをゲルトに投げた。ヒステリーを起こしているのは解ってるけど、止められなかった。陶器が割れる。それを手にして投げようとした。割れ目で手が切れると解っていても耐えられなかった。だけど、あたしの指は切れなかった。ゲルトが寸前で止めて逆にゲルトの掌から血が流れていた。
「ゲルト! ちょっと離しなさいよ。手を怪我してるじゃないの」
「やだね。姫が出て行かないって約束しない限り」
「わかったから。出て行かないからそれを離してっ」
頭では何を言ってるかも解らなかったけど、ゲルトが悪いんじゃないのは解っていた。あたしの代わりに傷ついた。ゲルトが陶器の欠片を落とすとあたしはとっさにその切り傷が出来ている手を握った。
「姫?」
「いーから黙ってなさいっ」
あたしは目を閉じると呪文をとなる。おじい様っ子だったあたしはいろいろな魔術を教えてもらっていた。魔力はほぼない。それでもあの長い眠りについていた間に屋敷の魔力があたしに染みついていた。
「傷が・・・ない? 君がやったの?」
「それが?」
あたしはそっぽを向く。とっさにとはいえ、治癒魔術をかけた事が妙に照れくさかった。
「クリスタ! 君はなんて可愛い魔姫なんだ」
ゲアドがあたしを抱きしめる。余りにも強く抱きしめられて息が苦しい。
「苦しいわ。離して」
「いーや。離さない。俺の姫だ。親父になんか渡さない。ディアナ妃はこちらには通さないようにしてある。それでも来るだろう。俺の妃の立場を狙って。君を殺しに来る。だけど、もう失うのは嫌だ。誰にも殺させない」
ひどく凍った感情が飛び込んでくる。これがゲルトの思い出の何か?
「ゲルト、あなた・・・」
「今の話は気にしないで。今日は一緒に夕食取ろう。ここで」
「どーしても逃がさないつもりね」
「当たり前」
そう言って彼はあたしの頬にキスをした。
どっひゃー!!
あたしの最大の叫びが宮殿の天井を遥かに超えていった。
「き・・・キス!!」
「やり逃げー」
そう言ってまたゲルトは逃げていく。
「アンナ!」
「はい」
ひかえていたアンナがくる。
「塩をまいて頂戴。塩を」
「塩? ですか?」
「そうよ。キスされたのよ。キスを。厄払いしないとっ」
アンナはがしっとあたしの肩を持つ。
「どこに、キスされたんですか?」
「ここっ。ここよっ。ほっぺによ」
「クリスタ様。それぐらいなら近所の子供でもしますわ。厄払いなんて必要ありません」
「でも、子供でも出来たらどーすんのよっ」
「キスではできません。恋のいろはを知りたかったら早く嫁いで下さい」
こ、恋のいろは? 何それ? 食べれるの?
あたしの慌てぶりが相当おかしかったのか、アンナがクスクス笑う。
「姫様はまず、王子様と恋に落ちないといけないようですね」
「こ、恋?」
「一度、一人の人間として王子と向き合って下さい。そこからが始まりです。それでは夕餉の支度をして参りますわ。今夜はゲルト様もご一緒と聞いてますので」
「あ、アンナ?」
「はい?」
「あの・・・いいわ。そのまま行って頂戴」
ゲルトの心の底にある氷。あれはなんなのか。知りたかったけど、開けてはいけない箱にも感じられた。あれを癒やすのには、溶かすには、真の愛情が必要。あたしは、その愛情を今、持っていない。ならば開けてはいけない。一度開ければ、最後まで見届けなければいけないから。今のあたしにお母様ほどの深い愛情を持つことはまだできなかった。たった一度会っただけの娘を我が子として認めたお母様とあたしは違う。器の小さいただの子供。ふいに涙がこぼれた。
「お母様。会いたい。どうすればいいの・・・?」
あたしはただ静かに涙を流したのだった。
☆
夕餉の時刻になるとあたしの部屋は急にうるさくなった。部屋の前に衛兵がついたり、女官が慌ただしく行ったり来たりする。その内、ゲルトが現れると、その人たちはさぁーっと蜘蛛の子散らしたように出て行く。
「なに? みんないてくれないの? アンナ?」
「よろしくおやり遊ばせ」
意味深な言葉を行ってアンナまでいなくなる。とたんに寂しくなった。
「どうしたの? 姫君。寂しそうだけど。俺じゃダメ?」
ゲルトがあたしの瞳をのぞき込んでいた。ゲルトの瞳の中に頼りない女の子がぽつん、といた。
「ダメ、とかそうじゃないの。あたしにはお母様程、勇気のある、優しい女の子じゃないの。そういう自分に嫌気がさしてたのよ。急に人が消えて、寂しかったの」
涙が出そうになる。泣くもんかっ、と涙をこらえる。ゲルドの手が頬に触れた。
「泣きたいときは泣いたらいい。我慢すると凍ってしまうよ?」
「ゲルトは? ゲルトの心も凍っている。何を凍らせるの? いえ、あたしが聞いてはいけない話ね、きっと。結婚でもしない限り話さないものね」
あたしがぽつぽつと話すと、ゲルトの顔が急に輝いた。
「姫には。クリスタには。光があるんだね。その光が眩しいよ。いつか話せるときが来たら、話すから。さぁ。夕食を食べよう。俺も復元して欲しいとは言ったけど。君の郷里の料理は食べたことがないんだ。食べてもいい?」
「どうして、あたしに聞くの? 料理なんだから食べればいいじゃない」
「姫のふるさとだから。勝手に食べればいいってもんじゃない。じゃ、いただきまーす」
半分真剣に話したかと思うとまた頭にお花の生えた王子に戻って無邪気に食べ始める。
「姫も食べないと姫の分も食べるよ?」
きらきらお目々であたしの皿をロックオンする。その視線から皿をどけるとあたしも食べ始める。懐かしい味にまた泣きそうになる。
「おいしい」
「姫、泣いていいんだよ」
察したゲルトが先回りして言う。ずるい。その言葉を今、言うだなんて。
「うん。おいしいね。ゲルト」
あたしは小さな女の子にでもなったようにぐすぐす鼻を鳴らしながら夕食を食べたのだった。
「姫の国にはどんな本があったの?」
夕食を食べ終えてあたしとゲルトは宮殿のバルコニーで話していた。あたしが泣いていたこともあって、この顔をアンナ達には見せたくなくてバルコニーに出れば、ゲルトもやってきてそんなたわいのない言葉をかけた。
「ゲルトは本が好きなの?」
そうだね、と考えながら話し出す。
「戦の話は好きじゃないけど、魔術や生活の話に興味あるな。いつも、図書室で読んでるよ。今度一緒に図書室へ行こう。姫の時代の本もあるよ」
気を遣って行ってくれているけど、あたしにその気は無かった。
「ありがとう。でももう昔を振り替えたくないの。もう泣きたくない。お母様やお父様に誇れるあたしでいたいの。未来に向かって歩き出したい」
外の何も見えない暗闇にあたしは告げる。さようなら。お父様、お母様。
「そうなんだ。なら、一層、来るべきだよ。この国の文字も伝説も神話も学んでおけば困らないよ。生活様式だって違うし。俺が護衛してあげるから、姫は大丈夫だよ」
「大丈夫って?」
「もちろん、父王たちだよ。父は君たちを狙ってるからね。ディアナ妃も君の命を狙ってくる。しょっちゅう護衛の者をつけると大仰だし、俺なら多少は君を守れる」
「多少?」
眉間にしわを寄せて睨む。
「いや、絶対。絶対守ってみせる。クリスタ」
顔が近づいてくる。おっと、そうは問屋が卸しません。あたしはバルコニーから一歩後ろにひいた。
どたっ。ゲルトが床とキスしている。それがおかしくてクスクス笑う。
「あ。姫が笑った」
床と仲良しのまま言うゲルトがさらにおかしさを誘う。げらげら笑っているのにゲルトはじっと見ていた。
「ゲルト?」
「いや、姫は何してもかわいいなーって。ちゅー」
「しません」
あたしは上着を翻すと部屋に入る。
「姫ー。ちゅー」
「いたしません」
「ちぇ。まぁ、もう、夜も更けてるから早めに寝た方がいいよ。寝首はかかれないように注意してね」
て。おい。そこは自己責任かい? あたしを許嫁にしておいて。
「大丈夫。護法結界ひいておくから。姫もいくつかのその類いは知ってるんでしょ?」
「まぁね」
「じゃ。おやすみのちゅー」
「いたしません」
近づくゲルトをうまい具合によけてまた転びかけるが、そこで踏ん張る。
「ふーん。多少は運動神経あるんだ」
「多少って」
「あたしもお母様に習って剣ぐらいは握れるのよ。感覚は薄れてると思うけど」
「おお。それは頼もしい。じゃ、姫。お休み」
今度はちゅーを言わず去って行く。なんだか寂しそうでほっぺにちゅーぐらいは良かったかしら、と思って慌てて首を振る。
あんな亊、誰がさせるもんですかっ。
あたしは寝台に入って、おじい様から教えられた身を守る魔法をかける。ついでに、短刀も枕の隣に置いて。これはお母様から護身用にもらった短刀。使う日が来るとは思わないけど。一応、念のため置いて眠っただった。
それからというもの、ゲルトは図書室へ連れ出しに来る。あたしも多少は興味が出てきたので、ついて行くとそこは宝の山だった。ゲルトはゲルトで何かを読み、あたしは山のような歴史書に目を通していた。神話から時代を彩った王国の物語まで。史実なのか作り話かわからないものまで読みふけった。幼い頃、あんなに嫌いだった勉強が好きになっていた。かといってゲルトにありがとう、なんて言えばまた「ちゅー」がやってくる。心の声は届くだろうが、みすみすキスなんてさせるわけにはいかなかった。
そこへ、ゲアドとアメリアが入ってきた。アメリアは綺麗なこの国の服を身に纏っていた。胸元には可愛いネコが抱かれていた。
「お姉様、ずっと本を読んでるの? あんなにお勉強大っ嫌いだったのに」
「いいのよ。お母様の本の虫が出てるだけ。面白いのよ。この神話とか。もっと昔に学んでおくべきだったわ」
だった、だ。もう過去は振り向かない。思い出の人たちは心の奥底にしまって、今をあたしは生きようとしていた。毎日、ゲルトも気が晴れるようにって図書室に誘ってくれている。もがいている沼からあたしは抜け出ようとしていた。
「ゲルト。たまには遠乗りぐらいさせてやれよ。馬も乗れるんだから」
いーや、とゲルトは言う。
「クリスタ用の馬具が全部傷つけられていた。あんなものつけて乗ったら事故死する。今、作らせているところだ。あとは俺の部屋に置いておく」
それを聞いてあたしはため息をつく。
「ゲルト。いくら危ないからと言っても馬に馬具をつけないままじゃ、馬も受け付けないわよ。それこそ、事故死よ」
物騒な会話をあたしとゲルトはする。それを聞かないようにアメリアに耳栓を入れるゲアドでだ。そりゃ、十三歳にこの事故死の話は物騒よね。
それを聞き終ったゲアドがため息をつく。
「純真なアメリアの前でする話じゃない」
「だって、あたし達では日常会話なんだもの。そりゃ、場所は悪いけど」
「どんな会話してるんだ? 二人は」
「別にふつーよ」
「うん。普通に。だってちゅーさせてくれないんだもん」
「ちゅーはいたしません」
ゲアドはだめだこりゃ、と言うと再びアメリアに耳栓をする。
「当分、兄とクリスタにはアメリアを会わせない。いいね。その物騒な頭をお花に変えてから来てくれ。アメリアはお姉様がいないと毎日泣いてたんだぞ」
「アメリア! ほんとなの?」
思わず振り向かせて聞く。が、アメリアは耳栓をしているため不思議そうな顔をしている。
「ごめんね。姉のあたしが、こんなに遊びほうけて。また遊びに行くわ。その時にエマに会わせてね」
「お姉様、涙が」
耳栓をとってアメリアが頬に触れる。
「これは目から水がでてるのよ。涙じゃないわ。元気でね。ゲアドに優しくしてもらうのよ」
あたしは涙を拭きつつ、妹姫を送り出す。
「なんだか今生の別れみたいな言葉だな」
「そんなものよ。アメリアはもう別の道を歩き出したのよ。ゲアドと共に」
「俺たちも歩き出さない?」
ゲルトが瞳にひょうきんな色を見せて言う。
「いたしません」
そう言って本を読む振りをして涙を拭いていると後ろから抱きしめられた。
「ちょっ・・・」
振りほどこうとしたゲルドの腕の力は強かった。
「泣かないで。姫。俺の姫はクリスタだけだ。側室なんていらない。クリスタだけがいてくれればいいんだ」
「ゲルト・・・あなた。何があったの?」
「色ボケしたな。少し外の空気を吸ってくるよ」
そう言ってゲルトは扉の向こうに消える。なんだか、泣いているようだった。だけど、扉の向こうには来ないでくれ、という気持ちがあった。一人になりたい、という気持ちが飛んできた。切なくてあたしはまた涙をぽろっ、と落としたのだった。
後編へ続く
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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