表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

昔日への帰郷

作者: 戸坂

新幹線とローカル線、バスを乗り継いで計3時間。

大学の夏季休暇を利用して、僕は3年振りに実家に帰ってきた。

東京に進学してから初めての帰省だ。


「たまには帰ってこい」という親からの電話を何だかんだと理由をつけてかわしていたけど、大学3年の夏が終われば、延ばし延ばしにしてきた就職活動もいよいよ本腰を入れないといけなくなる。

就職先は当然向こう側で考えているから、殆ど最後のつもりで戻ってきた。


バスを降りて実家までの道を歩いていると、8月の日差しが容赦なく襲ってくる。

バス停から暫くは田んぼが続く開放的な光景は、僕が3年前にここを出た時のままだ。

いや、3年前どころかこの光景は僕が小学生の頃から一切と言いたくなるほど変化がない。

真っ青な空も輝く田畑も遠くの山々も、そこから響いてくる蝉の鳴き声も、僕の記憶のあの日から一歩も動いていないように思える。


「後藤」と書かれた表札の玄関を開けた時には、僕はもう汗だくだった。

網戸を開けて「ただいま」と声をかけても返事はなく、音のする居間へ入るとテレビがつけっぱなしだった。

廊下の先から扉の開閉音が聞こえて、足音と共に母さんが現れた。


「あら、智也。おかえり」

「ただいま」

「あんたちょっと背が伸びたんじゃない?」

「いや、全然。背なんて高2から伸びてないよ」


手に持っていた旅行鞄を降ろして自分も畳に腰を下ろすと、母さんは不思議そうに僕を見た。


「荷物それだけかい?」

「どうせすぐ戻るから」

「少しゆっくりしていきなさいよ。学校の休みはまだあるんでしょ」

「バイトもあるし、友達とも用事があるからさ。2,3日で戻るよ」

「おお。大学生しとるねえ」


妙に嬉しそうな顔をされる。心配してた訳じゃなさそうだ。

テレビに視線を移すと、バラエティー番組で8月の旅行スポットの特集をやっていた。

母さんが台所へ行って、麦茶を出してくれた。


「でも、もうちょっとこっちに顔出しなさいよ」


トーンの落ちた声に、僕は少し気まずくなる。


「あんたがあんまりここに居たくないのはわかってるけどね。お父さんもお母さんも、たまにはあんたの顔見たいよ」

「別に居たくない訳じゃないよ、向こうが楽しいってだけで」

「そう。じゃあもうちょっと戻りなさい」

「就活もあるから、どうかな……」


僕が言葉を濁すと、母さんはこれ見よがしに目を剥いて驚いた。


「まだ3年生でしょ。夏休みの宿題をいつも手遅れになってからヒィヒィやっつけてたあんたが!」

「成長したんだよ。高校の時は何とか間に合ってただろ」

「なら、次は就職が決まったら帰ってきなさいね」

「はいはい」


視線をテレビに向けたまま応える。

確かに僕はここに帰る事を避けていた。

それは両親のせいではなく、僕が原因だ。

この夏に帰省したのも、実のところそれが目的だったりする。


番組の話題は、不審者による児童の連れ去り未遂事件に移っていた。

僕は鞄を持って2階に上がった。


3年振りに自分の部屋に戻り、少しの間本棚や机を物色した。

子供の頃からずっとある理科の教科書や、高校時代のテキスト。

それに、集めていた漫画の単行本と卒業アルバム。

小学校の卒業アルバムを開いて、写真と共に当時を振り返る。

2クラスしかない学年全員の顔写真と、各行事に参加しているクラスメイトの写真。

この頃の面々とは、高校で離れて以来連絡を取らなくなってしまった。

社会見学、遠足、運動会。

ページをめくる手が止まる。次のページには確か林間学校の写真がある。

そのページ自体が問題ではない。問題は僕がそこに追加で挟み込んだ一枚の写真だ。


「明野友香」


彼女はこの卒業アルバムのどこにも載っていない。

だから当時の僕はせめてと思って、4年生の時に彼女と撮った写真を挟み込んだ。

そして、それでお終いとばかりに、以降このアルバムを見ることはなかった。

まるで封印でもしたかのように。

彼女は小学5年の夏に失踪した。8月4日、10年前の明日に。

僕と一緒に、夏休みの特別集会で学校から下校している途中の出来事だった。

あの日から僕の意識の中には、いつも彼女が潜んでいる気がする。


今回の帰省は、棚上げにしていた気持ちの整理をつける為のものだ。

だけどそれは強い意志を持ってというより、どこか言い訳のような曖昧なもので、実際には整理したのだという既成事実を作りたいだけなのかも知れない。

だから僕は、次のページをめくるのが怖い。

結局、僕はまだあの日と向き合えていないのだ。

卒業アルバムを閉じて棚に戻し、僕は夕飯の時間まで懐かしの勉強机でゼミの課題と向き合うことを選んだ。


7時には父さんが帰ってきて、居間で夕飯になった。


「明日はどうするんだ、お前」


近況だとか、就職だとか、お決まりの会話が一通り終わった所で父さんが聞いてきた。


「特に決めてない。あんまり暑くなかったらその辺ブラついてみようかと思ってる」

「明野さんのとこには行くのか」


母さんがそっと息を呑んだのが気配で分かった。


「いや、行っても向こうの人良い顔しないだろうし、やめとくよ」

「明野さんな、奥さんのほう、あまり体良くないらしい」

「そうなんだ、病気?」

「頬がすっかりこけてしまって顔色も悪いって、なあ母さん」


そんな事を言われても僕にはどうしようもない、という思いと、僕のせいなのかも知れない、という思いがせめぎ合う。


「ちょくちょくスーパーで見かけるけど、最近は少し調子よさそうよ」


母さんがフォローを入れるように答えた。


「友香ちゃんの事、まだ捜しているらしい」

「……そうなんだ」


母さんがうんざりとしたため息を漏らす。フォローを台無しにされた気分なのだろう。

僕としては「ああ父さんってこういう人だった」程度だった。


部屋に戻ってスマホで時間を潰し、電気を消してベッドに寝転ぶ頃には、11時に差し掛かっていた。

暗い部屋の中で目を閉じると、どうしても父さんの言葉が頭をよぎってしまう。


――友香のお母さんは、今も友香の事を捜している――


その事実は、どうやったって彼女を連想させてしまう。





「ともくん、一緒に帰ろう」


友香と仲良くなったのは、単に学校へと向かう道がかなりの割合被っていた事と、お互いの名前に「とも」が入っているという些細な繋がりからだった。

いつもショートボブの後ろ側をヘアゴムでまとめていた彼女は、一見活発そうな髪型とは裏腹に日本人形のように大人しい女の子だった。


僕達はお互いを「ともくん」「ともちゃん」と呼び合い、2年生の頃までは学校でもよく話をし、放課後も一緒に遊ぶ事が多かった気がする。

だが3年、4年と学年が上がるにつれ、僕には男友達が増え、彼女には女友達が増えて少しずつ関わりが減っていった。

それでも登下校だけは、道が同じだったのでよく一緒に通っていたが、僕が友達にその事を茶化されてからは、なんだか億劫になってそれも少しずつ減っていった。


いっそ、どこかのタイミングでピタリと一緒に帰るのを止めれば良かったのかもしれないが、当時の僕にはそんな決断力はなく、友香から呼びかけられる度、何かの理由をつけて断る事にも後ろめたさを感じていた。


少しずつ薄くなっていく彼女との繋がりを完全に断ち切ってしまうのが寂しくて、怖かったんだろうと思う。


だって僕は別に友香が嫌いだった訳じゃない。

むしろ彼女がクラスで女友達と話している時、不意に確認するように僕へと振り返ってはにかみ顔を見せると、妙に安心していたりもした。

5年生に上がり、2つしかないクラスで別々になると、少し不安になったくらいだ。


だが、クラスが別れた事は、僕が友香と一緒に下校しなくなる日を増やすのには都合がよかった。

僕のそうした態度に友香はムキになって、帰りのホームルームが先に終わってさっさと帰る僕に走って追いついてきたりもした。


「ともくん、一緒に帰ろう」


息を切らしながら少し恨めしげな上目で見つめる彼女に、僕は鬱陶しさと同時に少しの優越感も抱いていた。

あの頃の感情を振り返ると、自己嫌悪がこみ上げてくる。

僕はきっと、ともちゃんがいつまでも僕を必要をしている事が嬉しかったのだ。

そこに、僕自身が彼女をどう思っているのかは関係がなかった。

だからあの日、僕は彼女を置いて逃げ帰ってしまった。






目を覚ますと、もう朝の9時を過ぎていた。

いつも7時に設定してあるアラームを切っていたとはいえ、随分と寝坊をしてしまった。


台所へいくと、僕の分の朝ご飯が用意されていた。

父さんはとうに出社、母さんはパートへ出かけたようだ。

網戸の向こうは昨日に負けず快晴のようで、蝉の声が響いている。

僕が残っているとはいえ、そこらじゅうの窓を網戸にして出かける不用心さが、ここの田舎具合を如実に表現している。

きっと僕がこのまま家を出ても、戻った母さんはその事を気にもしないだろう。


食事を済ませ、残りの午前を持ち込んだ課題と格闘した後、昼食も食べて僕は外へと出た。

駅から自宅までの景色は昨日堪能したが、僕の帰省の目的は実のところ駅とは逆方向にあった。

それは小学校の方角だ。


かつて友香と共にしていた登下校の道は、背丈が変わった今の僕でも片道20分以上かかる。

校舎は山沿いの坂道の上に建っていて、僕達が通っていた当時から、その周辺は町並みが寂れてきていた。

卒業してからは、中学校が別方向な事もあってまるで足を向けなかったので、それこそ10年近く寄り付いていない。


通りの文房具屋、駄菓子屋、公園、住宅地、Y字路。

学校への道を歩いていると当時の思い出が滲み出てくる。

僕のほんの少しだけ斜め後ろを歩く友香の足音が。

もしも彼女がいなくならなかったら、僕達はあの後も一緒にいたのだろうか。

例えば今も。


小学校の校舎は僕の記憶とは全然違うものになっていた。

明らかに新しくなっている。

僕達が通っている時からもう大分ボロだったから、建て直したのだろう。

僕の記憶より大分コンパクトになっているのは、きっとこの町が現代から切り離されていった結果だ。

元々鉄鋼企業で賑わっていたこの町は、製鉄技術が発展して人手が要らなくなった事で急速に人離れが進んだのだ。

通学路の住宅は空き家が多く、昼間だというのに人は殆ど見かけなかった。

勿論夏休みの小学校にも。


シャツを濡らす汗の感触が徒労感を訴える。

殆ど期待はしていなかったが、自分の中で何かが片付いたという感覚はなかった。


「馬鹿だな」


夏休み期間とはいえ、小学校の門前で佇み続けるのはあまり気が進まない。

僕は来た道を振り返る。坂道の下、いつかの通学路を。

その時、少し離れた場所から声がかかった。


「智也君? ともくんよね?」


声の方へ振り向いて、僕は一瞬ぎょっと身を強張らせてしまった。

初老の女性がこちらを窺っていた。

いや、初老じゃない。僕はその声にまだ僅かに覚えがあった。


「明野さんですか? ともちゃんの……おばさん?」


まさか、と思った。

だが女性は細い首をこくりと折り曲げて、微かに笑顔を作った。


「そう、おばちゃん。ともくん大きくなったねえ」

「お久しぶりです。あの、おばさん、お体は……」


大丈夫ですか、と聞くのが躊躇われる程、おばさんは僕の記憶とかけ離れていた。

まだ小学校低学年の頃に、たまに友香の家に遊びに行った時、僕を出迎えてくれた笑顔とあまりに違う。

ここ数年は顔を合わせていなかったが、父さんから聞いた通り頬はこけて髪も疎らで顔色も悪く、体は不安な程細い。

どうにか面影を探すなら、柔和な地蔵を連想させる細い目元だけが記憶と一致していた。


「ここ最近ちょっと色々悪くなっちゃって。ちょっと痩せちゃったのよ」

「そうなんですか。大丈夫ですか?」

「うん、良くなってきてるよ」


ちょっとなんてレベルじゃないのは見て明らかだったが、僕には「良かった」と返事をするのが精いっぱいだった。

この人とはあまり話をするべきじゃない、僕は。


「友香はね、あれからまだ見つかってないの」

「……そうみたいですね」


汗が一斉に引いていった。

友香が見つかっていない事なんて僕は勿論知っているし、そしてもう見つからないだろう事も悟っていた。

それを暗に指摘されているような気がした。僕が諦めている事を。


「ねえともくん」


この場を離れる言葉をどう切り出すか考えていると、おばさんが機先を制すように次の言葉を放った。


「友香とともくんはあの日、古宮団地へ行ったのよね」

「……はい」


今度は一斉に汗が噴き出してきた。

古宮団地。


「ね、どうしてあんな所行ったの」

「それは」

「学校からの道とそれてるじゃない。遊ぶ場所もないし」


気付けば、おばさんは僕と距離を詰めていた。もう手を伸ばして届く寸前の位置だ。


「ね、どうして」


思い出したくない記憶が湧き上がってくる。


「どうして一人で帰っちゃったの。友香を置いて」


おばさんの目は、僕が見た事もないほど見開かれて、こちらを覗き込んでいる。


「あれから何度も、何度も団地に行って友香を捜したけど、いないのよ。ともくん、本当は、あの日どこに行ったの」

「……僕達は、団地に行って、それで……お話した通り、3号棟に上ってみようってなって……」

「でも居ないのよ。ずっと捜しているけど、3号棟にも、他の棟にも」

「すみません、僕には分かりません」


無理やりに話を切り上げ、僕は足早にその場を離れた。

おばさんは僕を呼び止めはしなかったが、じっと見られているという感覚が背中にへばり付いていた。


走るような早足で坂道を下る。

古宮団地。


通学路上にはない、この町が市町統合に飲まれるより以前にあったアパートの集合地区。

文房具屋、駄菓子屋、公園、住宅地、Y字路。

この行きがけか、帰りがけのY字路を反対へ進んだ先にあるのが古宮団地だ。

ここは僕達が小学生の頃から人寂しい場所になっていて、子供の間では所謂心霊スポットのような扱いになっていた。

何故だか道路整備が放置され続けた結果アスファルトがでこぼこに歪み、雑木林を挟んだ奥に建つ6棟4階建てのアパートは、当時の僕達には不気味なモノの住処に見えた。

疎らな居住者は高齢の方が殆どで、僕達とは関りがない人たちばかりだった事もその一因だった。


僕と友香は、あの日確かに古宮団地へ行った。


8月4日。


特別集会の日に彼女から一緒に帰る事を催促されて、クラスの男子から揶揄われて嫌気の差した僕が、ちょっとした意地悪のつもりで提案したのだ。

もしかしたら友香は別々に帰ると言い出すかも知れない、と思って。


Y字路の前まで着き、立ち止まる。

左手側、明らかに傷んだ道路と、その先に並ぶ雑木林。

午後2時前の日差しに照らされて揺らめくこの道の先へ、僕は進みたくない。

けれど。

何の為の帰省だったのか。

10年前に失踪した同級生を捜す為じゃない。

当時警察を含めた大勢の大人が何日にも渡って捜索したともちゃんが、今になって見つかるとは思っていない。

けれど。

僕が本当に戻らなければいけない場所は、この先なのではないだろうか。






「ともくん、帰ろうよ。勝手に入ったらいけないよ」

「ちょっと屋上まで行って戻るだけだよ。ともちゃんは怖いなら先に帰りな」

「でもここ……学校で噂になってるところでしょ。あの話が本当だったら……」

「そんな訳ないって。幽霊なんていないから」


古宮団地3号棟の前で、小学生の僕は後ろで怯えるともちゃんを笑い飛ばした。

建物の前には少しのスペースがあって、錆びて塗装の剥げたブランコだとか小さなジャングルジムが設置されていた。

団地に辿り着くまで燦燦と地面を照らしていた太陽は、ピンポイントで通りがかった大きな雲に隠れてしまい、色味の落ちた目の前のアパートが急に不気味に見えたのを覚えている。


アパートは階段室型と呼ばれる、建物正面の左右に折り返しの階段があるタイプで、隣り合う2戸の住居が階段を共有する作りになっていた。

3号棟には4階のどこかの部屋で自殺者が出たとか、行方不明者が出て幽霊になって彷徨っているなんていうお決まりのような噂があって、ともちゃんと一緒に登下校する事をよく揶揄われていた僕にとっては、クラスの男子に話題を持ちかける為の強力なネタだった。


僕は霊の存在をまるで信じていなかったし、古宮団地は古くて居住者が減っていたものの実際にはまだお年寄りが住んでいて、なかにはスーパーなどでよく見かける人もいた事から、こんな場所に入る位で話題の輪に入れるならお安い御用だった。


ところがいざアパートを前にすると、薄暗い共用階段にじっとりとした圧迫感を感じ、僕は足が強張ってしまった。

そんな時にともちゃんから「やっぱり帰ろう」なんて言われたものだから、内心を見透かされた気になった僕は強がって無理矢理に歩を進めた。


遊具と同じく風化して薄汚れたアパートの壁は、所々亀裂のような染みが浮き出ていて、それがまるで血管のようにも見えた。

コンクリートの階段を上る足音はいやに大きく響き、付近の林で鳴き続ける蝉の声に搔き消されることもなかった。

ともちゃんはもう何も言わず僕の後ろをついてくるだけだったが、その足音がとても不規則で、怖がっている事が振り返らなくても分かった。


「怖いなら下で待っててもいいよ」

「……嫌だよ」


不気味な緊張感を破るために僕はともちゃんに声をかけた。

僕の強がりを彼女が断った事に、内心とても安堵していた。


2階から3階に上がる折り返しの中二階で僕はアパートの外を見た。

窓のない開けっ広げの階段から見下ろす景色は、僕に外の世界を強く感じさせた。

このアパートはその気になればいつでも出られる、そう確認する為の場所だった。


「ともくん、どこまで上がるの……」


ともちゃんが僕の服の裾をつまんだ。


「ここの4階に幽霊が出るって、うちのクラスの奴らが騒いでたから。確かめに4階までは行くよ。あとちょっとだし」

「もういいでしょ、帰ろうよ……」


彼女は声が震えていた。


「4階まで行ったら降りるって。あとちょっとだよ」


それでも僕はまた階段を上りだした。


3階の踊り場は、両サイドの部屋、301号と302号から全く生活音がしなかった。

踊り場から見えるトイレの小窓からも何の音もしない。

居住者の減ったアパートだから、きっとこの両部屋には誰も住んでいないのだと思った。


「鍵開いてるかな……」

「ともくん、ダメだよ、やめて」


ともちゃんの静止を無視して、僕は301号室のドアノブに手をかけ、ゆっくりと力を込めた。

けれどドアノブは右にも左にも回らなかった。


「鍵がかかってるみたいだ」

「じゃあ、もう帰ろう」

「いや、クラスの奴らが話してたのは4階の部屋だよ。4階のどこかの部屋に幽霊がいるって」


不意にともちゃんの顔から表情が抜け落ちた。


「ともくんは、幽霊に会いたいの?」


この時、僕の心臓が大きく跳ねた事を強く覚えている。

急に、僕の服の裾を掴んでいる女の子が別人になった気がした。

僕の顔を覗き込むともちゃんはとても無機質で、思わず目を逸らしてしまった。


「もちろん、いるんだったら会ってみたいよ。僕は幽霊なんて信じてないけどね」


きっとこのアパートの雰囲気に吞まれているんだと思った。

そう思うと恥ずかしさがこみ上げてきて、どうにかその感情で他のものを押し留めた。

怖がっている事を、ともちゃんに気付かれたくなかった。


「わたしは……会いたくないよ」

「怖いんだ?ともちゃんは幽霊信じてるんだね」

「怖いよ。しつこい」

「なんだよ。何怒ってるんだよ」

「怒ってないよ」

「顔が怒ってるだろ」


ともちゃんは首を振った。


「あと一階だよ。上がるんでしょ」


その時、どこかでギィと鉄製の扉が開く音が響いた。


二人共ぎくりと顔を見合わせて、それから音の方を見た。

上からのように聞こえた。

けれど音はそれっきりで、閉じるような音も、足音も何もなかった。

もしかしたら風か何かの音を聞き間違えたのかも知れないと思った。

どちらにせよ、4階に行きたくない僕の本心を増幅させるのには効果的だった。


それでも「やっぱりやめよう」とは言い出せず、僕は階段を早足で上り始めた。

3階と4階の間の中二階には、薄暗いとはいえ外の光が差し込んでいた。

中二階までいけば外の景色をまた見られる。

この階段が別世界へのトンネルなんかじゃないという事を証明してくれる。

だから僕は中二階へ上がってすぐに、外の景色を見渡した。


空はいつの間にか雲で覆われていて、暫く太陽は出てきそうになかった。

下を見下ろすと、なんだか随分地面が遠く思えた。

3階と4階の間だから、3.5階の筈なのに、まるでアパートが引き延ばされたかのように高く感じた。

外の世界を感じたくて急いだのに、ここに上がった事自体が間違いだったと突き付けられたようだった。


ともちゃんがおずおずと僕の隣に来て、同じように下を見下ろす。

ひっ、と息を呑む音がした。


「ともくん……」


ともちゃんの視線の先を追って、僕も息を詰まらせた。

アパートと道路の間、遊具のあるスペースに誰かがいた。

紺色の作業服のようなものを着て、同じ色の帽子を被った男だった。

男はこちらをじっと見上げていた。

帽子のつばで影になって顔は見えなかったが、僕達を見つめているのだとはっきり分かった。


「管理人かな」


すぐに顔を引っ込めて、僕はともちゃんを見る。声も囁くように小さく絞った。


「怒られるのかな……」


ともちゃんは俯き気味で、少し恨めし気な声を出した。


「なんで。アパートの階段を上っただけだろ」

「でも……住んでるわけじゃないよ。勝手に入っちゃったし」

「そんな理由で怒られるわけないって。新聞の勧誘とかどうするんだよ」

「遊びで入るのは迷惑だって、学校に連絡されるかも」


それはあるかも知れない、と思った。

クラスの男子との話題の為に入ったのに、ともちゃんの事で揶揄われるのが嫌で入ったのに、二人でアパートに入った事を皆の前で怒られるなんて本末転倒もいいところだった。

コツ、コツと下から階段を上る音が聞こえてきた。


「上ってきた……」


緊張の面持ちでともちゃんが階段の下を見つめる。


「上に行こう」

「えっ」

「屋上から反対側の階段にいけるよ、きっと」


僕は音を立てないように用心しながら階段を上り始めた。

ともちゃんもすぐに後を着いてきた。

階下の足音は急ぐでもなく、一定のリズムを保っていたから、僕達は相手の足音に合わせて静かに階段を上った。


4階の踊り場を無視して、すぐに上へと昇る。

中二階でちらりと見た外は、つい一階下で見た時より暗くなっているように思えた。


階段を上り切った先の踊り場には、少し高めの位置に採光窓と、右手側に屋上への扉が設置されていた。

僕はドアノブに手をかけて、出来るだけ音を立てないように回そうとした。

けれどノブは回らなかった。


「開かない。くそ、鍵がかかってる」


ギイ、バタンと大きな開閉音が聞こえた。すぐ近くのように感じた。


僕達は二人で顔を見合わせて息を潜めた。

足音は暫く止んだ。そして少しして、また開閉音が聞こえてきた。今度は続けて二回。


「部屋を見て回ってるのかも。僕達がいたずらで入ってると思って」

「じゃあ、今なら降りれる?」

「かもね。管理人は今何階だろう」


それは少し考えれば分かる事だったが、軽くパニックになっていたせいか僕は気付くのが遅れた。

バタンと扉の閉まる音が聞こえて、階段を規則的に上る足音が近くまで聞こえてきた。

そして僕達のすぐ下で、鉄の擦れる開閉音がした。


「今4階だ。すぐ下だよ」

「……今なら降りれる?」

「うん。でも、僕達が降りる音を聞かれたら追いかけられるよ。気を付けて降りないと」


ともちゃんに念を押して僕はそっと階段を降り始めた。

けれど屋上の階段から中二階まで降りたところで、ギイと扉の開く音が聞こえて、僕達はとっさに下から見えない角度まで身を引いた。


続いて、すぐにまた開閉音が聞こえた。隣の号室に入ったのだと思った。

僕はともちゃんに小さく頷いて、すぐに4階へと降りていった。

ともちゃんも僕のすぐ後ろについてきた。


4階の踊り場に着いて、僕は愕然とした。401号室の扉が開け放たれていたのだ。


真正面に見える401号室の玄関は、埃が空気を汚している様がそのまま表現されているかのように全てが色褪せて見え、僕の意識を圧倒した。

ともちゃんが僕のすぐ後ろまで降りてきて、立ち止まる音が聞こえた。


すぐにでもここを降りないといけない。

分かってはいるのに、僕の足は痙攣するように震えて地面から持ち上がらなかった。

まるで別世界への入り口のようだった。

外の林でミンミンと鳴いている蝉の声すら、この扉の向こうには届いていないのではないかと、そんな風に思えてしまうほどだった。


いつまでそうしていたのか、実際にはほんの数秒もなかったはずだが、背後からの重い足音が僕の麻痺した意識を引き戻した。

管理人が、背後で閉じたままの402号室から僕達のいる階段へ戻ろうとしていた。

僕は多少の音を諦めて階段を早足で降りた。

最悪の話、走って逃げきれば後で学校に連絡がいっても構わないと思った。

とにかくこのアパートから出たかった。


中二階から3階の踊り場まで一段飛ばしで降りようとして、また足が止まりかけた。

3階の二つの号室も、玄関扉が開きっ放しだったのだ。

僕はこの時点で、もう殆どまともに思考する事が出来なくなってしまったのだと思う。

だからこの時、どの位自分が足音に気を付けていたのかは正直分からない。

だが、あるはずの音がなくなっている事にはギリギリで気付いた。

ともちゃんの足音が僕の後ろを付いてきていなかった。


ハッとなって僕は上を見上げた。

ともちゃんのクリーム色のワンピースの端が、401号室へと入っていくのが見えた。


なんで、と叫び出す寸前だった。

何が起きているのか全く分からなかった。

僕達はアパートを出る為に階段を降りていたのに、ともちゃんは僕の後ろをついてきていたはずなのに。


ともちゃんの姿はもう僕の位置からは見えなかった。

402号室の扉が開く不快な金属音が聞こえて、僕は慌てて階段を降りた。

自分の心臓の音と、足音と、そして階上の音の、どれがどれか分からないくらいに混乱していた。


一気に階段を下りながら、ともちゃんが401号室へ入っていったように見えたのは、もしかして僕の見間違いなのかも知れないと思った。

怖がりの彼女がわざわざ好んであんな空間へ入っていく訳がない。

仮に、仮に入っていったのだとしたら、足が竦んでいる内に背後の管理人がもう扉を開ける寸前だったから、隠れるつもりで入ったのかもしれないが。

きっと、それ以外に意味なんてない。


自分に言い聞かせるように僕はアパートを出た。

遊具スペースも突っ切って、デコボコの道路まで出た所でアパートを振り返り、ともちゃんがいるかも知れない401号室の窓を見上げた。

ほんの小さな柵が取り付けられた腰窓の向こうには、外れかかった茶色のカーテンが下がっていて、2枚の窓の左半分を隠していた。

その右半分に、僕のよく知っている女の子が現れた。


ともちゃんが、僕を見下ろしていた。


僕は身振り手振りで、早くそこを出て降りてくるようにと伝えた。

管理人は僕の足音を聞いて、アパートを降りてきているかもしれない。

そう思うと気が気でなかったが、ともちゃんがアパートを出てくる事が先決だと思った。

けれどともちゃんは、悲しむような戸惑うような、遠目には判断のつかない顔でぼうっと僕を見下ろすばかりだった。

辺りは夏場とは思えない程薄暗くなってきていて、それが彼女の表情をさらに隠していた。


僕は焦って一層ジェスチャーを激しくした。

ともちゃんがハッとしたように背後を振り返った。

そしてすぐにまた僕へと視線を戻し、こちらに手のひらを向けた。それは小さく手を振っているようにも、助けを求めているようにも見えた。

そして、ともちゃんは窓際から見えなくなった。


僕は茫然と401号室の窓を見つめたまま立ち尽くした。


少しして、明らかにともちゃんより大きな誰かが窓際に立った。

きっと管理人だと思った僕は反射的に身を低くし、つつじの植え込みに紛れた。

周囲の暗さのせいか、立っている誰かの顔も服も影のように黒く、はっきりとは見えなかった。

人影は少しすると窓際を離れ、僕はアパート前に一人取り残された。


しゃがみ込んだまま、僕はそこでともちゃんを待った。

きっと彼女がすぐに走って階段口から出てくると思った。そうなる事を願った。

けれど出てきたのは、紺色の作業服を着た管理人だった。


逃げ出そうとして、しかし僕は思い留まった。

ここはアパートの外だ。そう思えばこそ、管理人に立ち向かう勇気が湧いたのだった。

僕は立ち上がり、管理人が僕の方へ真っ直ぐ歩いてくるのを待ち受けた。

管理人は僕のすぐ傍まできて、じっとこちらを見下ろした。


「君は小学生?見ない顔だね。ここに住んでる子じゃないね」

「そうですけど、何か悪いですか?」


声の震えを誤魔化すように僕は悪態をついた。


「アパートに住んでいない子が、この辺を遊び場にして何か壊しでもしたら、学校に連絡する事になるよ」

「別に遊んでません。ちょっと通りがかっただけです」

「そうか。じゃあアパートに入ったりしてないね」

「してません」


管理人は僕から視線を外し、遊具スペースの方を確認するように見渡した。


「それがいい」


そしてジャングルジムまで歩いていき、足元に落ちている何かの広告ビラを拾って、ズボンの後ろポケットにねじ込んだ。

僕は急に怖がっていた自分が恥ずかしくなった。

管理人はもう僕の事なんてお構いなしに草場を見て回り、ゴミを見付けては後ろポケットに詰め込んでいた。


馬鹿馬鹿しさがこみ上げて、僕はその場を離れた。

管理人にともちゃんの事を聞けば僕達がアパートに入ったと認めるも同然なので、聞かなかった。

彼女はきっと、管理人から隠れる為に401号室に入ったのだ。

何もおかしな事はなかったし、幽霊だっていなかった。

ともちゃんも、管理人が見えなくなった後でアパートを出るだろう。


そう思うと、結果的にともちゃんを帰り道で巻いたような形になった事で、僕は少しいい気になりもした。

これで2学期は、暫く一緒に帰ろうと言ってこないのではないかと。


そしてさっきまでの体験を、男友達にどう話そうかと考えながら、僕は古宮団地を後にした。


明野のおばさんから僕の家に、ともちゃんが帰ってこないと連絡が来たのは午後6時前の事だった。

母さんから問い詰められた僕は最初こそ濁していたものの、事件になると言われて古宮団地へ行った事を白状した。

おばさんはすぐに僕の家に来て、団地のどこに行ったのか、何時頃だったかと僕から詳細を聞き出し、またすぐに出ていった。


7時を過ぎた頃には警察が家に来て、母さん立ち合いの下で僕は二人組の警官から一挙手一投足のレベルで午後の事を質問された。

僕が管理人の事を話し出した時、警官はお互いの顔を見合わせた。

そして僕が一通り説明し終えた後、あのアパートには常在の管理人がいない事、事務上の管理者には既に問い合わせていて、午後にアパートへ行っていないと確認が取れている事を話してくれた。


話は、紺色の作業服を着た不審者による小学生誘拐に発展した。


僕は事の大きさに恐怖しながら、それでも腑に落ちない端々について警察に質問した。

作業服の男は鍵がかかっていた3階の号室も含めて、玄関の扉を開けて回っていた事。

誘拐目的にしては、扉を開けっ放しにしたりゴミ拾いに時間をかけたりと、堂々と人目につく行動を取りすぎな事。

目撃者の僕をあっさり家に帰した事などだ。


それに対し警察は、3階、4階の玄関は共に施錠されていたし、開けられた形跡も中に入られた形跡もなかった事。

そもそも302号室には一人暮らしのお婆さんが住んでいて、その時間にも家にいた事を後に教えてくれた。


そしてともちゃんはいなくなった。

神隠しだとか、幽霊の仕業だとかの話で盛り上がる事はなかった。

不審な男がいたという僕の情報や、娘を必死に捜すおばさんに対して不謹慎だという共通認識があったからだ。


僕はといえば、覚悟していたような責任の追及はなかった。

事件が起きた直後こそ、僕の事を「女の子を置いて逃げた」と揶揄っていた者もいたが、普段怒る事のない担任の先生がホームルームできつく注意して以降、それもすぐになくなった。

冷静に考えて、古宮団地はただのアパート集合地区だ。

熊の出る山でも、崖崩れの潜む沢でもない。

行った事自体を叱責されるような場所ではないし、僕がともちゃんと離れなければ防げた事件かと言えば、そうとも言えない。

むしろ誘拐犯と思わしき男と出くわしながら、無事に帰れた事が奇跡のような出来事だった。


大人達はこの件に、理性で対応したのだ。

後は僕が、自分にそれを言い聞かせるだけだった。


だから高校は、地元の誰もが行かないような遠くへ進学した。

ともちゃんを思い出すような面々を、一人も視界にいれないように努めた。

それでも、401号室の窓から見下ろす彼女の顔を思い出さない日は殆どなかった。

あの顔は、もしかしたら僕に失望していたのかも知れない。

あの時にはもう、ともちゃんは僕が彼女を置いて帰る事になると気付いていたのだろうか。






気が付くと、僕は古宮団地の3号棟前まで来ていた。

建物の荒れ具合は10年前より更に進み、一目見てもう誰も住んでいないのだと分かるほどだ。

ジャングルジムは撤去され、がらんとした空間に雑草が茂っている。

1階の部屋の腰窓に付けられている柵はボロボロに腐食し、一部が欠けて赤錆びた内部を晒している。

辺りを見渡すが、人の姿はどこにもない。

雑木林は誰の手入れもなく伸びて、枝が好き放題にアスファルトのひび割れた道路面まで突き出ている。

その足元には、千切れてぐずぐずに解けたロープの残骸が打ち捨てられている。

この立地では、費用をかけて取り壊し、何かの事業に再利用される事もないだろう。


帰省して、変わらない町並みを見て回り、この町は時代に取り残されたのだと感じていた。

だがここは違う。ここは現代から切り離された場所だ。


不意に視界が翳り、僕は空を見上げた。太陽が薄い雲に差し掛かるところだった。

あの程度の雲ではこの蒸し風呂のような気温には何の影響もないだろう。


「えっ」


思わず声が出た。

空を見上げた際に目を滑らせてしまった401号室の窓に、誰かがいたのだ。

すぐに視線を戻して窓を凝視するが、もう見えない。

半分がカーテンで隠れた窓の向こうには、誰もいなかった。

だが何かが見えた。


「そんな訳ないだろ……」


口に出して自分に言い聞かせる。

ただの見間違いだ。

あの窓から見下ろす友香の顔が忘れられないのは、今に始まった事じゃない。


汗が肌を伝わる感触がやけに不快に感じられる。

デジャヴを見ているという錯覚が止まない。

僕はこの光景を……大学生になって、この3号棟の前で立ち尽くす光景を何度も夢に見ている気がする。

ふと自分の影に目を落とすと、本来の身長と等倍ほどに伸びていた。

気付かない内にそんなに長く立ち尽くしていたのだろうかと、ポケットからスマホを取り出してみると、午後3時30分を過ぎたところだった。

夏場の3時過ぎはこんなに太陽が傾いていただろうか。

空を見上げる際に、どうしてもちらりと401号室に目をやってしまう。


結局の所、僕が友香の件に対して何らかの答えを得るには、あの部屋に行くしかない。

このまま踵を返せば次からはきっと、401号室から友香が見下ろしているのにただ立ち尽くす僕の夢を見る事になるだろう。

意味なんてない、という本音を頭の隅に追いやって、僕は3号棟左側の階段へ歩き出す。


雑草の生い茂る遊具スペースを突っ切って、土色に汚れた階段に足をかける。

砂埃を踏みしめる音とコンクリートの床面を叩く音が混ざって階段室に響く。

入り口に取り付けられた郵便ボックスを見るに、もうここには本当に誰も住んでいなそうだ。


2階へ上がり、3階へ上がる。

小学生の時には気にならなかったが階段幅はかなり狭く、成人男性の平均的な体格である僕が歩けば、お互いが半身にならない限り子供も脇を通り抜けられない。

その窮屈さが、一歩一歩階段を上るだけの作業にいやな閉塞感を生み出している。


3階から中二階へ上がり、折り返して4階へ。

401号室。


玄関扉は当然ながら閉じている。

壁面には罅から侵入した雨水によって、無数の染みが広がっている。

古めかしい握り玉のドアノブも錆びて輝きがなく、力を込めればもげてしまいそうだ。


表札に名前などあるはずもない。

外から見た窓のカーテンが以前の記憶のままだったのだから、あの日以降も誰一人入居者がいなかったのは間違いない。


僕はドアノブを握る。

ゆっくりと力を込めると、ノブはガリガリとひっかかりながらも時計回りに回った。

鍵がかかっていない……いや、今の感触からすると壊れてノブだけが回ったのかも知れない。

握ったノブの様子を窺うように手前に引くと、ゾリっと鉄を引きずる音がたった。

きっとこの玄関扉は、あと少し力を込めるだけで開いてしまう。


緊張から腕が強張った。

ここを開けるべきなのか、事ここに至っても僕には分からない。


ジャリ……と砂を踏み締める音が階段室に響いた。


瞬間的にノブから手を放して、音の方向を見る。下だ。

誰かが階段を上ってきている。


紺色の作業着を着た男の姿が脳裏を過ぎる。

管理人……いや、そんな管理人はこのアパートにはいなかった。10年後の今だってきっといない。

誰が、何のためにこんな所に来たんだ。

息を潜めて階下に意識を集中する。

足音はとても遅く、弱々しい。

コンクリートを靴裏でたたく音に混じって、苦し気な吐息も聞こえる。


「…………か…………いる…………」


違う。何か言っている。

喋りながら上ってきているようだ。誰かと通話中なのだろうか。それにしても声音が苦し気だ。

声の主は少しずつ、けれど確実に僕のいる4階に近づいてきていた。

この入居者のいないアパートの、どこを目指しているのか。

まさか4階なのだろうか。


「……友香……どこにいるの……ね、友香……お願い、返事して……」


全身が粟立つのを感じた。

明野のおばさんだ。

何故すぐに思い至らなかったのだろう。彼女自身が言っていたのに。

ずっと捜している、と。


おばさんがどこを目指しているのかは考えるまでもない。

僕は視線を玄関扉へ戻す。401号室。


心臓がどくどくと高鳴りだした。

僕が今、ここでおばさんに会うのは絶対に良くない。

いや、はっきりと言って、僕がここでおばさんと鉢合わせる事に耐えられない。


振り返って402号室のノブを掴む。

おばさんの目的が401号室なら、こちらに隠れればやり過ごせると思ったからだ。

だがノブは回らない。右にも左にも、全く回らない。

まさか、401号室の鍵がかかっていないのは、おばさんが壊したからなのか。

声はどんどん近付いてくる。


僕は逃げるように一段飛ばしで階段を上る。

この図体で音を殺して歩くのは無理があり、おばさんの声に混じって明らかに僕の靴音が鳴っている。

僕が階段の行き止まり、屋上への階段室まで辿り着いた時、おばさんの声が止まった。僕も足を止めてじっと息を潜める。


「友香?友香、いるの?ねえ、お母さんよ、友香、友香」


おばさんの声は切実で、ここに友香がいる事を確信したかのような、一抹の希望を妄信した危うさが感じ取れた。

これ以上は聞いていられない。

僕は縋るような思いで屋上へのドアノブに力を込めた。

ガチャリ、とノブが右に回った。


「開いた……」


思わず呟いて、僕はドアを押す。錆びたドアが音を立ててしまうが、もう気にしていられない。

屋上に出て、反対側の階段から降りるべきだ。

向こう側のドアに鍵がかかっていたなら、採光窓を割ってでも入る。

401号室には、また明日おばさんのいなさそうな時間に来ればいい。

ドアの向こうから蝉の鳴き声が一段大きく聞こえてくる。

僕は屋上に踏み出した。


いつの間にか空は赤みがかり、まるで夕暮れ前のような雰囲気を醸し出していた。

そんなはずはない。

アパートに入る前、スマホで確認したほんの数分前が3時半過ぎだった。

きっと暗い場所から外に出て、僕の目が色味を上手く調節できなくなっているのだ。

床面に伸びる僕の影が、先程より更に長くなっている気がするのも、きっと心理状態が関係しているに違いない。


目を何度か瞬かせて、僕はもう一方の屋上階段室へと歩き出す。

その一歩目を、僕は寸前で止めた。


「……え」


向かい側の階段室。

ドアの為に屋上へせり出たコンクリートの小部屋の後ろから、棒のような影が伸びている。

階段室の後ろに何かがある……何かがいる。


三角形の一点を長く長く引き伸ばしたようなその影の頂点には、ボールのような丸い影が乗っている。

まるでチェスのポーンを思わせるシルエットの、その頭部には、よくみると小さなお下げが付いている。

影の主は何をするでもなく、ただ階段室の向こう側でじっと立っている。

僕が屋上に出た音は聞こえているはずなのに、身を乗り出してこちらを窺う仕草もなく、声を出す事もない。


そんな訳がない。

あのコンクリートの向こうにいるのが、彼女の訳がない。

こんなのは現実的じゃない。

あれは友香じゃないし、きっと、そもそも人じゃない。

壊れた排水パイプか何かが立てかけられているのだ。

独立して立っているように見えるのも、角度的な錯覚だ。


どれだけ言い聞かせても、足は動かない。

赤い光に映し出された影は、違うと思えば思う程、あの日の彼女に見えてしまう。

為す術なく見つめていると、影がゆらゆらと小さく動いているようにも見えてくる。

その頭部が、ゆっくりと、まるでこちらへ振り向くように揺れた。


僕は飛び退くようにドアの内側へ戻った。

つい今し方まで呼吸を忘れていたかのように息苦しい。

汗が止まらない。


「友香、友香!どこにいるのお、友香ぁ!」


叫ぶようなおばさんの声が階段中に響いている。

耐えられない。


おばさんはもう、すぐそこまで来ているようにも思えるが、声が響き合って実際にはどの辺りにいるのか分からない。

けれど僕が屋上の扉を開閉した音は聞かれてしまっただろう。

おばさんがここまで上がってくれば、僕は見付かってしまう。

屋上にはもう出る気になれない。


階段をそろそろと降りる。

4階へと続く中二階から差し込む外の光は、驚くほど弱々しい。

屋上からたった半階分下がっただけで、こんなにも光の入り方が違うものなのだろうか。

特に一階付近など、殆ど夕闇に呑まれている。


「友香、友香、友香!」


耳を打つ野太い声に、僕は視線を階段へ戻す。

階下からはバタンバタンと乱暴な開閉音が響いている。

おばさんが手当たり次第に号室を調べているのだろうか。

開閉音のタイミングを見計らって、僕は4階に降りる。

1階まで走り切るつもりだった。なのに


「なんで」


思わず声に出してしまった。立ち止まってしまった。


401号室の玄関扉が、開いていた。


あの日見たままの、色褪せた玄関。

音すら切り取られているのではないかと疑うほど隔絶された世界が、目の前に口を開けている。

友香はあの日、ここに入っていったのか?


「友香ぁ?」


すぐ下の階から声がした。

祈るように402号室のドアノブに手をかけるが、やはりピクリとも動かない。

迷いのない足音が階段を上ってくる。

僕はもう何も考えず、玄関の中へ入った。


土足のまま框を越えて板張りの床に進み、すぐの突き当りで左右を確認する。

左手側は木製とスチール製の開き戸が一つずつ。水回りのはずだ、トイレと浴室だろう。

傷み具合を想像もしたくないので右手側に進んだ。

すぐにカウンターで仕切られたキッチンと、ガランとした板張りの間が現れた。

リビングに家具は一切残っておらず、キッチンの戸棚にも僕が身を隠せそうな場所はない。

友香を呼ぶ声は玄関のすぐ傍まで来ている。


掃き出し窓からベランダを見るつもりでリビングに踏み込むと、左手側に和室が続いていた。

玄関から正面突き当りの壁の裏側だ。和室の奥からは蝉の鳴き声と、極僅かに光が漏れ入ってきている。

腰窓だ。

この和室が、あのアパート正面から見える窓の部屋だ。

友香はここにいたのか。


部屋を見渡すが、やはり家具はない。

だが、和室だからだろう、押し入れはあった。

僕の腰辺りに中板が入っている。

虫やカビの巣窟になっていそうだが、もうそんな事は言ってられない。

僕は半開きになった右側から中板の下に潜り込み、襖を閉めようと手をかけた。


「やめてよ。襖一枚しかないんだから」


ぎょっとして隣を見ると、暗闇の中に誰かがいる。


「き……君は誰」

「あんたこそ誰よ。このアパートの人じゃないでしょ」


少女のような声だが、もう外からの光も殆どなく、黒い塊にしか見えない。


「君はこのアパートの人なの?ここで……何をしてるの」

「どうだっていいでしょ、早く出てってよ」


分かるのは、この子は友香ではないという事だった。

友香の声はもっと細く、柔らかだった。


「友香ぁ、ねえ、早く出てきてえ」


おばさんの声が玄関の内側へ入ってきた。

いや……これはおばさんの声なのだろうか。


「最悪」


隣の少女がうんざりとした声を出した。


「いいよ、もう。じゃあ私が動くから」


そう言って、少女は立ち上がるように中板の上へ消えていった。

僕は慌てて少女のいた場所へ這って進む。

上を見上げると中板に大きな穴が開いていて、少女と思わしき黒い塊が天板に張り付いていた。


「私の事あいつに言わないでよ」


僕が口を開こうとした時、ミシリとリビングの床が軋む音がした。


「友香ぁ……どうして出てきてくれないのお」


声はフィルターが何重にもかかったように野太い。

このアパートで最初に聞いた声とはまるで違う。

さっき階段で聞いた叫び声も、今よりはもっと音程が高かった。


「友香ああ、そこにいるのおお」


声はだんだんと間延びしてくる。

ミシミシと軋む床音が、少しずつ僕のいる和室の入口へと近付いてくる。


蒸し暑さから汗が垂れ、目に入る。

足音が近付くにつれ、不思議な事に僕の意識は茫洋としてきた。

そうだ、こんな所に隠れたって意味はないのだ。

おばさんは友香がいるという前提で捜しているのだから、音がして入ってきた号室で、押し入れだけ調べないなんて事はあり得ない。

それは外にいる者がおばさんでなくても、捜しているのが友香でなくても同じ事だ。


僕がしている事は、いつだって見当外れなのだ。

誰より僕を信頼してくれていた子を突き放そうとした事も。

その過ちを今になって取り返そうとした事も。


「友香ああ……そこにいるのお?」


足音が畳を踏む音に変わる。

もうおばさんの声には聞こえない。

足音がどんどん僕に近付いてくる。僕はそれを、ただじっと待っている。

足音が襖の手前で止まった。

生々しい息遣いが僕の方を向いている。


蝉の声が少しずつ途切れていって、まるで命が尽きたかのように聞こえなくなった。


ふと、息遣いが僕からリビングの方へ向いた。

押し入れの中はもう真っ暗なので、音だけが情報源だった。

はああ、はああ、という長い息遣いが、ずっとリビングの方を向いている。


「……ああ」


襖のすぐ前から溜息が漏れた。


「ああ……友香、そこにい


吸い込まれるように声が消えた。

それっきり、何も聞こえなくなってしまった。

蝉の声も、おばさんの声も、それ以外の音も。

まるで誰かが、世界の音源を全部オフにしたかのような、唐突な静寂が訪れた。

だが、襖の外に誰かいる。


「ともくん」


細く、柔らかな声が聞こえた。

懐かしい声が、記憶の中の通りの声が。

真っ暗な押し入れの中で、音だけが頼りの僕が聞き間違えるはずもない。


「ともくん、一緒に帰ろう」


僕は迷わずに襖を開けて、和室へ這い出た。

リビングと和室の境目に立つ小さな姿は、辺りが暗くてもう碌に見えない。

彼女の背後の掃き出し窓からすらまともに光が入ってこないのだ。

けれど、後ろだけ纏めた特徴的なショートボブと、少し丈の長いワンピースは、シルエットだけで十分に分かった。

そこにいるのはともちゃんだった。


「ともちゃん……今まで……」


どこに行っていたの、と聞くのはとても場違いに思えた。

ともちゃんはここにいたのだ、ずっと。


「……おばさんはどこに行ったの?」

「いないよ」


ともちゃんはコクンと首を傾けた。


「ともくん……もう帰ろう。真っ暗だよ」

「うん、そうだね。ごめん」


僕は頷いて、ともちゃんの方へ近付き、畳の縁で突っかかった。


「足元危ないよ……暗いから、手を繋いで」


ともちゃんが僕に手を差し出した。

うん、と応えて僕がその手を取ると、ともちゃんは僕の前をゆっくりと歩き出した。


リビングも玄関も墨をぶちまけたように黒く、ともちゃんに手を引いてもらわないと次の一歩も分からない程だった。


「もう真っ暗だね」

「うん。だから早く帰ろうって、言ったのに……」

「ごめん」


少し拗ねた声を出したともちゃんに、僕は素直に謝った。

真っ暗で顔は見えないから恥ずかしくないし、手を繋いでいると、とても気持ちが落ち着いた。

歩きながら僕は10年前を振り返った。

あれだけ登下校を共にしながら、僕は一度もともちゃんに手を繋ごうとは言わなかった。

彼女がどれだけ待ってと言っても。不安そうに僕の服の端を掴んでも。

僕は一度も彼女の手を取ろうとはしなかった。


「もう少しだよ」


ともちゃんの声がコンクリートの空間に反響した。

彼女の言う通り、玄関を出るまでもう少しのようだ。

ゆっくりと段差を越えて階段室へと出る。

ともちゃんは僕のすぐ隣で、立ち止まった僕を待っている。


「ともくん……どうしたの」


必要だったのは、これだけだったのではないだろうか。

あの日、10年前の8月4日に僕が彼女を見失わずに済むには、たったこれだけで良かったのではないか。

意地を張らずにその小さな、淡い気持ちを認めるだけで、僕達は帰り道を間違えずに済んだ。

そう思うと、取り返しの付かない日々が胸に痛みを走らせた。


「何でもないよ、行こう」


悲しみを追い出すように首を振る。

僕はいつもいつも、間に合わなくなってから取り戻そうと躍起になる。

けれど、もうこれ以上は。


「階段、気を付けてね」


どれだけ手遅れだとしてもこの手を離さない。


「大丈夫」


僕は繋いだ左手を軽く上げる。


「……うん」


ともちゃんは小さく頷いて、僕の少し前を歩き出す。

そうして僕達は、二人で並んで歩くには狭い階段を一列で、一歩づつ上りだした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ