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61:『今日』から『明日』だった『今日』へ

 



「ヒューゴ! リネットの顔を水面につけるな! あと少しだ!」


 静かだった世界に突如としてレオンハルトの声が響く。彼の言葉に続いてヒューゴの声、それどころか激しい水音や、彼等を助けようとする警備達の声が一瞬にして沸き上がった。

 突然の音にコーネリアは大きく体を震わせ、それでもレオンハルトが湖畔まで戻ってくると慌てて彼に駆け寄った。

 体が動くことに気付く余裕も、ましてや先程の不可解な時間を疑問に思う余裕すらも今はない。考えるべきは目の前の『今』だけだ。


「レオンハルト様、御無事ですか!」

「あ、あぁ、俺は平気だ。だがリネットが……」


 レオンハルトは片腕でリネットの体を抱きかかえており、反対側には同じように彼女を支えるヒューゴの姿がある。リネットは二人の間でぐったりと顔を伏せており、四肢どころか体すべてに力が入っていないのが見て分かる。 

 湖からあがっても彼女が自ら動き出す様子はなく、レオンハルトとヒューゴがそっと地面に寝かせても微動だにしない。


 小さく開かれた唇、目は閉じられ、まるで眠っているかのようだ。


「頼む。目を開けてくれ、応えてくれリネット!!」


 ヒューゴがリネットの名をしきりに呼び、口元に耳を寄せて呼吸を確認する。

 次いで彼は横たわる彼女の隣に移るとその胸元に手を置き、ぐっと一気に力を込めて押した。それを繰り返し、今度は口移しで空気を与え、再び胸骨圧迫に戻る。

 その最中にもヒューゴは何度もリネットの名前を呼び続けており、それにレオンハルトも加わる。


 コーネリアも震える体をなんとか動かしてリネットへと近付き、地面に投げ出された彼女の細い手を取った。ひやりと冷たい。元より白い肌は冷たさと合わさってまるで陶器のようだ。

 持っていた懐中時計をリネットの手の中に押し込め、握らせると懐中時計ごと両手で包んだ。

 自分の熱がリネットに伝わるように、時計の振動が彼女の体を伝って心臓を動かしてくれるように……。


「起きろ、リネット。起きるんだ!」

「リネットさん、お願い目を開けて。私達を見て、ヒューゴを見て、ここに居る彼を見て……!」


 レオンハルトとコーネリアが声をあげる。

 手の中のリネットのいまは未だ冷たく、コーネリアに握られるままに手の中に懐中時計をおさめている。


 だがその細い指先が、一瞬、ピクリと揺れた気がした。


 まるで時を刻む針の動きのように微かな動き。コーネリアが強く握るあまりに手の中で指が滑ってずれただけかもしれない。

 だがその動きは一度だけでは終わらず、まるで手の中に納めた懐中時計に呼応するように、微かにだが再び一度、二度、と続く。


「ヒューゴ、今リネットさんの手が!」


 コーネリアの声を聞き、人工呼吸をしていたヒューゴが動きを止めた。

 リネットの顔を覗き込み彼女の名前を呼ぶ。勇ましい男が発したものとは思えない弱々しく悲痛な声。

 夜の闇に溶け込んでしまいそうな呼びかけを、誰もが乞うような思いで見守り……、


 そしてリネットの唇が僅かに震えるのを見た。


「……ヒュー……ゴ……」


 薄く開かれた唇から発せられるリネットの声は儚く、風の音よりも細い。些細な物音にも掻き消されそうだ。

 それでも確かにヒューゴの名を呼んだ。力なく閉じられていた目がゆっくりと開かれ、虚ろながらに自分を覗き込むヒューゴを見つめる。


「ヒューゴ、貴方なの……?」

「リネット……。あぁ、俺だ。俺だよ、ヒューゴだ」

「本当に……? 本当に、ヒューゴなの……?」


 リネットの問いかけは弱々しいものだが、それでもはっきりとヒューゴへと向けられている。

 その光景を見守っていると、コーネリアの手の中で彼女の手が小さく揺らいだ。そっと手を開けば白く陶器のような手がまるでふわりと浮かぶように離れていく。その手から零れた懐中時計がカチャリと音を立ててコーネリアの手の中に戻った。

 リネットの手は力なく上がり、時間をかけ、それでもヒューゴのもとへと向かう。そうして指先から添えるように彼の頬に触れた。ヒューゴの手が離すまいとそれを覆う。


「……本当にヒューゴなのね。生きてる……生きて、私のことを見てる……私の声が届いてる……」

「あぁ、ちゃんと生きてる。見えてるよ、聞こえてるよ、リネット」

「良かった、私あなたを助けたくて……。でも何も届かなくて、……だからずっと……私何度も……」



 何度も今日を繰り返していたの。



 震える声で紡がれるリネットの言葉に、コーネリアはやはりと心の中で呟いた。

 次いでふと気配を感じて隣を見上げれば、レオンハルトが横に立って手を差し伸べてきた。その手を取り彼に促されて立ち上がる。

 数歩下がればまるで入れ替わるように数人の警備がリネットのもとへと駆け寄り、容態の確認をし、医者に連れて行くべく他の警備やヒューゴに指示を出し始める。

 リネットは今になってようやく周囲に人がいることに気付いたようで、恐れを抱いてかヒューゴに身を寄せ、それでも彼に支えられて立ち上がった。


 リネットの様子はまだ本調子とはけして言えない。足元はおぼつかなく、ヒューゴが支えなければすぐに倒れてしまうだろう。

 それでも彼女が歩いていること、そしてヒューゴと見つめ合っていることにコーネリアが安堵の息を吐けば、隣に立っていたレオンハルトがゆっくりと繋いでいた手を離してきた。

 だが離れることはせず気遣うように「大丈夫か?」と尋ねてくるあたり、きっとコーネリアがふらりとよろければすぐに支えてくれるのだろう。


「私は平気です。レオンハルト様の方こそ、自分の手を傷つけたうえに湖に入るなんて無茶をしたんですから、早く手当てをしないと。傷を見せてください、痛みは? 血は?」

「これぐらいどうってことないさ。それに確かに荒療治だったがあの時はどうしても意識を失うわけにはいかなかったからな。だが俺は荒療治で意識を保てたが、コーネリアはどうやったんだ?」

「私はレオンハルト様に遅れを取るまいとしただけです。それと、これを手にしていたから」

「それは……、俺の懐中時計か」


 コーネリアが片手に持っていた懐中時計を差し出す。夜の暗がりの中でも美しい銀の蓋、だが地面に落とされたせいか少し土が着いている。

 レオンハルトが僅かに目を丸くさせたのは、今になって落としていたことに気付いたからだ。意外そうな表情でポケットを探りだすあたり、きっとそこに入れておいたつもりだったのだろう。


「レオンハルト様が落としたのを拾って、この振動を頼りに意識を繋いでいたんです。それにあの不思議な瞬間も……」

「不思議な瞬間?」

「えぇ、レオンハルト様を追おうとした時のことなんですが、レオンハルト様やヒューゴの姿が消えて、湖も静まって……、それに周りの音もなくなり何もかもが止まってしまったんです」


 こんな異常な繰り返しを経験しても尚、あの一瞬のことが信じられない。

 だが間違いなくあの瞬間すべてが止まっていた。一切の音が消え、そして湖は何もかも飲み込んだかのように全てを闇に覆い隠していた。

 あれはきっと『昨日』と『今日』と『明日』の狭間のような異質な空間。


 それを打ち破ったのは、きっとこの懐中時計なのだろう。


「あの時なにもかも止まっていましたが、この懐中時計の動きだけは感じることができました。それを感じ取った瞬間に世界が戻ってきたんです」


 普段は誰も気にも留めないであろう微かな振動。針が一つ前に進む、たったそれだけの些細なもの。

 それでもあの瞬間『進む』だけの振動は停止した世界を壊した。


「そんな事があったのか」

「レオンハルト様は何か感じませんでしたか?」

「俺は何も……、いや、でも俺がリネットとヒューゴに追いついた時、周りに誰も居なかったな。俺より先に警備が湖に入っていたから、本当なら彼等の方が先にリネットに追いついているはずなのに」


 どうやら彼もまた異質な環境に居たようだが、リネットを救いだす事と、己が溺れまいと必死でそれどころではなかったらしい。

 目の前で沈みゆこうとするリネットを掴むべく、ただがむしゃらに腕を手を前へと伸ばし続けていたという。


「あれは何だったんでしょうか。どうして時計だけが動いたのか、その振動で元の世界に戻れたのか……」


 わけが分からないと混乱したまま、コーネリアは手元の懐中時計に視線を落とし、留め具を押した。

 カチリと音がしてバネ式の蓋が跳ねるように開かれる。そこにある文字盤は変わらず美しく……、


「……あ」


 声を漏らしたのは時計を手にしていたコーネリアか、それとも覗き込んだレオンハルトか。


 二人の視線を受けながらも懐中時計の針は変わらず動いている。

 文字盤の上を規則正しく、己が何をしたかも、己の振動で何が変わったかも知らぬ存ぜぬと貫くように。


 今が十二時を過ぎている事を、それどころか既に十二時半を超えている事を、ただ見る者に伝えるだけだ。


「十二時を超えてる……。『明日』になってる……」

「本当だ。だがなんだかあっさりしてるというか、そんな場合じゃなかったというか……。だけどきっと、これが普通なんだろうな」

「そうですね、それが普通で……、そんな普通の流れに私達も戻って来られたんですね」


 気付けばいつの間にか日付が変わっている。そんな今まで幾度となく経験した極普通の日付の変化。

 抗い続けて恐れすら抱いた繰り返しの結末と考えると味気ない気もするが、その味気無さこそが特別ではない時間の流れに戻ってきた証なのかもしれない。

 意識が薄れることもなく、今朝に戻ることもない。繰り返しの渦に巻き込まれる前は何も疑わずに過ごしていた『今日を終えれば明日が来る』という世界に戻ってこられたのだ。


 良かった、と小さく呟けば、レオンハルトの腕がコーネリアの肩に触れてきた。

 見上げると同時にそっと抱きしめられる。彼の腕がゆっくりと背中に回り、耳元で囁くように名前を呼ばれた。


「コーネリア、君が居てくれてよかった」

「私も、レオンハルト様が居てくださったから諦めずに居られたんです。レオンハルト様と一緒で良かった」


 コーネリアもレオンハルトの背中へと腕を回し、彼の体を強く抱きしめ返した。

 彼の体が安堵に満ちているのが伝わってくる。見上げれば紫色の目を細めて穏やかに笑っている。

 柔らかく、優しく、どことなくあどけない、この繰り返しの中で何度も見た笑顔だ。この笑顔にどれだけ心を救われた事か。


「レオンハルト様、私……、今までの『今日』だけではなく、これから先の未来もレオンハルト様と」

「待ってくれ。その言葉は俺から言わせてほしい」


 意を決して伝えようとした言葉を遮られ、コーネリアはレオンハルトを見つめた。

 紫色の瞳がじっと見つめてくる。溶けてしまいそうなほどに熱い視線。背に触れている彼の腕に力が入ったのが分かった。


「『十五回目の今日』、きみに伝えようとした言葉だ。だけど『十五回目の今日』はもう来ない。これからは『今日』と『明日』とその先を生きていくんだ。だから今ここで言うよ……」


 気持ちを込めるようにゆっくりと、レオンハルトが唇を開く。


 彼から告げられる言葉に、コーネリアは胸に湧く嬉しさと愛しさに目を細めて答えた。





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