60:止まる今の中、微かに確かに進むもの
リネットには自分を止めるヒューゴが見えていない。
だからこそヒューゴを救うため、『次の今日』に行くために湖に入ろうとしている。
「リネット、俺だ! 俺はここに居るんだ!!」
ヒューゴが必死に声を掛けるが、やはり彼女は湖しか見ていない。その形相が必死さを増しているのは、時間が無いとリネット自身も分かっているのだろう。
そう、時間が無いのだ。
だが時間が無いのはリネットだけではない。たとえ『今日』がずれていようと繰り返していようと、時間は平等に、残酷に、過ぎていく。
「リネットさん、お願い気付いて。ヒューゴはここに居るの!」
コーネリアもリネットの腕を掴み、彼女に声を掛け……、次の瞬間、ぐらりと揺らいだ意識に耐えきれずその場に跪いた。
「あ……」と己の喉から掠れた声が漏れる。まるで頭の中に直接靄を注がれたかのように意識が急速に薄らぎ、視界すらも霞みだす。
「駄目、まだ駄目……。リネットさん……お願い、こっちを見て……」
必死に伸ばした指先がリネットの腕に触れようとするも爪先が僅かに掠るだけで終わった。リネットの声が一際大きくなり、彼女の尋常ではない抗いに不意を突かれたヒューゴがバランスを崩して後退る。リネットが彼の腕からスルリと抜け、湖へと走っていく。
「待って……」
止めようと伸ばしたコーネリアの手が力なく落ち、耐え切れずに体全体を地面に伏せた。顔を地面に打ち付けたがその痛みすらも今は霞む。
体が重い。張り詰めていた空気が今度は重さを担って伸し掛かっているかのようだ。
それでもと顔を上げれば、湖へと入っていくリネットの後ろ姿と彼女を追うヒューゴの後ろ姿が見えた。激しい水音が聞こえる。
ヒューゴに遅れを取りながらも警備達が彼の後を追う。暗がりの中に激しい水音が続き、湖畔に残った警備達が連携を取ろうと必死に声をあげる。
コーネリアもリネットを追うために立ち上がろうとするも、腕を動かすので精いっぱいだ。ならばと腕に力を込めて這って進む。
「コーネリア……大丈夫か……?」
「レオンハルト様……」
横から聞こえてきた声に重さに耐えながらそちらへと顔を向ければ、苦しそうに立つレオンハルトの姿があった。
彼もまた意識が揺らいでいるのだろう。立っているのがやっとだと見ただけで分かる。
「レオンハルト様、時間が……。もう……」
「あぁ……だけどあと少しだ……」
「……意識が……揺らいで、レオンハルト様のお声も……遠い……。ここまできたのに……」
悔しい、とコーネリアが呟く。
その言葉に返ってきたのはレオンハルトの弱々しい声……、ではなく、
「まだだ!!」
という、荒く力強く勇ましい声だった。
薄れかけていたコーネリアの意識が途端に引き寄せられる。ビクリと体を震わせてレオンハルトを見上げれば、彼はまっすぐに目の前の湖を見つめていた。
その手には鈍く光るナイフ。……それを己の手に突き立てながら。
彼の手を伝いポタリと血が地面に落ちる。
暗がりの中で見るそれはまるでインクのように黒い。
「レオンハルト様、なにを……!」
「あと少しのはずなんだ、だから……! まだ終われない!」
レオンハルトの声は強く、そして立つのがやっとの体でそれでも一歩踏み出した。
続く一歩は転びかける体を支えるように、次の一歩で前に進み、また一歩、更に一歩早く、と進んでいく。
その歩みは最初こそ力無かったものの次第にはっきりとし、コーネリアが再び彼の名前を呼ぶときには既に腕を伸ばしても届かぬ距離に離れていた。警備が危ないからと彼を止めようとするが、それすらも振り払って湖へと入っていくのが暗がりの中で見える。
その後ろ姿を見つめ、コーネリアはふと先程までレオンハルトが居た場所に小さく光るものを見つけた。
これは、と咄嗟に手を伸ばして掴めば、不思議と握りしめた手から力が湧いてくる。
「まだ終われない……。レオンハルト様が終わっていないなら、私だって終われない……!」
己に言い聞かせ、コーネリアは自分の身体を叱咤しながら立ち上がった。
手の中の硬い感触に意識を集中させる。この感触を見失ってはいけない。指先に伝わる歯車の微かな振動、それを必死で拾おうとすれば薄れかけていた意識がはっきりとする。
その意識を強く保ったまま、コーネリアはふらつく足取りで湖畔へと近付いた。
「コーネリア様、危険です! お下がりください!」
警備が腕を掴んで止めてくる。「放して!」と声をあげて振り払うも、自分でとった動きにバランスを崩してその場に頽れた。
パシャンと水の音がし、地面についた手や足に冷たさを覚える。それを感じてようやく湖に入りかけていた事に気付いた。
這いつくばるようにして更に前へと進み、荒い呼吸の中でレオンハルトの名を呼びながら顔を上げた。
眼前は変わらず暗闇に覆われて何も見えない。
……何も見えない。
湖には誰も居ない。誰の姿も無い。
湖に入っていったリネットの姿も、彼女を追ったヒューゴの姿も。彼に続いて湖に入っていった警備達の姿も無い。
レオンハルトの姿さえも、無い。
まるで湖という名の深い穴に落ちていってしまったように、全てが飲み込まれたかのように、湖は波紋一つなくシンと静まっている。
「レオンハルト様……?」
コーネリアの声に返事はない。
それどころか警備の制止の声すらもピタリと止まってしまった。水音も、梟の鳴き声も、葉擦れの音も、何も聞こえない。
音が無い。
いや、失われたのは音だけではない。
何も動いていない。
制止のために伸ばされていた警備の腕がまるで石像のようにピクリともしない。
周囲にいる者達も不自然な体勢で動きを止めており、それどころか手元に生えていた草が不自然な角度で止まっている。まるで全てが一瞬にして凍り付いてしまったかのような光景。
コーネリアの胸の内がざわつく。
それでいてこの場の異様な空気は動くことを許さない。心臓が鼓動を早め、その音が自分の中で響き渡る。苦しく、痛い。
(これが、『今日』が戻る瞬間なの……?)
『今日』が終わりまた『今日』に戻る、繰り返しの狭間。今自分はそこに居るのか。
そう考えれば更にコーネリアの胸の内が荒れていく。呼吸がままならない。それでいて指先一つ動かすことが躊躇われる。この場の空気から早く逃れたいのに、不用意に動いて張り詰めた空気を壊してしまうのが怖い。
だがその怖気に負けまいと、コーネリアは心の中で弱音を吐く己を叱咤した。
(もう戻らない。繰り返さない。明日に進むの……。そう、進むのよ! 私はレオンハルト様と一緒に……!)
未来に進む。
心の中で願いを掲げ、張り詰めた空気に当てられ凍り付いたような体で、それでも自分の意志を固めるように手を強く握りしめた。
その瞬間、手の中の懐中時計が微かな振動をコーネリアの指先に伝えた。
カチリ、と。
時計の針が動く微かな、本当に微かな振動。
だがこの止まった世界でははっきりと大きく指先を伝った。
銀で覆われた蓋の内側、美しく磨かれた文字盤。
数字の代わりに嵌めこまれた宝石の上を時計の針が通り過ぎた振動だ。
それは本当に微かなもので、普段ならば誰も気にも留めないような些細なものである。指先に意識を集中させてようやく感じ取れるもの。
だがその振動は、この制止した世界の中であっても確かに『進む』振動だった。
そしてその振動はコーネリアに届き、そして止まった『今』を再び動かした。