06:第一王子の深刻なる問題
なぜよりにもよって『今日』なのかと話すレオンハルトの様子には明らかに落胆の色がある。
「今日……、えぇ、そうですね」
王家主催の夜会という特別な日。
だがそれだけではない。『今日』はレオンハルトがコーネリアに婚約破棄を言い渡した日だ。
それをまた元に戻されて、あの婚約破棄も無かった事になってしまった。現にコーネリアは今はまだレオンハルトの婚約者なのだ。
彼は二度も婚約破棄を宣言しているが、それは最初の今日と前回の今日と一緒にどこかへ消えてしまった。覚えているのはコーネリアだけだ。
せっかく婚約破棄をしたのに、と言いたいのだろう。
そう考えてコーネリアは同意を示したが、レオンハルトはコーネリアと視線が合うとわざとらしく肩を竦めて見せた。
「よりにもよって『今日』を繰り返すせいで、俺は三度も嫌いなトマトスープを飲む羽目になったんだ」
「……トマトスープ?」
「あぁ、俺は嫌いなんだが、母上が気にいっていて頻繁にメニューに出るんだ。だけどそれを言うタイミングを逃して、毎回無理して飲んでるんだが、そろそろ勘弁してほしいところだ」
レオンハルトが露骨に肩を落とす。
彼の話にコーネリアは目を丸くさせたままだ。辛うじて「それは……、お労しい」と労いの言葉が出たが、我ながら心がこもっていないと分かる。
なにせ、今日を繰り返すという異常事態の最中、それも婚約破棄を言い渡すという重要なことを全て放って、彼が話しているのはトマトスープなのだ。
更にはさもそれが一番苛酷で辛いと言いたげに盛大な溜息を吐いた。
「これが昼食や夜食であれば厨房に伝えて変えさせることも出来るかもしれないが、いかんせん朝食だ。俺が起きた時すでに準備が整ってて変えようがないだろう。『明日は別のスープにしてくれ』と言っても、結局俺の訴えはどこかに消えてまた朝食の場でトマトスープと対面するんだ。酷い話だよ」
「そうですね……。でもトマトスープですか……」
コーネリアは唖然としながらも相槌を返し、そしてふっと笑みを零した。
慌てて手で口元を隠すも耐えられずにクスクスと笑い声が漏れてしまう。
そんなコーネリアの反応に、レオンハルトは「真剣な話なんだぞ」と咎めてきた。もっとも咎めているものの表情は柔らかい。
「だってレオンハルト様ってば、こんな状況なのにトマトスープを飲むことが死活問題のように仰るんですもの」
「俺にとっては死活問題だ。変わらぬ朝を迎えて『今日』を繰り返していることに気付いて絶望する中、突きつけられるトマトスープだからな。笑い話じゃない、深刻な問題だ」
「それは確かにお辛いかもしれませんが、でもトマトスープですよ。そんなに真剣に語られたら笑ってしまいます」
「絶望の中の食事でスープも飲んだ気がしない……、と言いたいところだが、これがしっかり味が分かってしまう」
レオンハルトが盛大に溜息を吐く。
その仕草や語り口は真剣そのものだが、コーネリアには笑いを誘うものでしかない。笑みを強めれば、それを見たレオンハルトもまた真剣な表情からふっと軽い笑みを浮かべ、仕切り直すように「そういうわけで」と話を改めた。
「トマトスープの件も含めて、俺は早々にこの繰り返しを解決したいと思ってるんだ」
レオンハルトの言葉に、コーネリアは笑みを浮かべたままで頷いて返した。
いつの間にか気分は楽になり、むしろ頑張ろうと前向きになってくる。
「よし、それじゃぁひとまず今夜を迎えよう。仮病を使って夜会を欠席するのは心苦しいかもしれないが、うまくやってくれ」
「かしこまりました。レオンハルト様も、どうかお気をつけて」
「あぁ、夜が明けて明日になったら今度は俺がカルナン家に行こう。……もしも、また今日になっても」
先程まで穏やかだったレオンハルトの表情にわずかに影が掛かる。
彼だってこの繰り返しに理解が追い付かず、そして今日の行動で明日を迎えられるかなど分からないのだ。不安なのは同じだ。
それでもコーネリアが自分を見ていることに気付くと笑顔を見せた。
◆◆◆
一度目と二度目の今日、そして今朝のこと、更にはこの後に控えている夜会の事。
それらをレオンハルトと話し合い、コーネリアは王宮を後にしてカルナン家に戻った。
まずは両親に今夜の欠席のことを話さなければ。そう考えて母の部屋を訪ねれば、穏やかに微笑み「コーネリア、おかえりなさい」と迎え入れてくれた。
……二種類のネックレスを乗せたアクセサリートレイを手にしながら。
ぞわりとコーネリアの背筋に冷たいものが走った。
もしやと時計を見れば時刻は昼過ぎ。前回・前々回の今日で母の部屋を訪れた時間だ。
偶然とは思えない。まるで見えない何かに仕組まれていた気がして、コーネリアは自分の行動にすらも恐ろしさを抱いた。時計を見るのも、ネックレスを見るのも、何もかもが怖い……。
だが逃げ出すわけにはいかず、震えそうになる足を律して母の部屋へと入っていった。
「レオンハルト様にお会いしに王宮に行っていたのよね。両陛下にはお会い出来た?」
「両陛下はいらっしゃらなかったわ。……それで、今夜の夜会なんだけど、具合が悪いから欠席しようと思うの」
「あら、大丈夫? そういえば朝から様子がおかしかったものね」
アクセサリートレイをテーブルに置いて、母が心配そうに近付いてくる。
細い手がコーネリアの頬を優しく撫でた。「顔色も少し悪いわね」と話す母は眉尻を下げ、今度は寒くないかと肩を擦ってくれる。あげくに医者を呼ぶように手配しだすのだから、これにはコーネリアも慌てて大丈夫だと制止した。
「一晩休めば平気だから、お父様とお母様は夜会を楽しんできて」
肩を擦ってくる母の手を取り、大事ないと伝えるためにぎゅっと握って返す。
次いでこの話題を終えるため、コーネリアはテーブルに置かれたアクセサリートレイに視線をやった。
赤い宝石が輝く、金の縁取りと銀の縁取りの二種類のネックレス。
「この二種類で悩んでいたのね……」
「えぇそうなの。どちらが良いかしら」
二種類のネックレスをそれぞれ片手に持ち、軽く揺らして見せてくる。
光を受けて赤い宝石がキラリと輝いた。その輝きも記憶の通りで、美しいはずのネックレスだがやはり薄気味悪さが勝ってしまう。
いっそネックレスを着けないでと訴えようか。だが理由を話せるわけがなく、おかしな言動は母に心配を掛けさせかねない。そう考え、金の縁取りのネックレスへと視線を向けた。
もう何度見ただろうか。最初の今日に選んで、夜会の最中に母の胸元に飾られているのを見て、帰りの馬車の中で話題に出た時に見て……。それをもう一度繰り返し、そして三度目になった。
「……それなら、金の縁取りの方が良いと思うわ。お母様の綺麗な金の髪によく似合うと思うの」
そう告げれば、母の視線が金の縁取りのネックレスへと向けられる。
小さく頷いているのはコーネリアの話に納得しているからだろう。自分の胸元に添える。
「コーネリアがそう言うなら金の縁取りにしましょう。ありがとうコーネリア、貴女も素敵な金の髪よ」
嬉しそうに微笑み、母が手にしていた金の縁取りのネックレスをアクセサリートレイに戻す。
次いでコーネリアへと手を伸ばしてきた。コーネリアの金の髪を指先に絡めて揺らす。
コーネリアはぎこちなく笑って返し、「両陛下とレオンハルト様によろしく伝えておいて」と告げて部屋を出て行った。
◆◆◆
夜、コーネリアはレオンハルトと決めた通りカルナン家の屋敷に残っていた。
窓の外を見れば夜の帳が周囲を覆い、星の輝きと等間隔に設けられた街灯の明かりが灯っている。
今頃夜会は盛り上がっているだろうか。前回・前々回とこの時間帯は既にレオンハルトが婚約破棄を宣言しており、夜会はそれどころではなかったはずだ。コーネリアは直後に外に出てそのまま帰宅したため会場内の事は分からずじまいだが、会場内の空気は想像に難くない。
だが今回はレオンハルト自身が「婚約破棄は言い出さない」と前もって決めているのだから、きっと平穏な時間になっているのだろう。
それを想像するも、コーネリアの胸には安堵も、ましてや夜会に出られなかったと惜しむ気持ちも湧かない。
ただ胸を占めるのは不安と心配と、そして落胆だ。
「……やっぱり、私だけみたいね」
自分以外に誰もいない部屋でポツリと呟く。
思い出されるのは、母の部屋を後にしてからのこと。
あのあとコーネリアは屋敷に仕えるメイドや給仕達にそれとなく聞いて回り、自分以外にも同じ状況の者は居ないかと探しまわった。
だが誰に声を掛けても平然と『今日』について話し、そして今夜の夜会について話を続ける。コーネリアが欠席する事にしたと話せば具合を案じ、そして「残念ですね」と慰めてくれる。
……そこで婚約破棄を言い渡されるなど、いや、実際に二度も言い渡されたなど、到底考えている様子はない。
そうして両親が屋敷を発つ時間になり、彼等を見送って自室に戻って今に至る。気分が乗らず夕食も自室で摂ったが、味も碌に覚えていない。ただ心配を掛けさせまいと無理やりに胃に納めただけだ。
「少なくとも、この屋敷内では『今日』を繰り返しているのは私だけだわ……」
取り残されたような不安がコーネリアの胸に湧く。記憶を持っている側でありながらまるで置いていかれたような焦燥感だ。
胸を締め付けられ溜息を吐くのとほぼ同時に、コンコンと室内にノックの音が響いた。不意打ちの音にドキリとコーネリアの心臓が跳ねる。
震える声で「誰?」と問えば、扉の向こうから聞き慣れた優しい声が返ってきた。
「コーネリアお嬢様、ヒルダです。紅茶をお持ち致しました」
扉を開けてティートロリーを押したヒルダが部屋に入ってくる。
自室に籠っているコーネリアを案じてくれたのだろう、普段好んでいる茶葉と、それにキッシュも持ってきてくれたという。
その気遣いに感謝し、コーネリアは椅子に腰を下ろした。
テーブルに置いていた本は邪魔にならないように端に寄せる。読もうかと思ったが、気持ちはそれどころではなく文字が頭に入ってこなかったのだ。
「具合はどうですか?」
「ありがとう、もう大丈夫よ」
「それはようございました。ですが、せっかくの夜会なのに残念でしたね」
「……えぇ、そうね」
出された紅茶に口をつける。
もちろん仮病だなんて言えるわけがない。
それに『せっかくの夜会』と言ってもそこで婚約破棄を言い渡されるのだ。これもまた言えるわけがないのだが。
「そういえば、お嬢様は朝に起こった事件のことは知っておりますか?」
「事件?」
「えぇ、なんでも北の森で強盗が現れたとか。市街地で聞いたんですが、この話題でもちきりでしたよ」
「強盗……? そんな、それで被害は?」
「馬車に乗っている主人を護ろうとして、若い護衛が一人亡くなったそうです。嫌ですねぇ、物騒で」
あぁ怖い、と話しながらヒルダが就寝の準備を整える。
そうして手早く準備を終えると「そういえば」と話を変えてしまった。強盗という物騒な話題から一転してしまう、このすぐに話を切り替えるところはヒルダも母も似ている。