58:伝えたい言葉は未来へ
波紋一つ起こすことなく広がる広大な湖を眺め、ヒューゴが過去を懐かしむように話し出した。
「この森一帯はレチェスター家が昔から管理しています。グレイス様はたいそう気にいっていらして、小さい頃からリネットを連れてきていたそうです」
森は自然に溢れてはいるが迷い込むほど深いわけではなく、小動物は居ても危険な獣はいない。清々しい空気に満ちた美しい場所だ。
聞けば湖を挟んだ先には設備の整った家屋もあり、幼い子供を連れて避暑地気分で遊びに来るにも適している。
「リネットは小さい頃、この湖を海だと思っていたそうです」
「この湖を?」
「はい。連れていった事はないはずなのに『また海に行きたい』とリネットがしきりに言うので、不思議に思って聞き出したところ、この湖を海だと勘違いしていた。……と、よくグレイス様達が話してくださいました」
愛しい恋人の幼い頃の愛らしい一面。話すヒューゴの表情は柔らかく、そこにリネットの姿があるかのように湖を見つめている。
そうしてふと、「お時間を頂いても」とコーネリア達に許可を求めてきた。
「この近くにリネットと飾りを建てたんです。結婚したらここに小屋を建てようって……。それを見て来てもよろしいでしょうか」
「構わないが、俺達も一緒に行こうか」
「……申し訳ありませんが、出来れば一人で行かせてください。これもリネットと二人だけの決め事だったんです。完成したら皆を呼ぶから、それまでは誰にも言わないようにと何度もリネットから言われていました」
「そうか、分かった。それなら俺達はここに残るよ。なにかあったら声をあげてくれ」
「ありがとうございます」
「リネットは控えめな性格だと思っていたが、意外と秘密裏に話を進めるのが好きな性格なんだな。他にも何かあるんだろう? 君達の結婚が楽しみだよ」
ヒューゴを気遣ってか、レオンハルトが冗談めかして苦笑する。
彼の気遣いにヒューゴもまた表情を和らげた。「俺もよくリネットに驚かされます」と話す声色には恋人への愛おしさが満ちている。
そうして去っていくヒューゴの後ろ姿を見届け、コーネリアは無意識に深く息を吐いた。
目の前の湖を眺める。コーネリア達が訪れたとて湖に異変は無く、水面も微動だにしない。ただ夕日が夕闇にゆっくりと押しやられていくのを静かに映すだけだ。じきにすべて夜の闇に覆われるのだろう。
それをぼんやりと待っていると、レオンハルトが何かに気付いてコーネリアを呼んだ。
「ベンチがあるから少し座ろうか」
レオンハルトの視線の先には確かにベンチがある。といっても公園にあるようなものではなく、木で組まれた背もたれもない質素なものだ。
長時間座るには不向きだろう。だがこの景色にはよく似合っている。森と湖、その狭間に置かれた木のベンチ。景色の一部として溶け込んでいる。
そこに腰掛け、改めて湖へと視線をやった。美しく、そして美しいがゆえに恐ろしい景色だ。
「……リネットさんはいつここに来るんでしょうか」
「一応、彼女の動向は全て報告するように手配はしているが、まだ目立った動きは無いみたいだな。まだレチェスター家で眠っているんだろう」
リネットがこの場所に来る可能性に賭けたとはいえ、それまで彼女のことを放っておくわけにはいかない。
リネットは『次の今日』を見て、『次の今日のヒューゴ』を救おうとしている。つまり彼女の行動は『十五回目の今日』にヒューゴを救うための重要なヒントになるのだ。
いや、『十五回目の今日』のヒューゴだけではない。
今回の彼のことだって……。
そう考え、コーネリアはヒューゴが向かっていった先へと視線をやった。
彼は「この近くに」と言っていたが、どこまで行ったのだろうか。
もっとも眼前の湖周辺こそ開けてはいるものの、背後には木々が生い茂る森が広がっている。ヒューゴが向かって行ったのは森の方向だ。入り組んだ木々の合間を進んでしまえば、たとえ近くに居てもここからでは姿は見えない。
遠くまで行ってしまったのかもしれないが、声を掛ければ近くから顔を出しそうな気もする。だが何も動きがないあたり、きっと静かにリネットとの思い出に耽っているのだろう。
せめて今だけは彼が静かに過ごせるように。
邪魔はするまいとコーネリアは改めて眼前の湖へと視線をやった。
「リネットさんは『次の今日のヒューゴ』を救おうとしているんですよね」
「そうだろうな。次は十五回目か」
「そういえば、レオンハルト様は『十五回目の今日』に何か私に伝えたい事があると仰ってましたね」
ふと以前に聞いた事を思い出して、隣に座るレオンハルトを見つめた。
あれは『前回の今日』だ。その時すでに彼は十五回目に何をするかを考えており、コーネリアに伝えたい事があると言ってきた。
だがその内容までは教えてくれず、試しにとコーネリアが「いったい何を伝えたいんですか?」と尋ねてみても、やはり今回も首を横に振って拒否されてしまった。
「『十五回目の今日』になったら伝えるよ。もしも『今日』が終わって『明日』になっても、その時には覚悟を決めて伝えるから」
だから今は諦めてくれと言う事なのだろう。
コーネリアも本気で問い質してまで聞き出すつもりはなく、冗談交じりに肩を竦めて「もう少しの辛抱ですね」とだけ返しておいた。
そうしてふと、先程彼が口にした言葉を思い返す。
「『今日』が終わって『明日』に……。その瞬間はどんな感覚がするんでしょうか」
「感覚か……。そういえば、以前に時計を見せて話したのを覚えてるか?」
話しながらレオンハルトが上着の内ポケットから懐中時計を取り出した。
銀の鎖がカチャリと揺れる。王家の家紋が彫り込まれた銀の蓋、それを開けると十二の位置に紫色の宝石が埋められた美しい文字盤がある。彼が生まれた際、髪色と瞳の色に合わせて造られた代物だ。
はじめて懐中時計を見せてくれた時、レオンハルトはこの繰り返しはまるで時計のようだと話していた。
『昨日』も『今日』も『明日』も、それどころか不自然に『今日』を繰り返していても、文字盤を進む針の動きは変わらない。
数字を目指して規則正しく動き、そして辿り着くと、それを超えてまた次の数字を目指すだけだ。一周してもまた次の一周を始める。
たとえそれが日付が変わる瞬間であっても、ただカチリと針が進むだけ。
「『今日』が『明日』になる瞬間なんて、結局は文字盤を針が進むだけのほんの一瞬の事だ。コーネリア、この繰り返しが始まる前の生活で、日付が変わる瞬間を意識した事はあるか?」
「意識した事……。年が明ける時ぐらいでしょうか」
年が明ける瞬間、盛大な花火があがる。コーネリアは毎年それを楽しみにしており、一年の最後の夜には屋敷の中で一番見晴らしの良いテラスに出て眺めるのだ。家族はもちろん、ヒルダをはじめ屋敷の使い達も共にその瞬間を迎える。
あの夜だけは時計を片手に待ち構え、あと何分あと何秒、と数えていた。
だが他の日は……と思い返してみるも、今一つピンとこない。
「日付が変わるまで起きていた事は他にもありますが、きちんと意識したのは年が明ける時ぐらいですね。他は気付いたら日付が変わっていて、慌ててベッドに入っています」
「俺も似たようなものだな。だけどその境目が今は重要なのかもしれない」
「重要……。境目だからこそ、あの時にリネットさんの言葉が理解出来たという事でしょうか」
彼の言わんとしている事を問えば、レオンハルトが首肯してきた。
「ただでさえ訳の分からない中で、リネットの意識は『一つ先の今日』なんて更に難解な状況にある。『今日』を繰り返している俺達ではどうやっても彼女に追いつくことは出来ないだろう。……だけど、零時になる瞬間だけは違う」
「『私達の今日』が『一つ前の今日』になって、リネットさんの居た『一つ先の今日』が『私達の今日』になる……」
「そう、その瞬間だ。もちろんすぐにリネットはまた『一つ先の今日』に行ってしまう。だけどほんの一瞬、『今日』がずれるように入れ替わる瞬間だけ、俺達はリネットと繋がる事が出来るのかもしれない」
話すレオンハルトの口調ははっきりとしている。瞳にも迷いはない。
だが話し終えると「あくまで憶測だけどな」と苦笑交じりに肩を竦めた。
「今の俺の話も、なにもかも全部憶測でしかない。だけど試してみる価値はあると思う」
「試してみない事には何も始まりませんものね」
「あぁ。それに、これもあくまで憶測だけど、俺は『明日』は近い気がするんだ」
レオンハルトの言葉に、コーネリアも同意を示した。
もっとも、彼の発言は本人が言っている通り憶測の域を出ず、すべて「かもしれない」というものだ。確証も明確な根拠も一つとしてない。
それでもコーネリアには何より頼りがいのある言葉に感じられ、そして不思議と、レオンハルトが言葉にした途端に『明日』は目前に迫っているような気がしてくる。
明日も、その先も、ちゃんと自分達の進む先には未来が広がっている。
「だからもしも今回がうまくいって『明日』になったら、まずは……」
明日すべき事を考えたのだろう、レオンハルトがふいに視線を他所へとやった。
何もない空間をじっと見つめ、次第に表情を眉根を寄せた渋いものに変えていく。何か支障や問題があるのだろうかとコーネリアが彼を見つめて続く言葉を待っていると、まるで勿体ぶるかのようにゆっくりと口を開いた。
「まずは……、父上達にどう説明するかだな」
唸るような声色のレオンハルトの言葉に、彼を案じていたコーネリアは一瞬の間を空けたのちパチリと瞬きをした。
もっとも、かといって今更意外に思うものでもない。この繰り返しの中で何度も聞いた、そして何度も助けられた彼の冗談だ。それが分かるからこそコーネリアも小さく笑みを零してこの冗談に乗る事にした。
「そうですね。無断で夜会を欠席して森の湖でピクニックとなれば、両陛下もマーティス様も間違いなくお怒りになりますね」
「他人事のように言ってくれるが、夜会を欠席してピクニックしてるのはコーネリアだって同じじゃないか」
「私はレオンハルト様に脅されてここに居るんです。本当は公爵家の令嬢として夜会に出席したかったのに、レオンハルト様が一緒に来ないと婚約を破棄すると仰って、どうしようもなく……」
あえて弱々しい声色を取り繕って話せば、今度はレオンハルトが目を丸くさせた。
ついで頭を雑に掻き、まるで一本とられたと言いたげに笑った。楽しそうで、そして少しあどけなさを感じさせる笑みだ。
紫色の瞳がゆっくりと細められる。懐中時計に填め込まれた宝石と同じ色。だがコーネリアにはどんな宝石よりも彼の瞳の色が美しく見える。
「俺を言い訳にするのは五回毎の今日についてじゃないのか?」
「あの時だけとは言ってませんよ。ですから、咎められるのはレオンハルト様だけです。でもご安心ください、少しくらいは擁護してさしあげます」
「ずるいなぁ」
やられた、とレオンハルトが笑った。
そうしてしばらくは他愛もない話をし、時にはヒューゴを交えて話をする。繰り返しの事、ラスタンス家の領地の事、そしてリネットとヒューゴの思い出……。
こんな状況ゆえに盛り上がりこそしないが、時には楽しい話題で穏やかに笑い合うこともあった。
だが次第に穏やかな空気は薄くなっていき、ふとした瞬間に誰もが口を噤んで妙な静けさを漂わせるうようになった。話題こそ楽しいものであっても浸りきれない。
日も落ち周囲を覆い尽くした夜の暗さが、低く長く響く梟の鳴き声が、否が応でも空気を張り詰めさせる。
「……少し、周りを見てきてもよろしいでしょうか」
ヒューゴが許可を求めてきたのはこれで何度目だろうか。コーネリアもレオンハルトも「気を付けて」とだけ告げて彼を見送った。
自然溢れる森の中にはもちろんだが外灯は無く、日が落ちきると周囲も見えぬほどに暗い。用意していたランタンを灯してようやく自分の周囲が見えるぐらいだ。ベンチからではもうどこからが湖なのかも分からない。
一歩踏み出せば闇の中に溶け込んでしまいそう。
そんなことを考えつつ、コーネリアは意識を夜の闇に預けるようにゆっくりと目を瞑った。