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53:そして全ては冷たい水の中に

 


 リネットが部屋から居なくなったとメイドが連絡に来るのと、ヒューゴが馬に飛び乗るのはほぼ同時だった。

「ヒューゴ! 俺も連れていけ!」と彼に手を伸ばしたのはレオンハルトだ。平時であればレオンハルトも一人で馬に乗っただろうが、生憎と今の彼は片目を負傷している。立っているのもやっとだったのだから、馬に乗って手綱を操り走るなど不可能だろう。

 ヒューゴがレオンハルトの手を取り、自分の前に座らせる。それを見てコーネリアもまたもう一頭の馬へと駆け寄った。

 スカートを翻して跨り、手綱を強く引いて前を行く馬を追った。


 まだ一人で馬を走らせるには早い。そこまでの技術は無い。

 分かっている。だけどここで大人しく待っているわけにも、誰か乗せてくれる人が来るのを待つわけにも、ましてや馬車の準備を待つわけにもいかないのだ。





「リネット! どこだ、リネット!」


 夜の暗がりの中、ヒューゴの声が響く。

 コーネリアは落ちないよう必死で手綱を握り、彼が走らせる馬を追っていた。外灯の間隔は広く、既に夜も遅いため家屋の明かりも殆どない。視界は悪く、そのうえ馬に乗っていては道など碌に見えない。

 暗闇を走っている気分だ。とうてい周囲を窺うことなど出来ない。


 だがレオンハルトはこの暗がりの中でリネットの姿を見つけたようで、「右だ!」と声をあげた。


「ヒューゴ! 右だ、曲がれ!」


 レオンハルトの指示に、ヒューゴは咄嗟ながらに手綱を巧みに操り馬の進路を右へと変えた。

 コーネリアもそれに続いて道を曲がり、ヒューゴとレオンハルトの乗る馬を追う。


「リネット、どうして……。何があったんだ! リネット! 待ってくれ!」

「落ち着けヒューゴ。今のリネットに俺達の声は届かない。彼女が見ているのは『一つ先の今日のヒューゴ』だ。……だがそうだとしても、なぜこんな夜中に」

「この道は……。リネットは西の森へ行こうとしてるのかもしれません」

「西の森? 確かにこの道は西の森に続いてるな。だけどどうして」


 ヒューゴとレオンハルトは馬を走らせながらも話をしている。だがコーネリアは彼等を追って走らせるのに必死で、辛うじて会話を聞くことこそ出来ても加わることは出来ずにいた。その会話だって途切れ途切れに耳に入ってくる程度。

 とにかく置いていかれないよう、そのことだけを考えて手綱を握り、落ちないようにと不安定な馬上でバランスを取る。

 振動をうまく受け流すことが出来ず体全体が揺れる。馬を走らせているとも、走る馬に必死で跨っているとも言える状態。


(西の森……。以前にヒューゴが銃の暴発で命を落とした場所だわ。それに、夜中にリネットさんが森に向かった事もあったし、彼女が自殺を図ったのも西の森にある湖だった)


 どう関係しているのかはまだ分からないが、ここまでくれば無関係とは思えない。

 少し先を走るリネットはやはり真っすぐに西の森へと向かっているのだ。だが日中彼女が移動していた時と違い、今は何も叫んでいない。


(もしも『次の今日』のヒューゴを追いかけているのなら、彼を呼んでいるはずなのに……)


 リネットは馬を走らせている、だが彼女の前には『一つ先の今日のヒューゴ』は居ないのだろうか。

 だがそうなれば彼女はどうして西の森を目指しているのか……。

 何を目指して馬を走らせているのか……。


 考えたところで何も分からず、そして分からないままに西の森が見えてきた。

 日中は自然が溢れ清々しい空気を感じさせる森が、夜の闇に覆われると纏う雰囲気を変える。一歩踏み込めば飲み込まれてしまいそうな、どこまでも広がり底もなく落ち続けるような深い闇……。

 梟の鳴き声が響き、それが波紋のように伝わったかと思えばシンと静まる。木々が揺れる葉擦れの音さえも今は生き物の息遣いに聞こえる。


「リネット……。まさか、湖に行くのか。リネット、待ってくれ!」


 馬を降りるや走り出すリネットを追いかけ、ヒューゴもまた森の中へと走っていく。

 彼の姿が暗い闇の中に消える。溶け込むように、飲み込まれるように……。


 その後ろ姿を追いかけ、コーネリアとレオンハルトもまた夜の闇へと溶け込んでいった。



 補整されているとはいえ、夜の森の中を走るのは困難だ。

 それでもとコーネリアはレオンハルトの手を引いて森の中を走った。生い茂る草が肌を掠め、時折は鋭利に傷つけていく。きっとスカートも靴もボロボロだろう。

 だがそれらを気にしている余裕はない。少しでも足を緩めれば前を走るヒューゴを見失いかねないのだ。その先にリネットもいるのだと考えれば、もっと早く走らなくてはと心が急かしてくる。


「コーネリア、俺を置いていけ」

「そんな、レオンハルト様、何を仰るんですか」

「このままだとヒューゴにすら置いていかれる」


 レオンハルトの声は酷く苦しそうだ。

 元より彼は傷を負い、立っているのもやっとという状態だった。医者は命に別状はないと言っていたらしいが、かといって活発に行動することは推奨してはいなかっただろう。きっと傷が癒えるまで安静にと話していたはずだ。

 更に片目を包帯で覆っているため視界は悪く、いくらコーネリアが手を引いているとはいえそんな状態で走るのは不可能に近い。

 それを足手纏いとでも感じたのか。レオンハルトが手を放すように促してくる。


「ですが、レオンハルト様を置いてなんて……!」

「もう時間が無いんだ!」


 レオンハルトが上着から懐中時計を取り出して手渡してきた。

 以前に彼が見せてくれたものだ。カチリと小さな音を立てて蓋を開けて中を見れば、既に時刻は十二時に近い。

 日付が変わるまで残すところ十分もない。意識が揺らぎ始めるのもあと僅かだ。


「ここで大人しく待ってるから、明日になったら迎えに来てくれ」


 告げてくるレオンハルトは苦しそうで、片目を覆う包帯に滲んでいた血のシミが濃く広がっている。動いて傷が開いてしまったのかもしれない。

 これ以上走ることは出来ないだろう。そして本人が言う通り、連れていっては間に合わない。

 だからこそコーネリアは決意すると懐中時計を握りしめ、レオンハルトの手をそっと放して走り出した。


 深い森の更に奥。生い茂る木々はどれも同じにしか見えず、ここが以前にリネットを追って走った道なのか、本当に湖に向かっているのか、コーネリアには分からない。

 前を走るヒューゴの後ろ姿だけが頼りだ。随分と小さくなってしまったが、それでも辛うじて見失わずにいる。

 彼の先にはリネットが居るはずだ。コーネリアからは見えないが、ヒューゴはしきりに彼女の名前を呼び続けている。


「待って、ヒューゴ……、リネットさん……」


 荒れる呼吸で前を走る二人の名を呼べば、それとほぼ同時に、「リネット!やめろ!!」と一際大きな声が聞こえてきた。

 発したのはヒューゴだ。走り続けていた彼は何を見たのかより足を速め、置いていかれかけたコーネリアが慌ててそれを追う。


 足がもつれそうになる。

 息が苦しい。

 意識がぼんやりとする。微睡むように、意識が溶け落ちていく……。


 そうしてコーネリアの意識が消える間際、酷くけたたましい、甲高い声が周囲に響き渡った。


「……っ、リネットさん」


 リネットの声だ。高く、異質な、悲鳴じみた声。

 その声はまるで鋭い針のようで、消えかけていたコーネリアの意識を突きさすと無理やりに繋ぎ止めた。

 同時に、意識が消えかけていた事を改めて自覚して背にぞわりと怖気が走る。


 懐中時計を見ずとも分かる。これは日付が変わる直前の、『今日』が消えて『次の今日』に入れ替わる時の感覚だ。


 足の力が一瞬にして抜けてぐらりと大きく体が揺らいだ。近場の木に手を着いて転倒は免れたが、ぼやける視界では自分の手元さえもはっきりとしない。

 それでもと既に闇夜に消えたヒューゴの背中を追いかける。草を掻き分け、倒れ込むようにして前へと体を傾け、転ぶまいと無意識に出た足で土を擦るようにして進む。


「まだ何も出来てないの……。こんなところで、今日を終るわけにはいかないの……!」


 必死になってコーネリアは前へと進み、草を掻き分けて開けた場所へと出た。

 ぼやけた視界ながらに周囲の景色が変わったと分かる。その先にいるのは……、と消えゆく意識を必死に引き留めて前を見据えた。


「……ヒューゴ」


 ヒューゴの後ろ姿が見える。だけど見えるのは上半身だけだ。

 彼は既に胸下まで湖に浸かっており、コーネリアが掠れる声で呼びかけるとゆっくりとこちらを向いた。

 何の意志も感じさせない表情。再び湖の奥へと向き直ると、一歩また一歩と足を進めた。湖の底はより深くなっているのか、胸下までだった水の高さがヒューゴの肩までせりあがる。


「待って……!!」


 コーネリアが手を伸ばす。届かないと分かっているが、それでも咄嗟に腕が上がったのだ。

 だがヒューゴは振り返ることもなく、立ち止まりすらせず、何かを追うように、吸い込まれるかのように、湖という暗闇へと姿を消した。


 水が跳ねる音がする。

 その音が消えた後には、微かな波紋を残すだけの静かな湖畔がコーネリアの視界に映った。



 それが、『十三回目の今日』のコーネリアが見た最後の光景だった。



 ◆◆◆



「おはようございます、コーネリアお嬢様。本日の夜会、楽しみですね。レオンハルト様にお会いするのは久しぶりでしょう」


 ヒルダがこちらを向いて穏やかに微笑む。

 コーネリアはベッドに身を起こし、痛みを覚える胸元で手を組んだ。


 まるで神に祈る様に。

 祈ったところで意味など無いと分かっているけれど。


 ただ、そうでもしないと胸の痛みに耐えられないのだ。


 目を瞑ると、静かな湖の景色が蘇った。


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