50:再びレチェスター家へ
リネットが馬に乗って走り出そうとするのを察し、ヒューゴがその腕を掴む。
「リネット、待ってくれ! どうしたんだリネット!」
ヒューゴが必死にリネットを呼び止めようとする。
だがリネットはやはり答えることはなく、視線を向けることもしない。彼女はただ何もないはずの道の先を見つめ、ぐいと手綱を引くと馬を歩かせた。
ヒューゴがリネットを呼び続け、自らも馬に跨ると並ぶ。何かあったのかと尋ね、時にはリネットの視線の先に回り込み、腕を掴み、必死に呼びかける。
二人の速度は遅いとは言わないものの、さりとて早駆けという程でもない。
先程までのリネットの様子から馬に乗るなり風を切るように走り出しそうなものだが、彼女は手綱を握り必死な形相で何かを訴えながらも、それでも馬を走らせるでもなく歩ませているのだ。
彼女は、彼女だけは、彼女が見えている世界では、ラスタンス家の馬車は王都を目指して順調に歩みを進ませており、それをヒューゴが先導しているのだ。
リネットはそんなヒューゴの隣を並走し、彼に何かを訴えている。
一つ先の今日で。
「行こう、コーネリア。きっと『次の今日』でヒューゴ達が移動したんだ」
「はい」
「馬車よりも俺の馬に乗った方が小回りがきいて良いかもしれないな。俺が手綱を握るから、前に座ってくれ。カルナン家の馬車は御者の護送用に使わせてもらっても良いか?」
レオンハルトに問われてコーネリアは頷いて返した。御者に手早く事情を説明すれば、レオンハルトもまた警備に指示を出す。
そうしてレオンハルトがまず馬に乗り、片手を差し出してきた。その手を取って引かれるままに馬に乗る。
彼の腕が自分の体を支え、背中に彼が触れているのを感じる。「大丈夫か?」という声も普段よりも近くから聞こえた。
(こうやって、リネットさんはヒューゴに遠乗りに連れていってもらっていたのかしら……)
それはきっと幸せな時間だったに違いない。
二人身を寄せ合って馬を走らせ風を感じ、様々な事を話したのだろう。婚約、結婚、その先に広がる未来……。
公表こそ先延ばしにしていたがリネットとヒューゴは相思相愛だった。レチェスター家もそれを快く受け入れ、二人の未来は明るかったはず。
だが今目の前に居る二人は、同じ場所に居るのに同じ『今日』には居ない。
想い合っているのにすれ違い、同じ一日を繰り返している。目の前に居るのに相手の目には映らず、互いに必死に呼び合っているのに声は届かない。それはなんて悲しい事だろうか。
「参りましょう、レオンハルト様」
そうコーネリアが道の先を見据えながら伝えれば、レオンハルトが「あぁ」と短く返事をし手綱を操った。
馬が緩やかに、それでも前を行く二人に追いつくために小走り目に歩きだした。
◆◆◆
リネットが向かったのは王都にあるレチェスター家。結果的にリネットは自宅を抜け出て再び戻ってきた形になるが、それが単なる散歩であったならどれだけ夫妻は救われただろうか。
だが戻って来てもリネットの様子は変わらず、夫妻は娘が戻った事への安堵と、だが最愛の恋人の声にも応じない異様さに落胆していた。サラはいよいよをもって耐え切れなくなったのか嗚咽をあげて泣き、それをラスタンス家夫人が抱きしめている。
それでもやはりリネットはどこかを見て、何かを訴えている。母の嘆きも今の彼女の目には映っていない。
リネットが屋敷の中へと入っていく。
きっと彼女はヒューゴを追いかけているのだ。だがそんなリネットをヒューゴが追いかけていく……。
居もしないヒューゴ。だが今夜を終えて『次の今日』を迎えれば、きっと今ヒューゴはリネットがいる数歩前を歩いて屋敷へと入っていくのだろう。
だがその時にはもうリネットは一つ先のヒューゴを見ている……。
(考えれば考えるほどわけが分からなくなりそう……)
分からない事ばかりで、自分達は解決に向かっているのかも分からなくなる。
思わず溜息を吐けば、先に馬を降りたレオンハルトが手を差し伸べながら案じてきた。彼の手に自分の手を重ねれば軽く掴まれ、今度は馬から降りるようにそっと引いてくる。
「なんだか、今がいつの『今日』なのか分からなくなりそうで……。少し怖くなってしまったんです」
「いつの『今日』?」
「今は『十三回目の今日』ですよね? ですがリネットさんは『十四回目の今日』を過ごしている。そして今私達が過ごしている『十三回目の今日』を、リネットさんは私達の『十二回目の今日』で過ごしていた……」
過去と先の『今日』が入り混じり、一つのことを思いだそうとするたびにそれらが綯い交ぜになり記憶が混乱してくる。
そして混乱すると同時に、自分がその繰り返しの混乱に飲み込まれていくような不安が湧くのだ。
いや、もしかしたら既に飲み込まれているのかもしれない。
記憶が無いだけで何十回と『今日』を繰り返しており、今はただ繰り返しの狭間に意識が浮かび上がっただけなのでは……。
自分の記憶さえも信用出来なくなる。
そうコーネリアが弱々しい声で告げれば、レオンハルトが繋いだままの手を強く握ってきた。
大きな手に包まれる。先程まではコーネリアが馬から降りるために支えていただけの手が、今ははっきりと手を握っている。
「不安になるのは分かるが、俺はきみと同じ記憶がある。断言しよう。間違いなく俺達にとって今は『十三回目の今日』だ」
「レオンハルト様……」
「何か明確な証拠を示してやることは出来ないが、それでも俺の記憶を、共有した記憶を信じてくれ」
レオンハルトの断言は、コーネリアを諭し、そして同時に己にも言い聞かせているような色合いがある。
彼の言う通り明確な証拠こそないが、それでも力強い言葉は胸に染みこんで心を落ち着かせる。
むしろ、どんな証拠を目の前に詰まれたとしてもレオンハルトの言葉に勝るものはないだろう。
握られた手を強く握り返し「はい」と答えて頷く。彼の力強さがうつったのかコーネリアの声にも強さが戻っており、レオンハルトが表情を和らげた。
「それに『次の今日』を終えれば『十五回目の今日』だからな。十五回目を楽しみに気を強くもとう」
「十五回目……。まさかレオンハルト様『十五回目の今日』にまた何かなさるおつもりですか?」
五回毎に好きに過ごそうと決めた。だがリネットという明確な謎が目の前にある状況で好き勝手に過ごして良いのだろうか。
そうコーネリアが困惑していると、察したレオンハルトが笑みを強めた。困惑するコーネリアを「まぁまぁ」と宥めてくる。
「俺も流石に朝から何もかも忘れて好き勝手になんて過ごす気はないさ。でも少しぐらいは良いんじゃないか?」
どうだろう、とレオンハルトが尋ねてくる。
普段通りの穏やかな表情。リネットやヒューゴのやりとりを眺めていた時の強張った緊張の色は無く、まるで他愛もない会話をしている時のようだ。
つられるようにコーネリアの気分も和らぎ、そして気分が和らぐと同時に今まで自分の身体が強張っていたことを自覚した。気持ちも体もふっと楽になる。
確かに今はリネットという謎を目の前にし、すべき行動がはっきりとしている。ヒューゴを助ければ繰り返しを終えられるかもしれない。
だがそれはあくまで予想でしかない。それも願望がだいぶ色濃く出た予想だ。
もしかしたらこの説はまったくの見当違いで、ヒューゴが生きていようがいまいが繰り返しが続く可能性もある。これで全て解決だと期待をしたのに、嘲笑うように覚えのある『今日の朝』を迎えてしまうのだ。
その時の落胆は計り知れない。
今までより重く伸し掛かり、ついに心が折れてしまうかもしれない。
レオンハルトはそこまで考え、十五回目どころかその先を視野に入れて話しているのだろう。
「そうですね。レオンハルト様の仰る通り、少しぐらいは好きに過ごしても良いのかもしれません」
「そうだろ。幸いではないしうんざりする話だが、今の俺達には時間は呆れるほどたっぷりあるんだ」
「なにがあっても心を強く持ち続けなくてはなりませんものね。そのためにはあえて余裕を作ることも必要……。確かにレオンハルト様の仰る通りです。私、焦るあまりに心に余裕を持つことを忘れておりました」
そうコーネリアが話してレオンハルトに感謝を示すも、どういうわけか彼はバツが悪そうな表情を浮かべてしまった。雑に頭を掻き、「そこまで言われるほどでも……」と歯切れの悪い返事をしてくる。
挙げ句、観念したと言いたげな表情で肩を竦めた。
「実を言うと、そこまで深く考えてはいなかったんだ。ただ『十五回目の今日』に君に伝えたいことがあって、それで提案したに過ぎない」
「伝えたい事ですか? それなら今仰ってくださってもよろしいのに」
「いや、それは……。まだ勇気が出ないんだ。だから『十五回目の今日』まで待っていてくれないか?」
「勇気……? えぇ、もちろん待つことは構いませんが……」
だけどいったい何を伝えようとしているのか。
コーネリアの中に疑問が浮かぶも、レオンハルトは早々に「それでこれからだが」と話を改めてしまった。
表情を真剣なものに変えてレチェスター家の屋敷を見つめる。彼の視線に促されるようにコーネリアもまたレチェスター家を見つめた。
既にリネットは屋敷の中へと入り、ヒューゴもそれを追いかけていった。
今にも倒れそうなサラをラスタンス家夫人が支えて彼女達もまた屋敷へと入り、残っているのは数人の使いと、レオンハルトが連れていた警備。そしてグレイス・レチェスターと、彼に御者の企みを話すエルマー・ラスタンス。
聞かされた話に、元より青ざめていたグレイスの顔色が更に青くなるのが遠目にも見えた。




