47:赤い一夜は過去に消えて、朝
この繰り返しの中で飽きるほど聞いたヒルダの言葉。だが今回だけはその言葉に安堵を覚え、泣きたい気持ちを押さえながらもコーネリアは王宮に行くと告げてすぐさま準備に取り掛かった。
もちろん朝食も断り、すぐさま準備されていた馬車に乗り込んだ。走る速度さえも遅く感じられ、急く気持ちを抑えきれず窓に張り付く。
心臓が痛いぐらいに跳ね上がる。
大丈夫だと自分に言い聞かせても心音は体の中で響き渡り、その音が炎の唸りへと変わる。
馬車が道を走る音、窓から入り込む風と木々の音。その中に幻聴でしかない炎の音を聞いてしまう。
それらが混ざり合い熱風さえも蘇りそうで、コーネリアは震える手を強く握りしめた。手の中が汗でぬるりと滲んでいる。
(もっと早く乗馬の練習をしていればよかった)
そうすれば、今も馬に跨って馬車より早く駆ける事が出来ただろう。
後悔が胸に湧き、そしてその後悔すらも、コーネリアの考えを後押しして胸中を急かす。
考えれば考えるほど胸が痛む。鼓動は早まり、意識はひたすらに王宮へと急かし、耳の奥では前回の今日の幻聴が続く。
そして……、
『また次の今日に会えるから……。だから、泣かないでくれ……』
最後に聞いた、レオンハルトの声。
今まさに死が迫っている者とは思えない優しい声だった。
その声がはっきりと鮮明に思いだされ、コーネリアは胸の前で手を組み、指が痛むのも構わず力を入れた。
「レオンハルト様、どうかご無事でいてください……」
願うように掠れる声で呟くのとほぼ同時に、窓の外に王宮の建物が見えた。
「レオンハルト様、レオンハルト様はどちらにいらっしゃるの!」
王宮に着くなり、コーネリアは挨拶や訪問理由を話すことなくレオンハルトの名を呼んだ。
驚いたメイドや給仕達が駆け寄ってくるが、それに対してもコーネリアはただひたすらにレオンハルトの名を呼んだ。
早く彼に会いたい。無事を確認したい。
(いつもの穏やかな声で私の名前を呼んで……)
乞うような思いでレオンハルトの姿を探す。
出来るならば客室に通そうとするメイドの案内など無視をして、王宮内を駆けまわってでも彼を探しまわりたい。声をあげて、何の部屋か分からずとも虱潰しに扉を開けて、レオンハルトはどこに居るのかと探したい。
そんな思いが通じたのか、願い求めた声が通路に響いた。
「コーネリア!」
名前を呼ばれ、足を止めると同時に振り返った。
コーネリアの視界の先で銀の髪が揺れる。紫色の瞳が見つめてくる。
間違いない、その姿は……。
「レオンハルト様!」
レオンハルトの名を呼び、コーネリアは堪らずに駆け寄った。
彼の腕を掴み縋るように無事を確認する。火傷の跡は、刺された怪我は、異変は無いかと問う。
そんなコーネリアの必死さに周囲は驚きを隠せず怪訝そうに見ているが、レオンハルトだけは穏やかに「コーネリア」と呼ぶとそっと肩に触れてきた。
しなやかでありながらも男らしさのある大きな手。力強く肩を掴まれ、ようやくコーネリアの胸の内で渦巻いていた不安が溶け落ちていった。
「俺は大丈夫だから、落ち着いてくれ」
「……大丈夫、なんですね。本当にご無事なんですね」
「あぁ、心配かけてすまない。きみも無事で良かった」
穏やかにレオンハルトが微笑む。その笑みには無理をしている色はなく、怪我も火傷の跡もないと話す声も落ち着いている。
彼が無事なのだと理解した瞬間、コーネリアの胸に安堵が湧き上がり、己の体から力が抜けるのを感じた。「良かった」と呟いた己の声は酷く弱々しく震えている。視界が揺らぎ、深く息を吐くと涙が頬を伝い落ちた。
朝からずっと体が強張っていた。息苦しさを感じていた。不安と恐怖と急かす気持ちが綯い交ぜになり、自分の心と体がちぐはぐだった。
そしてそんな自分の不安定さにすら気付く余裕もなく、安堵し硬直が解けた今になってようやく体の強張りを実感したぐらいだ。
「ご無事で良かった……。私、もしかしたらと思って……」
「俺もさすがに今朝は怖かったな。記憶が残ってるせいか体を動かすのもつらかったんだ」
曰く、今朝も彼は繰り返しと同じ時間に起きた。だが前回の今日の記憶があまりに凄惨過ぎたからか、体は動かしにくく、恐怖が纏わりついて顔色も誰が見ても分かるほどに悪い。中には医師を呼ぶべきだと話す者もいたというからよっぽどだ。
そんな状態でもレオンハルトはカルナン家へと向かおうとし、周りの制止を振り切り出かけようとした矢先にコーネリアの声を聞いて駆け付けたのだという。
「すまない、俺が行くべきだったのに動けなくて……」
「謝らないでください。あんな事があったんですもの、動けなくて当然です」
「……コーネリアの姿を見てようやく落ち着けたよ」
レオンハルトが安堵の表情を浮かべる。彼の言葉にコーネリアも頷いて返し、「私もです」と彼の腕を擦った。
そうして安堵の息を吐き、ようやく自分が取り乱し騒ぎ立てていた事を思い出した。
周りを見ればメイド達が困惑を露わにこちらを見ている。
さすがに相手がレオンハルトとコーネリアなので警備を呼んだりはしないが、かといって見過ごせるような状況ではない。さりとて割って入るのも躊躇われるのだろう。どうしたものかと言いたげだ。
「私ってば、焦っていて説明も出来ずただ騒いでばかりで……」
「あんな事があったんだから、君だって取り乱して当然だ。……といっても『あんな事』を覚えてるのは俺達だけなんだけどな」
苦笑交じりに話し肩を竦めるレオンハルトの様子は、コーネリアが幾度となく見た彼らしいものだ。それがまた彼が無事だと実感させてコーネリアの胸に安堵が増す。
だがふとレオンハルトが言葉を詰まらせ「俺達だけじゃないか」と呟いたのを聞いて、コーネリアは小さく息を呑んだ。穏やかだった彼の表情が強張る。
レオンハルトもまた繰り返しているのは自分達だけではないと気付いたのだ。
否、それだけではない。きっと、誰がどう繰り返しているのかも理解したのだろう。
だがコーネリアが見つめていることに気付くと、不安にさせまいと考えたのか再び表情を穏やかなものに変えた。
少し困ったように笑うのは顔に出してしまったことを恥じているのか。
次いで彼は様子を窺っていた使い達に向き直ると、案じる事は無いと、各々の仕事に戻るように告げた。使い達はまだ困惑の色を残しつつも、それでも恭しく頭を下げて去っていく。
その背を見送りコーネリアがゆっくりと息を吐けば、同じように見届けたレオンハルトが「移動しよう」と促してきた。
彼に案内され一室へと入る。これからの話を考えると緊張と不安が再び湧き上がり、コーネリアは無意識に胸元を掴んだ。
それに気付いたのか、レオンハルトが少し大げさに「しまった」と呟いた。
「紅茶と軽食の手配は頼んでおくべきだったな」
「軽食ですか?」
「実を言うと朝食を摂っていないんだ。さすがにそんな気分になれなくてね。コーネリア、きみは?」
「……私もです」
今までの繰り返しであれば、今は母との朝食を終えた頃だろうか。
もっとも、朝食を抜いたからといって空腹は感じていない。胸中はそれどころではないのだ。むしろ今無理に食べれば気分が悪くなりかねない。
レオンハルトも同じだったようで、苦笑交じりに「分かるよ」と頷いてきた。
「どうにも食べる気にならなくて断ったんだ。まさかこんな形でトマトスープを残すことになるなんてな」
苦笑交じりに話すレオンハルトに、コーネリアは彼らしい態度に安堵を覚えた。
そうして向かい合うようにソファに腰掛け、どちらともなくゆっくりと息を吐く。室内には沈黙が広がり、棚の置時計がカチカチと時を刻む音だけが規則正しく続く。
時計……、とコーネリアは置時計を見つめた。今回の今日も、時計は何も変わらずに針を動かすだけだ。
その音を静かに聞いていると、レオンハルトが口火を切った。
「リネットも繰り返していたんだな……」
呟くようなレオンハルトの言葉に、コーネリアは深く頷いて返した。




