44:寄り添う二人
そうしてしばらくは他愛もない会話を交わす。
共通の知人や、先日行われたパーティーについて、ドレスや装いの流行……。サラとは親と子ほど年が離れているとはいえ共に社交界に身を置く女性同士、話が尽きることは無い。
そんな中、サラがふと言葉を詰まらせ……、そしてふっと視線を他所へと向けた。
真っ白な壁。掛けられている絵画は美しい。
だがその瞳が絵画を見つめていないことは憂いを帯びた表情から分かる。
サラが見つめているのは、壁を、そして数部屋通り越した先にある一室。リネットの部屋、そしてそこに眠るリネットだ。
今の今までどちらもあえて触れずにいた話題。ようやくと考えると自然とコーネリアの胸に緊張が湧く。穏やかだった部屋の空気が一瞬で張り詰めた気さえした。
「リネットは本当に穏やかな子で、本来なら暴れたり騒ぐようなことはけしてしないんです。先日だって、彼へ贈る刺繍がようやく完成したとそれはそれは喜んでいて……」
「彼……、ヒューゴ・エメルトですか」
「えぇ、そうです。二人で揃いの花を胸に飾って夜会に出るんだと話していたんです。それなのにどうして……」
サラが言葉を詰まらせ、ハンカチで目元を拭った。
「話の最中に申し訳ありません」と詫びるが、いったいどうして彼女を責められるというのか。コーネリアは彼女を気遣い慰めの言葉を贈り、そしてサラが手にしているハンカチに視線を止めた。
ハンカチの隅に刺繍が施されている。コーネリアの視線に気付いたのか、サラが視線を手元のハンカチに落とし、次いで穏やかに微笑んだ。リネットが施した刺繍なのだろう。
「リネットさん、本当に刺繍が好きなんですね。本棚にも刺繍の本がたくさんありました」
「昔から器用な子だったんです。ヒューゴに刺繍を褒められたのが切っ掛けで、本を取り寄せたり、海外の絵柄を手本にしたりとのめり込んでいきました。思えばきっとあの頃からお互いを想い合っていたんでしょうね」
「……乗馬の趣味は?」
ふと思い立ってコーネリアが尋ねれば、サラは不思議そうにハンカチから顔を上げて「乗馬?」と首を傾げた。
刺繍の話から一転して馬の話題になったのだから当然の反応だ。
「乗馬とは、ヒューゴがですか? もちろん乗りこなせます。こちらに来るといつもリネットを乗せて二人で出掛けているんです」
「いえ、ヒューゴではなくリネットさんです。リネットさんが、自ら馬に乗って走らせたりは?」
「あの子が?」
夫人が今度は目を丸くさせる。
その反応だけでもリネットに乗馬の趣味が無いと察し、コーネリアはこのまま話を終らせようかと考え……、それでもと話を続けた。
「趣味とまでは言わなくても、たとえばヒューゴに誘われて乗ってみたり、彼と並走するために練習をしたり、興味を持っていたような素振りはありませんでしたか?」
「いえ、そんなことは……」
たとえを出してみるものの、サラの返答は今一つパッとしない。なぜこんな事を問われているのか質問の意図が読めないと言いたげである。眉尻を下げて困惑の色さえ宿している。
これ以上無理に探れば不審に思われかねない。そう考え、コーネリアはならばと自分の話題に変えた。
「私、たまに馬に乗ってみるんです」
「コーネリア様が? 馬車にではなく?」
「はい。友人が健康のために乗馬を始めたと聞いて、私も挑戦してみようと思ったんです」
その話をした際にリネットも同席をしており、興味があるように見えたから。そうコーネリアが話せばサラがようやく合点がいったと表情を和らげた。
だがこれは嘘だ。だけど完全なる嘘ではない。
確かに以前に友人が乗馬の話をしていた際、リネットもその輪の中にいた。だが乗馬が趣味と聞いて驚いた表情をしていただけで、興味があるような素振りは見せていなかった。
嘘を吐く罪悪感はある。それでも話を聞き出すためだ。
嘘のような、そして嘘であって欲しいこの繰り返しの中、真実だけを口にして全てを解決できるとは思えない。
そう自分に言い聞かせてコーネリアが改めて問うように視線をやれば、サラはゆっくりと首を横に振って改めて否定してきた。
「リネットにはそういった趣味はありません。ヒューゴに遠乗りに連れて行って貰う時も、リネットは彼の前に座るだけで、手綱もヒューゴが握るんです。動物は好きですが小動物を愛でる程度ですよ」
「そうでしたか……」
「時間があっても刺繍をするか本を読むかですし、確かに少しぐらい運動をした方が良いかもしれませんね」
サラが穏やかな表情で笑う。話をして少しは気が紛れたのだろうか。
だが落ち着くサラとは逆にコーネリアの胸中は荒れていた。落ち着かないとと自分に言い聞かせても鼓動は早鐘を打つことをやめず、次から次へと濁流のように考えが湧いてくる。
自分の思考なのに混乱を治めることが出来ず、動揺を悟られまいと深く息を吐いた。
だというのに次の瞬間に落ち着かせたはずの心臓が跳ね上がったのは、サラの口から「夜会」という単語が出たからだ。
「や、夜会が……、どうなさいました?」
「今夜の夜会ですが、私は欠席するつもりです。リネットのそばに居てあげようと思って……。ですが夫のグレイスは出席すると言っておりますので、もし何かあれば声を掛けてやってくださいませんか?」
リネットの件は他言不要となっている。いつまで隠し通せるかは定かではないが、それでも屋敷内に緘口令を敷けば今夜一晩はリネットを護りきれるだろう。
だがどれだけ隠し通そうにも妻子が不在であれば疑問を抱く者が出るのは当然だ。
リネットが今夜の夜会を楽しみにし、それを周囲に話していたのなら尚更。周囲は悪意なく唯一出席したグレイス・レチェスターに疑問を投げかけるはず。
それに対してグレイスはそつなく対応できるだろうか?
話題が他の事ならばまだしも、愛する娘の異変、それも今朝からとなれば、動揺するのも無理はない。
だからと縋るように見つめてくるサラに、コーネリアはもちろんだと返した。
◆◆◆
サラとのお茶を終えて、再びリネットの自室へ戻る。
リネットは一度起きたもののやはりこちらの声は聞こえていないようで、起きるなり部屋を出て行こうとし両親や使い達に押さえられていた。駆け付けた医者に半ば無理やりに薬を飲まされ、落ち着いたかと思えば再び眠りに就いてしまう。
その間一度としてコーネリアを見つめることはなく、部屋にいることに気付いている様子すら無かった。
リネットが起きて医者に投薬されて眠るまで、時間にすれば数十分程度だったろうか。
だがその異質さと張り詰めた空気は後を引くように屋敷中に残り、再びリネットが眠りに就いてもなおコーネリアは妙な汗を背中に感じていた。
心臓が鷲掴みにされたかのような圧迫感。息苦しく、邪魔にならないようにと部屋の隅に寄ったまま動けない。
リネットの異常さはこの繰り返しの中で何度も目にしてきた。今回だって、こうなっていると分かったうえでレチェスター家を訪れたのだ。
それでもやはり目の当たりにすると圧倒されてしまう。
……それと、娘の豹変を悲しみ嘆き必死に縋りながら止めようとする夫妻の姿を見ると、心臓が痛みで悲鳴をあげそうになる。
「リネットさん……」
辛うじて漏れ出たコーネリアの声に、ようやく娘が眠りに就いたと安堵していたサラが振り返った。
疲労の色がはっきりと濃く出ている。それでも貴族の夫人を取り繕おうと縒れた上着を正した。
「申し訳ありません、コーネリア様。お見苦しいところをお見せしてしまって……」
「い、いえ、謝らないでください。突然のことで少し驚いてしまっただけです」
「あぁ、もうこんな時間ですね。コーネリア様も夜会の準備がありますでしょう」
暗に帰宅を促してくるサラに、コーネリアは一瞬躊躇いを抱いた。
今回の『今日』はずっとリネットに着いていようと考えていた。
出来ることならば夜会の時間も、彼女が屋敷に残るのなら共に残り、別の場所に行くのなら着いていき、もしも前回の今日のように夜会に現れるならそれに同行しようと思っていたのだ。そのためにはここで帰宅するわけにはいかない。
だが先程サラからグレイスの事を託された。
それに夜会に出て、レオンハルトに『前回の今日』と『今回の今日』について話さなくてはならない。
なにより、これ以上レチェスター家に残るのはあまりにも残酷だ。
自分が居てはサラもグレイスも悲しみに耽ることも嘆く事も出来ない。胸の内を押し留め貴族としての立場を無理に取り繕わねばならないのだ。
たとえ夜の十二時を迎えて『今日』が無くなれば全て消えてしまうとしても、今こうやって目の前にいる彼等を蔑ろには出来ない。
「そうですね……、では失礼いたします」
「本日はリネットのために足を運んでいただき、ありがとうございます。どうか夜会を楽しんできてくださいね。レオンハルト様にもよろしくお伝えください」
「えぇ、伝えます」
「本日の夜会はレオンハルト様のエスコートですか? お二人が並ぶと金の髪と銀の髪がとても華やかだとよくリネットが話していたんです」
「リネットさんが、私達を……」
リネットの言葉を思い出して話すサラに、コーネリアは一瞬言葉を詰まらせた。
ちらと視線を向ければベッドには眠るリネットの姿。傍らにはグレイスと医者が立ちなにやら話し合い、時折はリネットの顔を覗き込んでいる。
リネットは母親であるサラ譲りの濃い赤茶色の髪をしている。淑やかな彼女によく似合った髪色。そして彼女の恋人であり近く婚約者になるヒューゴ・エメルトは黒い髪をしていた。彼もまた実直な性格に似合った落ち着きのある髪色だ。
二人ともよく似合っている。もちろんリネットもそれは自覚しているはずだ。時には母親譲りの髪色を誇る事もあるのだという。
それでも鮮やかな色合いの髪には憧れてしまうのだと、サラが話しながらぎこちない表情で笑った。……笑っているように見せるために口角を上げた。
「……そんな風に、リネットさんは話していたんですか」
コーネリアの胸になんとも言えない感情が湧いた。
「でも、私とレオンハルト様は、別に……」
たとえ並んで立っていたとしても、髪色がどれだけ華やかだったとしても。
本当に愛し合って寄り添うリネットとヒューゴとは違うんだから。
そう言い掛けるも、言葉が上手く出てこない。
自分で思い至った言葉が自分の胸を締め付け、無意識に胸元をぎゅうと掴んだ。
「コーネリア様、どうなさいました?」
「な、なんでもありません。……そろそろ失礼いたしますね。お忙しいところに押しかけてしまい申し訳ありません」
「そんな、私の方こそコーネリア様とお話出来て光栄でした。リネットが起きて、……お茶が出来るようでしたらぜひまたお越しください」
「ありがとうございます」
サラからの誘いの言葉と声には『次にリネットが目を覚ました際、元に戻っていますように』という願いが込められている気がしてならない。
それがまたコーネリアの胸をしめつけるが、顔に出すわけにはいかないと堪えて穏やかに微笑んで返した。
皆もとに戻りたがっているのだ。
そして以前と変わらず平穏な『明日』が来ることを望んでいる。
彼等が望む『明日』では、コーネリアとレオンハルトは婚約者のままなのだろうか。
だが婚約者のままであっても、二人の間には政略の関係しかない。そんなこと誰だって分かっていたし、周囲が分かっていることをコーネリアは受け入れていた。
サラの言葉だって『昨日』までのコーネリアなら、否、繰り返したばかりのコーネリアだったなら、そのままに受け止めただろう。
『次期王である第一王子レオンハルト』と『次期王妃である彼の婚約者コーネリア』としてならば喜びも嘆きもしない言葉だ。政略のうえでの関係であっても並ぶ姿が鮮やかと言われれば、さして悪い気もしなかった。
だけど、もう違う。
(私の気持ちだけが繰り返しの中で変わっていく。……もしも『明日』になったら、この気持ちも先に進めるのかしら)
胸の痛みを堪え、コーネリアはメイドに案内されるままにリネットの部屋を出ていった。




