42:侯爵家令嬢の奇怪な行動
「レオンハルト様! 大丈夫ですか!」
コーネリアが小屋の裏手へと回れば、そこにはレオンハルトとリネットの姿があった。
レオンハルトは呆然と立ち尽くしており、コーネリアが来たことに気付くとゆっくりとこちらを向いた。
青ざめ強張った表情。今の彼の顔を見れば、この繰り返しを知らぬ者だって只事ではないと一目で分かるだろう。
リネットはと言えば……、どこから持ってきたのかバケツを手にしており、勢いをつけて中に入っていた水を小屋にかけた。
そうしてバケツが空になると何かを叫びながら井戸へと向かい、水を汲み、再び戻ると小屋に水をかけ、また井戸へ……。
夜の暗がりの中、リネットの叫び声と水音が不自然に続く。
その光景はまさに異常だ。
「レオンハルト様、これは……。リネットさんは何を……」
「分からない。何度もああやって水を汲んでは小屋にかけてるんだ。何を話しかけても返事をしないし、止めようとしても振り払われる」
その姿はまさに一心不乱。水を撒くリネットにはレオンハルトとコーネリアの声は一切届いていないのだろう。
もしかしたら見えていないのかもしれない。だとするのなら、彼女はいったい何を見ているのか……。
まるでリネットが別世界にいるようだ。だが、かといって自分達が華やかな夜会が開かれている世界にいるとも思えない。自分達もまた異質な別世界に放り込まれたようで、コーネリアは震える声でリネットを呼んだ。
「リネットさん、落ち着いて……。ねぇ、話を聞いて」
恐る恐るコーネリアが声を掛けるも、リネットが反応する様子はない。むしろコーネリアの声が届いているとも思えない。
彼女は小屋に水を撒いては空になったバケツを持って井戸へと向かうだけだ。
鬼気迫る必死な表情。愛らしい顔付きが今は酷く歪んでいる。喉から出る声は言葉にはなっておらず、人の言葉というよりはもはや動物の鳴き声に近い。
「リネットさん……、ねぇ、リネットさん!」
「リネット・レチェスター、いったいきみは何をしてるんだ!」
コーネリアとレオンハルトが同時に声を掛け、レオンハルトがリネットの腕を掴もうとする。
その瞬間「お待ちください!」と男の声が割って入ってきた。屈強な男が三人走り寄ってくると、コーネリア達とリネットの間に割って入ってきた。
王宮の警備を務める者達だ。さすがに子爵家令嬢であるリネットに対して手荒なことは出来ないようだが、それでも一人が羽交い絞めにして動きを止め、二人は警戒の姿勢を取りながらコーネリアとレオンハルトに下がる様に促してきた。
警備が割って入ってきたことにより、凍てついた異質な空気が荒々しいものに変わる。
先程まではリネットの悲鳴と水を撒く水音だけだった世界に、警備の声と、駆け付けてくる増援の足音と、彼等がレオンハルトに報告する声が被さる。
荒々しい光景だ。だがその荒々しさは同時に現実味を帯びている。
途端に自分達のいる世界が他の世界と繋がった気がして、コーネリアは足に力が入らずふらとバランスを崩し掛けた。レオンハルトが慌てて腕を掴んで支えてくれる。
「大丈夫か?」
「え、えぇ……。警備が来て安心したら気が緩んでしまったようです」
「そうか。警備はコーネリアが呼んでくれたんだな、ありがとう。レチェスター家にも連絡がいっているらしいから、すぐに夫妻が迎えにくるだろう」
「……そうですね。私、その際はリネットさんと一緒にレチェスター家に向かおうと思います」
「レチェスター家に?」
どうしてとレオンハルトが尋ねてくる。
それに対し、コーネリアは視線をリネットへと向けた。先程まで必死な形相で小屋に水をかけていた彼女は、今はもうバケツを手放し、力なくその場にしゃがみこんで呆然としている。
傍目には、警備に取り押さえられて動けなくなり断念したように見えるだろう。
だが実際は違う。
リネットは警備に押さえられたから行動を止めたのではない。きっと彼女の目には自分を取り押さえる警備すらも映っていないのだ。
ならばどうしてリネットは小屋に水をかけることを止めたのか。
そもそもなぜ小屋に水を掛けるなんて行動に出たのか?
「リネットさんの行動にはきっと意味があると思うんです。それに、なにか気付かないといけないことがあるような気がして……」
「気付かないといけないこと?」
「はい。ですがそれがまだ分からなくて……。だからこそ今夜と、そして次の今日はずっとリネットさんに着いていようと思います」
レチェスター家夫妻の気持ちを考えればそっとしておくべきだ。目的のためとはいえ、顔見知り程度だったのをさも友情があったかのように騙り近付くのは非道と誹りを受けるべき行為。
だが今この状況は情に駆られている場合ではない。もしリネットがこの繰り返しに関与しているのなら尚更。
そうコーネリアが話せば、レオンハルトは僅かに示唆したのち「分かった」と頷いて返してきた。
渋々と言いたげな声色と表情なのはコーネリアを案じているからだろう。だがレオンハルトとコーネリアではどちらがリネットに近付きやすいかは考えるまでもない、ゆえに応じたと言いたげな表情だ。
「何が起こるのか分からない。どうか気を付けてくれ……」
「かしこまりました」
「俺は『次の今日』は朝から北の領地に向かおうと思う」
「北に……。でも、レオンハルト様」
繰り返しの中でレオンハルトが自ら北の領地に向かった事を思い出し、コーネリアは悲痛な声で彼を呼んだ。
あの時、彼は目の前でラスタンス家夫妻とヒューゴが落石に遭うのを目の当たりにしたのだ。その時のことを語るレオンハルトは顔色を青ざめさせ、そして時折は苦しそうに声を詰まらせていた。
今回もヒューゴの死を目の当たりにし、更に次の今日にも……なんて事になれば、彼の心が折れかねない。
だがコーネリアが案じるのに反して、「大丈夫だから」と返すレオンハルトの声ははっきりとしている。
「何をすれば良いのか分からないが、きっと何かをしないと『明日』は来ないんだ。恐れてばかりじゃいられないさ」
レオンハルトが苦笑を浮かべる。
「そうだろう?」と問われ、コーネリアは不安を抱く胸元をぎゅっと握り「はい」と返した。
◆◆◆
レチェスター家夫妻は最初こそ難色を示したものの、コーネリアがリネットに付き添うことを了承してくれた。
そうしてレチェスター家へと向かえば、当然だが屋敷内の空気は重い。
メイドや使い達もコーネリアに対して失礼の無いようにと振る舞うものの表情は暗く、中には耐えられないのだろう話している内に声を詰まらせてしまう者もいた。涙が止まらず表には出て来られない者も少なくないだろう。
今日一日でレチェスター家を取り巻く世界は一転したのだ。
華やかなカーテンや煌びやかな飾りといった名残りが、この不幸の突然さを物語っている。
「……ねぇ、リネットさん。いったい何が見えてるの?」
ポツリと囁くようにコーネリアが告げる。
だがその問いかけに返事はない。聞こえてくるのはカチャカチャと茶器を用意する音と、そしてお茶の手配をしていたメイドの小さな溜息だけだ。
「紅茶をご用意いたしました。それと、あちらの本棚にある本でしたら読んでも差し支えないかと」
「ありがとう、頂くわね。本も一冊借りようかしら」
「部屋の外には警備が居りますので、なにかあればお声掛けください」
名残り惜しそうにチラと部屋の一角へと視線を向け、次いでメイドが恭しく頭を下げて部屋の扉へと向かう。
出て行く際の「リネットお嬢様をお願い致します」という声のなんと痛々しい事か。
そんなメイドの懇願に対してコーネリアは「分かったわ」と告げて部屋の扉を閉じた。出来ることならば「任せて」と言ってあげたいところだが、ただでさえ友情を偽って屋敷に居る身でこれ以上に薄情な事はしたくない。
そうして部屋にはコーネリアと、……ベッドに上半身だけを起こして呆然としているリネットだけが残された。
「リネットさん、本、借りるわね」
「…………」
「あ、この本、私も持ってるわ。主人公が格好良いのよね。このお話では閉じ込められるのに窓からカーテンで降りて……、私ね、同じことをしたのよ。カーテンとベッドシーツを結んで二階の窓からするする伝って降りたの」
『十回目の今日』を思い出せば、コーネリアの表情に僅かだが笑みが浮かんだ。
窓からカーテンで伝い降りた時の緊張感、物語に出てくる主人公と同じ事をしたのだという高揚感。両親に見られたのは計算外だったが、それも繰り返しの中で消えたのだから良いだろう。
なにより、話を聞いたレオンハルトの楽しそうな表情を思いだせば笑みが強まる。
「リネットさんも試してみたらどうかしら。私はもう一度やってみる予定だから、いっそ一緒に二階の窓から降りてみましょうよ」
「…………」
「怒られる心配ならいらないわ。レオンハルト様が責任を取ってくださるんですって。私は婚約を盾にされて、リネットさんは私を庇うために一緒に脅された事にしましょう」
本棚から一冊借りた本を捲りながらコーネリアが誘うように話しかける。
まるで友人と他愛ない会話を交わすように。仮にこれが友人同士の微笑ましい会話であったなら、きっと「まぁコーネリア様ってば」と楽しそうな返事が返ってきただろう。
だがコーネリアの誘いの言葉に返事はない。
リネットは虚ろな瞳で虚空を見つめたまま微動だにしない。
コーネリアがいくら話しかけても、傍らに暖かな紅茶を用意されても、リネットの瞳は動かない。細く開けられた唇から微かな呼吸を漏らすだけだ。
そこについ数時間前に見せた、レオンハルトや警備を振り払ってでも水を汲もうとしていたあの鬼気迫るほどの迫力はない。
まるで別人のよう。……いや、別人どころか今のリネットは人形のように動かない。
静かな部屋の中に、コーネリアの話し声だけが続く。
そんな異質な空気を感じつつ、それでもとコーネリアはリネットからの返事を願うように話しかけ続け……、
だが次の瞬間、突如動き出したリネットに驚いて体を強張らせた。
「リネットさん……!?」
引きつった声で彼女の名を呼ぶ。
だがリネットはやはり返事をすることなく、コーネリアを見る事もせず、ベッドから転がり落ちるように降りると部屋を飛び出していった。
警備の制止の声が聞こえる。それと居合わせたメイドがグレイスを呼ぶ金切声。
「待って……、リネットさん! 待って!!」
我に返ったコーネリアは続くように部屋を飛び出していった。
リネットはそのまま屋敷を出て、屋敷に隣接している馬小屋へと向かうと一頭に飛び乗った。その動きには迷いも恐れもなく、大きく手綱を引くと勢いよく馬を走らせる。
警備達が続くように馬に乗りだすのを見て、コーネリアは近くに居た警備に自分も連れていくようにと頼んだ。馬車の準備を待っていては間に合わない。
「ですが、コーネリア様」
「何かあっても全ての責任は私が取るから! だから早く!!」
声をあげて頼めば、警備が頷くと共に前に乗るように促してきた。
礼を言う余裕もなくすぐさま飛び乗る。それとほぼ同時に馬が走り出した。
そうしてリネットを追って辿り着いたのは、日中にも訪れた西の森。
夜の帳に覆い尽くされたそこは不気味としか言いようが無く、梟の鳴き声だけが規則正しく聞こえてくる。
再三の制止の声に聞く耳を持たず走り続けたリネットは馬を乗り捨てるように降り、すぐさま森の奥へと走っていった。
コーネリアもまたそれに続くようにし、まだ止まりきっていない馬から飛び降りるようにして地面に降り立つと、警備の制止の声も聞かずにリネットを追って森の中へと入っていった。
「リネットさん、待って! リネットさん!」
木々の合間に時折リネットの後ろ姿が見え、それを必死で追いかける。
真暗闇の森の中だというのにリネットの足取りに迷いはなく、彼女を見失わないよう着いていくだけで精一杯だ。木の枝や背の高い草が肌を傷つけるがその痛みを感じる余裕もない。
後方からはリネットとコーネリアを呼ぶ警備達の声が聞こえてくる。
「……リネットさん、お願い、待って……! リネットさん……!」
森の中を走り、前をゆくリネットに声を掛ける。
そうしてどれだけ走ったか、暗闇の中では距離も分からず、目印も何も見えない。
いったいどこに行くのか。そうコーネリアが疑問を抱いたのとほぼ同時に、まるで答えを突きつけるように視界が広がり、……そして目の前に湖が広がった。
……湖だ。
夜の湖はまるでぽっかりと空いた穴のようで、暗いというよりも黒い。
その異質な光景に、そしてここが『九回目の今日』でリネットが身を投じた池だと察し、コーネリアの全身に寒気が伝った。走り続けて熱いはずなのに体が冷える。荒れるほど鼓動を速めていた心臓が一瞬にして凍り付いたような錯覚を覚える。
そして湖へと走り寄っていくリネットの姿に、コーネリアは制止の声をあげて彼女を追おうとし……、
ぐらりと視界が揺らぐのを感じた。
途端、意識が靄掛かる。
「なに、これ……」
耐え切れずにその場に崩れ落ちる。
地面に膝をつけ、それだけでは足りないと両手で体を支える。それでも倒れそうなほど意識が朦朧とする。体から力が抜けていくような感覚。
つい先程まで聞こえていた警備の声が今は聞こえてこない。聴覚すらも靄掛かってしまったのか、五感すべてが何かに遮断されたようにはっきりとしない。
顔を上げればリネットの後ろ姿がぼんやりと見える。迷いなく湖の深くへと進んでいく後ろ姿。必死で這いずり彼女のもとへと近付こうとするが、その手にも力が入らない。
あと少しなのに手が届かない、手を伸ばせない。
「リネット、さん、まっ……て…………」
絞り出した言葉を最後に、コーネリアの意識が靄に絡めとられた。
その言葉に被さるように、
「待っていてヒューゴ。次はきっと、貴方を救うから……」
細い声が夜の風に乗り、次いで、パシャンと水音が響いた。
だがその声も音も、コーネリアに届きはしたが意識と共に靄に掻き消された。
◆◆◆
「おはようございます、コーネリアお嬢様。本日の夜会、楽しみですね。レオンハルト様にお会いするのは久しぶりでしょう」
ヒルダの言葉を、コーネリアはカルナン家の自室のベッドの上で聞いた。
昨夜、否、前回の夜、確かにコーネリアは西の森に居た。もちろん着ていたのは寝間着ではない。
だが今の姿はどうだ。まるで自宅に戻って着替えて自らベッドに入ったかのようではないか。
(レオンハルト様の仰っていた通りだわ……)
以前にレオンハルトから、日付が変わる間際の事を聞いた。
日付が変わる十分程前から意識が揺らいで、気付けば自室のベッドで『今日の朝』を迎える。
まさにその通りになった。分かっていた事とはいえ自分で体験すると薄気味悪い。
……だけど、恐れてばかりではいられない。
「レチェスター家に行くわ、馬車の用意をして」
「今からですか? あの家は今少し……、それにあまり早い時間の訪問は控えた方が良いかと思いますが」
「とにかく急いでるの!」
早く! とコーネリアは急かしながら、ベッドから降りると準備に取り掛かる。
ヒルダが唖然としながらも頷く。その際に告げられた「朝食はどうなさいますか?」という問いに、コーネリアは食べている場合ではないと返そうとし、だがすぐさま考えを直した。
「馬車の中で食べるわ、用意して」
そう告げて、外出用の服を手に取った。
何が起こるか分からない、だからこそ朝食はしっかりと食べなければ。
これはレオンハルトが言ってくれた言葉だ。