34:王子様の屋根の鳥
「レオンハルト様は本日はどのように過ごされたんですか?」
「俺か? 俺はトマトスープを飲んだ後、また剣の稽古を付けてもらったよ。今回も負けてマーティスと比べてくるから、蹴り倒して殴りかかった。それで、その後は……」
言葉を途中で止め、レオンハルトが頭上を見上げた。
コーネリアもそれに続くように空を仰ぎ、そこでようやく、彼が眺めていたのが空ではない事に気付いた。
レオンハルトの視線は王宮に向けられている。王宮の上階、いや、屋根だろうか。
そこに何か……、と問おうとし、察したコーネリアは息を呑んだ。まさか! とレオンハルトへと視線をやれば、屋上を見つめたままの彼がニヤと笑みを浮かべた。
「屋根に登ったのですか!?」
「あぁ、以前から屋根に通じる道にあたりはつけていたんだ」
「そんな、危ないですよ!」
「念のためにと命綱としてロープは用意していたが、意外と足場はしっかりしていたよ。風が気持ちよくて、ここいら一帯が見渡せて最高の景色だった」
屋根に上った時の景色を思い出しているのか、話しながらレオンハルトが目を細める。心地よさそうで嬉しそうな表情だ。
今は地面に立ち屋根を見上げているが、きっと彼の心は今もまだ屋根に在り、眼下に広がる景色と遮るものなく体に触れる風を感じているのだろう。
そうして心地よさそうな表情にどこか愛おしそうな色合いを混ぜ、屋根を見つめたまま「それで」と話を続けた。
「屋根に絵を描いたんだ」
「絵を、ですか?」
「ペンキを持っていって、屋根に鳥の絵を描いた。どんなカンバスでも描けないほど大きな白い鳥の絵だ」
白い鳥。空を飛ぶように羽を広げ、紫色の瞳は真っすぐに前だけを見つめる……。
彼の話を聞き、コーネリアは再び王宮の屋根を見上げた。
建物の構造ゆえ屋根に描かれた鳥の姿は地面からでは見られない。他の建物からはと考えたが、王宮以上に高い建物は無いため屋根を見下ろす事は不可能だろう。つまり屋根に上らない限り誰もその鳥を見る事が出来ない。描いたレオンハルト本人さえも。
「せっかく描かれたのに、見えないのは勿体ないですね」
「見えなくても良いんだ。それに、もしもこのまま『明日』になったら、俺は気球に乗って鳥の絵を見ようと思う」
「気球に?」
「剣の講師を殴って、君に対して窓からカーテンで降りるよう脅して、挙げ句に婚約破棄を言い渡すんだ。それにもう一回きみにカーテンから降りるよう脅して、その姿を鑑賞する。これだけやれば勘当は免れないだろ。だから気球で旅立つんだ」
気球で空に上がり、屋根に描いた鳥と共に飛ぶように王宮を去る。
そう話すレオンハルトの声は変わらず楽しそうで、勘当された後を語るとは思えない口調だ。むしろそうなる事を望んでいるような色さえある。
コーネリアはそんな彼を見つめ、心の中で「やっぱり」と呟いた。
(レオンハルト様、貴方が婚約破棄を言い出したのは……)
◆◆◆
そうして頃合いを見て再び夜会に戻り、レオンハルトがコーネリアに告げた。
「コーネリア・カルナン、きみと俺とではつり合わない、きみとの婚約は破棄させてもらう」
その言葉は真っすぐにコーネリアへと向けられており、迷いのない彼の言葉に周囲にいた者達が言葉を失い驚愕の表情を浮かべる。
動揺の囁き声が聞こえてくる。それと「つり合わないなんて」というレオンハルトの傲慢な言い草を非難する声。
隣に立つ母が案じて腕を擦ってくれる。対してレオンハルトは父親から咎められ、だがそれに対して応えることはなく会場を去ろうと歩き出した。
「お待ちください、レオンハルト様!」
混乱の囁きが微かな波のように続く中、コーネリアだけははっきりと彼の名前を口にして呼び止めた。
レオンハルトが足を止める。振り返った彼の表情は驚いたと言いたげに目を丸くさせており、だがすぐさま表情を戻してしまった。
なんの感情もこちらに悟らせない、冷めた表情。「どうした」と尋ねてくる淡々とした声。
『昨日』までのコーネリアならばこんな態度の彼に対して失礼なと不満を抱き、そしてこんな考えなしの愚行に走るなんてと彼に呆れを抱いただろう。
……いや、実際に抱いていた。
だけど今は違う。今はもう分かっている。レオンハルトが感情を表に出さないように努めていることも、そして彼のこの行動が考えなしの愚行ではなく、深く考えたうえでの決断だということも。
「レオンハルト様、私になにか至らぬところがあったでしょうか?」
「きみにそんなものあるわけがない」
「誰か他に伴侶にと望む方がいらっしゃるのですか?」
「いや、それも違う」
コーネリアの問いにレオンハルトが応えていく。この応酬はこの繰り返しの中で一度やったものだ。
あれは何回目だったかしら……、とコーネリアは記憶を辿り「五回目だわ」と小さく呟いた。
『五回目の今日』、今と同じようにレオンハルトから婚約破棄を言い渡され、コーネリアはそれでもと食い下がった。
この婚約破棄は自分に何か至らぬ点があるからなのかと尋ね、そうではないと分かると、今度はレオンハルトに恋仲の人物がいるのかと尋ねた。それに対しての彼の返答は、五回目の夜も今夜も同じだ。
そしてこの後に告げられる言葉も……、
「言った通り、きみと俺とではつり合わないからだ」
これもまた同じだ。そしてこの言葉に対して聞こえてくる周囲の声も同じ。レオンハルトの身勝手さを咎め、コーネリアがいかに王妃にふさわしいかを話す。
さざ波のように微かに湧いては消えてまた湧く囁き声。そんな中、儚い声でレオンハルトが呟く。
「……それだけなんだ」
と。この言葉を聞き、『五回目の今日』のコーネリアは何も言えず母に促されて外に出て行ってしまった。
当時はまだレオンハルトの考えが分からなかったのだ。ただ漠然と「レオンハルト様はこんな事を言い出す方ではない」という思いがあったが、それでも彼の真意を理解するまでには至らなかった。疑問と混乱が胸の内に渦巻くあの言いようのない焦燥感も覚えている。
だけど今回は違う。
繰り返しを続けてレオンハルトの人となりを知った。過去の自分の彼への印象が大間違いだったとはっきりと分かる。
だからこそここで引いてはいけない。
それに今回は繰り返しの中の『十回目の今日』なのだ。好きに過ごすと決めた……。
そうコーネリアは己に言い聞かせ、場を離れようと促してくる母の言葉を制止すると、歩き出そうとするレオンハルトを再度呼び止めた。二度目も呼ばれるとは思っていなかったのか、レオンハルトの表情が僅かに困惑を宿した。紫色の瞳がじっとコーネリアを見つめてくる。
「つり合わない……。それは、私とレオンハルト様が、ですか?」
「あぁ、そうだ」
改めて確認すれば、レオンハルトがはっきりと断言する。
周囲のざわつきがより増していく。「あのコーネリア・カルナンに対して」「あれほど優れた王妃候補はいないのに」という非難じみた囁き声、隣に立つ母が息を呑み、父が憤っているのが分かる。両陛下やマーティスまでもが何を馬鹿なことをと彼を咎める。
そんな周囲の反応を確認するように、そしてコーネリアにもそれを促すかのように、レオンハルトがゆっくりと周囲に視線をやった。
次いで目を細めて微笑む。なんて辛そうで悲しそうな表情だろうか。それでいてどこか晴れやかにも見える。
そうして彼は深く息を吐くと、コーネリアだけを見つめ、穏やかな声で囁くように告げた。
「俺ときみとでは、つり合えないんだ」
周囲の反応を見回したうえで告げてくるその言葉は、さながら「ほら見ただろう」とでも言いたげだ。
そして同時に、話の終わりを求めているようにも思える。
これ以上この事を言及してはいけない。
言及しないでくれ。
そうレオンハルトに乞われた気がして、コーネリアは胸の内に残る想いを押し留め、スカートの裾を摘まんで頭を下げることで返した。
◆◆◆
「つり合わない!? コーネリアお嬢様と!? いったい何様のつもりなのかしら!」
怒りを露わにするヒルダに対し、コーネリアは今度も出かけた言葉を飲み込み……、はせず、
「何様って、王子様でしょ」
はっきりと口にする事にした。
その瞬間のヒルダの表情といったらない。やっぱり火に油を注ぐ結果になった。
このままではヒルダがモップを片手に王宮に殴り込みにいきかねない。そう考え、コーネリアは「冗談よ」と彼女を宥めた。
「何様」に対して「王子様」だなんて冗談だ。それにレオンハルトは自分の身分に胡坐を掛くような男ではない。
……むしろ、逆だ。逆だからこそだ。
「ヒルダ、今のは冗談だから本気にしないで。それにきっとレオンハルト様にも考えがあっての発言よ」
「そうでしょうか? でもどんな考えだろうと、コーネリアお嬢様に対して『つり合わない』だなんて……。同じ王子であっても、第二王子のマーティス様なら」
「レオンハルト様だってそんな事を仰る方じゃないわ」
ヒルダの言葉を遮り、コーネリアは「もうこの話はお終い」と告げてヒルダの背を押した。
ぐいぐいと部屋の扉へと押しやる。もちろん無理やりではない。子供が親を自室から追い出すようなものだ。現に先程まで怒りを露わにしていたヒルダもすっかりと笑っている。
「では、おやすみなさいませコーネリアお嬢様。明日は何のご予定もありませんので、朝は普段よりも遅い時間にお声掛けしますね」
「そうね、そうしてちょうだい。はい、もうおやすみなさい」
「どうぞごゆっくりとお休みください」
コーネリアの急かし方が面白かったのか、ヒルダが笑いながら部屋を出て行く。パタンと扉を閉じれば、その音を最後に室内が静まった。
一人残された部屋の中、コーネリアは気合いを入れ直すようにふぅと息を吐き……、そして窓を、そこを覆うカーテンをじっと見つめた。
「『十回目の今日』はまだ終わってませんよ、レオンハルト様」