32:今夜は出来そうにない婚約破棄
他愛もない話をしながら会場へと戻り、何かに気付いたレオンハルトがふいに周囲に視線をやった。
コーネリアも倣うように見れば、周囲にいた者達が穏やかな表情でこちらを見てくるではないか。いつの間にやらコーネリアの両親や友人、それどころか両陛下やマーティスまでいる。誰もが微笑ましそうに表情を和らげており、仲睦まじいとでも言いたげな表情だ。
確かに、未来の王である第一王子と、そして彼の婚約者であり未来の王妃である公爵家令嬢が楽しそうに笑い合っていれば、微笑ましいと思うものなのだろう。笑い合う話題が婚約破棄についてだなんて彼等は知る由もないのだから猶更。
暖かな視線、穏やかな雰囲気。
これにはレオンハルトが参ったといいたげに頭を掻いた。
「しまった、これは……。婚約破棄を言い出せない空気になってしまったな」
「この流れで言い出されてしまうと、私も両親や友人に気遣われるよりも質問責めにあってしまうかもしれませんね。もしかしたら、先程まで話していたラスタンス家御夫妻にも迷惑が掛かってしまうかも」
「すまないコーネリア。今回はこのまま婚約者として『今日』を終えてくれないだろうか」
「はい、もちろんです」
レオンハルトの提案に、コーネリアは頷いて返した。これを断る理由はない。
このやりとりも、邪魔になるまいと距離を取って見守っている周囲の者達には聞こえて居ないようで、彼等は変わらず微笑ましそうに見つめてくる。
仮にここでレオンハルトがコーネリアに婚約破棄を言い渡せば夜会は騒然とするだろう。以前に彼が婚約破棄を言い渡した時も騒然としてはいたが、今回は状況がまた違う。周囲は二人を仲睦まじいと感じて暖かく見守っていたからこそ、きっと「ついさっきまで楽しそうにしていたのになぜ!」だの「あれほど仲睦まじく話していたのに!」だのと疑問を抱くはずだ。
(でも、以前はみんな驚きこそすれども私達の婚約破棄を受け入れていたのね。……私も)
この繰り返しが始まる前、コーネリアはレオンハルトからの婚約破棄に対して驚きこそすれども嘆きも怒りもしなかった。
違う状況に置かれてはじめて、繰り返しの前の自分達がいかに互いを知らず疎遠にしていたかを実感してしまう。
あの関係は『未来の王』と『未来の王妃候補』でしかなかったのだ。
……だけど、
(もう違うって思うのは、私だけなのかしら)
そんな思いがコーネリアの胸に湧く。
だがそれを問えるわけがなく、「せっかくだしエスコートしよう」と穏やかに微笑んで片手を差し出してくるレオンハルトに、「お願いします」と応えて彼の手に己の手を乗せた。
◆◆◆
夜会で婚約破棄を口にしない日の後は、レオンハルトは正式にカルナン家の屋敷を訪ねてくる。
コーネリアはヒルダから彼の訪問を聞かされ、用意していた上着を羽織って客間へと向かった。部屋へと入ればソファに腰掛けていたレオンハルトがこちらを向く。
……酷く青ざめた顔で。苦しそうに眉根を寄せて。
その表情は夜会で見たものとは違い悲壮感すら漂わせている。コーネリアはなぜと疑問を抱き、次の瞬間、胸の内が一気にざわついて息を呑んだ。
「まさか……」
己の中で血の気が引くのを感じる。
そんなコーネリアの様子に気付いたのか、案内をしていたヒルダが案じるようにそっとコーネリアの肩に手を置いてきた。
触れる優しい手に、そこから伝わる暖かさに、コーネリアは我に返るとヒルダを見つめた。心配そうにこちらを見つめ返してくる。
「コーネリアお嬢様、どうなさいました」
「……大丈夫、なんでもないの。レオンハルト様とお話がしたいから二人きりにしてもらえるかしら」
「かしこまりました」
「眠る前に暖かいレモネードが飲みたいわ。用意しておいて」
お願いね、と頼めば、ヒルダが心配そうにそれでも頷いた。
そうしてヒルダが去っていけば、客室には二人きり。
重苦しい空気が漂う中、それでも話さなくてはと考えたのかレオンハルトがゆっくりと口を開いた。
「ヒューゴが……、亡くなった」
レオンハルトの言葉に、コーネリアは「え……?」と掠れた声をもらした。
数時間前に会ったばかりのヒューゴの姿が脳裏に蘇る。
夜会に緊張しているのだろう上擦った声で、失礼のないようにと努める必死な姿は同年代のコーネリアですら微笑ましさを感じてしまう。会話をしたのは数分と短い時間だったが、それでも好感の持てる青年だった。以前にグレイスが彼を実直と評していたが、まさにその通りだ。
そんな彼が……。
「だってヒューゴは夜会に出ていたじゃありませんか。それなのにどうして?」
「俺達と別れた後、ヒューゴはラスタンス家夫妻と共にレチェスター家へと戻ろうとした。だがその途中、馬車の車輪が何かに乗り上げて止まり……、そこを……」
ヒューゴは御者と共に車輪を確認していたが、何者かに襲われ腹を深く刺されたという。医師のもとへ駆けつけたが間に合わず……。
レオンハルトの話に、コーネリアは自分の身体から体温が失われていくのを感じた。手が震える。
数時間前まで話をしていたヒューゴ・エメルトが今はもういない。
顔も、声も、去っていく後ろ姿も思い出せるのに……。
「いったい誰がヒューゴを……?」
「それが分からないんだ。ヒューゴを襲った犯人は御者にも馬車の中に居たレチェスター夫妻にも目もくれず、どこかへ消えていったらしい」
「レオンハルト様、それは……」
「犯人は元よりヒューゴを狙っていた、と考えるのが正しいだろうな」
はっきりとレオンハルトが告げてくる。
その言葉にコーネリアは眉根を寄せ、震える声で「どうして」と呟いた。
ヒューゴ・エメルトは、今回もまた今夜を超えられなかった……。
◆◆◆
そうしてまた夜が明ける。だが『明日』は来ることなく、まるで当然のように新しい『今日』が始まる。
コーネリアはゆっくりと体を起こし、朝の支度をするヒルダを見つめた。
何度も見た光景だ。彼女が振り返るタイミングも、そして言われる言葉も分かる。
「おはようございますコーネリアお嬢様。本日の夜会、」
「おはようヒルダ。今日の夜会、楽しみだわ。レオンハルト様にお会いするのは久しぶりだもの」
「……え?」
ヒルダが言おうとしていた事を先手を打って返せば、彼女は支度途中の手を止めてきょとんと目を丸くさせた。
なぜ言おうとしたことが分かったのかと疑問を抱いたのだろう。
そんなヒルダの表情にコーネリアはクスと小さく笑みを零し、ベッドがら降りた。
昨夜のことを……、否、前回の今日のことを考えると気分が沈む。
だが胸に浮かんだ暗い気持ちを暖かな紅茶と共に飲み込んだ。
落ち込み続けたら駄目だ、心を折れないように、そう自分に言い聞かせる。そのための今回の『今日』なのだから。
次いで、いまだ驚いた様子のヒルダへと視線をやった。
「これぐらいで驚いてたらもたないわよ、ヒルダ」
「お嬢様、いったい何を……」
「『今日』はきっと驚いてばっかりだから覚悟をしてね」
そう苦笑を浮かべ告げて、用意されていた洋服を手に取る。
前回の今日、別れ際のレオンハルトとのやりとりを思い出す。
彼もまた随分と沈んだ表情をしていたが、それでもコーネリアを気遣い、ぎこちないながらも笑って告げて来た。
「次は十回目だ、きみがどう俺を驚かしてくれるか楽しみにしてるよ」と。その声はまだ覇気がないものの、それでも心折れずにいようと、前を向こうとする彼の必死さが宿っていた。その必死さを見たからこそ、コーネリアもまた気丈に振る舞って返したのだ。
そして朝を迎えた。
ならばすべきことは一つ。いや、一つではない、なにせ自由なのだから。
「まずは馬に乗ろうかしら。御者に伝えて馬の用意をして」
十回目の『今日』の始まりだ。