31:夜会の青年
足早に進むレオンハルトに連れられるまま会場を進む。
もとより彼とは歩幅も違い、更に互いに正装とはいえコーネリアは動きにくいドレスを纏っている。幸い誰もが道を譲ってくれるとはいえ、足早に進まれると追うだけで精一杯だ。腕を引かれていなければ置いていかれていたかもしれない。
それでもと必死に足を合わせて王宮の裏手まで出れば、ようやくレオンハルトは我に返ったようで歩みを遅くさせてコーネリアの腕を掴む手を放した。
「あ、すまない。大丈夫だったか? もっと気遣って歩くべきだった」
「いえ、気になさらないでください。それより何があったのですか? まさかラスタンス家に何かあったのでしょうか」
「ラスタンス家は無事に王都について夜会に来てる。それに……」
言いかけ、レオンハルトが足を止めた。
彼の視線は真っすぐに前を、そこに立つ一人の青年を見つめている。
「彼は……」
呟いて、コーネリアもその青年へと視線をやった。
身長はレオンハルトと同じぐらいだろうか。背は高く四肢も長く、少し離れた場所からでも鍛えられているのが一目で分かる。逞しさを感じさせる青年だ。
慣れぬ場所なのだろうか表情は緊張を隠せず、動きもどことなくぎこちない。
仕草や佇まいからこういった社交の場は初めてなのだろうと分かる。だが年齢はレオンハルトやコーネリアと同年代だろう、仮に貴族の子息であれば夜会に慣れているはずの年齢だ。となれば、貴族ではないか、貴族であってもそう高くない爵位か。
彼は……とコーネリアが考えるのとほぼ同時に、青年がレオンハルトとコーネリアに気付きこちらへと小走りに近付いてきた。
覚えのない青年だ。
だがコーネリアがすぐにその青年が誰か分かったのは、この状況下でレオンハルトがわざわざ会わせる人物となれば一人しか思い当たらないからだ。
もしかして、とコーネリアが呟くのとほぼ同時に、青年が二人の前まで歩み寄ってきた。
夜の闇に映える黒い髪、男らしく逞しい中にも穏やかさを兼ね揃えた顔付き。
服の上からでも分かる厚い胸板、太い腕。優れた体躯は頼りがいを感じさせる。
彼ならばきっと有事の際には主人を護れるだろう。
……いや、実際に何度も護ってきた。その身を呈して、命を賭して、彼自身は記憶にないだろうけれど。
そんな青年はコーネリアとレオンハルトの前で立ち止まると恭しく頭を下げた。
「ラスタンス家の警護を務めております、ヒューゴ・エメルトと申します」
緊張を含んだ、それでもしっかりとした声。
彼の挨拶にコーネリアは息を呑んだ。
◆◆◆
ヒューゴ・エメルトは好感の持てる青年だった。
男らしくまさに実直という言葉が似合う性格。その立場ゆえ社交界には慣れておらずぎこちなさが目立つが、失礼の無いようにと必死に振る舞う姿は逆に好印象を与える。
話に加わってきたラスタンス家夫妻も穏やかな性格をしており、ヒューゴのことを息子同然に考えているのが話をしただけで伝わってきた。その光景はさながら家族のようで、ここにレチェスター家も加わればさぞや穏やかな光景になっただろう。
「レオンハルト様から、コーネリア様が一度俺と……、いえ、自分と話をしてみたいと仰っていると聞いたんです。コーネリア様はどこで自分のことを?」
「以前にリネットさんからお伺いしていたんです。先日も、ラスタンス家のご夫妻と一緒に貴方が来ることを嬉しそうに話してくださいました」
「そうですか、リネットが……。あ、いえ、リネット様から聞いていたんですね」
「えぇ、ですから彼女が……」
言葉を濁せば、その瞬間にヒューゴの表情が強張った。
咄嗟に胸元に手を当てるのは、リネットの事を思って胸の痛みを覚えたからか。胸ポケットには美しい薔薇の刺繍が施され、彼の男らしい手が薔薇を掴む。
「……知っています」
何をとは言わない、否、言えないのだろう彼の渋い声を聞いて、コーネリアは頷いて返した。
リネットが自殺をはかったことは口外無用だ。だがラスタンス家夫妻とヒューゴは知らされているのだろう。もちろんここで言うわけにはいかず、自然と誰もが口を噤んだ。
ほんのわずかな、それでいて華やかな夜会には似合わぬ重苦しい沈黙が漂う。
それを破ったのは他でもないヒューゴだった。彼は申し訳なさそうに眉尻を下げ、「あの……」と控えめに口を開いた。この場において爵位を持たぬ彼は一言発するだけでも緊張を抱くのだろう。
「せっかくお声を掛けて頂き申し訳ないのですが、自分はここで失礼いたします」
「あら、もうお帰りになるの?」
「リネットの……、いえ、リネット様とレチェスター御夫妻のもとに戻ろうかと。何が出来るかは分かりませんが、せめてお側に居ようと思います……」
ヒューゴの痛々しい声の訴えに、ラスタンス家夫妻も同意を示し、自分達もと続いた。
「引き留めてしまってごめんなさい。早く戻ってあげて。ねぇ、レオンハルト様」
「あぁ、今夜はもう戻った方が良い。周りが気付いて何か言っても、こちらはうまくやっておくよ」
コーネリアに続いてレオンハルトも帰宅を促せば、ヒューゴが深く頭を下げた。
夫妻も彼に寄り添うように立って感謝を告げてくる。
「レオンハルト様、コーネリア様、お話の途中で申し訳ありません。お許しいただけるならば後日また改めてご挨拶をさせてください」
「気になさらないで。その時はぜひリネットさんもご一緒に、皆でお茶をしましょう」
コーネリアが微笑んで同意を求めれば、強張っていたヒューゴの表情が僅かに和らいだ。
そうしてヒューゴとラスタンス家夫妻が去っていく。
彼等を見届け、コーネリアは小さく溜息を吐いた。それとほぼ同時にレオンハルトも深く息を吐く。見れば彼の体から強張りが解けていくのが分かった。張り詰めていた緊張がようやく解けたと言いたげな横顔をしている。
次いで彼はコーネリアに向き直ると、申し訳なさそうな表情で頭を掻いた。
「説明もせずに連れてきて悪かった。会場でラスタンス家夫妻を見つけて声を掛けたら隣にヒューゴが居るもんだから驚いたよ。そのうえもう帰ると言うから、慌てて引き留めて、会場内じゃ話も出来ないと思って外で待っていてもらって、すぐさまコーネリアを探して……、と我ながら動揺して説明どころじゃなかったんだ」
「呼んで頂きありがとうございます。ヒューゴと話が出来て良かったです」
「そうだな、俺も……、きちんと彼と向き合って話が出来て良かった」
レオンハルトが会場の出口を見つめて目を細める。
その表情に一瞬影が掛かったのは、前回の『今日』のことを思いだしたのだろう
前回の『今日』、レオンハルトはラスタンス家とヒューゴを救うために自ら北の領地を目指した。
そうしてラスタンス家の馬車と先導するヒューゴを見つけ……、そして目の前で彼等を亡くしたのだ。
一瞬で彼等の姿が積み上げられた岩肌に変わり、その隙間からヒューゴのものと思われる腕が伸びていた。そう震える声で語るレオンハルトの表情は青ざめており、彼の表情も震える声も今でも思い出せる。彼の心にどれほどの傷を負わせたか。この傷は繰り返しで消えるものではない。
だが今となっては、その落石事故はコーネリアとレオンハルトしか覚えていない。
なにせラスタンス家夫妻もヒューゴも落石にあうことなく健在で、つい今しがたまで会話をしていたのだ。
それでもレオンハルトの記憶と心には残っている。ならばとコーネリアはレオンハルトの腕にそっと手を添えて優しく擦った。レオンハルトがはっと我に返り、己が険しい顔をしていた事にようやく気付いたのか隠すように片手で口元を覆う。
「……ヒューゴを前にしていた時は気付かれないようにしていたんだが、別れたら気が緩んだのかもしれない。あの光景を思い出して……」
「辛い思いをされたのだから気を病むのは当然です」
「すまない、コーネリア。前回の『今日』のことで俺はどうやら少し臆病になったようだ」
「それだってレオンハルト様が謝る事ではありません。誰にだって怖いことや不安なことはあります。無理に隠せば辛いだけです。だから私の前では無理に取り繕おうとしないでください」
そうコーネリアが告げればレオンハルトが小さく息を吐いた。「ありがとう」と返す彼の声は幾分落ち着いている。
次いで彼はふとなにかに気付き、上着の胸ポケットから懐中時計を取り出した。公園で見せてくれた懐中時計だ。つられてコーネリアも文字盤を覗き込み、「あ、」と小さく声をあげた。今の時刻は、と今までの繰り返しを思い出す。
「そろそろ俺が婚約破棄を言い渡す時間だな。ちょうど良いし、このまま会場に戻って言おうか」
「レオンハルト様ってば、婚約破棄をそんなもののついでのように仰らないでください」
「あっ、そうだな。なんだか色々とありすぎて、婚約破棄を言い渡すことが作業のように感じてしまった」
「それに関しては謝罪を求めます」
この繰り返しを不安に思い臆病になることは謝らなくて良いが、婚約破棄をついでのように言うのは謝罪必須だ。そうぴしゃりと言い咎める。
もちろん本気で怒っているわけではない。冗談で謝罪を求めているだけだ。
レオンハルトも分かっているのだろう苦笑を浮かべ「すまなかった」と謝罪してきた。だがふと何かを思い出したかのように考えると、苦笑をいたずらっぽい笑みに変えてしまった。
「確かにもののついでのように婚約破棄を告げようとしたのは謝罪すべきだ。悪かった。だがコーネリアだって六回目の『今日』では俺の婚約破棄に対して生返事だったじゃないか」
お互い様だと言いたいのだろう。もちろんそれを訴えるレオンハルトにも本気で怒っている様子はない。
コーネリアの冗談に冗談で乗って返してきたのだ。
だがまさか反論がくるとは思わず、コーネリアはむむと口を噤んでしまった。思い返せば、確かに彼からの婚約破棄に対して心ここにあらずな生返事をした記憶はある。
……だけど、とコーネリアはツンと澄まして見せた。
「あれはもう過去の事です。いえ、むしろ過去の事どころか消え去った『今日』のこと。誰も覚えておりません」
「俺達は覚えてるだろ?」
「証拠は一切ありません」
きっぱりとコーネリアが言い切れば、レオンハルトが僅かに目を丸くさせ、次いでふっと息を吐くと笑い出した。
楽しそうな彼の表情につられてコーネリアの表情も和らぐ。わざとらしく勝ち誇った表情を作ればそれが更に彼の笑いを誘い、「ずるいなぁ」と訴えてくる声は言葉に反して随分と嬉しそうだ。




