03:終わったはずの昨日の今日
わけが分からないまま、コーネリアは朝食の場に着いた。
母が同席して食事を進める。この流れも、母の着ている服も、話すことも、朝食のメニューも、なにもかもが昨日と同じだ。自分が今着ている服さえも昨日の朝と同じで、気付いた瞬間にぞわと違和感が湧き上がった。無理と分かっていても今すぐに脱いでしまいたい衝動に駆られる。
どうしてこんな事に……。
混乱で息苦しさを覚えながら、コーネリアは昨日の朝に飲んだはずのスープをじっと見つめた。試しにと掬って口に運べば、覚えのある味が口内に広がる。美味しいはずが、今朝だけは気持ち悪いと感じてしまう。
「……リア、コーネリア、どうしたの?」
数度名前を呼ばれ、コーネリアははっと我に返り顔を上げた。
母が小首を傾げて不思議そうに自分を見ている。
「あ、ごめんなさいお母様。まだ少し眠くてぼうっとしていたみたい。なんの話だったかしら?」
「レチェスター家よ。メイドが話していたんだけど、レチェスター家のお嬢さんの様子がおかしいんですって」
「リネットさんね……」
曰く、リネット・レチェスターは突如周囲の制止を振り切って馬に乗ると屋敷を出ていき、かと思えば途中で悲鳴をあげて泣き崩れ引き返したという。
「どうしたのかしらね」と話す母に対してコーネリアはいまだ心ここにあらずで、上擦った声で「心配ね」とだけ返した。言葉では案じているが、実際はそれどころではないのだ。こうやって母がリネットについて話し出すこともまた昨日の朝と同じで、それを考えれば混乱が増していく。
だが次の瞬間に心臓が縮こまるような思いをしたのは、母が「今夜」と口にしたからだ。跳ねるように顔を上げて母を見る。
「こ、今夜、なに?」
「……どうしたの、コーネリア?」
「いえ、なんでもないの……。それで、今夜がどうしたの?」
「今夜の夜会よ。着けていくネックレスで悩んでいるの、後で相談に乗ってくれる?」
「え、えぇ、……分かった。後でお母様の部屋に行くわね」
上擦った声でコーネリアが返す。
母のこの頼み事も覚えがある。昨日の朝、食事の最中、リネット・レチェスターについて話していたかと思えば早々と話題を変えてネックレスについて話し出したのだ。
その際にもコーネリアはネックレス選びを頼まれ、昼過ぎに母の部屋を訪れて相談に乗った。「どちらが良いかしら?」とネックレスを手に首を傾げる母の姿だって思い出せる。
あの時……、
「ねぇお母様。お母様が悩んでいるのって、もしかして、赤い宝石のついたネックレス? それを……、銀の縁取りのものか、金の縁取りのものかで悩んでいるの?」
「あら、知ってたの? 私いつ話したかしら」
驚いたと言いたげに母が目を丸くさせた。
その表情に、声に、コーネリアは己の中で血の気が引く音を聞いた。
母の部屋を訪れた際、二種類のネックレスを見せられた。
どちらも赤い宝石が美しく輝いており、違いは縁が金か銀か。その二種類を前にどちらが良いかと問われ、コーネリアは金の縁のネックレスを選んだのだ。
金色の美しい髪、それに合わせればきっと映えると伝えたのも覚えている。
……そう、覚えている。
だがこれは昼を過ぎて母の部屋を訪れた際の記憶だ。
今はまだ朝と言える時間。朝食の最中。昼ではない、だけど昨日、この時間に母はネックレスの相談をしてきた。
昨日の昼直ぎに解決したはずの相談。
それを、昨日と同じ朝食の場で話をされている。
(わけが分からない……、どういうことなの……)
思考が疑問で埋め尽くされる。
到底食事などする気にならず、コーネリアは手にしていたスプーンを置いた。
「わ、私……、部屋に戻るわ」
「あまり食べてないようだけど、食欲が無いの?」
「違うの。ただ……、昨日あまり眠れてないから、だから……。夜会の前に、少し休もうとかと思って……」
昨日眠れていなかった、というのはこの場を去るための嘘だ。
昨日は夜会を終えて帰ってすぐに就寝した。だがその『昨日』は『今日』とされており、始まったばかりの一日だ。ならばあの一日はどうなったのか。母が想像する『昨日』は、コーネリアにとっての『一昨日』になるのだろうか。
自分の発言すら分からなくなる。気が狂いそうだ。コーネリアはこれ以上話を続けていられないと立ち上がった。
そうして部屋に戻るも、当然だが休めるわけがない。
頭の中はいまだ混乱している。
朝に告げられたヒルダの言葉から始まり、何もかもが『昨日』なのだ。
ヒルダに日付を確認しても彼女は終わったはずの日付を口にしていた。いや、彼女だけではない、他のメイドや使いも、それどころか母さえも、コーネリアが問えば当然のように昨日の日付を答えていた。
最初は質の悪い冗談かと思ったが、傷ついていないとはいえ婚約破棄を言い渡された娘に、よりにもよってその場の夜会が再びあるという冗談は言わないだろう。少なくとも、コーネリアの両親も、ヒルダを始め屋敷に務める者も、そんな趣味の悪い人間ではない。
つまり、『今日』は『昨日』なのだ。
終わったはずの『昨日』をもう一度。どこかに消えてしまった『昨日』の記憶をコーネリアだけが持って、朝からやり直している。
「そんなことあるわけないけど、でも……」
信じられないことだが、そうとしか考えられない。
混乱する頭でコーネリアが溜息を吐けば、メイドが食後の紅茶を持ってきてくれた。
有難いが、これもまた昨日と同じ流れだと思い出せば背筋に冷たいものが走った。
その後もコーネリアはずっと自室に居た。
昨日も夜会までは殆ど自室で過ごしていたが、籠る理由が違う。
昨日はただ夜会まで本を読み勉学に励みと過ごしていた。だが今日は、繰り返しの事実を目の当たりにするのが恐ろしくて自室に籠っていた。
それでも母との約束を反故には出来ないと昼過ぎに母の自室を訪ねれば、二種類のネックレスを手にどちらが良いかと尋ねられた。
金の縁取りと銀の縁取り、どちらも赤い宝石がメインに飾られており、母のしなやかな手で揺らされると光を受けて上品な輝きを見せる。美しいが、その美しささえも今のコーネリアには不気味なものでしかない。
「……金の縁取りの方が良いと思うわ。お母様の綺麗な金の髪によく似合うと思うの」
「そう? コーネリアがそう言うなら金の縁取りにしましょう。ありがとうコーネリア、貴女も素敵な金の髪よ」
娘の意見を聞き、更に髪を褒められ、母が上機嫌で笑う。次いでコーネリアへと手を伸ばすと、同じ金の髪を愛でるように指先で揺らした。
コーネリアもそれに微笑んで返そうとしたが、どうしたってうまく笑えるわけがない。この言葉もまた聞くのは二度目なのだ。
そうして再び自室に戻ってしばらく、ドレスに着替え、王宮へと向かった。
もちろん夜会に出るためだ。纏うドレスもまた昨夜と同じもので、コルセットも同じように締め付けられた。だというのに息苦しさを覚えてしまう。馬車を降りて会場への僅かな道のりでさえも、昨夜は気にも留めず歩けていたのに今夜に限っては足取りが重くなる。
それでもと訪れた夜会の会場は昨夜となんら変わらぬ絢爛豪華なものだった。だが今のコーネリアの目には薄気味悪く映ってしまう。
会場の眩さが、続々と集う来賓達が、楽団が奏でる音楽が、楽しそうな賑わいが。乞うように期待していた『質の悪い冗談』という可能性を打ち砕く。
一人の令嬢を騙すために王宮を使って夜会など開くわけがない。これだけの人数を集めてコーネリアを騙して何になるというのか。
つまり、やはり『今日』はすでにコーネリアが過ごしたはずの『昨日』なのだ。
(どうなってるの……、どうして私だけこんなことに……)
コーネリアの思考が混乱と困惑で満ちる。
だがそんなコーネリアの胸中など誰も知る由もなく夜会は進む。非情と言うなかれ、コーネリア以外にとってはなんら変哲のないただの豪華な夜会なのだ。
楽団が音楽を流し、あちこちで穏やかな談笑が聞こえてくる。王家主催だけあって豪華な夜会。ただそれだけの事。
そんな中、コーネリアはレオンハルトに呼ばれた。
「話がある」と。これもまた聞いたことがある台詞だ。もちろんこの後に続く彼の言葉も分かりきっている。
一字一句違わずに言える。
その言葉は……、
「コーネリア・カルナン……、きみと俺とではつり合わない。きみとの婚約は、……破棄させてもらう」
覚えのある言葉を、それでも覚えのある口調とは違うたどたどしいもので告げられ、コーネリアは唖然とした。
喉から漏れたのは昨日と同じ『はい』という言葉ではない。
掠れるような、
「……え?」
という戸惑いの声だった。