24:リネット・レチェスター
高い金切り声。悲鳴じみたそれが通路の空気を切り裂くように響き渡る。
ぞっとコーネリアの背に冷たいものが走った。この声が何かを考えるより先に恐ろしいと本能が訴える。
通路の途中で思わず足を止めれば、コーネリアが臆したことを察したのかグレイスが眉尻を下げた。その間も声は響き、時に途切れ、かと思えば再び発せられ、何かがぶつかる衝突音がそれに加わる。
「い、今のは……もしかして……」
「リネットです。朝からずっとこの調子で、何かを叫び続けて部屋を出ようとするんです。今は扉を押さえて窓も開けられないようにしておりますが……」
まるで監禁と言える状況だが、そうでもしないとリネットを屋敷に留めておけないのだろう。
その話に、そして部屋に近付けば近付くほど大きくなるリネットの声に、コーネリアはなんと答えて良いのか分からずにいた。気圧されて相槌を打つことも出来ない。
それでもと己を奮い立たせ、リネットの部屋だという扉の前に立った。
木目調の扉。掛けられたネームプレートには洒落た文字でリネットの名前が綴られ、花の飾りがあしらわれている。一目で年頃の女性の部屋と分かる。
だがそんな扉の前には別の部屋から持ってきたであろう大きめの机が二つ重ねて置かれ、逞しい体つきの警備が横に立っている。
明らかに異常だと誰だって直ぐに分かるだろう。なにより、聞こえてくるこの声が……。
「ーーーー!! ーーー!!!」
何を言っているのか分からない金切声。怒声のようにも聞こえ、かと思えば悲鳴のようにも聞こえる。
とうてい記憶にある奥ゆかしい令嬢が発する声ではない。……だがそれでいてどこか記憶にあるのは、やはり声の主がリネットで間違いないからだ。
リネットの声が、リネットとは思えない荒々しさと声量で発せられ、そしてリネットがするとは思えない勢いで扉に何かをぶつけている。
これは『様子がおかしい』というだけではない。
気が触れている……。
自分の想像がいかに甘かったかを突きつけられ、それでもとコーネリアはグレイスへと向き直った。
「あ、あの……、リネットさんと二人きりで話をさせて頂けませんか?」
「リネットとですか? さすがに今の状況では……」
「扉越しに話しかけるだけです。少し離れた場所に居ていただければ十分ですので」
「……それなら。私と警備は通路の先に居りますので、なにかあれば直ぐに声をあげてください」
「はい、ありがとうございます」
コーネリアが感謝を告げれば、グレイスと、彼に目配せで指示を出された警備が去っていった。
といっても彼等が立ち止まったのは通路の少し先だ。声が聞こえない程度の場所まで離れただけでこちらの様子を窺ってくる。もちろんこれはコーネリアを疑っているわけではなく、ただリネットの様子を案じ、何かこれ以上の事が起こりはしないかと危惧しているのだ。
そんなグレイス達を一瞥してコーネリアは改めてリネットの自室の扉へと向き直った。いまだ聞こえてくる声は鬼気迫るものがあり、心臓が鷲掴みにされるかのようだ。
「リネットさん……、コーネリアよ。コーネリア・カルナン」
「ーーーーー!!」
「ねえ、リネットさん聞いて。私、ずっと同じ『今日』を繰り返しているの。もしかしたら貴女となにか関係があるのかも……」
乞うような気持ちでリネットへと声を掛ける。
だが返事はなく、代わりに聞こえてくるのは悲鳴じみた叫び声だけだ。それと時折ドンッと扉を叩く音。それも返事をするようなタイミングではなく、コーネリアが話しかけている最中でもお構いなしとリネットは声を上げて扉の向こうで暴れている。
聞こえていないのだろうか。
自分の声が扉の向こうに届いているのかさえ不安になってくる。
まるで扉の向こう側が別世界に繋がっているような気がして、コーネリアは恐る恐る扉へと手を伸ばしてそっと触れた。
ひやりと冷たい。それがまたリネットとの距離を感じてしまう。室内には確かにかつて会話を交わしたリネットが居るはずなのに、その光景が想像出来ない。
「リネットさん……。また来るわね」
(その時には、少しでも話が出来ていれば良いんだけど……)
願いつつも心のどこかで諦めの気持ちを抱き、コーネリアはそっと扉から離れた。
話が終わったと気付いてグレイスが警備を連れてこちらへと歩いてくる。彼の表情と視線に問うような色を感じ、コーネリアは小さく首を横に振って返した。
リネットとは話が出来なかった。こちらの声は届きすらしなかった。
その仕草から察したのだろうグレイスが「そうですか……」と溜息交じりに返してくる。
「わざわざご足労頂いたのに申し訳ございません」
「いえ、私の方こそ大変な時に急に訪ねてしまって……」
「どうか気になさらないでください。門までお送りします。本はお預かりしましょう、リネットが話せるようになったら、コーネリア様が持ってきてくださったことを伝えておきます」
グレイスが片手を差し出してくる。
それに対してコーネリアは一瞬言葉を詰まらせ……、ふると首を横に振った。鞄をぎゅっと抱き抱える。
ここでグレイスに渡したところで、この繰り返しが終わらなければ同じだ。
夜が明ければこの本はきっとカルナン家のコーネリアの自室にある本棚に戻るのだろう。
なにより……、
「ちゃんと私からリネットさんにお渡しします。きちんと話をして、せっかくですし刺繍の話もしたいので」
その時がくると信じている。
最後に心の中で付け足し、コーネリアは強張った顔でそれでもと微笑んだ。
眉尻を下げ悲壮感すら漂わせていたグレイスの表情が僅かに和らぐ。「ありがとうございます」という言葉はいまだ辛そうだが、それでも微かに安堵の色がある。
娘の回復を信じてくれる人が一人でもいる。それが彼の心の支えになってくれるだろうか。
そうして屋敷を出て、待たせていた馬車に乗り込む。
その間際にグレイスがコーネリアを呼んだ。何かを言い淀み、絞り出した声と言いたげに「……この事は」と言葉を紡ぐ。
その先のことは言わせまいと、コーネリアは被せるように「分かっています」と返した。
「リネットさんの事は伏せておきます。ですが父には詳細は伏せてレチェスター家からの要請があれば助力してほしいと伝えますので、必要なことがあれば何でも仰ってください」
「お心遣いありがとうございます。リネットの事は妻に任せ、今夜の夜会には私だけですが出るつもりですので、その際にまた」
「……今夜の夜会に?」
「えぇ、せめて私だけでもと思いまして」
もちろん長居をすることは無いと話すグレイスに、コーネリアも頷き「では夜会で」と返した。
娘がこんな状況なのに、とは思うまい。
グレイスにはレチェスター家当主として果たさねばならぬ役目があるのだ。もし長期の戦いになったとしても変わらずレチェスター家があり続けるように、リネットが回復した時に彼女が変わらぬ安定した生活を出来るように。ここで不用意な行動は出来ないと考えたのだろう。
それにリネットがあんな状況だからこそ、遅かれ早かれ広がる噂に先手を打つために夜会に出るのかもしれない。
(グレイスだけとはいえ、レチェスター家が夜会にくる……。以前にも来た事があるのかしら……)
記憶の限りではレチェスター家は誰一人として夜会には来ていなかったはずだ。
「そういえば、レチェスター家の皆様は今夜はいらっしゃってなかったようね」
この繰り返しの中で何度も聞いた母の言葉を思い出す。だが毎回同じだったろうか? 最初の頃はラスタンス家との繋がりを知らず、母の他愛もない雑談だと思って軽く聞いていた。
もっとしっかりと聞いておくべきだった……、そう後悔しつつ、コーネリアはゆっくりと走り出す馬車の揺れを感じながら、背もたれに背を預けて深く息を吐いた。




