23:レチェスター家へ
朝食を終えた後、屋敷の外に出て馬に乗る。――二度目だけあり緊張は幾分和らぎ、それが伝わったのか馬も手綱の指示に従ってくれた。といっても進みは遅々としたもので、降りるときには御者の手を借りたのだが――。
そうして改めて馬車に乗り直し、向かったのはレチェスター家の屋敷。至って普通の貴族の屋敷だ。
正門は綺麗に整えられており、屋敷へと繋がる道の両端では鮮やかに花が咲き誇っている。豪華でありさりとて華美に飾ることはないセンスの良い屋敷。
だがそんな屋敷を前にしたコーネリアの胸には緊張しかなく、風に揺れる花々を愛でる余裕すらなかった。
本来なら、公爵家令嬢であるコーネリアが侯爵家であるレチェスター家に対してこれほどまでに緊張する必要は無い。急な訪問であったとしても融通を利かせてもらって当然、コーネリアは優雅に微笑んで「突然ごめんなさいね」と詫びの言葉を口にすれば良いだけのこと。
それが分かっても緊張が体中を支配するのは、今目の前にしているのがただの侯爵家ではないからだ。
いや、この繰り返しさえなければレチェスター家は只の侯爵家だ。
だがこの繰り返しの中だからこそ、コーネリアは今こうやってレチェスター家の前に居る。
「これはコーネリア様、いったいどうなさいましたか?」
小走り目に屋敷から出て来たのは、レチェスター家当主グレイス・レチェスター。
細身の男性で、低めの声と柔らかな表情が穏やかな印象を与える。彼に対してコーネリアは恭しく頭を下げた。
「リネットさんに本をお借りしていて、本日返す約束をしていたんです」
「リネットが? コーネリア様に?」
「絶版になってしまった古い刺繍の本です。私が探していると知ってリネットさんが貸してくださったんです」
手にしていた鞄にそっと手を添え、本があるとアピールする。
もっとも、これはすべて嘘だ。リネットとは本を貸し借りする仲ではないし、鞄の中には一応のためにと刺繍の本を入れてきたが、元々コーネリアが所有していたものである。古い本を選んで持ってきたが絶版になっているかは分からない。
幸いこの話にグレイスは疑うことなく「そうでしたか」と納得してくれた。
だがその声は上擦っており表情は強張っている。普通であれば「わざわざお越しいただいて」と労い、そして娘が公爵家令嬢と親しくしていることを喜ばしく思うだろう。とりわけコーネリアは第一王子の婚約者であり未来の王妃と言われているのだから、貴族当主でこの繋がりを喜ばない者は居ない。
それでもやはりグレイス・レチェスターの表情は浮かない。
ならばとコーネリアが「リネットさんは」と話の先を促せば、彼の強張った表情が更に硬くなった。露骨に視線を逸らしてしまう。
(やっぱり、今回もリネットさんは……)
コーネリアの胸の内がざわつく。それと同時に湧くのがレチェスター家への同情。
まだ『今日』が始まったばかりだというのに、グレイスの表情からは既に疲弊が感じられる。それほどまでにリネットの様子もおかしいのだろう。
これ以上彼をせっつくのは酷だろうか。ここは後日またと話を終らせるべきか……。そう考えるも、グレイスがゆっくりと口を開いた。
「リネットは……、朝から、その……様子がおかしく」
「様子が……。それはたとえば、分からない言葉を話したり、とかでしょうか」
「ご存じなのですか!?」
グレイスがコーネリアへと向き直る。
その勢いも声も鬼気迫るものがあり、コーネリアは僅かに言葉を詰まらせ半歩後退ってしまった。必死さが痛いほどにぶつかってくる。
「いえ、ただ……、そういう噂を聞いたんです。それで、もしかしたらと思いまして」
「噂……。そうですか、もう知れ渡ってしまっているのですね。どこかで見られていたのでしょうか……」
「あの、リネットさんにお会いしても?」
「今は話が出来る状態ではありませんが……。でもそうですね、御友人であるコーネリア様の声にならリネットも応えるかもしれません。お見苦しいところを見せてしまいますが、どうぞ声を掛けてやってください」
頭を下げ、グレイスが「こちらへ」と屋敷へと歩き出した。
彼の言葉に、憔悴しきってなお貴族の当主らしく振る舞おうとする姿に、その中に垣間見える隠し切れぬ父親としての悲痛な姿に、嘘を吐くコーネリアの胸が痛みを訴えた。
リネットとは親しくなく、友人と呼べるような間柄ではない。刺繍が趣味だと知った時も複数人で話をしていただけで、リネットと密に言葉を交わしたわけではない。
彼女のことを何も知らない。
知っていると嘘をついて、知るために来たのだ。
これはリネットにも、そしてリネットの両親であるレチェスター家夫妻にも、そしてリネットと本当に親しくしている友人と呼ぶに値する者達に対しても失礼な行為だ。
親の愛も、友情も、すべてを愚弄している。
それは分かっている、でも……。
(今は繰り返しの解決の糸口を探るために仕方ないの……。もしも『明日』を迎えたら、私は全力で、いえ、私一人の力じゃなくカルナン家として使える力すべてを使って、貴女のことを助けるから……!)
心の中でリネットへ謝罪をし、グレイスの後を追って屋敷の中へと進む。
グレイス曰く、昨夜、就寝の言葉を交わした際のリネットの様子におかしいところはなく至って普通だったという。夕食を共に摂り、食後にはお茶をしながら他愛もない話をし、そして「おやすみなさい、お父様、お母様」と微笑んで自室へと入っていった……。
この『昨夜』とはもちろん繰り返しの中の夜ではない。正真正銘『昨日』と呼べる日だ。
コーネリアにとっては随分と前の事のように思えるが、グレイスにとっては数時間前の事でしかない。記憶を引っ繰り返さずとも思い出せるのだろう。
だが朝になるとリネットの様子は異常としか言いようがなく、わけの分からない言葉を喚き、両親の制止の声を聞きもせず家を出ようとし続けた。
なんとか抑え込み部屋に閉じ込めてはいるものの、一向に様子は変わらず、ひたすらに扉を叩いているという。
「あの子は今日を楽しみにしておりました……。それなのに、朝になって……」
「今日を?」
「王宮で開かれる夜会に出席するため、懇意にしているラスタンス家の者達がうちに来るのです。リネットのことを娘のように可愛がってくれていて、リネットも彼等に会えるのを楽しみにしていたんですが……」
親同然に優しくしてくれたラスタンス家は彼女にとって親戚同然。
そんなラスタンス家の訪問、夫妻と共に行く王宮の夜会。その後も十日間ほど夫妻はレチェスター家に滞在し、遠乗りに行く約束もしていたという。
確かに、年頃の令嬢ならば楽しみにして当然だ。
それを改めてグレイスの口から聞けば、なおさら幾度も辿ったラスタンス家の事を思い出して胸が痛む。彼もまたラスタンス家の不幸を知るたびに胸を痛めていたのだろう。
「あの……、ヒューゴ・エメルトというのはどういう方なんでしょうか?」
ヒューゴの名前を口にすればコーネリアの胸にあった緊張が増していく。
心臓が凍り付きそうだ。無意識に胸元を押さえ、グレイスの返事を待った。
「ヒューゴですか? あぁ、彼の事もリネットから聞いていたのですね。あれは実直な良い青年です。代々ラスタンス家の護衛を務めておりまして、まだ少年と言える年の頃から夫妻と共に我が家に来ておりました」
「そうなんですね……」
「彼も夫妻と共にこちらに向かっているのですが、リネットの事を知ればさぞや悲しむでしょう……」
グレイスが深く溜息を吐いた。
今の時点ではまだ――確証はないが――ラスタンス家もヒューゴも無事で、彼等は真っすぐにこのレチェスター家の屋敷を目指しているはず。
きっとグレイスは彼等が何事もなく到着し、そしてリネットの異変を知ると思っているのだ。
……だが実際には、この繰り返しの中でラスタンス家が無事にレチェスター家に辿り着けた回数は少ない。
夫妻こそ無事だがヒューゴ・エメルトは既に命を落とすか負傷をしており、無事に着けた時でさえもレチェスター家で襲われている。
(『明日』を迎える時に、ラスタンス夫妻とヒューゴを救うことは出来ないのかしら……。リネットさんの事だって、もしかしたら……)
一番良い状況で繰り返しを脱して『明日』を迎える。
そんな願いがコーネリアの胸に浮かび……、だが次の瞬間、聞こえてきた声に抱きかけた願いを掻き消された。