14:消える今日の中で壊す
部屋に戻り改めて就寝の準備に取り掛かる。
なぜ自室に居ないことに気付いたのかとヒルダに問えば、彼女は穏やかに微笑んで「メイド長の勘ですよ」と笑った。
もっともこれは冗談であり、続くように、部屋の窓が開いていると他のメイドから聞いたと答えてくれた。曰く、テラスに出たメイドが偶然コーネリアの部屋の窓が開いている事に気付き、それをヒルダに伝え、彼女が窓を閉めるために部屋を訪ねたという。
その話を聞き、コーネリアは己の迂闊さを知ると同時に、今後も『今日』を繰り返すのなら窓の施錠には気をつけねばと心の中で自分に言い聞かせた。
「お嬢様を起さないように静かに部屋に入ったのに、肝心のお嬢様がどこにもいらっしゃらないんですもの、驚きましたよ」
「眠れなくて少し夜風に当たっていたの。驚かせてごめんなさい」
驚かせたことを詫びれば、ヒルダが優しく微笑んで腕を擦ってきた。
もっとも、コーネリアはこの家の令嬢であり、対してヒルダはメイド長だ。主従関係ははっきりしている。コーネリアが幼い頃ならばまだしも淑女と言える年齢になった今、夜のたった一時をどう過ごそうが当人の自由である。敷地を抜け出して夜遊びのあげくに大捜索といった迷惑をかけたならまだしも、敷地内の庭園を散歩ぐらいならば口を出される理由はない。
それでもコーネリアが素直に詫びたのはヒルダが心から心配してくれているからだ。何歳になろうとも立派な淑女になろうとも、むしろコーネリアが王妃になったとしても、ヒルダが第二の母であることに変わりはない。
「もう屋敷を抜け出たりしないから安心して。でも大人しくしている代わりに暖かいレモネードを用意してくれる? 外に出たら体が冷えちゃったみたい」
「かしこまりました。いまお持ち致しますね」
「それでね、カップは花柄のものでお願いしたいの。ほら、朝食の時に私が紅茶を飲んでいるカップがあるでしょう。あれで用意して」
「カップですか?」
ヒルダの表情は分かりやすく疑問の色が浮かぶ。
体が冷えたからと温かいレモネードを求めるのは分かるが、わざわざカップを指定する理由までは分からないのだろう。普段ならばコーネリアもそこまでの指定まではしない。
どうしてと視線で尋ねられ、コーネリアは自室の机を見た。本が一冊置かれている。
「今読んでる本に、あのカップにそっくりなものが出てくるの。それでレモネードを飲んでるから真似してみたくなって」
「まぁ、そうだったんですね。コーネリアお嬢様ってば最近は随分と大人びて立派な淑女になったと思いましたが、まだまだ子供の時のような事をなさるんですね」
ヒルダには今のコーネリアの頼み事が、大人になった令嬢のそれでいて抜けきれない幼い一面に思えたのだろう。
微笑ましいと言いたげに穏やかに表情を和らげ、「直ぐにお持ちします」と頭を下げて去っていった。
本人が言っていた通り、ヒルダはすぐにレモネードを持ってきてくれた。
もちろんコーネリアが頼んだカップだ。誰も居なくなった部屋の中、飲み終えて空になったカップをじっと見つめる。
白地に花を散らしたデザイン。幼い頃に旅行先で気に入って購入し、以降これで朝の紅茶を飲むことが日課になっている。
そんな思い入れのあるカップを失うのは惜しい。だけど反面、このカップならばもしかしてと願うような気持ちもある。根拠もないただの願望でしかないのだが。
そうして緊張を落ち着かせるようにすぅと息を吸い、持ち手を摘まんでいた指をそっと放した。
床に吸い込まれるようにカップが落ちていき、一秒も経たぬうちに高い音をあげて割れた。
わざと落として割ったことに罪悪感を抱きながら、それでもコーネリアはヒルダや他のメイドを呼ぶこともせずにカップに視線を落とした。
さすがに粉砕とまではいかないが、大きく二つに割れ、更に細かな破片が散ってカップとしての機能は損なわれている。先程まで摘まんでいた持ち手も本体から割れて転がっている。
そんな破片を一つ手に取り、コーネリアはじっと見つめた後、破片の先を左手の親指の腹に押し当てた。
「……っ!」
ぷつと破片の先が肌を食い込んだ瞬間、鋭い痛みが走り、思わず眉根を寄せる。
それでもと押し当てながら破片を動かせば赤い血の玉がぷつぷつと二つ浮かび上がる。その血の玉が繋がり肌を伝うのを見て、コーネリアは指先から破片を離した。
ピリピリとした痛みが走る。血が指先に溜まり伝い落ちそうになるので慌ててハンカチを手に取って押さえた。白いハンカチにじんわりと血が滲んでいく。
もっとも、切ったのは指先で、それも爪の長さの半分もない。深く破片を押し込んだわけではないので血もしばらくすれば止まるだろう。
これぐらいならばとハンカチを指先に巻き付け、コーネリアはゆっくりと息を吐いた。
「明日になったら、カップを割ってしまったことを話さないと。それと、指のことも話して……」
眠る直前に割ってしまったから朝にしようと思った。そう伝えれば誰もが納得してくれるだろう。指の怪我もその時には血が止まって殆ど塞がっているはず。
だけど、また『今日』の朝に戻ったらどうなるだろうか。
ヒューゴの死が無かった事になるように、カップを割ったという事実も消え失せ、そしてこの指も治るのではなく怪我した事実そのものが無くなるのだろうか。
薄気味悪さを感じながらコーネリアはゆっくりとベッドに横になり、じわじわと滲むような痛みを覚える手をぎゅうと握って眠りに就いた。
◆◆◆
ヒルダの声と朝の眩しさに起こされ、コーネリアはゆっくりと目を開けた。
深く息を吐けば次第に意識がはっきりとしていく。夢は見ていないはずだが、この繰り返し自体がまさに悪い夢のようではないか。
夢だったら良いのに……。そんな願いを抱きながら身を起こし、こちらに背を向けて朝の支度をするヒルダの背を見つめた。
彼女はテーブルに向かっている。
(割れたカップを片付けているのよね……。そうよ、そうであって……)
願うような気持ちで、コーネリアは掠れる声でヒルダを呼んだ。
彼女がくるりと振り返る。
「おはようございます、コーネリアお嬢様。本日の夜会、楽しみですね。レオンハルト様にお会いするのは久しぶりでしょう」
変わらないヒルダの言葉と、そしてテーブルの上に置かれているのは割れていない見慣れたカップ。
いつも通りの光景。前回の『今日』と何一つ変わらない、変えられなかった朝の景色。
痛みも傷もなくハンカチすら巻かれていない己の指先を見つめ、コーネリアは自分もまた繰り返しに囚われているのだと実感した。