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周囲に変化を確認しながら歩いたのは、そう長い時間ではなかった。
行けども行けども樹間が広がった道はひどく歩きやすく、花が咲き草が茂り、目にも楽しいばかりだ。
「では、そろそろ飛びましょうか」
しばらく歩いたころにユンガロスが不意にそう言うと、一番に声をあげたのはチギだ。
「げっ。また飛ぶのか! 今回は大した荷物もないから、ゆっくり歩けばいいんじゃ……」
「荷物がないからこそ、速く飛べます。それに、一度この光の流れに乗って飛んでみたいのです」
顔をしかめるチギの反対を、ユンガロスはにっこりと遮った。
飛びましょうか、と誘いかけるような物言いでありながらその実、反対意見を取り入れるつもりがないとユンガロスの顔に書いてある。
「ユングさんが疲れてしまわないですか? きのうも大岩にたくさん力を注いで、お疲れだったのに……」
「おれを気遣ってくれるのですね、ありがとうございます。けれど、リュリュナさんの家でゆっくり休ませていただきましたから、心配無用ですよ」
眉を下げて心配げに言うリュリュナに、ユンガロスはとろけそうな笑顔を向ける。
明らかな表情の違いに、チギは複雑な気分になった。リュリュナに向けているような甘い顔で見つめられたいわけではないが、こうもあからさまに作り笑顔と本心からの笑顔を見せつけられると、なにやらチギの腹がむかむかしてくる。
「行くならさっさと頼むぜ。誰から行く? まずはおれかじいさんか。山のなかにリュリュをひとりで置いとけねえだろ」
急に態度を変えて急かしはじめたチギに、リュリュナは目をぱちくりさせた。ルオンは呆れを隠さない目をチギに向けて、肩をすくめる。
対するユンガロスは、不思議がる様子もなくにっこり笑ってチギの手を取った。
「それでは、チギくん。まずきみから行きましょう」
「おう! 二回目だからな。覚悟は決まってるぜ!」
威勢よく答えたチギが悲鳴をあげたのは、その数秒後。チギの腹に腕を回したユンガロスが背中に黒い羽根を生やし「では、全力で飛ばせていただきますね」と言った直後だった。
「あっ、ぎゃあああああぁぁぁぁ……‼」
黒い羽が舞い落ちるなか、チギの絶叫が長く糸を引いて遠ざかる。ユンガロスとチギの姿はすでにリュリュナたちの視界には映らない。
ただ、ひらりひらりと地に向かう黒い羽が光の流れに触れて、音もなく解けて消えていくばかり。
「……チギ、だいじょうぶでしょうか」
「なんやかんや仲良くやってるからな、問題なかろう」
ふたりが消えた先を見つめてつぶやくリュリュナに、ルオンの返事はそっけない。けれど決してルオンが冷たいひとではないと知っているリュリュナは「そうですよね」と笑って道を進みはじめた。
「きょうは荷物もありませんし、歩けるだけ歩きましょう。飛ぶ距離はすこしでも短いほうがいいと思うし、一本道だからユングさんがお迎えに来てもすれ違うことはないですし」
「そうさな。黒羽根が張り切りすぎて力尽きんとも限らんしな」
素直でないことばかり言いながらも、ユンガロスの負担をすこしでも減らそうと歩き出するリュリュナとともにルオンはさっさと足を動かす。
ほどなく迎えに来たユンガロスに連れられてチギと合流したふたりは、ぐったりと地に伏せたチギと再会した。
チギは、行きに置いて行った箱馬車にもたれてうなだれていた。
最後にユンガロスに運ばれてルオンが到着しても、青い顔のままぐったりしている。
「……四日の道のりをほんの数刻で三往復するとか……どうなってんだよ……リュリュもじいさんも、なんで平気なんだ……」
弱弱しい声でつぶやくチギに、リュリュナは曖昧に笑うことしかできない。おぼろげな記憶ながらももっと速い乗り物に乗ったことがあるなどと言って、説明できる気がしなかった。
ルオンは、いくぶん疲れた様子ではあったが動けないほどではないらしい。どうしてだ、恨めしげな視線を向けるチギに答えたのはユンガロスだった。
「おれとて、相手を見て加減をします。リュリュナさんは速度を出しても怖がる様子はありませんでしたし、ルオンどのは身体への負担を考えて少々速度を落としました。若く壮健なチギくんならば全力を出しても問題ないかと思ったのですが、配慮が必要でしたでしょうか」
さも不思議そうに首をかしげてみせるユンガロスに、素直にうなずけるチギではない。
「ひっ、必要ねえに決まってるだろ……! なんならもういっぺん、飛んだって余裕だぜ。ちょう余裕だぜ!」
「おや。では、今からひと飛びいたしましょうか」
ぐったりと箱馬車に身体をあずけながらも強がってみせるチギだが、ユンガロスが笑顔で提案するとチギの顔色は一気に真っ青になる。
それでも「無理」と言えないチギをいじってユンガロスが遊んでいるあいだ。さっさとその場を離れたルオンは、リュリュナを伴ってふもとの村をまとめている者のところに顔を出していた。
「寝るところを貸してもらえて、良かったですね。チギがあの様子じゃ、今日じゅうに出発するのは無理そうですもんね」
「まったく、くちばかり達者で困った小僧よ。いつまでひよっこでいるつもりなんだかな」
ルオンの憎まれぐちに、リュリュナはにこにこ笑ってうなずいた。
「はやく一人前の行商人になれるといいですね。ルオンさんを見習ってがんばるんだ、って張り切ってたし」
「……まあ、根性だけは認めてやってもいい。あとはまだ、まだまだだがな」
「あとはまだまだ、ですか。ふふふ」
首尾よくその晩の寝床を得たリュリュナたちは、道すがらチギのことを話しながら箱馬車へと戻る。
そうして、ぐっすりと眠った翌日、早々にふもとの村を発った。
「それで、ルオンさんたら馬を預ける日にちが短かったからその分返す、って言われたのに受け取らなくって」
「ふふ、あの御仁らしいですね」
行きと同じく先頭をルオンが行き、そのあとをチギが追う。最後尾にユンガロスの操る馬車が続き、荷台の窓から顔をのぞかせたリュリュナと会話を楽しんでいる。
チギはリュリュナと同乗したがった。行きと違い荷台に余裕があると主張をしたのだ。しかし、ふもとの村の住人達が木工品を街で売ってほしいと持ってきたため、チギの荷台の余裕はすぐに埋まってしまった。
荷台が埋まったとはいえ、行きよりも明らかに荷の総量は少ない。
三台の馬車が順調にイサシロに向けて進み、太陽が高いところにのぼったころ、ふと顔を前に向けたリュリュナが声をあげた。
「あれ。ルオンさんが馬車を止めましたね。どうしたんだろ」
先頭を走っていた荷馬車が速度をゆるめて、路肩に停まった。必然的に、後続の馬車も停車することとなる。
「なにか異常が起きたのでしょうか。おれが聞いてきますから、リュリュナさんはここで……」
言いながら腰を浮かせたユンガロスが、馬車を降りる前に原因は判明した。
「あーっ! いたっすよ、副長ー! なんすか、どうしてこんなとこにいるんすか! 探しに行くところだったんすよー!」
ルオンの馬車のそばであがった大声は、その場の全員が聞き覚えのあるものであった。
明るく元気で騒がしい声の主は、先頭の馬車のそばでぴょんぴょんと跳ねながら手を振っている。
「ノルさん……?」
「それと、ソルもいますね」
思わぬ人物と鉢合わせて首をかしげるリュリュナに、ユンガロスが付け足した。
見れば、なるほど飛び跳ねているノルの背中で、容赦なく揺さぶられている人影がある。ノルが跳ねるたび踊る鶯色の髪は、たしかにソルの髪色だった。




