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パリ、もぐもぐもぐ。パリ、もぐもぐもぐ。
リュリュナに声をかけられたヤイズミは、表情を変えないままアップルパイを食べ続けている。
「あの、ヤイズミさん……?」
リュリュナが再度呼びかけるも、ヤイズミは一心にアップルパイに向き合っている。
パリ、もぐもぐもぐ。パリ、もぐもぐもぐもぐ。
「おーい、姫さーん!」
ゼトがヤイズミとアップルパイのあいだに手を入れて振りおおきな声でその名を呼ぶと、ヤイズミはおどろいたように目を見開いて顔をあげた。
ぱちぱちと瞬きしたヤイズミは、自分のまわりに立つリュリュナとゼトを見て不思議そうな顔で首をかしげる。
「あら、わたくし……?」
「うふふ、ヤイズミさまったら。リュリュナちゃんが呼んでるのも気づかないほど、あぷるぱいに夢中でしたよ」
「まあ! そんな、わたくし、そんな失礼なことを!」
ナツメグのことばを聞いて、ヤイズミはさっと表情をこわばらせた。けれど、リュリュナはふんにゃりと笑ってヤイズミを見上げる。
「そんなに気に入ってもらえてかったです」
「おう、うまいって食ってもらえるのが菓子職人にとって一番うれしいんだ! 姫さんはどうだ? 自分が作ったぱい生地だろ。みんなうまいって食ってるぜ」
ゼトが強張ったヤイズミの肩に手を置いて、にっと笑いかける。リュリュナとゼト、そしてナツメグとチギまでもが笑顔を浮かべてヤイズミを見つめるなか、彼女はほんのりとほほを染めてつぶやいた。
「……とても、幸せです。とてもおいしくて、とても誇らしくて。とても、とても……うれしく思います」
ちいさな声だったけれど、ヤイズミのことばはみんなに届いた。全員がやわらかな表情でほほえみを浮かべて和やかな空気が満ちる。その流れで、ゼトが皿に残ったアップルパイに目を向けた。
「さて、それじゃもう一切れ」
「おれもおかわり!」
うきうきとゼトが二切れ目のアップルパイを噛みしめて、彼に続いてチギもアップルパイを手にしてかぶりついた、そのとき。
「なーんっすかー、この匂いー! めちゃめちゃいい匂いっすー!!」
大きな声とともに玄関の引き戸を開けて飛び込んできたのは、ノルだった。ノルは店に飛び込んだ勢いのまま駆け込んできて、台所をのぞきこむ。
「ノル、だめ。戸を開ける前に声をかけるべき」
その後ろから静かに顔を出したのは、ソルだ。今にも台所に飛び込みそうなノルの襟をわしづかんで「おじゃまします」とぼそぼそ言って頭を下げる。
「あらまあ、いらっしゃいませ。ノルさん、ソルさん。お揃いでどうされました?」
「商品ならもう売り切れちまった。表に書いてあったろう」
ナツメグとゼトが声をかければ、襟をつかまれたままじたばたしていたノルが「いやいや」と首を横にふる。襟をつかむソルをくっつけたまま、じわじわと前進しながらノルは笑った。
「きょうは、仕事抜けられない上司の使いっ走りでちびっこの様子見っすよ! まーったく、いち町民の平穏を守るのも街の守護隊の使命だとかなんだとか言っちゃって。職権乱用もいいとこっすよね!」
「ノル、それ内緒」
「あっ、そうだったそうだった」
ソルに耳打ちされたノルは、けらけらと笑う。そうしている間にもノルはナツ菓子舗の面々の輪に近づいて、その中心に置かれた皿に視線をやって目を輝かせた。
「おわあ、なんかうまそうなもんがあるっす! いい匂いの正体はこれっすね! これなんすか。なんっすかー?」
「え、えと、アップルパイです」
ノルが皿に顔を寄せて鼻をひくつかせるものだから、リュリュナはその勢いに戸惑いながらも答える。そんなリュリュナとノルの間に身体をねじ込んだのはチギだった。
「りんごって果物つかった菓子だ! あんた、なんだよ。近づき過ぎだぞ!」
猫耳をぴんと立て目を吊り上げて威嚇する少年をじっと見て、ノルは「こんなチビ相手に本気で牽制かける気とか、あのひとほんとやばいっすねー……」とちいさくつぶやいた。呆れを多分に含んだその声は、幸い誰にも聞こえなかったらしい。
ノルの目の前に立つチギは威嚇をやめないままに、眉を寄せて不審なもの見る目でノルを見ている。
少年の視線も気にせずしゃっきり身体を起こしたノルは、ちょうどいい高さにあるチギの頭をぽんぽんと軽く叩いてからにぱっと笑った。
「あ、白羽根のお嬢さまもいるじゃないっすか! おこもりはやめたんっすね。これは報告事項っす」
あっけらかんとしたノルの言いように、ヤイズミはむっと口をへの字に曲げた。そんな彼女のそばに、ノルを引き留めるのをあきらめたソルがすすすと近寄る。
「なにしてるの」
「お菓子づくりです。わたくしの手が必要だとおっしゃっていただけたから、微力ながらお手伝いしておりました」
「楽しそう」
「ええ、とても楽しく過ごさせていただいております」
淡々と会話をしたソルは、真顔でうなずくヤイズミに「よかったね」とやはり真顔で告げた。そのまますすす、とノルの後ろへ隠れようとするソルの袖をリュリュナがつかむ。
「あのっ! ヤイズミさんが作ったお菓子、食べてみませんか? 一切れしかないから、おふたりで半分こになっちゃいますけど」
「わお! いいの?」
すぐに反応して飛び跳ねたのはノルだ。いまにもアップルパイに飛びつきそうなノルの顔の前に、ぱきん、と氷の壁ができる。
「へぶっ!」
「副長も食べたことないお菓子。先に食べるのは危険」
氷の壁を作ったソルがぼそりと言えば、ノルはぶつけたせいでずれた眼鏡を直しながらくちを尖らせる。
「えー。ここで食べてけば……」
「ばれないと思ってるの」
「……いや、ばれるっす。無理っす。おいら死んじゃう」
ノルはごく一部の事柄に関してのみ極めて心が狭い上司を思い浮かべて、顔を青くした。ぷるぷると首を横にふって後ずさるノルを見て、ソルはそっと氷の壁を霧散させた。
リュリュナはそんなふたりを前におろおろすることしかできない。彼らがなぜ暗い顔をしているのかはわからないが、自分が声をかけたせいだというのはわかっていた。どうしたら良いか、とことばを探すリュリュナに助け舟を出したのは、ナツメグだった。
「だったらおふたりはいま食べてもらうとして、副長さまをお花見に誘ったらどうかしら」
唐突なナツメグの発言に、一同がきょとんと眼を丸くする。それぞれの顔に「お花見?」と書いてあるのを見たナツメグはにこにことうなずいた。
「ちょうど、ナツ菓子舗のみんなでお花見に行こうと思ってたんですよ。早くしないと桜が散ってしまうから、明日にしましょう。明日のお昼から、街のすぐそばの街道のあたりで。ヤイズミさまがよろしければ、あぷるぱいも焼いて持っていけるかしら」
「わたくしはしばらくの間、ゆっくり過ごしなさいと言われておりますから、いくらでもお手伝いいたします」
「まあ、うれしいです。では、アプルパイを作ってそのままお花見もご一緒しましょう。もちろん、飛び入り参加も大歓迎ですよ」
ヤイズミの協力を取り付けたナツメグが言うと、ノルが「おお!」と顔を輝かせた。
「そいつは朗報っす! 緊急報告事項っすよー!」
叫ぶなり、ノルは玄関に向かって駆け出して行った。ばたばたと去って行ったと思った足音は、ふたたびばたばたと戻ってきて台所にノルが顔を出す。
「お菓子もらい損ねてたっす!」
「あ、はい。どうぞ」
リュリュナがアップルパイを半分に切って彼の手に乗せると、ノルはぱくっと大きなくちでかぶりついた。途端に、きらきらと目を輝かせる。
「うまいっす! ありがとっす! ごちそうさまっすー!!」
くちの端にパイ生地のかすをつけたまま、ノルは元気に駆け去っていく。
残されたソルにも、リュリュナはパイを差し出した。
「ありがと」
静かに言って、ちいさなくちでアップルパイをかじったソルは、にこりともせずに「おいしい」とつぶやいた。おっとりと食べ終えたソルがぺこりと頭を下げて、店を出て行く。
「ごちそうさま。お邪魔しました」
そう言ってソルが消えて行った表通りは、傾いた太陽の光で橙色に染まっていた。




