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昼下がりの街を歩くリュリュナは、おなかいっぱい幸せいっぱいで、満面の笑みだった。
「天ぷら、気に入ってもらえたようで良かったようです」
「とっても! とってもとってもおいしかったです!」
つられたようににこにこと笑うユンガロスの声に、リュリュナは空いている右手をぎゅっと握りしめて目を輝かせた。
おいしかった、と言ったそばから先ほど食べた天ぷらの味を思い出して、リュリュナのくちのなかにつばがあふれてくる。
それほどに、おいしかった。やはり揚げ物は正義だと、リュリュナは心のなかで確信する。
前世でも、リュリュナは揚げ物が好きだった。唐揚げ、フライドポテト、コロッケに春巻き。村では、おいしかった記憶を思い出しながら何度となくそば粥のお供にしたものだ。
今世では食べられないものだと思っていただけに、天ぷらを食べられたリュリュナの心は満たされていた。おかげでくちも機嫌よくまわる。
「屋台で天ぷら屋さんしているなんて思わなかったから、ユングさまに連れて行ってもらえなかったらずっと気がつかなかったかもしれないです」
「そうでしたか、リュリュナさんのふるさとにはなかったのですね。天ぷら屋は屋台しかないんですよ。油を大量に使うので火災が起きやすいのですが、屋台ならば延焼の危険は少ないですから」
ユンガロスの説明になるほどとうなずいたリュリュナは、おなかも満たされて、知識まで得られるなんて、きょうは本当に良い日だと、機嫌よく笑った。天ぷら屋の値段設定が思っていたよりも安くて、懐に入れてきた小銭で足りたこともリュリュナの機嫌をよくさせていた。
腹ごなしに街をぶらぶら歩きまわるのも、目に楽しい。なぜかユンガロスにつながれた手は気になったが、歩幅の違うふたりが歩くにはこのほうがいいのだろう、とされるままになっていた。
そこで幸福に満たされていたリュリュナはふと、気になっていたことをくちにした。
「ユングさまは天ぷら屋さんでおなかいっぱいになりましたか。あたしと同じ天丼しか注文してなかったですけど、足りました? 大きいから、もっとたくさん食べなくてだいじょうぶですか?」
こんなにも大きいのに、と見上げるリュリュナの気遣いを受けて、ユンガロスは心のままにほほえんだ。
「はい。幸せそうに食べるリュリュナさんを見ていたら胸がいっぱいになったので、大丈夫です。ありがとうござます」
答えながら、ユンガロスは屋台でのリュリュナを思い出して目元をとろけさせる。
ぱちりと手を合わせて「いただきます!」と言ったリュリュナは、早く食べたくて待ちきれない、といわんばかりの顔をしていた。食前のあいさつを済ませるとさっそく、顔がかくれるくらいのどんぶりを片手でよいしょと持ち上げて、どんぶりの真ん中に寝そべる海老天を箸で持ち上げて、ぱくりと食べたリュリュナ。
その瞬間の顔を思い出すだけで、ユンガロスはどんな苦境でも乗り越えられる気になった。
期待に輝いていた顔が驚きに塗り替えられたのは、一瞬。まばたきのあとには、頬を桃色に染めて「熱い熱い」と言いながらも幸せそうに目を細めて、リュリュナはご飯をぱくり。
甘辛いたれの絡んだごはんがおいしかったのだろう、慌てたようにもうひとくち、もうひとくちとご飯をほお張り、むぐむぐと幸せをかみしめていた。
海老のつぎは蓮根、竹の子、鰆と次々に食べては、何度も顔を輝かせていた。
あまりにもおいしそうに食べるリュリュナに喜んだ店主が「特別だ!」と言って鯛の天ぷらをおまけしてくれるくらいには、良い食べっぷりだった。
「天ぷらのほかにもうどん、そば、寿司のうまい店もあるんですが……」
言いながらとなりを歩くちいさな同行人を見下ろしたユンガロスの視線は、リュリュナの腹に向けられていた。大きめの上着のせいで目立たないが、そこは丸まると膨れている。
ユンガロスが挙げる店の名を聞いては目を輝かせたリュリュナもまた、自身の腹を見やってしょんぼりとうなずいた。
「とっても食べたいですけど、もうお腹がいっぱいです。お魚、好きなんですけど……」
そば粥ばかり食べて育った今世で、リュリュナの心は挙げられた食べ物を渇望していた。とっても食べたい。とくに寿司など、山奥の村では川魚さえ干したものをごく稀に食べるくらいだったので、食べたくてたまらない。
けれども、満腹の身体がそれを許さない。
「でしたら、腹ごなしにもうすこし歩きましょうか。気になる店があったら次回、出かけるときに行くことにして」
ユンガロスの提案でふたりは通りをぶらぶらと進み、あちらの店はなんだ、こちらの店は行ってみたい、などと楽しくしゃべった。
そうしてリュリュナの膨れた腹もずいぶんこなれてきたころ。
「あれ、なにか、音がします。それに、においも……」
リュリュナの耳と鼻が、音とにおいを拾ってひくひく動く。ずいぶん歩いてきたようで、いつの間にか周囲に店はまばらになり、生活の気配が濃厚な家が建ちならぶ区画に来ていた。
「なんのにおいか、わかりますか」
いたずらっぽく笑ったユンガロスに問われて、リュリュナはもういちど鼻をひくつかせる。
「しめっぽい……しょっぱい……? それから、それから……」
つぶやきながら、リュリュナはどこかで嗅いだことのある香りだ、とあたりをつける。菓子舗ではない。村でもない。山道ではなくて、もっと前、そう、リュリュナとして生まれる以前の記憶に残るこの匂いは……。
「……海だ!」
ぱっと顔をあげたリュリュナの視界に、青いきらめきが映る。
粗末な家を曲がった先に、海原が広がっていた。
リュリュナは思わず駆け出して、海に落ちるぎりぎりの岩のうえで足を止めた。すうっと吸い込んだ空気に混ざるのは、潮の香りだ。聞こえていた音は、潮騒だったのだ。
「ここイサシロの街は山と海の距離が近いので、山の幸も海の幸もどちらも楽しめることで有名なのです。釣り人のあいだでは、一日のうちに川釣りも海釣りもできるから人気なのだそうですよ」
ゆったりと歩いて追いついたユンガロスが、リュリュナの横に立って海のなかを指さした。
のぞきこんだ透き通る青のなかに、ちいさな魚が横切る。
わあ、と声にならない喜びにあふれた顔で振り仰げば、ユンガロスの笑顔がリュリュナを迎える。
「波がおだやかで良かった。けれど、すこし冷えますね」
言って、ユンガロスは脱いだ羽織をリュリュナの肩にかけた。ユンガロスの腰にくる裾は、リュリュナの足首まで覆い隠す。
高価な羽織が地面につきそうになって、リュリュナは慌てて両手を横に広げた。
「わわ、汚れちゃいます! これじゃユングさまが寒いですよ。あたしは寒いの慣れてるから、平気で……」
羽織を返そうとするリュリュナの前にしゃがんで、着流しが地面に擦れるのも気にせずユンガロスは膝をついた。
そして、羽織を着せたリュリュナを膝に乗せて抱きしめた。
「こうすれば、汚れません。それにおれも温かい」
耳元で聞こえるユンガロスの声に、リュリュナは「そうですね」とも「そんなばかな」とも言えずに、膝のうえでちいさくなった。
冷たかったはずの風は、もう感じなかった。




