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『完売しました』
そう書いた紙が菓子舗の戸口に貼られたのは、数刻のちのことだった。
「すみません。きょうはもう材料がないものですから」
商品を手に入れられなかった数人の客にナツメグが頭を下げる。彼女たちは「あら、残念だけど、こんど楽しみにして来るわ」と穏便に去って行ってくれた。
ナツ菓子舗は全力をあげてことにあたり、血気にはやったお姉さまがたを穏便に鎮めることに成功していた。おかげで、店のまえにできていた長蛇の列は、血を見ることなく解消していた。
「はい、お待ちしてます! ありがとうございました!」
「ありがとうございましたっ」
穏健派のお姉さまがたのお帰りに、リュリュナとゼトもそろって頭を下げた。下げたまま、数えること五秒。
ゆるりと頭をあげたナツメグ、リュリュナとゼトは、互いに無言のままいそいそと店の戸口を開けて室内へと入る。板間に座ったユンガロスがふしぎそうに見ているなか全員が入り、戸口をぴちりと閉めたのを確認してから、三人は顔を見合わせた。
ナツメグはうふっと。リュリュナはにひひと。ゼトはにまっと。浮かぶ表情はそれぞれ違えど、みな笑顔だ。
互いに互いを笑顔で見つめあいながら、三人はやがてこらえきれないように笑い声をあげた。
「うふふうふふふ! 完売ですって! かん、ばい!」
品よく笑いつつも、目じりを下げてうれしくてたまらない、といった様子でこぶしを握るのはナツメグだ。
「すごかったですね! あっという間でしたよ。あんなにたくさん焼いたのに、あっという間にぜんぶ無くなっちゃった!」
もとから丸い目をさらに丸くさせ、きらきらと輝かせて興奮気味に言うのはリュリュナだ。抑えきれない喜びに、身体が勝手にぴょんぴょんと跳ねている。
「一週間分仕入れてた材料、ぜんぶ無くなっちまったぜ! いちにちでだぞ、どういうことだよ! ははっ、すげえなあ! やったぜ!」
「ひゃあ!」
あまりの売れ行きに喜びが爆発したゼトが、そばにいたリュリュナの脇を持って高く持ち上げた。高い高いをしたまま、ゼトはくるくる回り出す。
「いちかばちかの異国の菓子作りだったのに、大成功だ! それもこれも、リュリュナのおかげだ! お前はうちの店の座敷童だな!」
あはははは、と楽し気に回るゼトに振り回されて、リュリュナは「ひいえぇぇぇ!」と情けない声をあげることしかできない。
―――目がまわるぅ……!
そう思った瞬間、回っていたリュリュナの視界がぴたりと止まった。ぐわんぐわんと止まりきれない頭を揺らすリュリュナの顔をのぞきこんできたのは、ユンガロスの麗しい顔だった。
「大事ありませんか」
「ひゃ、ひゃい。ちょっとぐるぐるするだけですぅ……」
心配げなユンガロスにどうにか答えたリュリュナは「ひっ、調子に乗ってすんませんっ!」という声に気づくことなくユンガロスの腕に収まっていた。
直立不動の形で冷や汗をかく義弟を見て、浮かれに浮かれていたナツメグの気持ちがようやく落ち着いた。
こっそりと居住まいを正したナツメグは、こほんとかしこまってユンガロスに向き直ると、深々と頭を下げた。
「副長さまにはお力ぞえいただきまして、大変ありがとうございました」
「いえ、おれも楽しかったですから」
ナツメグが顔をあげるのを待ってユンガロスが言うと、ナツメグは「それは良かったです」とほほえんだ。かと思うと、すぐに表情を曇らせる。
「本日の大盛況はまちがいなく、副長さまのおかげです。ですが、こんなちいさな菓子舗ではどうお礼をしたものか……」
ほほに手を当てて思案するナツメグに、ユンガロスは軽く笑った。
「礼ならば、くっきぃをいの一番に食べさせてもらいました。とてもおいしかったですよ」
「あれは、みんなの注目を集めるために食べてもらっただけですから!」
ようやく頭の揺れがおさまったリュリュナが慌てて言えば、ユンガロスは首をかしげる。
「副長さま自ら食べてくださったから、あの人出だったのねえ……」
「リュリュナお前、おそろしいこと思いつくな……」
ユンガロスとリュリュナのやり取りを聞いて、ようやく先ほどの事態の原因を知った姉義弟だった。ナツメグは店のまえに連なっていた行列を思い出して遠い目になり、ゼトは信じられないものを見る目でリュリュナを見た。
リュリュナとしてはテレビのCMにイケメン俳優を起用するイメージでユンガロスにお願いしたものだから、ゼトの視線の意味がわからない。
きょとんとしているリュリュナを腕に乗せたまま機嫌よく笑うユンガロスを見て、気を取り直したナツメグがふたたび言う。
「当店のために見世物のような真似をしていただいて。けれど副長さまにお給金を渡すなんて失礼でしょうし、どうお礼をしたものか……」
「でしたら」
悩みを多分に含んだナツメグのことばを聞いたユンガロスは、腕に抱えたリュリュナに視線を落としてにっこり笑った。
「でしたら、リュリュナさんと散歩させてください」
「おさんぽ、ですか」
ぱちくりと見上げたリュリュナが繰り替えすと、ユンガロスはゆるりとうなずいた。
「はい。おれはきょう一日、休暇なのですが予定がなにもありません。なので、リュリュナさんにおれのおすすめの店をいっしょに回ってもらえると、うれしいです。この菓子舗以外にも、おいしいものを出す店が多数あるんですよ」
「そんな!」
おいしいお店、と聞いて思わず目を輝かせたリュリュナは、欲望に飲まれそうになった自分を押し込めてたずねる。
「そんな楽しそうなことで、ほんとうにお礼になるんですか……?」
信じがたい、という思いのこもったリュリュナの声と視線を受けて、ユンガロスは迷うことなくうなずいた。
「はい。これで足りないと言われたら、あとはリュリュナさんの手作りくっきぃを食べさせてもらいたい、というお願いもありますが」
そう言ってユンガロスはいたずらっぽく笑う。
「そんなの、むしろあたしはうれしいですけど……」
そんなことで礼になるのだろうか、と返答に困ったリュリュナは、視線でナツメグに助けを求めた。リュリュナの思いを正確に受け取ったナツメグはうなずいた。
「では、それでお願いいたします。リュリュナちゃんの手作りは、材料がそろい次第、ということでよろしいですか」
「ええ、楽しみにしています」
言いながら、ユンガロスがとろけるような笑顔を向けたのはリュリュナだ。リュリュナもまた雇い主の了承を得て、はじめるような喜びのこもった笑顔で迎える。
「……副長さま、あの、お帰りの時間は」
遠慮がちに、けれどまっすぐにユンガロスを見つめてゼトが問えば、ユンガロスはわかっている、というようにうなずいた。
「もちろん、日のあるうちにこちらの店まで送ります。この名に誓いましょう」
そう答えたユンガロスと固い握手を交わしたゼトと、なぜか「うふふ」と笑いが止まらないナツメグに見送られて、リュリュナたちは街へと繰りだしたのだった。