スケアクロウは荒野で踊る
大昔に書いて発表する場所もなかったものなのですが、お焚き上げと称してお目汚しさせてくださいませ。
私が書き置いたあの手紙を誰かが見つけることがあるならば、肉食獣たちがナイフとフォークを構えて舌なめずりをしながら待ち受けるこの食卓の皿の上から飛び降りることも出来るだろう。勿論、獣たちが食事の前に神様にお祈りを捧げる時間を持っているとして、そしてまた石ころ同然の私に救うだけの価値を見出すことが出来る都合の良い存在がいるとして、の話だが。
真っ白なテーブルクロスが折り目正しく敷かれたテーブルはどこかの長屋の屋根でも外してきたのかというぐらい長く、私はその中ほどの場所に胎児のように体を折り曲げて眠っているふりをしていた。薄目を開けて周囲を窺うと、すぐそばには鮫の背びれのような形をした巨大なナイフがシャンデリアの光を反射して眩しいほどだった。ナイフの後方にはこれまた巨大な銀のボウルが載せられており、血抜きの処理まできちんと考えられているようだった。ボウルから若干はみ出す形でクランベリーソースにビネガー、それからプラムのコンポート、更に後方にはエッグタルトやシャルロット、トライフルにラスグッラが仲よく並んでいた。お好みの味付けから食後の口直しまで準備は万端、ゲストが心配することは何もないというわけだ。せめて麻酔まで準備されていることを願い、私は他にやることもなくもう一度目を閉じた。きっと誰もメインディッシュが動き回り喋り散らすのなんか見たくはないだろう。
あんまりやることがないので、私はこんなことになった最初の原因を思い出していた。
端的に言ってしまえば、金銭にだらしない親に関心を払わず、馬鹿げたことしかやらない子供はベーコンエッグを朝食に出されていた代わりに自分が食卓に出されることもある、ということだ。重ね続けた借金が膨れ上がり妻にも逃げられた父親は、見知らぬ男に「君の所の今年14になる娘さんを養子にくれたら借金をすべて肩代わりしよう」と持ち掛けられて、名刺をもらう前にあっさり頷いた。膨大な借金、年頃の娘、この二つの単語だけでもう結末は見えそうなものだ。当然養女というのは建前で、私は最初にこの館に足を踏み入れる前に、自分にふりかかる災難を想像して自殺を考えた。しかし、「神様がうっかり見落としてしまったような」街「マインツヘルト」では一度も見たことのない素晴らしく大きな館を目にした途端、淡い夢が私の脳裏をかすめていった。もしかしたら、もしかしたら長年子供のいない老夫婦が養子を欲しがっていて、慈善事業の一環で私を引き取ったのではないだろうか。たったの14年しか人生を知らない私には、一瞬でも胸をときめかすその空想だけで獣の巣に自ら入り込むのには十分だった。
そうして一分後にはほらやっぱりね、と絶望を通り越して苦笑することになる。
「14歳だね?」
「はい」
屋敷に入った瞬間、当主らしいスーツの男性がそれだけ質問し、私が肯定したことですべての会話は終了した。その男性の顔は濃い紫色のベールで覆われていたのでついぞ素顔を知る暇もなくディナータイムになってしまった。まるで私が生まれ落ちたその瞬間から定められた運命だと言わんばかりに粛々と物事が進んでいくので、私は抵抗する気力や質問する機会のことごとくを失った。そうして行き着く現状は磨き上げられた皿の上、である。全裸の私に今の所突き刺さるのは視線だけだが、もう数分もしない内にフォークやナイフが追加されるに違いない。なるほど餌食とはこういうことだ。
「それでは皆様、そろそろ…」
明朗な声が部屋中に聞こえる音量でそう言った。室内は暖かく心地良いほどだったが、何も着ていない私がそう感じる温度というのは立食者には暑すぎるのではなだろうか。それともこれが食材への配慮だろうか。私は目を閉じて、すべてが終わる数十秒後を待った。
衣擦れの柔らかな音、絨毯の上を落ち着いた足取りで歩く気配。瞼の裏側に銀食器の輝きとシャンデリアの煌々とした明かりが貼り付いたままだった。冷たい感触が肩甲骨に触れた。撫でるように優しく、慈しむように上品にナイフは切り下げられた。
ついに来たか、と私は麻酔も施されないままの体を小さく揺さぶった。人生最後の身じろぎになるだろう。肩甲骨を覆っていた皮膚が音を立てて裂けた。肉と骨の隙間からこぼれた液体状の膜に包まれたそれが露わになる。人々は驚嘆の声を上げた。ナイフの持ち手が怯えたように後ずさりをしたのが空気でわかった。
「人間じゃないぞ!」
その声を合図に私はやおら上体を起こし、切れ目からずるりと飛び出した羽を広げて立ち上がった。悲鳴が部屋に木霊した。切り付けられていない方の肩の、皮膚の下で蠢いているそれを自由にしてやるためにナイフを奪い、不器用に切り裂く。鮮血をまとって翼が開いた。驚愕と自失の声を置き去りに、私は開かれた天窓から外に飛び出した。
そして久方ぶりに私の故郷を見上げ、手紙は確かに届いたのだと知った私はそっと微笑した。「神様、私を天使に戻してください」と書いて風船に繋いだあの手紙。
空が青く明るく、どこまでも開けていた。頬を撫でる風と降り注ぐ陽光に抱きしめられながら、私は帰路を急いだ。
その頃、館の当主が茫然と開け放たれた窓を見上げながら呟いた。ベールの向こうには流行病に冒され爛れた皮膚が覗いていた。
「そうだ、子供は天から来たのだった」