迷信とは時勢のずれた警句である
例えば、何処ぞの学校には鹿に乗っての登校とか、鉄下駄での登校とかが禁止されていたりする。いや、禁止もなにもやらねぇよ。って普通の人は思うんだが、わざわざ明記されてるってことは実際過去にやったやつがいるんだろう。
今の価値観で見ると意味不明、理不尽な規則であっても、それが決まった当時にはちゃんと理屈に合う理由やら原因やら、問題になるような事件やらがあったはずである。単に権力を誇示するためのルールというのもありえないではないが。
あとは、女子が連れだって行動する習性があるのは、元々不審者対策としてそう指導されていたのだとか。昨今はそう簡単に学校に侵入できないし、寧ろ男子にもそう指導するべきではという話もあるようだが。
まあともかく、規則というのは、本来であれば時代環境に合わせてアップデートするべきものである。警句の類もそうだ。
迷信というのは要するに、正確な理由や理屈はわからないが、これで問題が回避できるか解決・先送りできる、というものである。理由や理屈が間違っていることが分かれば迷信と言われ、その前は単に言い伝えと言われる。場合によっては、理由の部分が失伝している場合もある。本当の理由を隠すためにオカルトを理由にする場合もある。
今迷信と言われるものも、言われ出した当時はきちんと機能している警句だったりするわけである。例えば、山に出る鬼というのが実は山賊の類のことだったり、子供が入ると死んでしまう洞窟は空気より重い天然ガスが充満していたりする。お盆が過ぎたら海に入ってはいけないというのは、その時期に浜に危険なクラゲが流れ着くからだったりする。
最近の子に通用するかはわからないが、好き嫌いすると勿体ないお化けが来るぞ、と脅したりする。乱暴なことをいうと、迷信というのはそういうものである。勿体ないお化けは実在しないかもしれないが、好き嫌いはよろしくないので大人はなくしてほしい。勿体ないお化けはいないから好き嫌いしてもいい、ということにはならない。迷信と言われるものも、そういう分析は必要なのである。表面上の理屈の正誤はどうあれ、現在まで伝わっているのであれば、伝わるに足る何かはあったのだ。
さっきあげた例の迷信。まあ、鬼の話は現在はいないだろう、多分。だが、次の二つは迷信と切り捨てれば、悪くすれば人が死ぬことになる。迷信を否定する時は、表面的な理由だけ見るのでなく、そんな話が出るに至った理由を探し、解体しなければならない。最初から何もないのであれば、そもそもそんな話は生まれない。
まあ勿論、誰かが自分の都合で作り上げた虚構という場合もあるだろう。特に権力者の作った虚構は厄介だ。それを追究・精査すること自体がタブーになりかねない。そうして長く続けられたルールは変えることを忌避されがちになる。事なかれ主義というやつである。特に、ある程度年を経た人間は変化を嫌う。良きにつけ悪しきにつけ、とかく変わることを嫌がる。面倒くさいからである。変化があれば、それに慣れるために行動をしなければならない。それを厭う人間は割と多い。最終的にメリットが勝るとしても、その途中の手間を嫌がる人間は少なくないのである。
迷信そのものは悪ではない。どんなものでも時代に合わせてアップデートしていかないとレトロになる。それだけの話だ。レトロになったものがそれでも良いものであり続けるか、害悪に成り下がるかは運用者の問題だ。ただ、思考停止は悪である。
人は嘘を吐くものである。否、嘘を吐くのは人に限った話ではない。犬猫も嘘を吐くことがあるし、嘘を吐いて相手を騙す生態を持った生物もある。擬態の生態なんて代表格と言えるだろう。それらの嘘は、ほとんどが己の利のため、或いはリスクを遠ざけるためのものだ。つまり、何らかの理由や意味があるものということである。
しかし、人は意味のない嘘も吐く。嘘を言っても意味がない、ということではなく、嘘そのものに意味がないということである。いわゆる、何となく言ってみただけ、とか、相手の反応を見て遊んでいるだけの類である。
だから、そういう嘘、ほら話の類が迷信として残っているという場合も勿論あるだろう。そうでなくとも曲解や誤解もよくある話だ。
迷信に出会った時にするべきことは、闇雲な否定ではなく論理的な分解と分析である。人は理屈の通じないものを恐れる傾向にある。理屈のわからないものに理屈をつけて安心しようとしたりする。昔の人は今よりそれが拙かっただけである。迷信の否定だってある意味それだ。