鎖縛
初投稿です。
以前、自分のホームページに掲載していたものをこちらに掲載いたします。
男は戦士だった。優れた体躯と獣の心を持ち、戦うためだけに生まれてきた。
沢山の人を殺した。自分の前に立ちふさがるならば、親友であっても家族であっても容赦しなかった。父を斬り、兄を斬った。剣にこびりついた血をぬぐったときにも眉一筋動かすことはなかった。
男は自由を愛した。己を縛りつけるあらゆるものを憎み、戦いを挑んだ。いつからか、一人の女が傍らにあるようになった。その奔放な肢体が脳裡から離れなくなったとき、彼の剛剣は冷酷なうなりをあげた。血みどろの肉塊と化した女を見下ろし、執着を断ち切ったことに満足のため息をついた。
戦いは終わることがなかった。敵は無限に彼の前に出現し続けた。
彼は何も持たなかった。何かを支配しようとすると執着が生まれる。執着は斬らねばならない。だから彼は常にひとりだった。
何千もの敵が彼ただ一人を狙って押し寄せてきて、さしもの狂戦士も捕らえられた。
その力を惜しまれ、処刑されることだけは免れる。
幾重にも鎖をかけられ、牢獄に放りこまれた。
苔むした、得体のしれない小動物が蠢く闇黒の中で、彼は即座に戦いを開始した。
全身の筋肉に力をこめて膨らませる。身を縛る鎖がいっぱいに張られてきしむ。力をゆるめてたるませる。
幾百、幾千回となく続けた。
やがて、鎖の輪がひとつ弾けて飛んだ。
夜、牢獄の扉を破って逃げた。己を縛っていた鎖は比類なき凶器と変わる。衛士を片端から打ち倒してゆくのは実に爽快だった。
逃げ回るうちに城の奥深くに迷いこんでしまった。
ふと思いつく。人質を取ろう。兵士どもが手を出せない高貴な相手がいい。
野の獣のように気配を消した。
「誰……?」
暗がりから震える声が問うた。寂しがって泣いていた小さな姫。うってつけだ。撲殺した侍女の体を放りだしてにやりと笑う。
王女は小鳥よりも軽かった。血塗れた鎖を捨て、つかみ、かかえて駆け出した。もう姿を隠す必要はない。
幼い泣き声を聞かせてやると、海が割れるように道が開いた。近くにいた騎士の剣を奪い取る。刃を王女の首に押しつけながらじりじりと進んだ。
城門にさしかかった。背後につめかける兵士たちを牽制しつつ、堅牢な石組みの通路に踏みこむ。
突然、格子が降りてきて行く手をふさいだ。背後にも。罠だった。王女の白い喉首に剣の切っ先をつきつけて怒鳴ったが、空しかった。
暗がりにうずくまる。
やがて腕の中の王女は泣き疲れて眠ってしまった。
緊張をはらんだ闇が去り、日が昇った。
光の箭を浴びた王女が身じろぎした。口の中で何かかすかにつぶやき、腕をのばしてきた。自分の胴体より太い首にすがりつき、おとうさま、とあどけなく笑った。
唐突に、これは斬らねばならないと思った。これまでに感じたことがないほどに強い感情が湧き起こった。
刃は延髄にあてられている。指一本動かすほどの力ですむ。鋼が柔肌にくいこみ、幼い命は息絶える。簡単なことだ。
小さな吐息を肩に感じた。幼子の熱い体温が肌にしみこんでくる。ふっくらした頬。右の耳たぶに菱型をしたあざがある。全てを男に委ねて安らかに眠っている。斬らねば。手が震える。
がたん、と音がした。王女の危機と見た決死の騎士たちが隠し扉を通って押し寄せてきたのだった。
王女を投げつけた。たたらを踏んだ相手もろとも切り下げる。血しぶきと共に、切断された小さな足が宙に飛んだ。
瞬間、激情が噴き出した。咆吼をあげて剣を振るった。太い丸木格子が紙のように切断される。粉砕して飛び出した。矢を背中に浴びながらひたすらに逃げた。
自由を得たというのになぜか喜びはなかった。わけのわからぬ感情をもてあまし、振り払うべく、吼えながら大地を転げ回った。
時が流れた。
男はなおあらゆるものと戦い続けていた。
戦があった。
彼の属する軍勢は敵の城を襲った。城門を破り、なだれこんだ。次々と塔が炎上してゆく。阿鼻叫喚の光景が展開する。
財宝にも女にも興味なく、ただ斬るべき敵を求めて奥へ突き進む。敵を倒すためだけに彼は生きていた。倒して何を得られるのか、考えることをやめて久しい。
甲高い悲鳴がした。兵士に襲われてひきむしられようとしている女たち。高貴な身分の者を守る侍女、と見えた。肩寄せあって、一人の際だった美少女を守ろうと必死になっている。懸命に助けを呼んでいるが、駆けつけるべき騎士はすでにない。じきに獣たちの餌食となるだろう。
悲惨な光景ではあったが、興味を引かれるものではなかった。
一瞥をくれて通り過ぎようとした瞬間、守られている少女の耳に菱形のあざを見た。
――――気がつくと、兵士をことごとく血の海に沈めていた。
王女には片足がなく、杖を脇にかいこんでいた。自分を救ってくれた巨大な戦士をおののきながら見上げる口元に、あの日と同じあどけなさが残っていた。
「あなたは……」
「行け」
男は短く言うと、異変を知って押し寄せてきたそれまでの味方に剣を向けた。
乱刃の中で、王女が無事逃れたことを耳にした。
半ばで折れた剣を杖代わりにして城壁に登った。片目はもう見えない。おびただしい手傷を負い、血もほとんど失われている。
枯れ草色の大地に、街道は黒い蛇のようだ。うねりながら地平の彼方まで長々と寝そべるその上を、小さな虫が這っている。王女を乗せた馬車だ。もはや誰も追いつけない。
深々と息をつく。
思えば。
あの日。あの小さな腕に。
俺はすでに縛られてしまっていたのだ。
いまいましい。
だが――――
「悪くない」
男は最後の力でつぶやくと、殺到してくる敵の刃を己の体で受け止めた。