第2.5話:とある夢の狭間にて
僕は光の中で眠っていた。
いや、起きているのかもしれない。
あるいは、そういった区別は無意味なのかもしれない。
この現実という途方もない幻想。
世界はただ「ある」としか言いようのないように存在している。
そして、それ自体疑いえない知識ではない。
僕らは人生に投げ出された。
気がつくともう、全てが始まっていた。
人々は口をそろえて言う。
「本当の」「真実は」「事実は」
だけれども、<本当>とは何だろうか?
ニーチェ曰く、
「事実というものは存在しない。解釈だけが存在する」
これは僕に言わせると、半分あっていて半分外れている。
解釈だけが存在するというのはある面からみると確かにそうなのだ。
例えば「そこにあるひとつのパソコンをふたりで見ている」とする。
僕たちは普通、見たままのものがそこにある、というように思いこむ習慣を持っているので、前文になんらおかしな点はない。ちなみにこれを哲学では素朴実在論という。
しかしこの素朴実在論は、厳密に考えていくとおかしなことだとわかってくる。
例えば、「ひとつのパソコン」を「ふたり」で見ている場合、そのふたりが完全に重ね合わさっていない限り、あるいはVRなどで同じ映像を見ていない限りは、違う角度からパソコンを見ていることになる。
結果、パソコンから受け取っている情報は両者で厳密には異なることになる。
仮に重ね合わさっていたりVRであっても、感覚器官や脳の構造が微妙に異なるとするなら、もちろん両者が受け取るなにものか(それは普通パソコンと呼ぶに足りるだけの理由を持ったものである)は両者の間で微妙に異なるように受け取られていると考えるのが妥当だろう。
ここまでくると、それを「ひとつのパソコンを見ている」と解釈もできるが、もう一つの解釈が浮かび上がってくる。
「ひとりひとりが各々の受け取り方で、異なるパソコン(というよりも、なにものか)を見ている」という解釈である。
後者は、個人の中に映し出されたパソコンだと思われるものの視点に立って、先ほど述べたように個人個人の感覚器官を通して映し出されたひとりひとりの中のパソコンを指して、異なるパソコンと言っているのだ。
前者に関しては、触れたり角度を変えても限りなくふたりの証言が一致していることから、極めて近似している、ゆえに同一のものだと言っても差し支えない、という前提が成り立つ場合にのみ言うことができる。
今度は「そこにあるパソコン」について考えてみる。
するとまず僕たちは、目をつぶったときにも寝ているときにも、何かのアクシデントがない限り存在し続けるパソコンを思い浮かべるだろう。
自分がいようといまいと、そこにパソコンがあり、何らかの理由があって消えない限りは、パソコンは存在し続ける。
けれども、よく考えてみればそのような「客観的世界」というものは、僕らの作った幻想ではないのだろうか。
それは疑いの余地のない<現実>の<解釈>だろうか?
僕は思う。疑いの余地のないものなどないと。すべてはこの僕が、あるいは主観が、ただ目の前に立ち現われているように思われるものを可能性だけで、もっと言うと「そんな気がする」という一言で片付けてしまっているだけだ。
そういう意味で、ニーチェの言葉は正しい。
ただ、半分間違っていると言ったのにも理由がある。
僕たちはまず自然に、あるいは意図的に客観的世界を構築し、その中で広義の言葉、つまり記号の使用法を学んでいく。そしてある程度(その程度は多分言語や地域、習慣などによって異なるだろう)その言葉で表現できるものが近似していると、僕らはそれを「同じものを見ている(あるいは感じているなど)」と言っても差し支えないと、そういう暗黙の協定を結ぶのである。
だから先ほど半分間違っていると言ったのだ。
ある素朴実在論的物体Aについて、行動なども含めた広義の証言が極めて近似している場合、これらは同じものを見ている、聴いている、触っている、などと言って良い。したがって、証言があまりにも一致しない場合、客観的世界を仮定し、嘘の証言でないと仮定する限りにおいては、それらは個人的な感覚とするのが極めて可能性の高い判断だと思われる。
そうして沈黙の中にひっそりと協定の巨大な塔がそびえたち、いつの間にか天にも届きそうになる。
気がついたときには、僕らはその塔にしか住めなくなっている。
「大切なのは、疑いを向けること」
誰かが言っていた気がする。
誰だったか、思い出せない。
けれども、ただ今はこうしてこの温もりにずっと浸っていたいと、そう思うのだった。