帰り道
伊織の応急処置のおかげで、足首の痛みが大分引いてきた。頑張れば歩いて帰れると思う。
しかし、保健の吉田先生には、「痛みが続くようなら、病院に行きなさい」と言われてしまった。
吉田先生にお礼を言い保健室を出ると、廊下に伊織がいた。こちらに背を向け、窓の外を見ている。
「足、もう大丈夫なのか?」
伊織が聞いてきたので、私はそれに応える。
「ええ。まだ少し痛むけれど、歩けないというほどではないわ」
「そう。それは良かった」
そう言いながらも、伊織はずっと窓の外を眺めたままだ。こちらを振り向こうともしない。
聞きたいことはあった。しかし、彼の背中がそれを拒んでいるように思えて、私は口を開くことができなかった。
かといって、このまま黙っているのも気まずい。
「あの……」
「何?」
「いえ……。…ずっと待っていてくれたの?」
「このまま先に帰るのもどうかと思ったからね。他の生徒はもう帰ったよ」
「そう……」
気まずい沈黙が続く。
伊織が口を開いた。
「送ってくよ、家まで」
「え?」
「まだ痛みはあるんだろ?帰る途中で歩けなくなられても困るからな」
「……ありがとう」
「別に大した事じゃない。ほら、行くぞ」
「あ、…うん」
私と伊織は、昇降口へと向かって歩き出した。
下駄箱で靴を履き替えて外に出る。
「家、どこにあるの?」
「ああ、こっちよ」
校門を出て、右に曲がる。
私は、隣を歩く伊織を横目で見た。
無表情で、その目はここではないどこか遠くを眺めているような気がした。
「嘘だから」
「えっ?」
伊織がいきなり口を開いたので、私は驚いて、間抜けな声を出してしまった。
「さっきのあれ、嘘だから」
「さっきのって……」
伊織がこちらを見下ろした。一瞬目が合って、私は慌ててそらした。
……さっきのって、あれのことよね。嘘ってどういうことよ?
私はまた伊織を見た。彼はこちらを見ていたかと思うと、僅かに口角を上げ、ニヤリとした。
「君を見てると、ついからかいたくなってね」
そう言うと、伊織は歩くスピードを上げた。遠ざかる彼の背中をしばらく眺めた後、ようやく理解した。
からかいたくなるって何よ!完璧になめられてるじゃない!私がどれだけ悩んだと思ってるのよ。ああ、一瞬でもいいヤツだなんて思った私がバカだったわ。やっぱアイツはムカつく!
文句の一つでも言ってやろうと思って伊織を追いかけ、隣に並ぶ。だが、いざ文句を言おうとすると、途端に何も出てこなくなってしまった。
何かを言おうと口を開いては口だけをパクパクしている私を見て、伊織が怪訝そうな顔をした。
「宇陀川さん、何やってんの?」
「はぁ?『何やってんの?』じゃないわよ!だいたいあなたがそうやって私をバカにするから……」
「バカにする、から?」
「…っ!いえ、何でもないわ…」
そんな私を見て、伊織は満足気な顔をする。
その顔がまたやけに腹立つ。なのに、何故なんだろう、何も言えないのは。
今までは、どんな男にだって怯んだことなんてなかった。私に近づいてくるヤツらは容赦なく蹴落として来たし、それが当たり前だと思っていた。それだと言うのに、何故アイツには強く言えないのだろうか。
「宇陀川さん?宇陀川さん!」
「………えっ?」
「ほら、着いたよ」
気がつくと、私たちは一件の家の前にいた。
家というか、豪邸だ。
「ここ、本当に宇陀川さん家?すげぇデカいんだけど」
「ええ、ここが私の家よ」
珍しそうに目の前の豪邸を眺める伊織の姿に、私は内心で勝った、と思った。
そう、私は凄いの。勉強も運動もトップレベル。可愛いし、おまけにお金持ちっていうスーパー美少女なんだから。こんなヤツに少しバカにされたくらいで取り乱すことなんてないのよ。
脳内で自分を褒め称えている私をよそに、伊織は口を開いた。
「まぁ、無事に到着できて良かったよ。
じゃ、俺は帰るから」
「え?ああ、送ってくれてありがとう」
「いいよ、別に。じゃあね」
「ええ、さようなら」
遠ざかる彼の背中を、私はしばらく眺めていた。
彼の背中が見えなくなると、私は門をくぐり、家を目指して、広い庭を歩いた。
目前にそびえる豪邸を眺めて、自虐的に笑う。
「私が誇れるような事じゃないけどね……」