マラソン大会にて
梅雨が明けると、季節は一気に夏へと変わった。気温はぐんぐん上昇し、照りつける太陽の光が眩しい。
「今日は一段と暑いわね」
登校中、太陽の日差しに顔をしかめながら私は呟いた。
今日はマラソン大会の日だ。
学校の校門からスタートし、近くの川に沿って走っていく。橋を渡ったら、小さめの林を抜けたところでUターンし、また橋を渡って戻ってくる。距離にして6kmくらいだ。
このマラソン大会では全校生徒が一斉に走り、1位を争う。私は二年連続で1位を取っている。もちろん今年も1位を取るつもりだ。1位以外なんてあり得ない。
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「これから、檜枝中学校のマラソン大会を始めます。」
校長先生の挨拶が終わり、いよいよスタートの時が来た。
全校生徒が校門に集まる。高まる緊張の中、体育教師の平田先生が雷管を上に向ける。
「位置について、よーい……」『パァン!』
合図と同時に、全校生徒が一斉に飛び出した。みんなが自分のペースで走っていく。
私はスタートダッシュで先頭集団の数人と共に一気に後方を引き離し、更にペースを上げて先頭集団も引き離した。
先頭集団との間が300mほどになったところでペースを維持する。
橋を渡り、林道に差し掛かる。
「これだけ引き離せば楽勝ね。
………きゃっ!」
上半身が前のめりになり、そのまま地面に倒れる。どうやら何かにつまずいたようだ。
転んだ辺りを見ると、地面を押し上げ、木の根の一部が顔を出していた。
「どうしてこんな根っこなんかに…。とにかく早く先へ進まないと。 ………っ!!」
私は立ち上がろうとした。その瞬間、左足に鋭い痛みが走り、またその場にうずくまってしまう。
左の足首を見てみると少し腫れている。少し捻ったみたいだ。
大会中は先生が巡回しているはずだけど、まだこの辺までは来ていないようだ。近くに通行人の姿もない。大声を出して助けを呼んでみるが、返事はない。
どうしよう……。
動くこともできず、私はそこでただただ途方に暮れることしかできなかった。
その時、近くの茂みがガサッと音を立てて動いた。私は驚いて、音のした方を見つめた。
カラスとか野良猫かな?流石に熊とかはいないと思うけど…。
そんな不安が頭をよぎる。しかし、茂みから出て来たのは一人の男子だった。うちの学校のジャージを着ている。
「あれ、宇陀川さんだ。そんな所でうずくまって何してんの?」
なんと、ソイツは上月伊織だった。
「あなたの方こそ、なんでここにいるのよ。私の前には誰もいなかったはずよ」
私は混乱しながらも、なんとかそう言った。
「俺は近道して来たんだよ。走るのは好きじゃないし、体力もないからな。ここで時間潰して、半分くらいの人が通り過ぎたころに紛れて学校まで戻るんだ。毎年やってるぞ」
え、そうだったの?全然気づかなかった。
更に彼は続ける。
「それにしても、助けを呼ぶ声が聞こえたから何かと思って来てみたら、宇陀川さんだとはね」
「何なのよ、その含みのある言い方は」
「いや、何でもないよ」
「何でもなくはないでしょう!」
ホント、コイツといるとすごくイライラする。早くどこかへ行ってくれないかな。
「それより、左足首を押さえているけど怪我でもしたの?」
「だったら何よ。あなたには関係のないことでしょう。早くどこか行ってよ。わたしは1位でゴールするんだから」
伊織は私のそばまで来ると、屈んで私の左足首を見た。
「腫れてるじゃん、こんな足で走るなんて無理だよ。ましてや1位でゴールなんて」
「嫌よ、絶対に完走するの。私は1位を取らなければならないの」
彼は呆れたような顔をした後、私に背を向けて屈んだ。
「何してるのよ」
「見りゃ分かるだろ。学校までおぶってくから。保健室で手当てしないと。大会は棄権だ」
「あなたに助けてもらう義理なんてないわ。それに、棄権なんて絶対にしないわ」
「怪我してる女の子を放置するほど俺は冷酷じゃないんでね。それに、なんでそこまでして1位になりたいかは知らないけど、今はそんなプライドよりも自分の身体を大事にしろよ」
珍しく真剣な顔の伊織に、私は何も反論できなかった。確かに彼の言う通りだ。今は自分の身体を優先させるべきだと思った。
「ほら、早く乗れよ」
「………じゃあ」
私は伊織の背中に乗った。コイツ、見た目は細いのに意外とガッチリしてるな。
「あ、でも、こんな所を誰かに見られたら」
「それなら大丈夫。俺が使っている抜け道を通って戻るから。あのルートは絶対に誰にも見つからない」
「そう、なら良かった」
伊織は立ち上がって歩き出した。まだ会ってから間もないというのに、彼の背中にはどことなく安心感があった。
《あれ?この感じ、前にも何処かで………》
結局、それが何なのかを思い出すことはできなかった。なんとなく心地良い気分になってウトウトしているうちに、いつの間にか私は学校に着いていた。
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先生に事情を話してから校舎に入り、私たちは保健室へ向かった。
保健室のドアを開けると、中には誰も居なかった。
「そこに座って。とりあえず冷やさないと症状が悪化する。保冷剤とかないのかな…」
冷凍庫の中を探しながら伊織が呟く。へぇ、応急処置の仕方とか分かるんだ。意外と頼りがいがあるな。
「あ、あった。タオルは…とりあえず俺のヤツでいいか。きれいなヤツだから安心して。よし、準備できた。それじゃあ、足出して」
「うん。………痛っ!」
「痛かったか?ゴメンな。でも、冷やし続けないとダメだぞ」
そう言うと伊織は立ち上がり、ドアの方に歩き始めた。
「俺は保健の先生呼んでくるから。そこで大人しくしてろよ」
何か言わなければならないと思った。
「……あのっ!」
「ん?」
「助けてくれてありがとう。ここまで連れてきてくれて、手当までしてくれるなんて」
「別に良いよ。宇陀川さんだからやったって訳じゃないし。それに………」
ドアの取っ手に手をかけたまま、伊織がこちらを振り向く。
『俺は、今のお前が嫌いだ』
それだけ言い残し、彼は保健室を出て行った。
私は、彼が出て行ったドアをただただ見つめていた。「嫌い」という言葉をかけられたにもかかわらず、怒りや悲しみといった負の感情は全く湧いてこなかった。いや、違うな。何も考えられなかった、と言った方が正しい。まるで、思考回路がどこかで切断されたようだ。
しばらくして我に返った私は、先ほどの言葉の意味を考え始めた。
伊織はこの学校に入学するまで私のことなど知らなかったはずだ。まして、私が彼の存在をはっきりと認識したのは図書室で言葉を交わしてから。
だとしたら、あの言葉の意味は……「今」という言葉の意味は何だろう。
結局その答えは分かるはずもなく、ただただ時が過ぎていくだけだった。