坊っちゃんの就寝後
アルベルトはシドの目元から手を離し彼の元を離れた。シドが起きないよう静かにドアを閉める。最も、自分が見せた記憶の全てを見るまで彼は起きないことを知りながら。
腕時計を見ると日付が変わるまで後数時間はある。いつも坊っちゃんが就寝する時間より大分早い。それならば明日の起床の時間には問題なく起きられるだろう。
目覚めはかなり悪いだろうが。
「どちらにせよここまでですね」
明日の用意をしなくてはと屋敷の中を歩いていると、食堂に明かりがついているのが見えた。おや?と思って覗くとジェイドが酒をあおっているのが見えた。
「ジェイドさん?」
「珍しいでさぁね、坊っちゃんはどうしやした?」
「お疲れになられたのでしょう。お休みになりました」
声をかけるとジェイドは自然に返事をした。顔色も変わっていないが、その割には瓶に入っている酒の減りは多い。
「そうでさぁかい。坊っちゃんはがんばり屋ですからねぇ。たまにはゆっくりしてほしいものでさぁ」
「その通りですね」
歯を見せて笑ったジェイドにアルベルトは笑い返すが、今夜の坊っちゃんの夢見が悪いのは確かだ。内心で謝っておく。
「アルベルトもどうでさぁ?」
くいっと酒瓶を持ち上げて見せるジェイドにアルベルトは明日の用意があるからいっぱいだけと断ってジェイドの対面についた。
ジェイドはしっかりとした足取りでグラスをひとつ持ってきてアルベルトに酒をつぐ。
透き通った透明な液体は酒ではなく水のように見える。アルベルトの様子を見たジェイドは自慢げだ。
「この辺じゃあ珍しい酒でねぇ。つてを使ってやっと手にいれたんでさぁ。こう見えて酒精は強いから気を付けてくだせぇよ」
「そんな貴重なお酒を私などについでいいのですか?」
アルベルトは冗談半分に笑いながらグラスを手に取る。ジェイドはそれを見て自分もグラスを手に取った。
「当たり前じゃねぇですか。アルベルトと飲める日がくるたぁ。何が起こるか分からないもんでさぁね」
「ええ、本当に」
二人はグラスをかちりと合わせてから口に運んだ。ジェイドの言う通りかなり酒精が強く、喉の奥がカッと熱くなるがスッキリした飲み口で美味しい酒だった。
「どうでさぁ?」
「ええ、これはおいしいです」
「そうでしょうよ」
アルベルトが誉めるとジェイドは嬉しそうに笑い、もう一口酒を飲む。
「ジェイドさんは昔からここに仕えていますよね」
「そうでさぁね。坊っちゃんやアルベルトがこんな小さい頃から知っておりやすよ」
「そんなに小さくはなかったと思いますが」
手で豆粒くらいの大きさを作ったジェイドにアルベルトは苦笑する。
「幼い頃からお二人は仲良しでしたぁね。今でも思い出しやすよ。よく遊んで今いたものでさ」
「そうですね、お世話になりました」
「それがよぉ、こんなに大きくなりやして、坊っちゃんも社長となって本当に大きくなりやした」
ジェイドは酔っているようには見えないが、少し顔が赤くなってきた。確実に酔っているのが分かる。
「私はまだですよ。坊っちゃんはそろそろかと思われますがね」
アルベルトは背丈を手で表すようにする。シドに見られたら怒られるか拗ねるかされそうだと思いながら。
「坊っちゃんも大きくなりやすよ。それよりアルベルト。これからも坊っちゃんを支えてやってくだせぇね。幼い頃からの付き合いで年が近いお二人ならうまいこと行くと思いやすんで」
「ええ、もちろんです」
からっとした笑顔を見せるジェイドになんとも言えない気持ちになりながらもアルベルトは答える。
「では少しやることがございますので、私は失礼します」
アルベルトはグラスの中身を一気に飲み干す。出来れば、もっと味わって飲みたかったと思わせる酒は久しぶりだった。
「ええ、また共に飲みやしょう」
アルベルトは自分のグラスを持ち席を辞すがジェイドは自分のグラスに酒を追加していた。彼はまだ飲むらしい。
「ほどほどに」
「早く仲直りしてくだせぇよ」
思いがけない言葉に足を止めるとジェイドはなにごともなかったように酒を飲んでいる。それで気づいた。最近、シドとぎくしゃくしていたのがジェイドには分かっていたのだ。
アルベルトを引き止めたのも珍しい酒を開けたのをジェイドなりの不器用なエールなのだろう。アルベルトは微かに頷いて見せた。それが通じたかは確認しないでキッチンの奥に行った。
グラスを丁寧に洗いアルベルトは自室に向かう。ワインレッドを基調とした部屋は大人びた雰囲気でアルベルトによくあっている。
アルベルトはポケットに手を入れ小刻みに震え続ける魔道具を手に取った。通信が来た合図だ。
まるで、アルベルトが自室に来たのを見計らったかのようなタイミングだったがそうではない。シドの部屋にいた辺りから、十分おきくらいに通信が来ていたのだ。
「やっとでたな。いつまで放置する気でいるのかと思ったぞ」
魔道具から聞こえるのは不機嫌な低い声。ずっと放置していたからそれはそうだろうとアルベルトは思う。だが、それでも連絡を入れ続けた彼の几帳面さは誉めるところかもしれない。
「いえ、すみませんね。まさか貴方から連絡が来るとは夢にも思っていませんでした」
「お前が連絡しろと言ったのだろう」
「ああ、そうでした。私も多忙なもので、ついうっかり忘れておりました」
「そうかそうか。俺よりも若いと言うのに物忘れとはかわいそうだな」
「ご心配なく。普段は忘れたりなどいたしませんので」
言葉の押収が続くが先に折れたのは相手の方だった。
「お前は相変わらずのようだな。だが、本当に良かったのか?」
「何がでしょう?」
余裕を持った様子でとぼけるアルベルトの姿が目に浮かび、通信相手はさらに不機嫌になる。
「俺がシド様の妹君に接触し助言をしたことだ」
「ああ、そのことでしたか」
わざとらしいアルベルトの様子にアイヴァーがため息をつく。無表情な彼が魔道具の向こうで表情を歪めているのを想像してアルベルトは頬笑む。
「それで坊っちゃんはどんな様子でしたか?」
「坊っちゃん…か。今までお前を疑ったことがないんだろうな。かわいそうなくらい動揺していた。混乱もしていたはずだ。帰りたくなどないだろうに屋敷に帰ると決断したことは流石だと思ったが」
「万が一を考え、坊っちゃんを一晩お預かりいただくお話もしていたわけですが必要ありませんでしたね」
アイヴァーがシドに話したことをアルベルトはすでに知っている。というか、それはアルベルトがアイヴァーに頼んでいたことだった。
レーヴンヴァイスが設立されたことでシドが遅かれ早かれアイヴァーに接触することは分かっていた。それならばとアルベルトはレーヴンヴァイスの教育でセスの屋敷に赴いた際、アイヴァーにこう話していたのだ。
「シド様が貴方に会いに来たならば貴方が見て思った全てをお話ください。坊っちゃんが真実を見つけるお手伝いをしていただきたいのです」
彼が意外そうな顔をしたのは思わぬ収穫だった。と思い出していると魔道具の向こうから呼び掛けられた。
「本当に良かったのか?」
「なぜ貴方が心配されるのですか」
「それもそうだな」
どちらにせよ貴方に会ったら坊っちゃんは全てを聞こうとするでしょう。ヒントを与えるだけにとどめられたなら上出来です。答えは坊っちゃん自ら見いだせなければ意味がない。私が疑われることになろうとも。
「もし何かありましたら坊っちゃんのことをよろしくお願いします」
「どういうことだ?」
「言葉通りの意味でございます」
何を言ってものらりくらりとかわすようなアルベルトの態度がアイヴァーは昔から嫌いだった。今回曲がりながりにも頼ってきたから明日は星でも堕ちてくるかと思ったが、人の本質はそうそう変わらないらしい。明日も安泰だなと皮肉る。
「俺の主はシド様だ。妹君に仕える気はない」
「そこまでは言いません。少し助けてあげてくだされば」
今回の結果しだいでは、早ければ明日の朝には私は坊っちゃんに仕えることはできなくなる。
「それくらいならばな。クローバード社の社員として出来ることをしよう」
「よろしくお願いします」
ふふっとアルベルトは笑う。今や坊っちゃんには、ご学友やセスやアイヴァーなど秘密を知る味方がいる。私がいなくなっても大丈夫だろう。
「二度と連絡を取ることがないよう願っている」
「おや、奇遇ですね。私もです」
アイヴァーはアルベルトを嫌っているが、アルベルトもまたアイヴァーのことを嫌っていたのだ。坊っちゃんへの忠誠心は負けていない。
アルベルトはあの日屋敷に残されアイヴァーが伴に選ばれた。それはまだいいが坊っちゃんを守れなかった彼を許すつもりはないのだ。
「では」
「ああ」
アルベルトは通信を切り、それから荷物を揃え始めた。