このはなさくやひめ
2005年(平成17年)9月 広島・宮島
高見刑事は宮島観光推進協会の事務所のドアのガラス越しに神田龍一の姿を確認し、「やあ、ようやく涼しくなってきましたね」そう言いながらドアを開けて入ってきた。
「昨夜はお疲れ様でした。鉄さんの料理もなかなかだったでしょ」高見刑事は、椅子に腰掛けながら言った。
「そうですね。おいしかったですよ。それにしても、あんな繋がりがあったとはね。驚きましたよ」神田は自分の事務椅子を、クルッ、と回転させて高見刑事の方を向いた。
「本当ですね。私もビックリしましたよ」そう言っていつものように白髪頭に手をやった。
「ところで、八頭神社の宮司さんはまだ?」高見刑事は腕時計を見た。
「まだですね。もうそろそろだと思いますが」
そう言った時、「コツコツ」とノックがあり、一人の女性が入って来た。
「いらっしゃいませ」部屋にいた渡辺が椅子から立ち上がり女性に聞いた。
「何かご用でしょうか?」
女性は、それには答えず、渡辺にお辞儀し、神田のほうを見て、
「久しぶりね。神田君」そう言った。
「え?」
「私よ、木野花よ。木野花咲姫よ」と微笑み、ニコッ、と顔を横に傾けた。
「あー、咲姫ちゃん」神田は椅子から立ち上がった。
「憶えててくれた?」木野花咲姫は、再び、ニコッ、と微笑んだ。
「いやー、久しぶりだね」思わず声が大きくなった。咲姫は学生時代とあまり変わっていない。ヘアースタイルも髪を束ねたポニーテールのままだ。
「ほんとね。卒業以来だものね」
「でも、俺がここにいるって何故分かったんだ?」
「あら、私にご用でしょ?」咲姫は、いたずらっぽく言った。
「え?じゃあ、八頭神社の宮司さんっていうのは・・・」神田は口をあけたままで言葉を止めた。
「私よ」
「これはこれは、わざわざ申し訳ございません。私は、高見と申します」高見刑事は椅子から立ち上がり身分証を出し、開いて木野花に見せた。
「初めまして木野花咲姫と申します」咲姫は、高見刑事に丁寧にお辞儀をした。
「このはなさくひめ?きのはなさき、じゃないの?」
「このはなさくひめ、って読むのよ。学生時代は、面倒だから、きのはなさき、で通して来たのよ」
「まあ、かけて」神田は木野花が座りやすいように椅子を動かした。
「しかし驚いたなぁ。咲姫ちゃんが宮司だなんて」コーヒーを淹れるためにサーバーの方へ向かっていたが、
「あ、失礼、木野花さんが・・・」と振り返って言った。
「咲姫でいいわよ」そう言って、椅子に座り、ハンドバッグを膝に置いた。
「私の家は代々富士吉田の八頭神社の宮司をしているの」
「へー、しかし、そんなことは全く言わなかったじゃないか」コーヒーカップを咲姫と高見刑事の前に置きながら言った。
「いやだったのよ、そんな家が。だから、叔父のいる広島の大学に入ったのよ。いただきます」と、軽く頭を下げながら、コーヒーカップを手に取った。
「でも結局は、宮司になって家を継ぐ格好になってしまったわ。神田君とも、あの暴力団の事件がなかったら、お互い口を利くこともなかったでしょうね」そう言うと神田の顔を見てニコリと微笑んだ。
「笑顔も昔のままだ」神田は思った。
「おや、こちらの方も、あの一件に」高見刑事は、咲姫の顔を驚いたように見た。
「そりゃあ、大活躍でしたよ」神田は大げさに笑いながら高見刑事に言った。
「あらいやだ。あのお陰で一年間大会には出場できなかったのよ」
「今でもこれは?」神田は右手の人差し指を立てて前に振った。
「ええ、地元の小学校で子供達に教えているわ。大会には審判としても引っ張りだこよ」冗談ぽくそう言って笑った。
「失礼ですが、木野花さんは、木花咲耶姫と何か関わりが?」高見刑事は聞きにくそうに尋ねた。
「分かりません。ただ、私の家系は、生まれる子供は何故か女の子ばかりなんです。そして、代々、生まれた子の名前には咲姫と名付けることになっているんです」
「へー」高見刑事は神田の顔を見た。
神田も「へー」という表情を浮かべ高見刑事の顔を見た。
「私の娘も咲姫です。娘も、それが嫌みたいですね」コーヒーカップを両手で持ってニコニコしながら続けた。神田は咲姫が結婚していることを知り少しガッカリした。
「木野花咲姫なんて変でしょ。だから、娘も、きのはなさき で通しているんです。でも、そのうち分かってくれると思います」
「不思議な家系もあるもんですね。私のところなんか曽祖父さんの時代から職業軍人でね、親父は警察官。そして、私も、おまわりさん」高見刑事は、はははっ、と笑いながら頭に手をやった。
「ところで、早速で申し訳ありませんが、今回、わざわざお越しいただきましたのは、木野花さんの、えーと、だから、お母様になられるんでしょうか?」
「祖母ですわ。あの鉄の箱の中の巻物を解読したのは」高見刑事のほうをしっかりと見て答えた。学生時代と変わらずはっきりした性格のままだ。
「巻物?」
「はい。巻物の体裁になっていたようです。でも、表面は熱で灰になっていたようですから解読出来ましたのは一部分にしかすぎません」
「巻物の表面というと前半部分ということ?」神田は、頭の中で巻物の姿を想像してみた。
「そう、だから、解読できたのは、後半部分だけということになるわね」
「その解読したものは?」高見刑事はやや興奮して尋ねた。いよいよ、あの鉄の棒の謎が解明される時が来たと思った。
「解読したものはないんです」
「え?」高見刑事は、ガッカリした表情を浮かべた。
「富士文献にしても、私達の家系は解読のお手伝いをしただけで、文字としては残していないんです」
「そうなんですか」高見刑事は、背もたれに背中を預けた。
「私達の家系で解読した文章の内容は全て、口承口伝なのよ」
「ということは?」神田は体を前に傾けた。
「私の頭の中にしか残っていないのよ」
「でも、そのことは、何人にも話してはいけないのです。それが、八頭神社に仕えてきた木野花家の家訓ですのよ」咲姫はきりっ、とした表情をくずさずに神田と高見刑事を見つめた。
「これは、木野花家に限ったことではございませんわ。神職についている者は誰でも、その仕えている神様に対しては慎みを持って接しなければいけませんの」姿勢を正したままで続けた。
「それに、私に伝えられているのはほんの数行のことですからお役には立てないと思います」と、申し訳なさそうな顔でふたりを見た。
「頼むよ。なにしろ、何がどうなっているのか皆目分からないんだ」神田は眉を寄せてテーブルに手を乗せた。
「お願いします」高見刑事もテーブルに両手をつけて頭を下げた。
これまでの出来事を、神田は、咲姫に要領よくまとめて話した。事件は咲姫の協力なくしては解決出来そうもないのだ。
鉄の棒が宮島の弥山と富士山の山頂にあったと推測出来ること、その2本は、台風と大雨で姿を現し、今は、その2本とも誰かの手にあること、その鉄の棒には弓矢の「矢尻」が封印されていたこと、そして、その鉄の棒を中国も手に入れようとしていること、など。
「それは今月(2005年9月)の最初の台風(台風14号)の時ね」咲姫は目を閉じて鼻から大きく息を吸い、そして、ゆっくりと長く口から吐いた。
「ああ、そうだよ」
「それだったのね」
「何が?」神田は、何のことだ、と思いながら咲姫を見つめた。
「見えたのよ」
「だから、何が見えたんだい?」
「一瞬だけど、天狗が口に何かをくわえて飛ぶのが見えたのよ」
「天狗?」何を言っているんだろう、ふたりともそう思った。そして、同時に
「言ってもいないのに、あの大男が鉄の棒をくわえて、富士山頂から飛び降りたことが、どうして分かったんだろう」神田と高見刑事はお互いの目を合わせた。
「私の家系はね、代々、感が鋭いのよ。特に雨の日や台風の日には鋭くなるの。今回の台風は、雨台風で、あちらこちらで大雨を降らせたでしょ」
「そうです。日本全国といっても過言ではないでしょう。それほどひどかったですからね。今でも復旧作業は全国で続いていますからね」高見刑事は何度かうなづきながらそれに応えた。
「わたしは、9月4日には、今年から静岡県で毎年定期開催されることになった全日本女子剣道選手権大会の審判を務める予定だったんです。でも9月に入ってからの大雨で猛烈な頭痛が襲ってきて、それも出来なかったんです」
「頭痛が5日くらい続いたかしら。最近、ようやく落ち着いてきたけど」咲姫は再び目を閉じた。
「そんな時には、必ず私に関わりのある夢を見るのよ」薄く目を開け、
「そして、その時に・・・さっきは、天狗、と言ったけど、ハッキリとは分からないわ。若いときならもっとハッキリ見えたと思うけど、だんだんと感も鈍くなってきたんでしょうね」そしてまた目を閉じ、
「それで、頭痛で精神が虚ろになったときに、どこか神聖な山から、その、天狗のようなものが口に何かをくわえて飛ぶのが見えたのよ」
「あの、それは、木花咲耶姫が水の神様だということに何か関係が・・・」高見刑事は小さな声で聞いた。
「分かりません。そうかもしれませんし、単なる偶然かもしれません」
「うーん」と、神田と高見刑事は同時に目を閉じ、腕を組んだ。
事務所内にいた者も微動だにしないで咲姫の話を聞いている。
「実はね、咲姫ちゃん。今、咲姫ちゃんが言った通りなんだよ」神田はゆっくりそう言うと、
「大きな男がパラグライダーで富士山の山頂から飛び降りたんだよ。口に鉄の棒をくわえてね。たぶん、ここ、宮島の頂上、弥山からもそうだと思う」と、自分に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
咲姫は静かにうなずいた。
「あの鉄の棒の中には、矢尻が封印されていたのは、分かっているんです」高見刑事はここまで言って、空になったコーヒーカップを持って立ち上がった。
「それが、何故、富士山と、宮島にあったのか、あった、と言うか、隠されていた、と言った方がいいのかも知れませんが」そう言いながらコーヒーを淹れた。
「木野花さんもいかがですか?」そう言って咲姫の空になったカップを指さした。
「ありがとうございます。いただきます」そう言ってカップを高見刑事に渡した。
高見刑事から受け取ったコーヒーカップを両手で包むように持って、くるくる廻るコーヒーをしばらくの間見つめていたが、
「これは、どうやら大変なことが絡んでいるような気がしてきたわ」咲姫はそう言うと、背筋を伸ばし、コーヒーカップをテーブルに置いた。そして、両手を膝の上のハンドバッグの上で揃えて目を閉じた。
神田と高見刑事も、咲姫の透き通るような顔色を見て、ただならぬ気配を感じ取り、動きを止めた。それと同時に宮島観光推進協会の事務所の中は真空状態になったかのように無音になった。
1分くらい過ぎた頃、神田は、
「咲姫ちゃん・・・」と、静かに声をかけた。咲姫はゆっくりと目を開け、
「時の流れに逆らうことは出来ないけど、お話しすることが、多くの人の命を救うことになるかも知れません」
「人の命を?」高見刑事は眉間に皺を寄せた。
「今がお話すべき時なのかも知れません」咲姫は小さな声で言った。
「ありがとうございます。で・・・」高見刑事はポケットから手帳とボールペンを出し、
「えー、何からお尋ねしていいか・・・」と、白髪頭をボールペンで掻いた。
「まず、あの巻物を書いたのは誰なんだい?」神田が、じゃあ、という感じで咲姫に尋ねた。
「それは、わからないわ。でも書かせた人は分かっているわ」咲姫は神田の目をしっかりと見た。
「誰?」
「頼朝よ」
「頼朝って、あの源頼朝?」神田は聞き返した。思いもかけない名前が咲姫の口から出た。
「源頼朝って、源頼朝!?」高見刑事も、まさかと思いつつも、
「で、あの巻物には何と書いてあったのですか?」先を急いだ。
「私が母から口承されたのは」そう言うと、再び目を閉じ、何百年も前から封印されていた言葉を諳んじ始めた。