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2005年(平成17年)9月 宮島


 富士山から帰った翌日の午後高見刑事は宮島観光推進協会の事務所に現れた。

 「どうですか、神田かみたさん。よくお休みになれましたか?」高見刑事はいくぶん眠そうな顔で椅子に腰掛けた。

 「もう、グッスリです。それに、もう、出勤前には山を走ってきました」神田はいくぶん右足を引きずりながらコーヒーサーバーのところへ行った。


 「ほう、それは大したもんです。まだ、若いですね」高見刑事も足をさすりながら神田を眺めている。

 「当たり前ですよ」いく分自嘲気味に言って顔を引き締め「ところで、何か進展でも」カップにコーヒーを注ぎながら尋ねた。

 「たいしたことじゃありませんが。例の中国大使館の三人組、今朝、成田から帰国したそうです」白髪頭に手をやった。

 「えっ、そんな簡単に出国できるんですか?」コーヒーをテーブルの上において、高見刑事のほうに押し出した。


 「ま、そんなもんですよ」高見刑事は投げやりにそう言うと「今日は、ちょっと、神田さんと推理ごっこをしようと思いましてね」と、話を変えた。

 「そうですね。ここまでの話をまとめておきましょう」神田もそれを考えていたところだった。

 「えーと、まず、ここまでの事実から行きましょうか」高見刑事は手帳とボールペンをポケットから取り出し、話し始めた。




 「宮島の鉄の棒は枕崎台風の時の土砂崩れで山頂から流されてきたという可能性もありますよね。ということは、鉄の棒は宮島の山頂、そして、もうひとつは富士山頂にあった、ということになりますね」高見刑事はさらに、

 「そして、今は、その二つとも何者か分からない大男の手元にある」と、大きく息を吐いた。


 「それを何故だか中国も狙っている」神田は付け加えた。

 「宮島と富士山。この共通項は?」高見刑事はそう言って神田の顔を見た。

 「両方とも信仰の山ですよね」神田は腕組みをして答えた。

 「宮島にはもともと社殿はなく、島そのものが信仰の対象となって、対岸から拝まれていましたし、富士山も山そのものが信仰の対象だったらしいですからね。今の富士山本宮浅間大社ふじさんほんぐうせんげんたいしゃに遷座される前の神社は山宮浅間神社として現存していますし」神田はこれまでに調べたことも高見刑事に話した。


 「来年がその遷座されて1200年に当たる年だと言われていましたね」高見刑事は、富士山本宮浅間大社ふじさんほんぐうせんげんたいしゃの社務所に貼ってあったポスターを思い出した。

 「そうですね。そして、単純に言って、宮島は海の神、富士山は山の神」

 「御祭神は市杵島姫いちきしまひめをはじめとする宗像三神むなかたさんしんの女性の神様、そして富士山も木花咲耶姫このはなさくやひめという女神。でしょ?」高見刑事は確認するように神田に聞いた。


 「それに、木花咲耶姫このはなさくやひめは富士山の噴火をしずめるためにまつられた水の神でもありますよ」神田は付け加えた。

 「へー」高見刑事は、感心したように何度かうなづいた。

 「昔、富士山が大噴火をしたため、周辺住民の生活が疲弊したのを第11代垂仁天皇が心配して、浅間大神あさまのおおかみを祀ったところ、噴火が静まり、住民は平穏な日々が送れるようになったということです」

 「その浅間大神あさまのおおかみとは?」

 「木花咲耶姫このはなさくやひめと同一とみられているようですね」

 「両方とも水の神様か」高見刑事は両手を頭の後ろで組んだ。

 その時、宝物館の館長が入ってきた。




 「ああ、刑事さんもご一緒でしたか。ちょうどよかった」そういって宝物館の館長は空いている事務椅子を引き寄せ、それに腰掛けた。

 「ありましたよ」そう言って封筒からファイルを取り出した。

 「何ですか?」神田は、カップにコーヒーを注ぎながら聞いた。


 「例の鉄の棒のエックス線写真です」ファイルに挟まれたやや古びた写真を取り出した。

 「どこにそんなものが?」高見刑事は館長の手元を覗き込んだ。

 「発見者の自宅にですよ。あれはまだ、正式には調査されていなかったのですが、当時の発見者が、戦後何年かして、あの棒が何なのか知りたくて、知り合いの医者に検査を頼んだらしいんですよ。そのときの写真です」そう言って、テーブルの上のコーヒーカップを端に寄せ、

 「鉄の棒には間違いないようですが、中に、ほら、ここに、矢のような影が見えるでしょ?」

 「矢?弓矢の矢?ですか?」

 「そんな風に見えますね。その矢のようなものを鉄で封じ込めて、さらに表面を鉄の板で巻いてある、こういうことのようですね。ただの鉄の棒じゃなかったんです」

 「年代とか、表面の文字だか模様だかの意味は?」

 「分かりません。あるのは、この写真だけですから」

 「矢を鉄で固めて棒状にした?何のために?」




 神田かみた、高見刑事、宝物館ほうもつかん館長、三人とも腕組みをして押し黙った。

 神田は、テーブルの上の写真をもう一度手に取り、

 「矢というのはこんなになっているんですか?」館長に尋ねた。

 「はい、正確に言うとこれは矢尻ですね。これが矢の柄の部分に入っていて、たとえば身体に突き刺さった矢を引き抜いても、先のこの部分、矢尻は固定されていないので身体に残る仕組みになっているんですよ」自分の身体に、高見刑事の手から取ったボールペンを当て、身振りを交えて説明を始めた。


 「この矢尻の形は、おそらく戦闘用の柳葉やないばと言われるものでしょう」

 「いつごろのものでしょうか?」高見刑事は神田から写真とボールペンを受け取り、写真を見ながら聞いた。

 「鉄を分析すれば分かるんでしょうが、これだけだとなんとも。平安以降だとは思いますが」館長はコーヒーカップを手にして答えた。


 「平安。源平か」神田は体を起こして高見刑事の方を向いた。

 「さっきの続きですが、平氏の宮島、源氏の富士山とも言えますね。頼朝は、鎌倉から富士山を見つめていたでしょうから。富士の裾野で狩を楽しんでいたし、当時は今と違って気温は何度か低かったでしょうから富士山も雪に覆われている期間も長く、雪の量も多かったでしょうからね。頼朝の頭の中には白く輝く富士山が印象深く残っていたと思いますよ。紅葉を白く覆ってゆく雪に自らの思いを重ねたという可能性はあるんじゃないでしょうか?」

 「あけの大鳥居と雪を被った富士山。平氏の赤に対抗して源氏は白を御旗の色にしたのかな?」高見刑事は腕を組みなおした。

 「何の話ですか?」コーヒーを一口のみ高見刑事の顔を見た。




 高見刑事は、捜査に協力を求める必要もあると考えて、富士山での出来事を宝物館館長に話した。

 「なるほど、宮島と富士山の共通項ねぇ。確かに、西、東、赤、白、女神、平清盛、源頼朝、ここまでは話に繋がりがあるようには思えますが、それらと鉄の棒がどうして宮島の弥山みせんと富士山頂にあったのか、それと、中国との関係は?」館長は大きな目で高見刑事を見つめた。

 「そこになると皆目かいもく謎ですね。さらに、あの大男が絡んでますし。あっ、ところで、神田かみたさん、写真、プリントアウトしてもらってますか?」

 「ああ、はい」神田は事務服のポケットから写真を数枚取り出し、テーブルの上に一枚ずつ並べていった。


 「これです。画素が荒くて、おまけに、ブレてますからはっきりとは写っていませんでした」

 「ちょっと拝見。何ですか?このパラグライダーは?真っ黒ではっきり分かりませんが、登山者ですか?」館長はそのうちの一枚を手に取った。

 「いや、あの、どうやらこの男が宝物館の鉄の棒を奪った奴だと思われますが」高見刑事は館長から写真を受け取り、それを見つめながら言った。

 「しかし、真っ黒でまるでからすが飛んでいるようですね」館長は、その写真を高見刑事に渡しながらつぶやいた。

 「でも、神田かみたさんが奴と会った時は黒くなかったんでしょ?」高見刑事は神田に尋ねた。

 「ええ、たぶん黒く塗っていたのが、あの雨で落ちたんじゃないかと・・・」

 「なるほど。でも、体を黒く塗る必要がどこにあるんですか?」高見刑事は写真から神田へ目を移して聞いた。

 「闇夜の烏って言うじゃないですか。目立たなくするためでしょう」神田は写真に目を落としながらコーヒーをすすった。

 「それなら、裸になる必要はないんじゃないですか?」高見刑事はさらに疑問を口に出した。


 「あの・・・」館長が口を挟んだ。

 「はい?」高見刑事は館長を見た。

 「宮島の神使しんしからすですよ」




 「神使しんしというと?」高見刑事は館長の顔を見つめた。

 「神様のお使いですよ。春日大社の鹿とか、八幡神社の鳩とか」神田かみたは、そう言いながら、富士山本宮浅間大社の神使は猿だということを思い出した。「烏男からすおとこと鉄の棒、宮島、富士山、どういう繋がりがあるのだろうか?」そう思いながら、神田は目を閉じて高見刑事と館長の会話を聞いていた。


 「宮島は、鹿でしょ?」高見刑事は驚いたように聞いた。

 「一般には鹿ということになっていますが、宮島の言い伝えでは、神社の創建にはからすが非常に大きな役割をになっているんですよ」神田かみたはテーブルの上の写真を整理しながら言った。

 「といいますと」高見刑事は説明を求めるように館長を見た。館長は、大きな目を見開いて説明を始めた。


 「宮島に神社が最初に創建されたのは推古元年、593年のことですが、そもそも宮島に神社を創建するきっかけになったのは、この地方の豪族、佐伯氏が市杵島姫命いちきしまひめのみことから宮島に神殿を作るようご神託しんたくを受けられ、そのことを推古天皇様に奏上されたのがはじまりです」そう言って、コーヒーカップを手に取った。


 「天皇様に宮島に神殿を創建させて頂きたい旨を奏上そうじょうしている際に、市杵島姫命のご神託どおりにからすさかきをくわえて宮廷に現れ、天皇様も痛く感動され、神殿を作ることを許可された、ということです」

 「へー」高見刑事もコーヒーカップに手を伸ばした。

 「そればかりでなく、神殿を造営する場所も、からすの導きによって今の厳島神社のある場所に決められたのです」館長は、ここまで言って、コーヒーを一口飲んだ。


 「宮島では、何百年もの昔から今日まで、その故事にならいお烏喰式おとぐいじきという行事が行われているんですよ」神田かみたは館長の説明に付け加えた。さらに、

 「当時、神殿の造営場所をどこにするか決める際に島を船で廻ったのですが、この行事は、その時と同じように島を廻るのです。そして、途中で、弥山みせんから飛んでくるからすに団子を食べてもらうのです。今でも烏は、団子を食べに飛んできます」

 「へー」高見刑事には初めて聞くことばかりであった。

 「言い伝えでは、佐伯氏が神社の場所を決める際にも、からす弥山みせん山頂から飛んで来て団子を食べ、そのまま船を今の厳島神社の場所へ案内したということです」

 「厳島神社の入り口、東回廊の手前の灯篭には、その言い伝えにならっ てからすがとまっていますよ。このことに気が付かれる方は少ないのですがね」 




 「弥山みせんからからすが飛び立つ、・・・」

 神田は、あの大男は、富士山の剣が峰から飛び立ったのと同じように弥山みせん山頂からもパラグライダーで飛び立ったことは間違いないだろうと思った。


 「山頂のレストハウスのあるじが見た時は男は大きなザックを背負っていた。それが、俺が会ったときには何も持っていなかった。台風の日の前日、弥山山頂の岩場のどこかにザックを隠して、鉄の棒を奪った日か、その翌日には山頂から脱出したのだろう。しかし、その後はどうやって富士山まで行ったのか?誰かの協力なくしてはとても出来そうにないが・・・」そんなことを考えていた時、高見刑事は立ち上がった。内ポケットから携帯電話を取り出し、窓際に移動して話し始めた。


 「はい、高見です。・・・ああ、これはどうも、昨日はお世話になりました。・・・はい、・・・あ、そうですか。それは助かります。・・・では、近日中に、またそちらへ伺い、・・・え?・・・こちらへですか?・・・それはまた、・・・で、お名前は?・・・」

 どうやら富士山本宮浅間大社ふじさんほんぐうせんげんたいしゃの宮司からのようであった。

 「じゃあ、私は、これで。写真はお預けしておきますから」そう言って館長は立ち上がり、ドアの方へ向かった。

 「ありがとうございました。いろいろ助かりました」神田は椅子から立ち上がり、頭を下げた。高見刑事も電話で話しながら、館長に頭を下げた。


 「宮司さんからですか?」

 「ええ、あの、八頭神社はっとうじんじゃの宮司さんと連絡が取れたようです」高見刑事は携帯電話を閉じてポケットに納めた。

 「ああ、それは良かった。で、どちらに?」

 「お住まいは、あの神社の近くのマンションらしいです。宮司さんはそこから神社の社務所に通っておられるとか」

 「じゃあ、近々またあちらに・・・」

 「いや、それが、こちらに来ていただけるようです。旅行のついでだからということらしいです」

 「それは、好都合ですね。いつ?」

 「明後日の午後2時頃、この事務所を訪ねられるとかで、もう、あちらは発たれたようです。私も時間に合わせてこちらに伺います」




 「ところで、神田かみたさん、ダイエット中の神田さんにピッタリの料理屋さんがあるんですが、今晩どうですか?」そう言いながら、コーヒーカップを持った手を軽く上へ上げた。

 「いいですね。どこにあるんですか?」

 「廿日市はつかいちの駅前通りです。広電の電車で行けばすぐですから。私は時間まで島内を観光しています。ちょっと、調べたいこともありますし。コーヒーご馳走様でした」高見刑事はそう言って立ち上がった。

 「じゃあ、5時過ぎに、フェリー乗り場ということで」神田も立ち上がり、右手を上げた。


 その日の夜7時前、神田と高見は広電廿日市ひろでんはつかいちで下車し、商店街をJR廿日市駅方向へ歩いていた。

 「学生時代とくらべると、この通りも何だか寂しくなりましたね」神田は、時間もさほど遅くはないのに、すでに人通りの少なくなった商店街をきょろきょろと見ながら歩いた。店の様子も随分変わっている。


 「学生時代って言うと、大学?」高見刑事は神田の方を振り向いて聞いた

 「いえ、高校時代です」神田は商店の看板を見ながら返事をした。

 「じゃあ、神田さんは生まれも育ちも広島ですか?」高見刑事は歩道脇にある石の階段をいくぶん足を引きずって下りていった。

 「そうです。高校も地元ですし、大学も広島ですから。大学を卒業して今の宮島観光推進協会に勤めましたからね」神田も高見刑事の後に続いた。

 薄暗い小路の奥に小さな、飲み屋風の入り口が見える。濃い弁柄べんがら色に塗られた引き戸は腰から上には障子紙が貼ってあり、縄のれんを通して電球色の灯りがもれている。軒下の赤提灯には、くずした平仮名で「おとみ」と書いてあった。




 「ここにはよく?」

 「いや、年に一回くらいですかね」そう言って、ゴロゴロっと引き戸を開け、高見刑事は入って行った。

 神田かみたも後ろに続き、後ろ手で戸を閉めた。重そうに見えた戸もそれほどでもなく、ゴロゴロ、トンッ、と閉まった。


 店内はやや薄暗く、突き当たりのカウンターは6席くらいで、若い男性客が端で日本酒を飲んでいる。三和土たたきの土間には一畳ほどの大きさの木のテーブルが2枚置かれ、木の丸椅子が、それぞれ5、6脚その周りに置いてある。左奥には畳の小部屋もある。その小部屋にも一畳くらいの大きさのテーブルが置いてあり、サラリーマン風の中年の男性客が三人、何やら小声で話しながら食事をしていた。カウンターの中の壁には、こういう場にはそぐわない神棚が祀ってある。


 「神田かみたさん、こっちへ」高見刑事は神田を手招きしてカウンター席へ呼んだ。

 店主が手ぬぐいの鉢巻を取り、

 「こりゃ、どうも」と、挨拶にやって来て、深々と頭を下げた。

 「やあ、久しぶりだね。その後どうだい?」高見刑事は右手を軽く上げて椅子に腰掛けた。

 「まあ、ぼちぼちでござんすよ」店主は鉢巻をはげた頭に閉めなおした。やや長めの白髪が後頭部で垂れた独特の髪形をしている。見ようによっては注連縄しめなわにぶら下がる紙垂しでのようにも見える。60を少し出たくらいであろうか。


 「しかし、お久しぶりでござんすね。一年振りくらいでござんしょうか?旦那もお変わりなく?」男はいくぶん前かがみになり尋ねた。

 「ござんす?・・・」神田はチラッと高見の顔を見たが、高見は、

 「ああ、ありがとう。何とかね」と、神田の視線は無視した。

 「そいつは良ござんした」

 「おい、おとみ、高見の旦那がお見えになったぞ」暖簾のれんの奥へ声をかけた。


 「まあ、まあ、これは高見さん」暖簾をくぐって品のよさそうな女が前掛けで手を拭き拭き出てきた。

 「奥さんもお変わりなく」

 「お蔭様で、貧乏暇なしです」手ぬぐいで神田と高見刑事の前のカウンターを拭きながら答えた。

 「それが一番だよ」

 「ところで、今日は何か?」男は、女将から受け取ったオシボリをカウンターに置きながら不安そうに聞いた。

 「いや、いや、ちょっと鉄さんの顔が見たくなってね」

 「へへ、こりゃ、面目ねえ」そう言うと、安心したかのように右手を頭にやり、軽く頭を下げた。

 「で、こちらさんもやっぱり」と高見刑事を見たまま聞いた。

 「いやいや、こちらはちょっとした知り合いで」高見刑事は大げさに手を顔の前で振りながら答えた。

 「神田かみたといいます」神田はオシボリで手を拭きながら頭を下げた。

 「へい、こりゃご丁寧に、山田鉄男と申しやす」男は恐縮したように深々と頭を下げた。


 「あっしゃ、また、こちらさんも高見さんとご同業かと」高見刑事のほうへ向き直って言った。

 「そんな風に見えますか?」神田は笑いながら言った。

 「へい、そのこぶしや肩の張り具合は素人さんには見えやせんぜ」山田と名乗った板前は神田の体をしげしげと見て低い声で言った。

 「おい、おい、相変わらず、深読みするねえ」高見刑事も笑いながら言った。

 「へへ、こりゃ、面目ねえ」山田は右手を頭にやって再び頭を下げた。




 「とりあえず、熱燗あつかんを。神田さんいいですか?」高見は神田に聞いた。

 「はい。いいですね」そういいながら、改めて店内を見渡した。壁は漆喰しっくいで仕上げてあり、腰板はこれも、濃い目の弁柄仕上げだ。店の真ん中には太い柱が建っており、天井には、すすけたはりが1本渡してある。古民家の材料を使った建て方のようだ。

 「へい。承知いたしやした。おい、おとみ、高見の旦那に熱燗を」山田は奥に声をかけた。

 「あいよっ」奥から元気のいい声が返ってきた。

 「で、今日は何をお出しいたしやしょう?」山田は包丁を拭きながら尋ねた。

 「そうだな」そう言って壁に貼られた品書きを眺めて、

 「神田さんは?」と神田に声をかけた。

 「えーと」と言いながら品書きを見てもそこには判読不明の漢字が並んでいた。 

 「高見さんのおすすめに従います」

 「じゃあ、鉄さん、コースで頼むよ」

 「へい、承知いたしやした」そう言うとすばやく料理にかかった。


 「どういうお知り合いなんですか?」神田は顔を伏せて小さな声で尋ねた。

 「あー、まだ、私が若い頃ね、彼も若くてね。いろいろあって」と、意味の分からない返事をした。

 「そうですか」と、神田もそれ以上は聞かなかった。




 「お待たせをいたしました」女将さんが徳利と杯を運んできた。やや大ぶりの徳利とっくりに、これも大き目のさかずきだ。白和しろあえが突き出しだ。

 「ごゆっくりどうぞ」女将さんはそう言って奥に引っ込んだ。


 「ま、一杯」高見刑事は神田に徳利を向けた。

 「ありがとうございます」杯を両手で持って受けた。

 「どうぞ」神田は高見刑事から徳利を受け取り、高見刑事に酌をした。

 「ここのお酒は出雲の酒ですよ。まろみがあっておいしいですよ」高見刑事も杯を両手で持って酌を受けた。

 「じゃあ、お疲れ様でした」杯を上に上げ、それから、ふたりともグビッと杯半分くらいを飲んだ。

 「うーん、うまい」と、神田かみたは言い、杯を下ろした。

 「でしょう、さばけもよくてね」高見刑事は自慢げに神田の顔を覗き込むようにして言った。


 神田は突き出しに箸をつけた。さいころに切られた柿に、塩で味付けされた白和えが程よく合い上品な味だ。

 「へい、お待ち」山田がカウンターの上に料理を出した。

 「茄子のなめこおろしがけでござんす」

 「へー、おいしそうですね。大将は、この道長いんですか?」

 「へへ、面目ねぇ。包丁持ったのは、随分と昔のことでござんすがね・・・へへへ。もっとも、その時分にゃ、野菜は切っちゃいませんでね」




 「鉄さんは、昔は匕首あいくちの鉄と呼ばれて、その筋じゃちょっとした有名人だったんですよ」料理に箸をつけながら高見刑事は言った。

  「へへ、面目ねぇ。若気の至りってやつでござんすよ」山田は顔を上げずに次の料理にかかっている。


 「何だか訳ありですね」そう言って高見刑事に酌をした。

 「いやー、たいした訳なんぞありゃしやせん。その道から、お救い下すったのが、こちらの旦那でござんすよ」

 「へー」そういう繋がりだったのか、と、ふたりを見た。

 「いいのかい、そんなにペラペラしゃべっても」神田に酒を勧めるように徳利を持った。

 「へへ、良ござんすよ。もう、40年以上前のことになりやすかね。あっしも血気盛んな頃でしてね。その頃、広島ではちょいと知られた一家の会長にかわいがられていやしてね。それを好いことにあの頃は無茶したもんでござんすよ」そう言いながら、見事な包丁捌きの音を出した。神田は、山田が、時々包丁を拭う左手の小指と薬指の2本は第二間接から先がないことに先ほどから気がついていた。


 「その会長は、お人の出来たお方でござんしてね。あっしらのような下っ端にも情の厚い、いいお方でござんした。ところが、その会長の後継者って野郎、会長の息子でござんすがね、皆から、若、若、って呼ばれて、調子付いて、こいつが、全くの世間知らずって言うんですかい」話しながらも包丁の動きには淀みがない。


 「若けえもんを虫けらのように扱う野郎でござんしてね。それに、もう、なんかありゃあ、チャカを持ち出し、終めぇにゃあ、素人衆からもみかじめ料を取ってこいだとか抜かしやがって。会の者もついていかなくなりやしてね、あっしもついに、堪忍袋の緒が切れて、ってわけでござんすよ」

 「へい、野菜の焼きづけでござんす」そう小さな声で言って料理をカウンターの上に出した。


 「ちょうど、その時分は、県警の取り締まりも厳しくなって来やして、ここいらが潮時かと・・・時代でござんしたねぇ」そう言いながら顔を上げ包丁をふきんでぬぐった。

 「会を抜けるときにゃ、こちらの旦那にゃ、そりゃあもう、口では言えねえくれえのお世話になりやした」頭を下げた。

 「もうあの頃のこたあ、思い出すのもイヤでござんすよ」山田は軽く頭を振った。

 「いや、悪いことを思い出させてしまいましたね」小さな声で神田は言った。

 「いやいや、良ござんすよ。たまにゃあ、昔のことも振りかえらねえと、これからの行く道も見えなくなるってもんでござんすよ」




 「今となっちゃあ、何にも悔やむものはござんせんがね。ひとつだけ、気になっていることが有りやすんで」山田は、遠くを見つめるような目をした。

 「あっしも、いっぱしに子分を抱える身分になりやしてね。ある若けえ者んを会に引き釣り込んだんでござんすよ」山田は次の料理にかかった。


 「その野郎は純な野郎でござんしてね。腕っ節も立つし、さっぱりしてるし。あっしが会を抜けるときにも、その野郎にも、一緒に抜けるように言ったんでござんすが、そいつも義理堅い野郎でござんして、会長への義理を果たすまでは会に留まると言い張りやしてね。どうやら、おっ母さんの薬代を会長から借りていたようなんで。なにしろ親父は行方知れずで、おっ母さんひとりに育てられてましたからね。そのおっ母さんが長患いで・・・」再び、小気味良く包丁の音が響いた。

 「あー、郷戸ごうどのことかい?」高見刑事は思い出したように言った。


 「郷戸!!」神田は思わず声を出した。

 高見刑事は、杯を持ったまま、

 「あー、びっくりした」と背筋を伸ばした。

 「郷戸のことは鉄さんからも何度か相談されたからね。憶えてるよ」

 「神田かみたの旦那も郷戸のことをご存知なんで?」そう言って、神田の拳に目をやり、一瞬にして全てを理解したようだ。

 「あっ、そうでござんしたかい。あっしが会を抜けてすぐ、大木会と学生さんの大立ち回りがありやしたが、ひょっとしてその時の拳法部の・・・」

 「はい。そうです」


 「おや、これは初耳ですね」高見刑事はこぼれた酒で濡れた手をオシボリで拭きながら神田を見た。

 「で、その郷戸ごうどって人はその後?」

 「あの後、若の息子がチャカでケリをつけようとしたのを邪魔したとかで、会から、と言っても、半身不随になった若の野郎ひとりの指図ですがね、命を狙われるようになりやして姿をくらましやした」

 「鉄さんは、その郷戸の消息を?」高見刑事は尋ねた。

 「それから、しばらくして、ありゃあ、いつ頃だったでござんしょうか・・・おい、おとみ、郷戸から葉書が来たのは何年ぐれえ前だったか、お前え、覚えちゃいねえか?」山田は奥に向かって声をかけた。


 「あれは、鉄太郎が小学校1、2年頃だから、昭和47年(1972年)頃の暮れだったと思います。簡単な文面で、義理を欠いて申し訳ない、とか、このご恩は一生忘れませんとか、そんな風なことが書いてありましたね。全くあの人らしくて・・・」奥の座敷の客にお酒を運びながら、思い出し、出し、言った。

 「で、その葉書はどこから?」神田は山田の方に向き直って聞いた。

 「消印はタイでござんした」



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