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隠家(あじと)

 カトマンズ盆地の北の外れの畑の中を、龍が這うように伸びる道の先に十数戸のレンガ造りの家が固まって建っている。どの家も廃屋のように見えるが、屋上には洗濯物が干してあるのでかろうじて人が住んでいるのが分かる。


 郷戸一星ごうどいっせい隠家あじとは、その肩を寄せ合うようにして建ち並ぶレンガ造りの家と家の狭い路地を鍵型に何度か曲がり、さらに鉄の門扉で囲まれた家の庭先を通り抜けた先にある。


 3階建てのそのレンガ造りの建物の屋上には小さな小屋が建ち、その小屋の中で3人の若い男達が暮らしている。彼らの仕事は、日がな一日周囲に目を配ることだけだ。


 その建物を取り囲むようにして建っている家には郷戸の部下達の家族や親戚が住んでいる。30年前、郷戸がタイのチェンマイに暮らした時もそうだった。玉木は「血のつながったもんしか信用出来まへんで、郷戸はん」と、メコンウィスキーを飲みながら何度も口にしていた。


 郷戸はソファーに腰をかけ、テーブルの上に置いてあるエベレストウィスキーのビンを右手で持ち上げ、左手に持ったコップに半分ほど注ぎ、グビッ、と一気に喉に注ぎ込んだ。郷戸の前では、5人の男達が薄汚れたカーペットに座り込んでダルバート(カレー)を手でつまんでは口に運んでいたが、その様子を見て、お互いに顔を見合わせた。男達は最近の郷戸は何かおかしいと感じていた。


 「俺はあの時のままなのか。メコンウィスキーがエベレストウィスキーに変わっただけか」そう思うとなんだか可笑おかしくなり、「フッ」と、熱い息と一緒に小さな笑いがこぼれた。


 「ゴッド、どうしかしたのですか?」男達の一人が右手の指先についている米粒を舐めるのをやめて聞いた。


 「いや、なんでもない」郷戸はそう言うと、再びコップにヒマラヤウィスキーを注ぎ、ソファーから立ち上がった。そのまま、男達の間を通り抜け、屋上へ向かった。郷戸の後姿を見送ると男達は再び顔を見合わせた。


 屋上へと繋がる鉄パイプの格子戸のカンヌキをはずし、鉄板の扉を「ガシャガシャ」と音を立てながら外側に開いた。


 見張りの男達は、ダルバートを食べる手を止め、米粒の付いたまま傍らに立てかけていた小銃をつかんだ。しかし、扉から覗いた郷戸ごうどの手を見ただけで、再び、眼を周囲に移し、ダルバートを器用につまみ始めた。


 郷戸は黙ったまま、北側の塀の上にエベレストウィスキーの注がれたグラスを載せ、両腕を広げて手を塀の上に載せて北の空を見上げた。星の輝きはいつもに増して鋭かった。


 

 チェンマイで玉木は言った。

 「人間ちゅうもんは寂しいもんや。どこに骨を埋めても、最後には故郷ふるさとの戸を開けたいもんや。インパール作戦で負けて日本に向こうて歩き続けながら、タイやラオスの山の中で骨になってもうた兵隊さん。タイ人になりとうても最後には日本が恋しゅうなってもうた鉄砲屋の親っさん。自分らを捨てた日本の安否を気遣いながらシンガポールで骨になってもうた唐行き(からゆき)さんら」


 郷戸ごうどはグラスをかかげて

 「そろそろ・・・か」

 唇を少しだけ開き、舌だけ動かしててこう言うと、グラスのエベレストを一気に飲み干し、そのまま息を吐いた。


 翌朝、郷戸はパタンへ向かった。


 

 通りは既に多くの人で賑わっていた。人々は複雑に交差して出来た広場にある市場を目指している者達や、既に買い物を済ませ手に手に野菜などの食料品を詰め込んで膨らんだ黒いビニール袋を提げて市場から流れ出てくる者達が行き交っていた。その行き交う人々の流れの中をシングルエンジンを響かせながら、これもハンドルに食料品がいっぱいに詰まったビニール袋を提げたバイクが通っている。


 郷戸は市場に向かう人の流れに乗って歩いていた。その時、人混みを避け損ねたバイクが老人をひっかけた。老人はよろけて傍らの香辛料を詰め込んだ麻袋に倒れ掛かった。


 老人は店の者に「マーフガルヌス」と小声で言った。


 郷戸は、それを聞いて老人を見た。ネパールで「マーフガルヌス(すみません)」などという者は滅多にいない。改めてその老人を見て、老人が手にしている杖を見た。


 「!?」


 吸い寄せられるように老人に近付いた。


 老人はそばに立った長身の男を見上げた。


 郷戸の目は老人の持つ杖に注がれていた。


 「失礼ですが、ご老人」


 「はて?」


 「その仕込みは・・・」


 老人の目つきが一瞬にして鋭くなった。

 「ほう、日本の方ですな。これがどうして仕込みと?」


 「その仕込み、拝見できませんか」


 「これを見たいとおっしゃるか?」老人の眼は鋭く光った。


 あたりの喧騒がふたりの間では消え去った。


 老人は両手のひらで包むように杖のかしらを握った。


 「何か仔細がお有りのようですな」と、郷戸の次の言葉を待つように間を空けた。


 しかし、郷戸はそれには答えず仕込みを見続けた。


 「よろしいでしょう。わたしの宿までおで願えるなら」


 「伺います」


 「で、いつ?」


 「ご迷惑でなければこれからでも」


 「しばらく歩くようになりますが」


 「かまいません」


 郷戸は人混みで狭くなった道を老人の後に続いた。


 老人はやがて人混みからはずれた枝道に入った。


 その枝道に沿った商店はようやくシャッターに付けた南京錠を外し、開店の準備をしている。


 すでに開店準備が整った店では軒先でお香を焚いている。

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