バグマティ川
この年(2005年)の2月、ギャネンドラ国王は、王室ネパール軍(国軍)、ネパール警察、武装警察隊などの武力機構を掌握し、全国に「国家非常事態宣言」を発令した。
インターネットを含む通信回線は切断され、同時に主要政党のリーダー達は国軍の監視下におかれた。発言、集会、移動の自由は停止され、国王はネパール全土を監獄にした。
多良と神代、そしてキャシーがカトマンズの安宿で出会ったこの頃には、各政党のリーダーとマオイストのリーダー、プラチャンダはインドのニューデリーで秘密会合を開いた。そして、その会合で、彼らは、国王から政権奪取することで合意した。
国王の強権支配は、国王の目論見に反して、議会政党と共産党毛沢東派の接近を促し、王制崩壊へと進むきっかけとなったのだ。
今日の、国王側と一般民衆を含むマオイストとそのシンパ(同調者)の大規模な衝突は久しぶりのものだった。多良には政治活動に関わりあう気持ちは無かったが、時代の大きなうねりは山津波のようにすぐそこまで迫っていた。
いつもなら多くのネパール人でごった返すアサンの市場も今日は閑散としている。商店の立ち並ぶ通りでは、店主達が店の状況を確認に来て、淡々と開店の準備をしている。庶民の生活は太陽の動きと同じように止まることはない。
その通りを抜けて旧王宮広場へ出た。その一角にはガルーダ神の石像がある。ガルーダは顔はカラスで体は人間。その背中には大きな翼がある。ヒンズーの3大神様のひとつ、ヴィシュヌ神の乗り物だ。多良はその巨大な石像を見るとキキャを思い出す。
「そういえばキキャの帰りがおそいな」多良は目の端でガルーダの石造を見ながら狭い商店街に入った。道の両側にギッシリと詰まった建物に挟まれた上空の黒煙は風になびいている。鼻をつくゴムの焼けた臭いは先ほどよりも弱くなっていたが、やや下り坂の道を30分も歩くと今度はドブ川の臭いが多良の鼻をついてきた。バグマティ川だ。
ヒンズー教徒の聖なる河、ガンジス河の支流だ。そのバグマティ川は、澱みながら、1000年先にも大地に還らぬ人間社会の残滓を浮かべながら流れている。上空に浮かぶ黒煙もまた、バグマティ川の影であるかのようにゆっくりと流れている。
バグマティ川に架かる橋を渡りきった時、後方からトラックのエンジン音と共にいつもの合図と同じリズムでクラクションがなった。多良が振り向くと、トラックの荷台の四方を囲った蔽いから頭ひとつ覗かした男が多良を見て微笑んだ。
「キキャ!!」
トラックは「ギッ、ギーッ」という大きな音と白い砂塵を舞い上げて多良のそばで停まった。同時に、トラックの男は荷台を囲んだ蔽いに上半身を乗せて多良に向かって手を差し伸べた。多良がその手を掴むとトラックは発車し、同時に多良の体も舞い上がって覆いの内側に引き込まれ、荷台の中で白いシャツを着た巨大な男が多良を抱きとめた。
「おーっと。キキャ、久し振りじゃのう。元気か?」
そう言うと大男の体を点検するかのように上から下まで見た。
「ナマスカール。おとうさん。ただいま帰りました」
大男は多良の前に跪き合掌して頭を下げた。
「そうか。そうか。元気でよかった。遅いので心配しとったんじゃ」
多良は大男の盛り上がった左肩に手を置いて2、3度、軽く叩いた。
「申し訳ありません、おとうさん」
大男は優しい表情を浮かべて多良の顔を見上げた。
「お父さんは止めい、キキャ。多良でいいといつも言うとるじゃろうが」
「そうでした。おとう・・・、多良さん」
キキャと呼ばれたその大男は、にっこりと笑いながら、大きな右手を、そり上げた頭に置いた。
「で、どうだった?大変じゃったろう?」
多良も「どっこいしょ」と声に出し荷台に座り込み胡坐をかき、キキャの顔を見た。
「はい、少し苦労しました」
キキャも多良の前で胡坐をかいた。
多良は、腕組みをして、頷きながら
「じゃろうのう。その連絡は来てはいたが」と、キキャの苦労の大きさが分かるだけに、自分にも言い聞かせるようにつぶやいた。
キキャは、
「宮島ではチャイナの連中とホーモツカン(宝物館)で鉢合わせしました」と、笑みを浮かべながら言った。
多良は驚いた表情を浮かべ、
「おお、そうじゃったか。まさに危機一髪じゃのう」と、さらに大きく頷き、すぐに、
「宝物館からは邪魔も入らずすんなりと手に入れることができたのか?」と続けた。
「はい。ポリスの邪魔はありましたが」キキャは落ち着いた声色で答えた。
多良は眉を寄せながら、
「まさか、その警官を・・・」と、そこまで言うと言葉を切った。
キキャは、
「大丈夫です。誰も傷つけてはいません」と、多良の心配を見越したように優しく言った。そして、その時のことを思い出し、
「ポリスともうひとり武術家がいました」と付け加えた。
「武術家?」多良は小首をかしげた。
「ちょうど、おとうさん・・・多良さんくらいの年の人でしたが、あいつは、若い時は強かったと思います」キキャは顔を上げ、上空の青い空のむこうを見るような目をした。
「へ〜え」
多良には、その男が、修道館大学で暴力団と闘った神田だとは思いもしなかった。
キキャはすぐに顔を多良の方に向け、
「でも、台風にまぎれて逃げることが出来ました」と言った。
多良は、
「そうか、そうか」と、この大男、キキャがこの仕事にふさわしい男であったことを、改めて思った。
「それで、宮島からは?」
多良は予定通りに事態が進んだのか気になった。
キキャは、順を追って説明を始めた。
「予定通りエタジマ(江田島)沖で柏木さんが船を出してくれていました」
多良はそれを聞くと安心したように、
「そうか。彼女の船は速いからな。ありがたいことじゃ。それに彼女は村上水軍の末裔だし、彼女のネットワークにのれば海の道はノンストップだからな」と、ここでも彼女に全ての状況を話した自分の判断が正しかったと思った。
キキャはさらに、
「で、その後も、キキイッパツ(危機一髪)でマウント・フジから2本目を手に入れることが出来ました。その時も彼女が私を駿河湾で拾ってくれました」と続けた。
多良は、
「そうか。彼女にも感謝せんといけんな」
そう言うと、
「しかし、鉄の棒の一本は富士山の頂上にあることは分かっておったが、台風で姿を現すとはのう・・・これも神様のお蔭じゃろうのう」と感慨深げに続けた。
「そう思います。マウント・フジの頂上でもキキイッパツ(危機一髪)でした。もう少し遅ければ、チャイナの連中に先を越されるとろでした」
キキャはそう言いながら、腰に巻いた布を解き始めた。
多良は、キキャの手元を見ながら、
「ははは、危機一髪という言葉を覚えたのう」と笑った。
キキャは、
「はい」と返事しながら、大きな両手の上の布に乗せたままの2本の鉄の棒を多良の方へ差し出した。
多良は、
「うーん。これか」と言いながら、両手でそれぞれの鉄の棒を持ち、目の前で向きを変えながら繁々(しげしげ)と眺めた。
そして、
「これが多くの人間の力を集結させる力を持っているというのは本当だろうか?」と心の中で思い、
「分からんな」と、口に出した。
キキャは、
「え?」と不思議そうな顔をしたが、多良はそれには答えず、
「様々な民族の力をひとつにまとめるには共通の何かが必要なのは確かだが・・・しかし逆に、民族の集結が都合の悪い奴等がいることも事実だしな」と再び心の中で思った。
そして、
「キキャ。これはお前が大事に持っておけよ」と、その2本の鉄の棒をキキャの両手の上に広げられた布の上に戻した。
キキャは、その2本の鉄の棒を布で大事そうにくるみながら、
「はい。命に代えて守ります」と、その多良の言葉にはっきりとした口調で応えた。
多良は、話題を変えるように、
「しかし、このトラックへはどうして?」とやや大きい声で尋ねた。
「ちょうど国境を抜けたところで彼に」と、キキャはそう言うと運転席のほうを見た。
多良もキキャの視線の先の薄汚れたガラスの向こうの運転手に視線をやった。
そして、再びキキャの方へ向き直り、
「そうか。それはちょうど良かったのう」とうれしそうに言った。
キキャも、
「はい。このトラックも予定より早く国境を抜けることができたようです」と多良の笑顔に応えた。
「そうじゃろう。ワシも、もう一週間はかかると思うとった。ま、これも危機一髪じゃったのお」
多良はそう言うとキキャの大きなひざに手を置いて「ははは」と声に出して笑った。
トラックは、ギヤをガッシンと鳴らしてシフトダウンし、ブオン!!と一塊の黒煙を吐き出して、唸りながらパタンの街に入っていった。