黒石楠花(くろしゃくなげ)
「なんだって!?」多良は、ドアノブを握ったまま、振り返った。
「多良さん、彼はここにいるんです」キャシーも、多良の方へ2、3歩、歩み寄り、嬉しそうに叫んだ。
「ど、どこに?」多良は、やや震えながらも強い口調で言いながら、ドカドカと登山靴を鳴らしながらキャシーのいるところへ戻って来た。
キャシーは、多良の左腕に手を当てながら、
「2階の部屋です。多良さんがシャワーを浴びている間に、テレビクルーが怪我をしている彼を連れ帰って、彼は今、部屋で横になっています」と言い、そして、
「さっき、薬を塗って、安定剤を飲んでもらいましたから、今は眠っていると思います」と続けた。
「そうですか・・・良かった・・・」多良は、全身の筋肉の緊張が一瞬にして解きほどかれ、肩の力が床にぱらぱらと落ちていく感触を味わった。再び、
「よかったー」と言うと、ソファーに座り込んだ。
キャシーもジョンも、他のクルー達も嬉しそうにその姿を眺めている。
ビクシンが外から帰ってきた。両手にはチヤ(ミルク紅茶)のコップホルダーを持ち、
「さあ、ティータイムだよ」とそのコップホルダーを掲げた。
オーストラリアのテレビクルー達は、それぞれ、
「サンキュー」と言いながら、ビクシンに近づき、チアのコップを受け取った。
「どうしたんだね。多良さん。疲れているようだね」と、多良の前のテーブルにチヤのコップを置いた。
「いやー、疲れたよ。はははっ」と、ビクシンとキャシーの顔を見て、多良は嬉しそうに笑った。
多良はビクシンに向かって、
「それより、こんなところにいていいのか?店の方は?」と、聞いた。
ビクシンは、
「今見てきたところだよ。もう火は消えてるよ。雑貨屋の悪徳オーナーも頭を抱えていたよ」と、やや疲れた表情を見せた。しかし、気を取り直して、
「火が移らなかったのは、ラッキーだったよ。後片付けは、騒ぎが収まってからにするよ」と、多良の隣に座った。
「そうか。手伝うよ」多良は、ビクシンの肩に手を回した。
ビクシンは、
「ありがとう、多良さん。でも大丈夫だよ」と、多良の膝を「ポン」と、一回叩いた。
多良は、目の前に置かれたチアのコップの縁を、右手の親指と人差し指で挟んで口元まで持っていき、「フーッ」とため息と共に息を吹きかけた。
そして、
「会えるかな?」と、キャシーに尋ねた。
キャシーは、フリースの左袖をめくり、時計を見た。
「もう少し眠らせてあげてください」と、優しく首を振った。
「分かりました。まあ、とにかく無事でよかった」多良はそう言うと、チアを一口飲んで、コップをテーブルに置いた。そして、両手を頭の後に組んで、目を閉じた。口いっぱいに残ったチアの甘さを満喫した。
ビクシンが、
「多良さん」と、再び多良の膝に手を置き言った。
「ん?」目を開けて、体を起こしチヤのコップを持った。
ビクシンが、声を落として、
「表にカロ・ラリグラス(黒いシャクナゲ)の男達が来てるよ」と、チヤを持ったコップを出入り口のほうに向けた。
「カロ・ラリグラスが?」多良は、頭の後ろで組んでいた手を解いて、
「誰が目当てなんじゃ?」と小さく言った。
ビクシンは、
「さあ、ここにいる誰かだね」と、目だけでホテルのロビーを見廻した。
多良は、
「一番候補は、俺ってとこかな」と言うと、再びチヤを一口飲み、
「二番は、ビクシン、お前だな」と、ビクシンをいたずらっぽく見た。
ビクシンは、慌てた様子で、
「やめてくれよ。私は何も悪いことしていないよ」と、左手を大きく振った。
それを見た多良は、笑いながら、
「俺だって悪いことはしてないよ。しかし、まあ、ブラックリストに載せられてるってのは、ありがたいことじゃが」と言った。
キャシーが、
「カロ・ラリグラスって何ですか?」と、多良とビクシンを交互に見た。
多良は、
「秘密警察ですよ」と、チラッ、とキャシーを見て言った。
キャシーは、
「ヒミツケイサツ?」と、多良の言葉を繰り返した。
「そう。どこの国にもある組織ですよ」多良はそう言うと、背もたれに背中をあずけた。そして、
「市民の中に紛れ込んで情報を収集して、政府の方針に反対する組織や人間を見張ったり、捕らえたり、時には葬ったり・・・ね」と、天井を見上げながらゆっくりと言った。
ビクシンは、多良の
「公式にはそんな組織は存在しないことになってますが、皆、知ってることです」と言うのに続けて、
「マオイストの中にも紛れ込んでるよ」と、小さな声で言った。
ビクシンが「マオイスト」という言葉を使う時は、自然と声が小さくなるようだ。
多良は、
「当面の敵はマオイストだからな」と、紛れ込むのは当然だ、というような口調で言った。
キャシーは、首を傾げながら、
「そんな人達がどうしてこのホテルを?」と、再び、多良とビクシンの顔を交互に見た。
「さあ・・・」多良は、頭の後に両手を回し、「どうしてだろう」と頭の中で呟いた。
「もし・・・」多良は目を閉じて考えた。「俺を見張っているんだったら、まずいな・・・、中国から見張られるのなら分かるが、この国では公然の秘密だったはずだが・・・、方針を変えたか・・・、それとも、マオイストとの交渉の札の一枚にするつもりか・・・」
キャシーが、
「多良さん、何を考えているのですか?」
「え?いや」そう言うと、バッ、と、立ち上がり、鬘に手をやり、かたちを整えた。
「ちょっと出かけてくる」ビクシンにそう言うと、ドカドカ、と、早足で出入り口に向かった。
「多良さん、どこへ行くのですか?」キャシーが多良の背中に声をかけると、
多良は、振り返らずに、
「すぐ帰ります」と、ドアを開けて出て行った。
多良は、「俺が目的なら、奴らは俺について来る筈だ」と、考えた。
多良は、「バーン」とドアを勢いよく開き、一度、ドアの前で立ち止まって、空を見上げ、右へ向かって歩き始めた。
男は三人いた。さりげなく車座になってしゃがみ込んでいる姿は、その辺にいる暇な男達の姿にしか見えない。
催涙ガスとゴムの焼ける臭いが、まだ、辺りに立ち込め、道にはブロックのかけらや、石が散乱している。
通りに面した土産物屋や雑貨店のオーナーがぼちぼち片付けに帰ってきているようだ。通路が交差するところまで来て右へ曲がる時、チラッ、と後を確認した。男がひとり、ポケットに手を突っ込んで、トピー帽をかぶった頭を下げ、顔が見えないようにして付いてくるのが見えた。さっきの三人の中のひとりだ。
「ひとりだけ?」多良は、不審に思った。
「とりあえず、付いて来たゆう感じじゃのぉ」
多良は、そのままゆっくりと歩き、ちょうど、シャッターを上げていた雑貨屋でトイレットペーパーを一巻買い、それを持ってホテルへ引き返した。
トピー帽の男は、顔を伏せたまま、多良とすれ違い王宮方向へ歩いて行った。
「俺が目的でないとすると、誰なんじゃ?」
ホテルの前にしゃがみこんでいたふたりの男は、多良が意外に早く帰ってきたので、一瞬、驚いた様子を見せたが、そのまましゃがみこんだまま何やらボソボソ会話しているふりをしている。
「おや、早かったね」ビクシンは、多良が入って来ると椅子から立ち上がった。
「で、どうだったね?」ビクシンは、いくぶん声を落として聞いた。
「うーん。分からんね。一人は付いて来たけどね。俺がメインじゃないな」と、多良は皆の集まっているホールの中央に向かった。
ビクシンは、不安げな表情を浮かべて、
「じゃあ、誰を?」と、自分自身に問いかえるように呟いた。
多良も、
「さー・・・」と、自分に返事をした。
ゴトッ、と音がして階段の踊り場に神代が姿を現した。
「神代!!」多良は、階段を駆け上がった。
神代陽平は、カーキ色のベストを着て、壁に右手をつき、左手で頭の包帯に手をやって、佇んでいた。
「ん!?」神代は、顔を上げ、微笑む多良の顔を見た。
多良は、
「ワシじゃ!!多良じゃあ!!」と、神代の両肩に手を置いた。
神代も、
「おー、多良ァ!!」と、多良の両肩を掴んだ。そして、
「何してんだ、お前、こんなところで」と、不思議そうな顔をして多良の顔をまじまじと見つめた。
「お前こそ何しとるんじゃ!?」多良は、神代の肩に置いた手を軽く揺すった。
「いやぁ、暴動のビデオを撮ってたら、また、石がここんとこへ」と、額に手をやった。
多良は、心配そうな表情で、包帯を見た。
「もう、大丈夫か?」
神代は、
「いや、まだ、ちょっとズキズキする」と、再び、左手を包帯の上に乗せた。
キャシーが、
「まだ、静かにしていてください」と言いながら、階段を上がってきた。
多良は、
「あ、神代、こちらはキャシーさん。手当をしてくれた人だ」と、キャシーを紹介した。
神代は、
「あ、ありがとうございます。あなたが私を?」と、尋ねた。
キャシーは、階段下を見て、
「いえ、あそこから連れ帰ったのは」と、ホールでビデオ機材をケースに収めている男達のほうを向いた。
その中のひとりが、
「ハロー、マイト。アーユーOK?」と、明るく手を上げた。
「たまたま、現場に居合わせたオーストラリアのテレビクルーの皆さんがお前を連れ帰ってくれたんじゃ」
多良は、神代の体を支えながら、階段を下りた。
「しかし、久し振りじゃのぉ」多良はすっかり学生時代の言葉遣いになっていた。
「おお、何年ぶりかなぁ」神代は、そう言いながら、オーストラリアのテレビ局のクルー達が集まっているテーブルのところに行き、
「サンキュー・ベリーマッチ。アイ・アプリシエイトゥ・ユー。ユー・セイブドゥ・マイライフ。ありがとうございました。お陰さまで命拾いしました」と、頭を下げた。
ジョンが、
「オナジ、ジャーナリスト、オタガイサマデス」と、男達に代わって言った。男達も、神代の元気な姿を見て、うれしそうに笑っている。
キャシーは、
「塗り薬を調合してきます」と、ふたりに言うと、階段を上がっていった。
神代は、立ち上がって、
「ありがとうございます。あの、あなたは?」と、問いかけた。
キャシーは、階段の途中で振り返り、
「後からお話します。まず、多良さんとお話してください」と、にこりと笑ってウィンクした。
神代は、
「ありがとうございます」と、深くお辞儀をした。
キャシーは、
「じゃあ、後で、薬を替えましょうね」と、少し、右足を引きずりながら階段を上がっていった。
神代は、振り返って、
「あの人は?」と、多良に尋ねた。
「キャシー長谷川さんといって、医療ボランティアとして、これから田舎の村へ行くそうだ」多良は、神代が近くの椅子に腰掛ける時、神代の腕に手を添えた。
「村?どこの?」
「さー、それは聞いてないが」多良はそう言うと、神代が、テーブルの上に広げられた地図に目をやるのを見て、
「そして、この人達は、オーストラリアのテレビ局の人達で、雪男の番組制作のためにネパールに来とられるんじゃ」と言った。
神代は、
「へー、雪男。面白そうだな」と、地図を覗き込んだ。
「それより、卒業以来じゃが、相変わらずじゃのぉ」多良は神代の肩に手を回した。
そして、
「一体こんなところで何をしとるんじゃ?」と、神代に聞いた。
「俺か?俺は、ある事件を追っかけてるんだ」神代は、声を潜めた。
「事件?」多良は、すぐに、2001年に王宮内で起きた血なまぐさい事件を思い出した。
「ああ、例の王宮の事件さ」
この時多良は、カロ・ラリグラスが見張っている人物は神代だと確信した。
神代は、
「あの事件の真相が知りたいんだ」と、昔のままの眼をして多良を見つめた。
多良は、眼を落として、
「知ってどうするつもりじゃー?」と、溜息と共に言葉を吐き出した。
「場合によっては独裁体制をひっくり返せるだろ」神代は、そう言うと、口を一文字に結んだ。
多良は、
「それは、マオイストに手を貸すようなもんじゃ」と、神代の顔を見た。
「そうかも知れない。しかし、それもひとつの過程だ」多良は断定的に言った。
「そうかのぉ」と、多良が言ったのが聞こえなかったかのように、神代は続けた。
「どうやら、あの事件を目撃した人物がいるらしい。その人物にインタビューをしたいんだ」
「あいつに?」多良は眉を動かして再び神代の顔を見た。
神代は、
「ん?知っているのか?」と、多良の膝に手を置いた。
「ああ」多良は、躊躇しながら答えた。
神代は、それを聞いて、パッ、と顔を赤らめた。
「紹介してくれ。彼女を」
「彼女?誰のことじゃ?」多良は、首をひねって神代を見た。
神代も、
「誰って、・・・王宮内で働いていた召使の女のこと・・・じゃないのか?」と、途切れ途切れに言った。
多良は、顔の前で大きく手を振り、
「違う、違う」と言った。
「じゃあ、誰なんだ?」神代は空振りしたバッターが肩を落とすように右肘を右膝の上に落とした。
「神代、お前、さっき会ったじゃないか」多良は、神代は気が付かなかったのかと思った。
「会った?俺が?」神代には、多良が誰のことを言っているのか分からなかった。
「誰のことを言ってるんだ」
「郷戸のことじゃ」
「ゴウド・・・」神代は口の中で呟いた。そして、
「アッ、思い出した。そうか、あいつだったのか。あいつ、さっき俺の顔にタオルを投げつけて、お前か、って言ったんだ」と、右膝を叩いた。
「郷戸はお前のこと覚えてたのか」多良は驚いた。
神代は、右の掌を広げて、親指、人差し指、中指、と順番に折った。
「3回目だぜ。あいつに会ったのは。1回目は新宿の時。2回目は、あの修道館での抗争の時。そして、今日だ」そう言うと右手を握った。
神代は多良の顔を見た。
「あいつ、なんだってこんなところにいるんだ?」
多良は右手で髪の毛をなで、
「さあ、ワシにもわからんが」と言うと、その手を神代の顔の前にやり、親指を立て、
「今じゃ盗賊の親玉らしい」と、言った。
神代は、眉間にシワを寄せながら、
「しかし、郷戸がなぜあの時の目撃者だと・・・」と、首をひねった。
それを見た多良は、
「郷戸は、国王の親衛隊の武術教官だったらしいんじゃ」と、ビクシンからの情報を伝えた。
「何でまた武術教官なんかに」神代は首をひねった。
「そこまではワシにも分からん。どこから流れてきたのか」
それは、多良も知りたかった。
「あの剣の天才といわれ、三島に誘われて楯の会に入ったあの男がな」
神代は眼を閉じて腕組みをした。
「東部方面総監部突入に参加できなかったことが堪え、暴力団の用心棒に身を落とし・・・」そのことは修道館での抗争後、学生たちの間で、しばらくの間話題になっていた。そして、感慨深そうな口調で、
「そしてまた再び、今日、強盗団のボスとして俺の前に現れたってことか」と、誰に言うでもなく呟いた。
「噂では、政府は郷戸には手出ししないらしい。毛沢東派は逆に抱き込もうとしているらしいが」多良がそう言うと、神代は、
「おもしろいな」と、閉じていた眼を開いた。
「国王派にとっては邪魔な男ってことだろう?」神代は椅子の背に体を預けたまま多良を見た。
多良も、
「ああ、そして、同時に反国王派にとっての隠弾でもある」と、同じように体を背もたれに預けた。
神代は、
「なるほど。こいつは、召使の女より郷戸に接触した方がおもしろいな」そう言うと、両手を頭の後で組んだ。