古傷
「アー・ユ・オーライ?」そう言いながら、テレビ局のクルーのひとりが多良達に近付いてきた。
「サンキュー、アイム・オーライ」キャシーは、その男に微笑みながら言った。
「多良さん、こちらはジョンさんです」
「ハロー、ジョンさん。マイ・ネーム・イズ・タラ」多良は右手を差し出した。
「ハロー、マイト」男も右手を差し出し多良の手を握った。
いかにもオージーらしい気さくな感じの、体も手も大きい男だった。
「多良さん、ちょっと失礼します。この方たちは、イエティの取材に行かれるのですが、私が、イエティを見たことを話したら、非常に関心を持たれて、話を聞きたいということなので・・・」と、立ち上がった。
「ああ、そうなんですか」多良もキャシーを支えようと手を手を出した。
キャシーは、
「それで、さっき、食堂で地図を見ながら話をしていたのです」と言いながら、多良の左手に右手を乗せ、
「ありがとうございます」と言った。
「しかし、雪男は、実際におるのかのぉ」と、左側でキャシーを支えているジョンを見た。
キャシーは、立ち止まり、
「います。私はこの目で見ました」と、多良を見た。
多良は、
「いたとしても、雪男だって移動するじゃろうし、同じ場所にはおらんのじゃあ・・・」と、言うと、キャシーは、
「村人は、イエティのことを話したがらないのですが、どうも、同じ場所に現れるみたいです」と、歩き、オーストラリアのテレビクルー達の集まっているソファーへ腰掛けた。
「しかし・・・」と、多良が言おうとすると、キャシーは、
「多良さんは、イエティの存在を否定されていますが、どうしてそんなに?」と、眉を寄せて多良の顔を見上げた。
多良は、鬘のゆがみを直しながら、
「うーん、見たことないし・・・」と、言って、
「ところで」と、ジョンのほうを見ながら、
「なんだか、メンバーが少なくなっているようだが、他の人はどうしたんじゃろ?」とキャシーに聞いた。
キャシーが、ジョンに尋ねる前に、ジョンは
「フタリハ、スト、シュザイ、イキマシタ」と日本語で答えた。
「えー!?、ジョンさん、日本語話せるんですか?」多良はびっくりして、ジョンを見上げた。
「スコシ。ハイスクールデ、ベンキョウシマシタ。イマデモ、スコシ、ベンキョウシテイマス」
「へー、なんだかありがたいのー」多良は、ニコニコと笑うキャシーの顔を見て言った。
テーブルには、ネパールの大きな地図が広げられていた。そのテーブルを囲むようにして椅子が置かれ、キャシーとジョンも他のスタッフの間に入って座った。
多良は、
「じゃあ、キャシーさん、私はこれで」と、軽く手を上げて、出口へ向かおうとした。
「オゥ、どこへいくのですか?」キャシーは驚いて多良に聞いた。
多良は、
「いや、ちょっと、風呂へ入りたいので・・・」と、胸の辺りのシャツを摘まんでにおいを嗅ぐ仕草をした。
それを見たジョンは、立ち上がって、
「ミスター・タラ、ワタシノヘヤノ、バスルームヲ、ツカッテクダサイ」と、ジーンズの尻ポケットに差し込んだルームキーを取り出した。
「いや、しかし、それは・・・」と、手を振る多良に、ジョンは、
「ダイジョウブデス。ノー・ワリーズ」そう言うと、多良の肩に手を回して階段の方へ向かった。
多良も、
「いやあ、悪いですねぇ。じゃあ、お言葉に甘えて」と言いながら、ジョンの後に続いて階段を上がった。
ジョンは、何度かガチャガチャと鍵を鳴らして、ギーッ、と音の鳴る木のドアを開き、
「ドウゾ、ドウゾ」と、部屋に入った。
多良は、「しまった」と思った。「風呂はないな」と、部屋の様子を見て思った。
しかし、ジョンは、ニコニコと多良の顔を見て、
「ドウゾ、ドウゾ」と親切にバスルームの戸を開いた。
広いバスルームではあったが、やはりバスタブはなく、シャワーだけだ。固定式のシャワーヘッドが高い位置に取り付けられている。
「ジョンさん、ありがとうございます。これでさっぱり出来ます」と、多良は喜びを顔に表わした。
「ヨカッタデス、ヨカッタデス。ワタシ、シタニイキマス」とうれしそうに出て行った。
「あ〜、まあ、いいか」と、多良は、溜息をついて鬘を取った。
「俺はどうもこの便器とシャワーが一緒ゆうのは苦手なんじゃ」と独り言を言いながら、鬘の裏に隠した米ドルとパスポートを確認して、便器のフタの上に置いた。
シャワーとはいえ、久し振りだったので、たっぷり時間をかけた。
そして、辺りに飛び散った水しぶきをきれいに拭き取り、部屋から出ると、「オー、マイガッ」「ワオー」と、賑やかな声が階下から聞こえてきた。
ドアに鍵をかけ、
「何事じゃろうか?」と思いながら、階段を下りて、
「ジョンさん、サンキュー」と、テレビに見入っているジョンの肩をたたいた。
ジョンは振り向いて、
「ド、イタシマシテ」と、微笑を浮かべながら鍵を受け取った。
「何の番組ですか?」多良が尋ねると、
「ビデオです」キャシーが、多良を見上げて言い、すぐにまた目を画面に移した。
画面を見ると、どうやらネパールの暴動のビデオらしい。国際郵便局の前の通りだ。
「これは?」
「さっき、街で取材していたクルーが戻ってきたのです」と、キャシーがテレビの下に座り込んで、テレビにつないだビデオカメラを操作している男の方を向いた。
「あー、じゃあ、今日の暴動ですか?」
「そうです」キャシーは、画面を見ながら答えた。多良にはさして珍しくもなく、関心もなかった。
多良は、
「ジョンさん、ありがとうございました。キャシーさん、私はこれで」と、右手を上げた。
キャシーは立ち上がって、
「ありがとうございました。ジテンにもよろしく言ってください」と右手を差し出した。
多良は、その手を軽く握って、
「じゃあ」と言ったまま、動きを止めた。
キャシーは、
「多良さん?・・・多良さん。痛いです。手が」と、右手を振って、多良の手を振りほどこうとしたが、多良の目はテレビに向けられたままだ。
「多良さん?」キャシーは、多良の顔を下から覗き込むように見上げた。
「多良さん、どうしましたか?」キャシーは、左手で多良の右腕をつかんで揺すった。
「あ、失礼しました。ほら、郷戸です」と、画面を指差した。
「え!?」キャシーはそう言うと、振り返って、
「本当です。ゴッドです」そう言って、多良から手を振り解いてテレビの前に向かった。
黒煙と催涙ガスの混じり合う大通りの中を、ゆっくりと緑色のトラックが走っている。トラックの屋根に、赤いタオルで鉢巻をして、足を広げて立つ男が見える。
「郷戸・・・」
郷戸の着た白いコートが風を受け翼のように広がっている。
多良には、その姿が30数年前に見た郷戸の姿とダブった。あの時も、暴力団員と荒くれ男共の指揮を取って、トラックの屋根に立っていた。
画面は、郷戸の姿から、警官隊とデモ隊の衝突画面に移った。デモ隊と警官隊が激しくぶつかり合っている。中に、「PRESS」という腕章をつけ、ヘルメットをかぶった人間も混じっている。
警官の警棒が、はずみでその男のヘルメットをはじき飛ばした。「PRESS」という腕章をつけたその男が、かがんで、そのヘルメットを拾おうとした時、どこからともなく飛んできたブロック片が男の眉間に当たった。
男の眉間からは、夥しい血が流れ始めた。男は、それでもビデオカメラを回し続けようとしているが、血が目に入ったのだろう、ヨロヨロとふらつき、その場に前かがみに倒れ込んでしまった。
ここで、画面が大きく揺れた。この光景を撮っていたオーストラリア人カメラマンが助けに行こうとしたのだろう。しかし、その時、再びカメラは固定され、倒れた男の姿をとらえている画面の端に白いコートが入り込んできた。
多良は、
「郷戸だ」と、声に出した。
倒れた男は、気配を感じて顔を上げたが、流れ込んだ血で目を開けることが出来ないようだ。ビデオカメラが男の顔をアップでとらえようとした時、その男の顔に赤いタオルが投げかけられた。
「バーン、バーン!!」すぐ近くで催涙弾を発射する音が入り込んできた。
カメラは、向きを変え、その音のした方角に向けられた。
その一瞬前に、倒れた男の口から何か言葉が発せられたようだが、催涙弾の発射音にかき消されて、何を言ったのかは分からなかった。
カメラは、再び郷戸がトラックの屋根に飛び乗るところをとらえ、そして、倒れた男のほうへ向けられた。ビデオカメラは男の顔をアップで映しだした。
「アッ!!神代!?」多良は叫んだ。
「神代だ!!」
「え!?」キャシーは、多良の大きな声にびっくりして振り返り、多良を見た。
「神代だ!!」多良は再び叫ぶと、テレビに向かって足を進めた。
「多良さん、この人知っている人ですか?」キャシーは、多良の背中に向かって声をかけた。
「間違いない。この額の傷はあいつのものだ」多良は思い出した。あの時も暴力団の投げた石で額を割って血を流したことを。修道館大学の誰もが神代の額の傷を尊敬の眼差しで見つめたものだ。彼はいつも学生運動の最前線にいた。そして、デモに参加するたびに額に傷をつけて帰ってきた。
間違いない。修道館大学新聞部部長だった神代だ。
「大学時代の友人です」多良は画面を食い入るように見つめたまま答えた。そして、振り返って、猛然と出口へ向かった。
「どこへ!?」キャシーは大声で多良の背中に向かって声をかけた。
「彼を助けなきゃ!!」多良は振り返りもせずにドアのノブに手をかけた。
ジョンが、大声で、
「ミスター・タラ!!カレハ、ココニイマス!!」と、多良の背中に向けて叫んだ。