暴動!!カトマンズ
「あ、ビクシン、俺の登山靴をもらって行くよ」多良はお茶を飲み干して、窓の方へ移動した。
ビクシンは、
「はい。あそこにぶら下げておけば、多良さん、気がつくと思ってね」と、笑いながら言った。
「ははは、確かにな」多良は、そう言いながら、外から営業していることが分からないように閉めてあったカーテンを少しだけ開き、ガラス越しに外の様子を見た。
そして、木枠の窓を、ギシギシ、と、横に滑らせて開け、手を伸ばして、看板の取り付け金具に結び付けられている登山靴を取り入れた。
その時、通りの向こうから、「ワーッ」という喚声が聞こえてきた。
警官隊との小競り合いから抜け出たデモ隊がタメール地区になだれ込んで来たのだ。
多良は、すぐに窓を閉め、カーテンを引いた。
「ビクシン、デモ隊だ」多良は振り返って、レジのところにいるビクシンに言った。
「えっ」ビクシンは、窓際にやってきて、カーテンの隙間から外を覗いた。
その時、ガシャン、と、ビルの入り口の蛇腹シャッターが閉じられる音がして、オーナーが、逃げて行くのが見えた。
キャシーや、オーストラリアのテレビクルー達は、不安そうな顔をしてお互いの顔を見つめている。
ビクシンは、彼らの不安を消すように、
「大丈夫ですよ。もうじき、彼ら、通り過ぎると思うよ」そう言いながら、レジのところへ戻って、調理場にいた従業員に電気を消すように言った。
従業員達は、てきぱきと動いて店内の全ての電気を消したが、彼らの顔には不安と緊張が浮かんでいた。
数台のオートバイに乗ったマオイスト達が赤旗を振りながらデモ隊の先導をしている。
その後から、毛沢東主義のシンパや学生達が続き、さらにその後からは、野次馬が続いている。
仕事もなく、収入の道のない男達は、日頃の鬱憤を、マオイストの騒ぎに乗じて晴らそうと、何かが起きることを願いつつこのデモに加わっているのだ。
彼らの中には、マオイストから何ルピーかもらって、参加している者たちもいる。
それぞれの店舗の前で、開店の機会を窺いながら座っていた店主達は、シャッターに握り拳ほどもあるの大きさの南京錠を掛け、一目散に去っていった。
通りを、歩いていた観光客もデモ隊とは反対方向に駆け足で去っていった。マオイストやデモ参加者が観光客に危害を加えることはない。
しかし、運が悪いと、マオイストから寄付金を求められることもある。
「ワーッ」という叫び声が上がり、シャッターを閉めるのが間に合わなかった雑貨屋へデモ隊が乱入し、「ガシャン、ガシャン、バーン」、商品を通りに投げ出し始めた。
カーテンの隙間から覗くと、同じ建物の一階の雑貨屋にデモ隊の一部が乱入し始めたようだ。彼らはもはや暴徒と化していた。
オーストラリアのテレビクルーはビデオカメラをザックから取り出し、窓のカーテンを開いて、ガラス窓を開いた。
「ノーッ!!、ストップッ!!」多良は叫んだが、その時にはもう遅かった。暴徒のひとりが、それに気付き、指をさして大声で叫び始めた。
暴徒となった群集は、食堂の窓に向かって石を投げ始めた。
「ガッシャン!!」、暴徒の投げた石はガラス窓を破り、床にガラスの破片が飛び散った。幸いにも、カーテンに遮られ、ガラスの破片の大部分は多良達に届く前にカーテンと窓の間に落ちた。
しかし、次から次へと飛んでくる石やレンガは次第にカーテンを引き裂き始め、奥のほうまで飛んでくるようになった。
多良達は、奥のテーブルの下に身を伏せていたが、身の危険を感じ始めていた。
その時、向かいのテーブルの下に潜っていたキャシーが、
「あれは?」と、入り口の引き違い戸の方を指差した。
戸の隙間から黒い煙が入り込んでいた。
ビクシンが、
「ファイヤー!!多良さん、火事だよ!!」と、叫んだ。
一階の雑貨屋に放たれた火が燃え広がっているのだ。
「ガッシャーン!!ガッシャーン!!」窓ガラスを破って石が飛んでくる。カーテンは引き裂かれて、カーテンレールと共にぶら下がっている。
若い従業員が、身を伏せながら、出入り口の引き戸を開いた。火は見えない。黒煙が、鼻に突き刺さるような臭いと共に店の中に入ってきた。
オーストラリア人のテレビクルー達は、カメラをザックを抱え込んで飛び出す機会をうかがっている。
「多良さん、逃げるよ!!」ビクシンはそう叫ぶと、キャシーやテレビクルー達へ右腕を振って合図した。従業員達が引き戸を全開にして階段の下に向かって下り始めた。階下から熱を帯びた黒煙が勢いよく店内に流れ込んできた。
全員、手で、鼻と口を覆って従業員の後に続いた。多良は、キャシーやオーストラリア人が出たのを確認して最後尾についた。
一階と二階の踊り場まで来ると、チラチラとオレンジ色のほのうが見えてきた。従業員達が最初に突っ走って、出口に向かった。
しかし、その直後、「ガシャ、ガシャ」という音と共に、従業員のひとりが大声で叫ぶのが聞こえた。
「何だ!?」多良が叫んだ。
「ダメだ、多良さん!!あの馬鹿オーナーがシャッターに鍵をかけてる!!」ビクシンが悲痛な声で叫んだ。
「屋上だ!!」多良が叫ぶのと、向かいのドアが爆発で勢いよく開くのと同時であった。
「バーンッ!!」
「キャーッ!!」キャシーが叫び声を上げた。
火が何かに引火したのだ。
多良はキャシーの手をとって階段を駆け上がった。
全員が多良の後に続いた。
炎が渦を巻きながら、蝶番一つでぶら下がっているドアを乗り越えて、追いかけてきた。
「ゴホッ、ゴホッ」
全員が黒煙に咽びながら身を低くして階段を駆け上がった。
屋上へとつながる出入り口の、青く塗られた鉄パイプの扉が見えた。
その扉のカンヌキには南京錠がかけられていた。
オーストラリアのテレビクルーの一人が、その南京錠をつかみ、「ガチャ、ガチャ」と揺らし、
「シットッ!!」と、吐き捨てるように言った。
若い従業員が、中庭を見下ろす位置にある窓を、そばにあった丸椅子を投げつけて壊した。その腰ほどの高さにある窓から覗くと隣の建物の屋上が見える。
黒煙が熱風と共に勢いよく上がってくる。炎はまだ見えないが、凄まじい熱気が上がってくる。
従業員のひとりが、窓枠に足をかけ隣の屋上めがけて飛び降りた。飛び降りた従業員は、屋上にあった植木鉢を「ガチャン、ガチャン」と蹴飛ばし、続く者たちが飛び降りやすいように足場を広げた。その広がった場所めがけて、残りの従業員達も次々と飛び降りた。
オーストラリアのテレビクルー達も、ザックを背中に背負いなおし、飛び降り始めた。ビクシンはカメラマンから預かったビデオカメラを先に降りたカメラマンに放って、自分も体に似合わない身軽さで飛び降りた。
「さあ、キャシーさん!!」多良は、キャシーの煤で黒くなった顔を見た。
「ノー、出来ません」キャシーは弱々しくそういうと、窓から離れて壁に背をつけた。
「何を言っているんですかッ!!さあ、はやく」そう言うと、多良は、キャシーを窓際まで引っ張って行き、
「サア!!」そう言うと、ザックを背中からおろして腹ばいになり、
「私のうえに乗って、早くッ!!」と叫んだ。
隣の建物の屋上からはオーストラリア人達が、
「カモン、キャシー、ハリーアップ!!」と叫んでいる。
「さあ、早く」多良は大声で叫んだ。
キャシーはようやく多良の背中に足をのせ、片足を窓枠にかけて下を覗き込み、
「ノー、出来ません」と半泣き状態になった。
多良は、
「ええいッ」と叫ぶと、背中に乗った左足を掴み上げ、キャシーの尻に両手を添えると、
「エクスキューズミー」と言いながら、尻をポンと押した。
キャシーは、
「キャーッ!!」と叫びながら飛び降り、隣の建物の屋上で待ち構えていたオーストラリアのテレビクルー達に受け止められた。
多良もすぐにその隣に飛び降り、クルー達に向かって、
「ゴー、ホテル!!」と叫んだ。
屋上から飛び降りた従業員達が、どこからか、木の梯子を持ってきて、立掛けた。
ビクシンやオーストラリアのテレビクルー達はその梯子を伝って建物の裏側に降り立った。
多良は、先に梯子段に足をかけ、キャシーの体をサポートしながらゆっくりと下り始めた。見上げると、先ほど飛び降りた窓からはもくもくと黒煙が舞い上がっている。
表通りから、「パン、パン」という催涙弾を発射する音と共に、悲鳴が聞こえてきた。
ビクシンが、
「多良さん、ホテルで会おう!!」と、梯子の中ほどにいる多良を見上げて言うと、
「ジス ウェイ!!」と叫んで、裏口へテレビクルー達を誘導した。
梯子の中段から塀越しに、群集が警官隊に追われて「ワーッ」と叫びながら、逃げまどう姿が見えた。
多良が、
「ゆっくりでいいですから、もう少しです」と、キャシーに声をかけた。
キャシーは、
「さっき飛び降りたとき、足首を痛めたみたいです」と言った途端、
「キャーッ!!」ダダダダン!!
キャシーが足を踏み外し、多良の上に覆い被さったまま、二人とも地面に叩きつけられるように落下した。
多良もキャシーを支えきれなかった。
キャシーは、座り込んだまま、
「オー、アイムソーリー、多良さん」と、言い、多良の顔を見て、驚いた。
多良の黒々とした頭の毛がなくなっているのだ。そして、キャシーの右手には、その黒々とした物が握られていた。
多良は、
「痛タタッ」と右ヒザに手をやりながら、キャシーが、目を丸くして自分を見ているのに気がつき、サッ、と頭に手をやり同時にキャシーを見た。その時には、キャシーは、多良の頭と、右手に握っている髪の毛を交互に見やり、起こった事態を理解しようとしていた。
キャシーの白い肌は、さーっ、と紅潮し、
「アイムソーリー、多良さん、アイムソーリー」と言いながら、多良の頭に鬘を被せて、ギュギュッ、と押さえつけた。
「痛い、痛いよ、キャシーさん。逆だッ、逆」
キャシーは、鬘を前後ろ逆につけようとしていた。
「アイムソーリー、多良さん。このことは誰にも言いません。約束します」
キャシーは、顔を赤らめたまま、鬘の向きを、懸命に直そうとしていた。
「あ、ああ。・・・そうしてくれよ・・・」そう言いながら、口をグッ、と結んで、笑いをこらえた。
「ところで、キャシーさん」
「はい。何ですか?」
「俺の腹の上から退いてくれるかな」と、多良は言った。
「パーン、パーン」という催涙弾を発射する音とともに、ガスが流れ込んできた。
多良とキャシーは鼻と口を手で覆ったが、たちまち目を刺すような痛みが襲ってきた。
「ゴホッ、ゴホッ」という咽び声と共に6人の男達が裏戸から飛び込んできた。男達は、手に手にパソコンやテレビ、衣類や食料品などを抱えていた。混乱に乗じて店舗から品物を盗む火事場泥棒だ。
彼らは、多良とキャシーを見ると、一様に驚き、足を止めた。催涙ガスが、男達の足元で渦を巻いた。
多良は、キャシーの手を取り、立ち上がらせて、彼らと3mほどの距離を保ったまま、円を描くようにゆっくりと裏戸側へ移動した。
彼らは、多良達に危害を加える気持ちはないことは、多良には分かった。彼らの顔は、皆、怯えた猫のように警戒心を露にしているのだ。
その時、ドカドカッ、とレンガ貼りの路地を踏みつける音と共に、10人ほどの警官達が入り込んできた。
男達は、警官の姿を見ると、羊の群れがひとつの塊になるように肩を寄せ合った。
それを見た警官達は、目を血走らせ、警棒を振りかざし、頬を引きつらせながら、男達ににじり寄った。
「正義」と「邪心」。警官達の屈折した心理は、暴力となって現れる。そのことを、男達も知っていた。権力に庇護された暴力ほど激しく、そして恐ろしいものはないのだ。男達は肌で何度も経験していた。
警官達は、一斉に男達に殴りかかった。男達は、略奪した商品を抱えた腕でおのれの身を守るために、それらの商品を投げ捨てた。
男達は、抵抗すればするだけ打ち据えられる回数と、その力が増すことを知っていた。
「バシッ、バシッ」、肉の避けるような音と、男たちの悲鳴が裏庭に響き渡った。
「ストップ!!ストップ・イット」キャシーは叫びながら男達と警官たちの間に入り込もうとした。しかし、多良の手はキャシーの手を握り締め、引きとめた。
キャシーは、顔を赤らめ、必死に、彼らの間に入り込もうとしている。
多良にもキャシーの気持ちはよく理解できる。しかし、この場はどうしようもないのだ。キャシーの目は催涙ガスのせいだけでなく、赤く充血していた。
男たちの退路を絶ちながら、警官達は絶え間なく警棒を振り下ろした。男達の悲鳴はやがて泣き声に変わった。
遠くから銃で撃つのは相手の顔が見えない分だけ「暴力」という言葉は脳裏から遠のくが、今こうして警棒で打つと、打つほうも打たれるほうにも肉の裂けるや、汗や血が飛沫となって身にかかり、見開かれる目やねじれた唇から覗く喰いしばった歯が眼を通して脳裏に焼き付く。
人間の残虐性はこうして際限なく突き進む。
男達が、顔を防ぐようにかざした腕に向かって数本の警棒が振り下ろされた。
男達は、打たれる前に、腕の骨の折れる音を聞くかのような悲鳴を上げた。
その時、風と共に、振り上げられた警棒の先、50cmの部分が催涙ガスと黒煙の漂う宙に舞い、警官達の頭の上に「パラパラ」と落ちてきた。
警官達は、警棒に込めた力の行く先を失ってバランスを崩し、地面に落ちた切り離された警棒の先を、何が起こったのか理解できない表情を浮かべたまま見つめた。
警官達の背後に、髪を肩まで垂らした長身の男が立っていた。
キャシーは、一瞬にして、30数年前、バンコクで遭遇した出来事を思い出した。あの時も、暴漢が振り上げた木の椅子を、一瞬にして切り、男の手には振り上げた椅子の足しか握られていなかった。
暴漢達に連れ去られようとしていたキャシーを救ってくれた男。
「今、ここに立っている男はあの時の日本人ではないか!!」 キャシーの記憶の一片は、催涙ガスの滲むフィルターを拭い去り、鮮やかな色を伴って蘇った。




