雪男
女性の申し出に、
「え?しかし・・・」多良は躊躇った。
女性は、すぐに、
「いいです。このカツどんのボリュームを見たら、私には天ぷら蕎麦は、ちょっと無理だと思います」と、ニコリと白い歯を見せて笑った。
多良は、
「本当にいいんですか?」と腰を浮かせた。
「どうぞ、どうぞ」女性は、天ぷら蕎麦の器を動かした。
「いやー、じゃあ、お言葉に甘えて」多良は席を立ち、彼女達の隣のテーブルに席を替えた。
先ほどから、話を聞いていたビクシンが、女性から天ぷら蕎麦の器を受け取り、多良のテーブルの上に置き、
「多良さん、ラッキーね」と、右手の親指を立て、片目をつぶった。
女性も、それを見て、再び、にこりと笑った。
「しかし、日本語がお上手ですね」
「ええ。私の父は日本人ですから」女性は多良のほうを向いて言った。
多良は、割り箸を割る手を止めて、
「え!じゃあ、ひょっとすると、あなたが、キャシー長谷川さん?」と聞いた。
女性も、割り箸を割る手を止め、
「そうです。あ、じゃあ、あなたはジテンのお友達ですか?」と、体の向きも変えた。
「そうです。多良といいます。ああ良かった。ここで会えて」
ふたりは軽く握手をした。
連れの男達も、カツどんを食べながら、ふたりの顔を見ている。
多良は、
「でも、どうしてここへ?」と聞きながら、パチン、と箸を割った。
キャシーも、箸を割り、
「10年前にもこの食堂へはよく通っていましたから」と、そばに立っているビクシンの顔を見た。
「そうなんですか」多良はそう言いながら、ズルズルッ、と音をたてて、蕎麦を啜り込み、
「いやー、ビクシン、やっぱり旨いよ、この天ぷら蕎麦は」とビクシンを見た。
そして、
「皆さん、お友達ですか?」と、聞いた。
「いえ、ホテルが一緒で、皆さん、開いてる食堂もないし、お腹を空かせていたものですから。じゃあ、一緒に、ということになったのです」
キャシーは、左手を男達のほうへ向け、
「この方々は、オーストラリアのテレビクルーの皆さんです」と言った。
男達は、
「ハーイ」という感じで。手を振った。
多良はそれに応えながら、
「テレビの?じゃあ、やっぱり、ネパールの政治状況の報道のために?」
「いえ。それが、違うんです」
「違う?」多良は、丼から顔を上げた。
「この方達は、イエティのドキュメント番組制作のためにネパールに来られたのです」
「イエティ?って、雪男?」
「しかし、雪男なんて・・・なあ」と、振り返って、テーブルから去ってゆくビクシンの背中に声をかけた。
ビクシンは、両手を広げて、肩をすぼめた。その肩は、震えていた。笑いを堪えているのだ。
「あら、雪男はいるのですよ」キャシーは、真面目な顔になって言った。
多良は、
「いや〜、それは・・・」と、蕎麦の丼に顔を向けて、エビの天ぷらを箸でつまんだ。
キャシーは、
「私もハッキリとこの目で見ました」と、声を大きくした。
男達は、「イエティ」という言葉に、雪男のことを話しているのを察して、食事の手を止め、ふたりの顔を見ている。
「見た?」多良はキャシーの顔を見ずに、
「いつ?」と聞きながら、エビの天ぷらを頭から半分ほど食べた。
「10年前です。医療ボランティアで、ナムチェから奥に入った村で見ました」
「それは、ヤクとか熊の見間違いでは・・・」と、小さな声でつぶやいた。
「ノー!!間違いありません。二本足歩行していました」キャシーは、さらに大きな声を出した。
「いや〜、しかし・・・」と、さらに、多良が言いかけると、
「それに、多良さんはミズ・タベイをご存知ですか?」
「タベイさん?」
「そうです。女性で初めてヒマラヤを登頂した」
「あーあ、田部井淳子さん?彼女が何か?」
キャシーは得意そうな顔をして、
「タベイさんもイエティを見たことを証言しています」
神田は困惑したように顔を伏せ頭に手をやった。
「あー、それは・・・」と、話し始めた時、
「お待たせしました」と、ビクシンが、カツ丼を多良のテーブルの上に、コンッ、と音を立てて置き、多良の足を踏んだ。
「痛ッ」多良は、ビクシンの顔を見ると、ビクシンは、片目をつぶっていた。
「あ、ああ・・・、ビクシン、お茶を・・・」多良は「分かったよ」と目で合図した。
ビクシンは、
「あ、お茶ね」と、調理場へ戻って行った。
キャシーは、多良との会話を、男達に通訳している。
男達のひとりが、キャシーに何か言っている。
多良は、勢い良く、蕎麦を啜り込んだ。
キャシーは、
「写真を撮ろうと、ザックからカメラを出している間に見失いました」と、さも残念そうに、首を大きく左右に振った。
そして、多良を見て、
「でも、・・・村人達は驚かないのです」と、やや不思議そうな表情をして言った。そして、
「何度も見ているから、珍しくないのだと思います」と付け加えた。
「だろうな」多良は、小さくつぶやいた。
「え?」
「いや、なるほど」と言いながら、ザックの中から黒いビニール袋を取り出し、
「忘れてはいけないので、これを先にお渡しておきます」と、キャシーの隣の椅子の上に置いた。
「ありがとうございました。これで、何人もの人達が助かります」キャシーは、袋の口の結び目を解き、中を覗いた。
「その薬草類で薬を?」多良は天ぷら蕎麦の空になった器を脇に寄せ、カツどんを手前に置いた。
キャシーは、袋の口を結びなおしながら、
「そうです。10年前、こちらに来た時に勉強しました」と言い、大事そうにその袋を、ザックの中に納めた。
「へー。独学で?」
「ドクガク?」キャシーは、首をかしげた。
多良は、
「あ、おひとりで勉強されたのですか?」と、言葉を替えた。
「いえ、私の父のお友達からテキストをもらって」
「お父様のお友達?」
「はい、その方はタイのチェンマイに住んでいます」
「へー」
「その方の知り合いがテキストをここまで届けてくれたのです」と、胸で揺れる銀のロケットを左手で握りしめた。
当時チェンマイに住んでいた江下寛一から、薬草の調合方法を書きとめたノートを預かり、キャシーに届けたのが、修道館大学の日本拳法部部長だった山口であったことなど、このときの多良には知る由もなかった。
そして、今、目の前にいるキャシーの友人が、剣道部の木野花咲姫であり、さらには、神田とも知己となったことなどは想像出来るはずもなかった。
しかし、やがて、彼らは、運命に操られるように、この神々の座す国、ネパールで再会することになる。
その再会は、彼らが、燃え滾っていた70年代にぶつけていた怒りが、どこからともなく吹いた風に流されたのと同じように、敵うことの出来ない歴史の流れに再び巻き込まれてゆく序章になる。
深く、暗い、時代の闇がそこまで迫っていた。