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クーデター

2001年6月1日、ネパールの首都カトマンズの中心にある王宮でロシア革命以来とも言われる大惨事が起きた。


 当日は、月に1度の、王族が集まるパーティーの日であった。この日集まった王族のうち、当時の国王を含む王妃、皇女などの王族一門が全員射殺され死亡した。


 惨劇から数日後、犯人は、こともあろうに、国王の息子である皇太子である、と発表された。

 泥酔した皇太子が銃を乱射、父親の国王や母親の王妃、妹の王女ら9人を殺戮さつりくし、その後、自らも命を絶った、という発表であった。

 今の国王はその場にいず、また、その場に同席していた、今の王妃、皇太子は無事であった。すなわち、当時の国王一家全員が死亡し、現国王一家は無傷で生き残ったのだ。


 ここから、いろいろな憶測が飛び交った。


 ネパールの情勢は、さらに混迷の度合いを深め始めた。ネパール共産党から分裂していた、武装闘争を掲げる毛沢東派は地方で武装蜂起し、ことあるごとにバンダと呼ばれる「活動禁止令」を発令し、国民に労働放棄を呼びかけ、さからう者の射殺さえ躊躇いとわず、営業する店舗には火を放ち、客を乗せたタクシーには爆弾を仕掛けた。


 国軍、警察の手の届かない地方は、毛沢東主義者、マオイストの勢力下に治められ、再教育と称して、学校、村単位で100人規模の誘拐、監禁事件が各地で頻発していた。


 マオイスト達は、市民の中に入り込み民衆の動静を監視し、一般民衆達は疑心暗鬼におちいっていた。


 2005年2月、現国王は、その混乱をしずめるために強権を発動し、国王によるクーデターともいえる、国家非常事態宣言を発令した。

 これにより、政党活動は禁止され、空港の一時閉鎖、電話、通信の禁止、民権の制限、等が実施された。


 しかし、このことがさらに学生を中心とした民衆の、反国王運動の頻発を招き、マオイストの活動に免罪符を与えた格好になった。


 混乱に乗じた強盗事件や、マオイストの名をかたる恐喝事件も頻発し、国内の状況はさらに混迷を深めつつあった。


 翌朝、多良たらはパタンの宿泊先からカトマンズの中心部に向かって出発した。普段は、テンプーと呼ばれる乗り合いの小型オート三輪で移動するのだが、この日は、マオイストの活動禁止令が発令されているため、移動の手段は徒歩しかない。


 いつもなら、早朝からタクシーやバス、テンプー、オートバイ、自転車で大混乱している道路も今朝は数えるほどの歩行者しか歩いていない。

 その誰からも話し声は聞こえず、皆、肩をすぼめるようにして歩いている。

 時たま、今が稼ぎ時とばかりに走っているタクシーも、身元が分からないようにナンバープレートを外している。

 もっとも、マオイストからの報復のとばっちりを恐れて、そんなタクシーに乗り込む客もいない。


 パタンから、カトマンズの中心部、タメール地域までは、多良の足で1時間少しかかる。

 カトマンズ市街は、王宮を中心に、環状に走っている道路に囲まれている。その道路はリングロードと呼ばれ、何事かがあると、「リングロード外への移動禁止」、「リングロード内の活動禁止」などというように、地理上の目安として使われている。


 多良が、そのリングロードへ近づくにつれ、ゴムの焼ける臭いが強くなってきた。

 多良は、

 「こりゃあ、いつもより規模が大きいな・・・」と、感じ始めた。


 やがて、黒煙が立ち上っているのが見え始めた。この辺りまで来ると、歩いている人の数が増えだした。その多くは若い男達だ。彼らがマオイストなのか、マオイストの支援者なのか、あるいは、時間をもてあまし、何かが起きるのを待っている男達なのかは分からない。


 「どうやら、活動禁止令とストの同時開催のようだな」多良は、いつもと違う雰囲気を感じた。


 道路の真ん中に置かれた古タイヤがブチブチと燃え上がり、黒煙はもうもうと天に上っている。4〜500mくらい離れた場所からも、さらにその4〜500m先でも黒煙が上っているのが見える。


 多良の後から、ギッシ、ギッシと古くなったスプリングをきしませる音と共に、古タイヤを満載した大型トラックがやって来た。古タイヤの上には若い男達が10人くらい座り込んでいる。その後からは何百人もの集団が、赤い旗をなびかせながら徒歩でやってくるのが見える。

 トラックは、砂埃すなぼこりを巻き上げながら、道路の端に避けた多良の側をゆっくりと通り過ぎると、燃え上がる古タイヤの横で、ギーッ、と大きな音を出して止まった。燃え盛る古タイヤの周りを囲んでいた男達は一斉に歓声を上げた。


 リングロードの内側から、重厚なエンジン音が響いてきた。男達は一斉に音のする方向を見た。

 迷彩色の制服に身を固めた警官達を満載したトラックが、停止している信号機の角から姿を現した。引き続いて1台、さらに1台と、溝の深いタイヤを履いたカーキ色のトラックが合計5台、1列縦隊でやってきた。


 古タイヤを囲んでいる男達の顔に緊張が走った。単なる好奇心でその場にいた男達は後退あとすざりを始めた。


 「まずい。衝突が起きる」多良は足を速めた。


 多良が、リングロードを横断しようとすると、その様子を遠くから見ていた三人の男達が大声で何やら叫び、駆け寄ってきた。

 近づいてくる男達は、痩せぎすではあるが、骨太で精悍な顔つきをしている。見るからにマオイストの顔だ。

 多良は立ち止まると、ニコリと笑い、

 「ジャパニ、ジャパニ」と言いながら、ポケットから日本語の名刺を出して男達に見せた。日本に帰ったときにエアーチケットを手配した旅行会社の担当者の名刺だ。

 

 三人の男達は、その名刺を覗き込んで、

 「オー、ジャパニ。OK。OK」と言いながら、多良の肩を、ポンポン、と軽くたたいた。

 多良は、

 「サンキュー、サンキュー。バイバイ」と手を振りながら、早足で道路を横断した。男達の賑やかな笑い声が後から聞こえた。


 「やれやれ」多良は、ほっとして、歩みをゆるめた。

 すぐに1台目の警察のトラックとすれ違った。

 横目で、トラックの荷台に乗っている警官達を見ると、彼らの顔は緊張で眼がつりあがり、警棒を固く握り締めているのが離れて歩く多良からもハッキリと見て取れた。


 突然、「ワーッ」という喚声が聞こえ、足元にレンガが飛んできた。


 足元に転がった赤レンガは数個に割れて飛び散ったが、砕けたレンガが歩道を転がる音は、「ガッ、ガガガッー」という、警官達がトラックから飛び降りた編み上げ靴の音にかき消された。

 警官達は、トラックから飛び降りると、警棒を振り上げてデモ隊に向かって突進を始めた。


 リングロードより内側の建物の前で遠巻きに事態を見守っていた若い野次馬達は、一斉に建物の陰に隠れたり、さらに遠くへ走り去り、投石の届かない距離を保って立ち止まり、様子をうかがっている。

 多良は、かつらをかぶった頭を両手でおおいながら、市の中心へ向かって走り出した。石や、こぶし大に砕かれた赤レンガがその頭を飛び越し、行く先の道路で跳ね返っている。背中に背負ったザックが上下に揺れた。

 ようやく、建物の陰に入り込み、振り返って見ると、既に警官隊とデモ隊の衝突が始まっていた。

 多良は、

 「巻き添えでも喰ったら元も子もない」と、建物の陰から、陰へと移動しながらだんだんとその場を離れた。

 500mも離れて、市街地の中心に近付くと、道路の真ん中を、まるで散歩を楽しむかのようにゆっくりと歩いている市民の姿が見え始めた。

 いつもなら車やバイク、リキシャで洪水のようになっている道路がバンダの日は歩行者天国のようになるのだ。


 辺りを見廻すと、ビルの屋根越しに黒い煙が立ち上っている。街の周囲を走っているリングロードの要所要所で古タイヤが燃されているのだ。

 カトマンズの青い空に幾本もの黒煙が立ち上っている。その黒煙は、清流に墨を流したかのようにユラユラと広がり、もうじき空一面を覆いそうな勢いであった。


 先ほどとは違う方向から、時折、喚声が聞こえてくる。どうやら、同時多発的に衝突が始まっているらしい。

 カトマンズを取り囲む2000m級の山並みはすでに雪をかぶり白くなっているが、黒煙はその姿を隠し始めていた。


 やがて、「パーン、パーン」という音が聞こえ始めた。


  「撃ち始めたか」

 催涙弾の発射音である。


 多良はさらに歩足を早めた。

 王宮正門につながる道路には装甲車が配備されていた。

 正門手前の交差点の両側には土嚢どのうが1m50cm程の高さに積み上げられ、国軍の兵士達が土嚢の内側に身を潜め、自動小銃を構えている。

 市民達は、その銃口の前を悠然と歩いている。

 道路端には、年老いたリキシャーマンが所在なげに座り込み、通り過ぎる家族連れや、たまに通りかかる観光客から声がかかるのを待っている。


 いつもなら必死の思いで横断する道路も、今日は悠々と渡ることが出来た。出歩いている市民達も自分たちの行きたい方向に向かって道路を横断している。

 彼等には目的地があるわけでなく、ただ、こうして道路の真ん中を歩いてみたいだけなのであろう。商店や会社はどこも営業していないのだから行き先などあるはずはないのだ。


 多良は、王宮正門へ続く表通りを通り過ぎ、細い脇道に入ってタメールへ向かった。タメールは観光客向けの土産物屋やホテル、安宿、ネットカフェなどが狭い通りの両側を埋め尽くす繁華街だ。

 いつもなら観光客と客引きで狭い通りが満員電車なみに混み合うが、今日は若い白人観光客が、あてもなく歩いているのが見えるだけだ。

 どこの店もマオイストの報復を恐れて営業していなのだ。土産物屋はもちろん、カフェや食堂もシャッターを下ろしている。

 観光客達はホテルへ缶詰状態になっているのだ。

 気晴らしにホテルから出ても、ただ、歩く以外に時間を潰す方法はない。


 商店はシャッターを下ろし、店のあるじは入り口の階段に腰掛けている。

 あるじは、留守狙いの泥棒を恐れての店番と、店を開けて営業できるタイミングを探っているのだ。


 多良は、

 「今日は、営業は無理だろうな」と、さっき遭遇した状況から推測した。

 「さてと、今日は、やってるかな」多良は、タメールへ出ると利用している日本食レストランを目指した。


 登山靴の修理が出来上がったら、その食堂へ預けるように頼んであるのだ。

 その日本食レストランのある雑居ビルが見えてきた。

 しかし、遠くから見ると、そのビルの出入り口の蛇腹式のシャッターが閉じられている様に見える。


 「あれ?閉まってる」と思いながら近づくと、シャッターは、人がようやくは入れるくらいの隙間が開いていた。その奥に、この雑居ビルのオーナーがパイプ椅子に座っている。

 「ナマステー」と声をかけるが、「ブスッ」とした表情で返事もしない。

 「どうしたんだろう?」と思いながら、二階を指差し、

 「オープン?」と聞いたが、黙りこくったままだ。

 「どうしたんだ?休みかな」と思いながら、外から二階の窓を見上げると、「おやじの味」と、統一性のない形の日本語で書かれた突き出し看板の取付金具に多良の登山靴がぶら下がっていた。

 「おー、やってるんだな」そう思い、ガシャ、ガシャと蛇腹式のシャッターを少し広げて、中に入った。


 日本食レストラン「おやじの味」は、この雑居ビルの二階にある。

 日本人はもとより、カレーに飽きた白人旅行者もよく利用している。安くて旨いという評判は口コミで広がり、結構繁盛している。

 多良は、人目につきたくはないが、その料金と味の魅力に負けて、もう30年近くの常連だ。何よりも、店主の人柄が気に入っているのだ。


 ビルのオーナーの前を通る時、

 「ナマステー」と、再び声をかけたが、オーナーは、ジロリと横目でにらんだきり何も言わない。

 多良は、階段を、ノッシ、ノッシ、と上がった。踊り場まで来ると、いい臭いがしてきた。

 「ナマステー」と言いながら、「おやじの味」と染め抜かれた暖簾のれんをくぐり、ガラガラッ、と、縦格子の日本式の引き違い戸を開けた。


 「おー、多良たらさん。久し振りだね。元気だったか?」店のあるじのビクシンがレジの前に座っていた。

 「ああ、なんとかね。店、結構、はやってるじゃないか」と、店の中を見渡した。

 奥のテーブル席には、旅行客らしい白人の女性が1人と、男性が5人ほど食事の出来上がるのを待って、地図を見ながら、なにやら談笑している。

 さすがに、この時期、日本人観光客はいない。


 「ボチボチだよ。こうして、開けていないと、旅行者は困るからね」ビクシンは椅子から立ち上がって右手を差し出した。

 多良も右手を差し出し、再び、

 「元気だった?」と、握手した。

 「日本人観光客が減って、ビッグプロブレムだよ」ビクシンは、口をへの字にゆがめ、両手を広げて首をすくめた。

 「そうだろうな」

 国王への権限集中は反対運動の激化を招き、観光客の数は激減していた。特に、お得意さんである日本人観光客の数が大幅に減り、観光産業は、大打撃をこうむっている。


 「ところで、ビルのオーナー、機嫌悪そうじゃないか?」と、あごで階下を指した。

 「ああ、オーナーは、ここが営業してるの、気に入らないんだよ。マオイストの標的になって、火でもつけられたら大変だってね」ビクシンはヘヘッ、と笑って椅子に腰掛けた。

 「それで、あそこで見張ってるのか。ご苦労なことじゃ」多良はそう言いながら、近くのテーブル席に着き、

 「しかし、ビクシン、今日の衝突は、結構大きいぞ。警官隊のバリケードを破って、こっちまで流れてこなきゃいいんだが・・・」と、ビクシンの顔を見た。

 「そんなにか?」ビクシンの顔に緊張が走った。

 若い男性従業員がふたり、

 「お待たせいたしましたー」そう言いながら、奥の白人客へ料理を運んで行くために多良の横を通った。

 多良は、それをながめながら、

 「俺も、カツどんと天ぷら蕎麦そばを」と、ビクシンに向かって言った。

 ビクシンは、申し訳なさそうに、

 「多良さん。ごめんなさい。蕎麦、売り切れたよ」と太い首を縮めた。

 多良は、それを聞くと、

 「エーッ!!、楽しみにしてきたのにのぉー」と、思わず大きな声を出し、

 「ガッカリじゃのー」と、テーブルに顔を伏せた。

 「ソーリー、ソーリー、多良さん。材料が入ってこないんだよ」と、ビクシンは申し訳なさそうに頭を下げた。

 多良は、

 「ま、しょうがないか。こんなに交通機関が寸断されてちゃ、入るものも入らんからな」と、自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。


 その時、奥に座っていた金髪の女性が、

 「あの、よろしかったら、これ、どうぞ」と、テーブルの上の天ぷら蕎麦を指さした。

 日本語であった。

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