八頭社
12月に入って、年末、年始の行事の打ち合わせの会議などで忙しく過ごしていたある日、咲姫からメールが届いた。
宮島観光推進協会 神田様
木野花咲姫です。
ご無沙汰をしています。今年もあとわずかとなりましたが、お元気ですか?
神田君も観光地の観光協会に勤務しておられると、これからがお忙しい時期になると思いますが、お体ご自愛下さい。
私も、八頭神社の宮司として、これからは忙しい時期に入ります。
ところで、熱田神宮に「鉄の棒」の三本目が隠されているのではないかという、私たちの推理を確認するために、私のルートを手繰って調べました。
「鉄の棒」の存在は、ごく限られた人達しか知らず、その存在の確認に時間がかかってしまいましたが、結論から言うと、「あった」という過去形でご報告しなければなりません。
その存在は国家機密で、草薙の剣と同等の取り扱いを受け、禁足地に祀られていたようです。
でも、明治に入って、ある国と友好条約を締結するにあたって、その鉄の棒は国外へ持ち出されたようです。時の内閣総理大臣の山縣有朋の奏上によって、明治天皇様も、この持ち出しをお許しになられたということです。
「今はもうない、ということは、三本あった鉄の棒は、全てなくなってしまったということになるのか」
「ある国とはどこなんだ?」
明治20年(1887年)に、小松宮彰仁親王様がその国を訪問され、大変な厚遇をお受けになられ、明治天皇様は、それに対し、礼状、漆器、勲章を贈呈されました。
これに対して、その国も明治天皇様に親書と勲章を贈呈されるために日本に使節団を派遣し、明治天皇様に謁見を求められました。
最終的には条約の締結には時間の猶予が必要だったのですが、この時の両国の相互訪問が、お互いの信頼関係の樹立に大きく役立ったようです。
その、信頼関係の樹立を確固たるものにしたのが、「鉄の棒」だったのです。
「その国」とは当時のオスマン・トルコ、今のトルコ共和国です。
「トルコ?」
どうして、トルコが、という神田君の顔が思い浮かびます。
「ふふ、図星だな」神田は苦笑いした。
その理由を説明する前に、私がご奉仕させて頂いている八頭神社様についてお話しておきます。
「八頭神社が何の関係があるんだろう」と神田は思った。
しかし、この数分後には、神田は、八頭神社こそは鉄の棒とトルコを結びつける重要な神社であることを知り、そして、今までの、全ての謎を解く手掛かりは、この八頭神社にあることに歴史の因縁を感じ、体が震えることになる。
この前、廿日市駅前の「おとみ」でいろいろと推理をした中で、このことを言いかけたままになっていました。確信が持てなかったのです。でも、今は、確信を持ってお話できます。
私は、八頭神社の起源は、その字から、八つの頭、つまり、八岐大蛇にあるのではないかと考えていました。つまり、「八頭蛇」ではないかと。
神田は、高見刑事と八頭神社を捜している時、地元の人は「はっとうしゃさん」と呼んでいたことを思い出した。
実は、逆だったのです。
まず最初に「はっとうしゃ」があって、それが「八頭蛇」になり、やがて「八岐大蛇」伝説が生まれたのです。
「はっとうしゃ」と「八岐大蛇」の間に共通するものに気が付いた時、私は、真空の暗闇に吸い込まれていくような、そんな感覚に捉われました。
八頭神社を親しみを込めて「はっとうしゃ」と呼んだのではなく、最初から「はっとうしゃ」だったのです。
神田は、
「どういう意味だろう」と思った。
熱田神宮に祀られていた鉄の棒が、明治になって、オスマン・トルコに贈られることになった経緯には数千年の歴史の因縁があったのです。
私は、トルコと聞いて、喉につかえていたものがスッキリと取れました。
「はっとうしゃ」は「ハットゥシャ」だったのです。「ハットゥシャ」は古代ヒッタイト帝国の首都の名前です。
ご存知でしょうか?ヒッタイト帝国は人類で最初に鉄を作り出した国です。
「鉄!!」
現代の日本人の祖先がこの日本列島にやって来る以前に、縄文人と言われる集団を筆頭に、何度かに分けて民族の集団がやってきましたが、それらの中に、製鉄技術を持った民族の一団がいました。
私は、その集団こそは、何千年もかけてこの日本にやって来たヒッタイト人の末裔だと思います。こんなことを言うと、神田君は、御伽噺のように思うかもしれませんね。
でも、その証拠は中国にも朝鮮半島にも、そしてこの日本にもあるのです。詳しいことは、今度お会いした時にお話しますが、今日は簡単にそのことをお話します。
日本の歴史を陰で支えてきた渡来人の一団に秦氏がいます。今では、秦、羽田、畑、波田、八田、服部などという名前に変わっていますが、この人達のご先祖様は秦氏の末裔だといえます。
元首相の羽田孜さんや、篳篥の奏者の東儀秀樹さんも秦氏の子孫です。服部半蔵率いる伊賀の忍者集団もそうです。
羽田さんは、日本徐福会の名誉会長でもあります。ご存知かどうか、私の住んでいる地域は、昔、徐福さんが数千人を引き連れて中国からやってきて居を構えた所でもあるんですよ。
神田は、富士山本宮浅間大社の宮司が言っていた富士文献のことを思い出した。
徐福さんのことは、中国の『史記』にも書かれています。1982年、中国の江蘇省連雲港市で徐福村が発見され、徐福が実在の人物として学術研究会で発表されるようになりました。徐福村には祠も再建され、その内部には東方を向いた、りりしい徐福の座像がまつられているそうです。
私は、秦氏一族と徐福さん一族は同じ一族だと考えています。その違いは、日本へ渡ってきた経路によるものではないかと思っているのです。秦氏一族は朝鮮半島経由で、徐福さん一族は船で中国から直接この日本へ渡ってきたのだろうと思います。
秦氏と徐福さんが連れてきた集団は、先端技術を持ったハイテク集団でした。
その先端技術の中のひとつが、製鉄技術や、製糸技術です。機織のハタから秦氏と呼ばれるようになったとも言われるくらいです。
ちなみに、富士山頂の富士山本宮浅間大社奥宮の御祭神の木花之佐久夜毘売命は火の神、水の神であると共に、機織の神でもあります。
ここで疑問が残ります。秦と書いて何故秦と読ませるのか。
ところで、神田君にはご親戚はたくさんいらっしゃいますか?
神田は、
「また、何を言い出すんだろう」と思った。
叔父さんや、叔母さんから電話がかかってきて、その電話を取り次ぐのに、「神田から電話」とは言わないでしょう。それだと、どの叔父さんか、どの叔母さんか分からないですからね。
おそらく、その叔父さんが住んでいらっしゃる地名を言うのじゃないかしら。例えば「神戸から電話」と言えば、それだけでどの叔父かわかるでしょう。それは昔からそうです。
ここに、秦を秦と読ませる秘密が隠されているのです。
神田君はご存知だと思いますが、中国の歴史書の中で日本について書かれたものが、魏志倭人伝と呼ばれている書物で、それと同じように、古代朝鮮について書かれたものが、魏志韓伝です。
その韓伝の中に、朝鮮の古老の話として、秦国から多くの秦人が戦乱を逃れて朝鮮半島に流れ込んで来た、ということが書かれています。
やがて彼らは、朝鮮半島に国を作りますが、彼らの一部はそのまま朝鮮半島に残り、そして、一部は玄界灘を渡って、この日本にやって来ました。
もともと彼らを秦人と呼んでいたのは漢民族です。秦人と呼ばれていた彼らは、自らを秦人とは呼んでいませんでした。
では、何と読んでいたのでしょうか?
彼らは、自らを「ハタ」と呼んでいました。自らの出自に誇りを持って、遠い先祖の出身の地の名前を彼ら自身の呼び名としていたのです。
もう、お分かりでしょう。3000年近く前に衰亡し始めた古代のヒッタイト帝国の首都ハットゥシャが彼らの出身地です。
彼らは、何千年もの間にわたって移動を続け、ある時は何百年もある地域に留まり、そしてまた移動し、最終的には、この日本にやってきたのです。
話が混乱するのは、中国人、つまり、漢人は、朝鮮半島へ逃げ込んだ人達は、自分たちと同じ秦国の人間ではないと知っていた事。
それにもかかわらず、朝鮮半島では、秦国から逃れてきた秦人だと認識され、そのルーツまでは認識されていなかったこと。
そして、逃げ込んだ人達自身は、自らの出自は秦ではなくハットゥシャ、ハタだと分かっていたこと。
これらのことが、今現在も様々な混乱を招いているのだと思います。
そして、朝鮮半島から、最先端の技術を携えてこの日本に渡ってきた彼らは、中国から直接海を渡ってやって来た徐福さんの一団と自らを判別し、独自性を保つために秦と書いて秦と呼ぶようになったのだろうと思います。
中国でローマ帝国を表す文字は「大秦」です。つまり、中国では異民族のことを秦人と呼んでいたのです。当時、中国人つまり漢人は、中国以外の地域、長城の外からやって来た人達のことを秦人と呼んでいたのです。
漢字のないハットゥシャから何千年もかけて移動してきたヒッタイトの人達は、自らを漢字文明圏に入ってきた時、秦と呼ばれているのを知り、その漢字に彼らの呼び名、ハットゥシャをあて、それはやがて、ハットゥ、ハット、ハタ、と変遷したのです。
彼らは、この日本にやって来る途中、ある地域に何百年もとどまり、その地に都市や国を築きました。
彼らの移動してきた経路にはそうした痕跡が地名に色濃く残っています。朝鮮半島の慶尚北道にはかつて波旦と呼ばれた地域がありました。今の蔚珍郡です。
さらに遡ると、現在の中国、新疆ウイグル自治区にはホータンという地域があります。
ごめんなさい。話がどんどん逸れていっているようです。
先ほども言ったように、オスマン・トルコは親書と勲章を明治天皇様にお贈くりするために日本に使節団を派遣したのですが、使節団にはもうひとつ、大きな使命があったのです。
当時、鉄の棒の存在場所は熱田神宮のものしか確認されていませんでした。後の二本の鉄の棒の封印場所の特定は出来ていなかったのです。
大きな使命とは、その存在の分かっている鉄の棒を入手することだったのです。
すでに、内々にはその鉄の棒はオスマン・トルコに贈呈されることになっていましたので、親書と勲章の贈呈は、そのお礼と考えてもいいと思います。
それは、もうじき来る、オスマン・トルコ建国600年を盛大に迎えるために、また、民族の更なる統一と諸外国との友好を図るために最も必要なものでした。
なぜなら、オスマン・トルコの偉大なる最後の末裔、弁慶の命が封印されている鉄の矢だからです。
「弁慶がヒッタイト人の末裔だってことか!?」
先日もお話したように、弁慶の祖先は、今の日本人の原型である弥生人がやって来る前に、既に日本で鉄を製造する技術を持つ一団として生活圏を築いていたのです。
彼らは後に「正史」の中では、猿田彦命と呼ばれ、やがて、毘沙門天としても祀られるようになり、伝説の中では、烏や天狗として、今に伝えられているのです。
「咲姫ちゃんは、やはり毘沙門天のことに気がついていたのか」
神田は、今、宮島に烏や天狗にまつわる話が多く伝えられ、そして毘沙門天が弥山頂上に祀られている理由が分かった。
トルコは、ヒッタイト時代から格闘技の盛んなところです。 そして、格闘技に強い男こそが尊敬され、男として認められるといっても過言ではないでしょう。現代でもトルコで伝統的なスポーツといえば、体中にオリーブオイルを塗って闘うオイルレスリングです。
「オイルレスリング!!」
神田はその文字を見て、瞬間的に、あの嵐の日の大男の体の、ヌルッ、とした感触を思い出した。
「あの大男はトルコ人だったのか!!」神田は思わず口に出した。
神田は、去年のアテネオリンピックを前に、浜口京子や吉田沙保里の女子選手が来日中のオイルレスリングの競技を観戦した、という新聞記事を読んだことを思い出した。
「しかし、あんな窃盗を働く必要は全くないじゃないか。中国人のように、それこそ外交ルートを通じて話を持ってくれば済むことだし、日本政府としても、おそらく、鉄の棒にさしたる重要性は感じていないだろう。ひょっとすると、残り二本の存在さえ知らないかもしれない。なのに、何故・・・」
神田は、モニターの画面をスクロールさせて、咲姫の文章を追った。
どうして忍び込んでまでしてその鉄の棒を手に入れようとしたのか。それは、日本とは外交ルートのない組織だからです。
「すると、奴は、あの大男はトルコ人ではないということか!いったいどこの?」
1889年(明治22年)7月、使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号はイスタンブールを出航しました。乗組員は600名を越していました。
スエズ、ボンベイ、シンガポール、香港を経由して、およそ11ヶ月の大航海でした。木造の古い軍艦のため、途中トラブルもあったようです。そのため日数がかかってしまったのです。
このことは、やがてエルトゥールル号に襲いかかる悲劇を暗示していたのかもしれません。
神田は、
「ああ、あのエルトゥールル号か」と今、分かった。
無事に任務を果たした使節団は、台風時期に無理を押して帰路に着き、途中和歌山県串本沖で岩礁に衝突、特使を含む518名が死亡という大惨事となりました。
しかし、その時の地元民の救護活動で69名は死を免れ、手厚い看護の後、明治天皇様の命でトルコに送られたのです。
皮肉なことに、この惨事が、その後の日本とトルコの友好関係をますます固いものにしたのです。
神田は、1985年の湾岸戦争のとき、イランのテヘラン空港で、国外脱出のために救援機を待つ日本人215名を迎えに来たのは、日本の飛行機ではなく、2機のトルコ航空の飛行機だったと言う話を聞いたことがある。それは、エルトゥールル号の事故に際しての日本人の献身的な救助活動への「恩返し」として当然のことだと、トルコ大使が語っていたのを思い出した。そして、トルコでは、小学生でもこの悲劇的な事故のことは知っていると聞いたことがある。
咲姫のメールはさらに続いた。
しかしこの時、大きな問題が起こりました。明治天皇様が、前言を翻され、鉄の棒は日本に留め置きたいと仰せになられたのです。
「この日本の安泰が何百年もの間保たれてきたのは、鉄の棒を封印していたからこそである。鉄の棒は再び熱田神宮にお祀りせよ」と、勅命が下されたのです。
「この嵐は、天照大御神様の御心の表れである」と。
しかし、オスマン・トルコの皇帝アブドゥルハミド2世は、再び親書を天皇様にお贈りになり、何度かの交渉の結果、妥協案が生み出されたのです。ここに至までには、皇室の儀式、しきたりの一切を取り仕切る、八咫烏(やたがらす、やたのからす)と呼ばれる一族のとりなしがあったのですが、今日は、これには触れません。
「妥協案?」神田は、さらに先に目を移した。
その妥協案とは、ヒッタイト民族と日本民族の分水嶺でもあり、また、日本民族、日本文化の源流と言われる、ヒマラヤを中心にした地にその鉄の棒をお祀りすることだったのです。
「ヒマラヤ!」
そして、エルトゥールル号の悲劇を免れた乗組員をオスマントルコへ送り届けるために、当時の日本の主力軍艦の「比叡」と「金剛」を派遣することが閣議決定されました。
その戦艦「比叡」に、総理大臣、山縣有朋の密命により、ひとりの人物が乗船しました。彼は、イスタンブールへ向かう途中、インドのボンベイで下船し、ヒマラヤを目指したのです。オスマントルコから派遣され、辛くも悲劇から免れた軍人の一人も一緒でした。
彼らの任務とは、ヒマラヤ山地奥深くの寺院に「鉄の棒」をお祀りすることにあったのです。
まず、彼らが目指したのは、ネパール王国のパタンです。パタンは、今でも、金属製品製造の盛んな街です。
「パタン!ネパールにもパタンが・・・」