毘沙門天
「咲姫ちゃん、この話、どう繋がっていくんだ?もう、これ以上の詮索は高見刑事に任せたほうが良くはないか?」神田は目に見えない何かに絡みつかれている様な気がしてきた。
咲姫は、両手で包んでいた湯飲みを口元にもって行き一呼吸おいて、一口飲んだ。そして、
「私も少し怖くなってきたわ。でも、もう、だめね」と、きっぱりと言って、唇を横一文字に結んだ。
「だめ?どうして?」
「山口さんよ」
「山口さん?どういうことだい」日本拳法部の山口さんが何の関係があるというのだろう。一体、咲姫は、何を言い出すんだろうと思った。
「山口さんが私たちを呼んでいるのかもしれないわ」と、目を細めて、小さくつぶやくように言った。
「何を言っているんだい、咲姫ちゃん。山口さんが俺たちをどこへ呼んでるっていうんだい?」神田は困惑した。
「ネパールよ」そう言って、キャシーをチラッと見、そして、神田のほうを向いた。
「私たちは、ネパールへ行かなきゃ行けないのよ」咲姫が、言葉に力を込めたのが分かった。
咲姫は、カウンターで鉄と話し込んでいるキャシーのほうを見て、
「キャシーは来週には医療ボランティアの一員としてネパールに向かう予定になってるの」と、やや小さめの声で言った。
神田もカウンターで話し込んでいるキャシーのほうを見た。
「ああ、そう言ってたね」
「キャシーは、まだ山口さんの身に何が起こったのか言ってくれていないわ。けど、10年前に何かが山口さんの身に起こったのよ。そして今も山口さんの亡骸はネパールの地にあるのよ」咲姫は声を落として言った。
「待ってくれよ、咲姫ちゃん。その・・・、今まで話していた弁慶や義経、毛利元就の三本の矢の教え、それに八岐大蛇の話・・・」神田はここまで言って、大きく息を吸い込み、
「それに、もともとの三本の鉄の棒の窃盗事件がどうして山口さんやネパールと関係があるんだい?」と、言うと、
「それと、さっき言いかけた弁慶の祖先って、咲姫ちゃんは何を見つけたんだい?」神田は不安に駆られながらも、これまでのモヤモヤとした霧を晴らしたいという好奇心と苛立ちでだんだんと、咲姫を問い詰める口調になるのが自分でも分かった。
咲姫は、神田の問いかけに静かに答えた。
「それは私の頭の中で整理して、追々説明できると思うけど・・・」
神田は、咲姫の頭の中で、何かと何かを繋げようとしているのを感じた。いや、もう繋ぎ終わっているのかもしれない。
「今回の件はね、神田君。私のお仕えしている八頭神社様が私に与えられた使命だと思うのよ。私の運命だとつくづく感じるのよ」咲姫は、ジッと正面の壁を見つめた。そして、神田のほうを向いて、
「八頭神社様は、八つの頭って書くでしょ?私は昔から思っていたの。どうして八頭神社って名前なのか。ひょっとして八岐大蛇と関係があるのじゃないかと、ずーっと思っていたの」咲姫はこういうと、思い切ったように、
「八頭神社ではなく、八頭蛇じゃないかってね」
神田は、咲姫のやや青白くなった顔を静かに見つめた。
咲姫は腕時計に目をやり、
「あら、大変、もうこんな時間。すっかり話し込んじゃって、この続きはまたね」
「また、って、いつだい?」神田の口調は自然に不服げになった。
「連絡するわ。ちょっと熱田神宮の鉄の棒の件を調べて、その報告もしなきゃいけないでしょ?」と、にこり、と白い歯を見せて言った。
「え!?やってくれるかい?助かるよ。咲姫ちゃんが調べてくれるなら万々歳だよ」
「あら、神田君はさっき、もう手をひいたほうがいい、とか言わなかった?」
「しかし、まあ、ここまできたら・・・」神田は苦笑いをした。
長く深い夜であった。廿日市駅前の精進料理屋「おとみ」で、主人の山田鉄男の祖先が出雲の出身だと分かってから三本の矢にまつわる秘密が歴史の闇の中から浮かび上がってきた。
いや、歴史の闇の中からその秘密をすくい上げたのは、八頭神社の女性宮司の木野花咲姫であった。
咲姫は、鉄の棒の封印は、源頼朝と、その懐刀であった大江広元が日本を支配するための策略であることを見抜いた。
そのことが、後の毛利元就の三本の矢の教えの元になっていることまでもが明らかになった。
さらに、咲姫は、宮島の赤、富士山の白から秘密の糸を手繰り寄せ、ついに、三本目の鉄の棒は名古屋の熱田神宮に隠されているというところまで解明してみせた。
しかも、咲姫は、その鉄の棒には、出雲にまつわる様々な歴史が関係していることまで証明してみせたではないか。
そして、今は、咲姫によると、咲姫が宮司をしている八頭神社と八岐大蛇、弁慶と天狗、烏、猿の関係、これらの間には何らかの関係があると言っているのだ。
居酒屋「おとみ」で咲姫とキャシーに会った翌朝も、神田は、宮島の東の尾根、博打尾の尾根筋を弥山に向かって登った。
早朝の太陽はまだ低く、海面に反射して、江田島に濃い陰影を与えている。
ここを登るたびに、あの大男のことを思い出す。猛烈な風と雨の中であの男に対峙した時、神田は何十年ぶりかで闘争心が蘇った。
しかし、一方では、神田にはあの時、あの男に勝つ自信はなかった。それを見透かしたかのようにあの男は唇の端を上げて嗤った。それが神田には許せなかった。その男がでなく、自分自身が許せなかった。
出来ることなら、もう一度あの男に会って闘ってみたい。神田の中にメラメラと武道家の炎が燃え上がってきた。その日のために、あれ以来、こうして博打尾尾根を登っているのだ。
獅子岩から弥山に向かうなだらかな登山道を走った。若い僧が、弥山本堂の境内を掃き清めていた。
神田は本堂の中に何気なく目をやり、そして、
「あっ」と小さく声を上げ、すーっ、と、汗がひくのを感じた。
「どうかされましたか?」境内を清めていた若い僧が不思議そうな顔をして神田を見た。
「いや、なんでもありません」そう言いながら、昨日の昼、「清盛うどん」で咲姫と交わした会話を思い出した。
「宮島は学問上、貴重な島だと思うよ。ペトログラフの古代信仰からヒンズー教、山岳信仰、仏教、神道。神社の配置からも明らかに北斗信仰、妙見信仰も取り入れられていることが分かるしね。弥山頂上と厳島神社の大鳥居をつなぐ線は南北方向なんだよ」という神田の意見に咲姫は、「弥山本堂には毘沙門天が祀られていたわね」と応えた。
それに対して、「ああ、毘沙門天は北の守り神だからね」と、その時は、簡単に応じたのだ。
しかし、今、神田は、弥山の本堂に毘沙門天が祀られているのにはさらに深い意味があることに気が付いた。
神田は、弥山頂上から吹き降ろす朝の冷たい風に、体をすくい上げられた感覚に捉われた。
自宅に帰って、シャワーを浴びながら、神田は、宮島の長い歴史に思いを巡らせた。
そして、改めて、ここ宮島は、天孫降臨以前から人々の崇拝と畏敬の念を集めた聖なる島であることを実感した。
神田は思った。
須弥山に喩えられ、ヒマラヤの北方を守護する毘沙門天が宮島に祀られているのはどういう意味があるのだろうか?
咲姫は「私たちはネパールへ行かなければならない」と言った。
そのネパールこそは、天空に聳えるヒマラヤ山脈を擁する王国ではないか。そのヒマラヤの北を守護する毘沙門天は、何から守護をしようとしているのか。ヒマラヤの北といえばチベットを自治区としている中国だ。中国?・・・あの謎の中国人たちは何のために鉄の棒を手に入れようとしているのか?
神田は、迷い込んではいけない深い闇の中に入り込んで行く気がしてきた。