猿
女将がお茶を運んできた。鉄が居る土間のテーブルの上に盆を置き、湯飲みを一つずつ座敷のテーブルに置いた。
「神田君は、弁慶、と聞いて、何を思い浮かべる?」と、再び、咲姫の謎かけが始まった。
「そうだなー。まず、体が大きいことかなぁ」と腕組みをした。
咲姫はさらに、
「顔つきとか、たとえば、色のイメージでいうと何色?」とたずねた。
「顔は、色黒で、髭が濃くて、どちらかと言うと日本人離れした彫りの深い顔かな。色のイメージだと、やはり黒、だろうな。衣の黒のイメージがあるしね」と腕組みをほどいてお茶を一口飲んだ。
「そうね。源平盛衰記にも、弁慶の姿は黒の鎧に黒の冑、黒漆の刀に黒羽の矢を背負っていたというふうに書かれているのよ」と、お茶の入った湯飲みを両手で包んだ。
「へー、そうなんだ」神田は、湯のみに手を副えたまま咲姫の話に聞き入った。
「私は、弁慶とカラスのイメージが重なってしまうのよ。どう?」
「んーん」神田は、湯飲みから手を離し、腕組みをして、
「確かに、そうだな」と言った。
「常に義経の先鋒として道案内、ナビゲーターの役割を担っているのは、神武天皇の東征の時の八咫烏と同じじゃない?」咲姫はさらに説明を加えた。
「なるほど。八咫烏の八咫って大きいって言う意味だから、弁慶とピッタリ重なるな」そう言って、神田は突然、あの大男が富士山の山頂から飛び立った姿を思い出し、愕然とした。
「まさか・・・そんなことは・・・」
宮島の弥山からも同じようにして飛び立ったあの大男が、八咫烏のイメージと、そして、弁慶のイメージと重なったのだ。
キャシーは座敷を下りて、カウンターへ行き、鉄となにやら楽しげに話している。
「どうしたの?」咲姫は神田のやや血の気の失せた顔を覗き込んでニコッと笑った。
「当ててみましょうか。神田君は今、富士山頂から、中国人に追われて飛び立ったあの大男のことを思い出しているんでしょ」ズバリであった。
考えてみると、今回の件は、あの謎の大男の出現から始まったのだ。全身を黒く塗ったあの大男は、八咫烏を表わそうとしていたのだろうか?まさかそんなことはないだろう。単なる偶然の一致だろう。
しかし、厳島神社の神殿を造営する場所も、烏の導きによって今の場所に決められたという言い伝えは何を伝えようとしているのだろうか。今に残るお烏喰式の行事は俺たちに何を伝えようとしているのか?
厳島神社の神使が烏であるのには深い理由があるのではないだろうか。
お烏喰式の烏は紀州の熊野へ帰って行くという言い伝えは、弁慶と宮島の関わりを暗に示しているとも考えられるではないか。
「それに、弁慶にはもうひとつ、天狗のイメージもつきまとっているのよね」咲姫はさらに話を続けた。
確かに、弁慶の大柄な体に纏った修験道の衣装や、日本人離れした顔は、鼻の高い天狗のイメージがある。
神田は小学生のころには廿日市の秋祭りを楽しみにしていた。祭りになると、同級生と連れ立って廿日市の商店街に出かけたものだ。
その祭りの神輿の先頭には必ず天狗の面をかぶった若者が歩いていた。そして、その天狗は、時折走り回って、周囲の見物客を金剛棒で蹴散らしていたのを覚えている。子供達は、その天狗をからかうのを楽しみにしていたものだ。
義経の案内役として先導者の役割を担っていた弁慶はまさに天狗の役割を演じていたことになる。
宮島には、その天狗にまつわる言い伝えが多く残っている。神田は何年か前、「宮島町史」に載せるために、宮島の伝説の調査をしたことがある。50人を越える島の古老達から昔の行事や、わらべ歌とともに、言い伝えられてきた伝説の聞き取り調査をした。
そして、天狗にまつわる多くの言い伝えがあることに驚いた。雪の日には、厳島神社の本殿の屋根には天狗の足跡が現れるとか、天狗は、年末になると、弥山の頂上に松明を点し、頂上からカーン、カーン、と、拍子木を打つというのだ。
古老達は、幼い頃には、実際に何度もその音を聞いたことがあるという。また、ある古老は、天狗が打ち鳴らす太鼓に誘われて山に入り込んだ人を助けたことがある、と、自慢げに語ってくれた。
今年(平成17年)の5月5日に消失した霊火堂の裏の岩に、天狗の顔が影になって現れているのはよく知られている。
咲姫は、神田の考えていることを見通したかのように、
「キャシーと一緒に弥山に登ったときに、三鬼堂の中にお邪魔したけど、お堂には天狗のお面がたくさん飾ってあるでしょ。あれって、宮島の象徴じゃないの?」と言った。
「なぜ?」神田は、咲姫に自分の考えていることを覗かれているような気がした。
「だって、さっきの弁慶と烏の話。そして、神田君も思ったでしょ?その、神田君が見たっていう大男のこと」と、強い口調で言い、さらに、
「キャシーとJRで宮島口に着いて、桟橋に向かって歩いて、最初に気がついたのは桟橋前にある像よ」と言った。
「像?ああ、あの桟橋前に建てられている、舞楽を舞っている形の像のこと?」神田は、宮島口のロータリーにある像を思い浮かべた。
「ええ、あの面はまるで天狗の顔じゃないの」
「確かに、舞楽の面は昔の日本人が出会ったシルクロードの西の人間の顔を模したものだろうね」神田も常々そう思っていた。
「そして、大聖院の参道入り口で参拝者を迎えるように立っているあの像」
「え?」
宮島の大聖院の入り口では烏天狗の石像が参拝者を迎えている。
「大聖院の入り口に立つ烏天狗の像と宮島の入り口に立つ舞楽の像。同じじゃない?」咲姫は言った。
弁慶、烏、天狗これらのイメージが見事にひとつに収束していった。
「神田君、もうひとつあるのよ」と咲姫はいたずらっぽく言った。
「天狗はね、猿田彦だってことよ」咲姫がそう言うと、神田も大きくうなづいて、
「そうだね。俺もそれは感じていたよ。猿田彦は天照大御神が孫の邇邇芸命を日本へ派遣した時に邇邇芸命の案内役を務めた神様だろ」
「身長すこぶる高く、顔赤くして鼻高く、目は大きく、その輝くさまは鬼灯の如くであった、というんだからね」と昔読んだ古事記の一節を思い出し、言った。そう言いながら、富士山本宮浅間神社の神使は猿だったことを思い出し、これらは本当に偶然として片付けていいものだろうかと思い始めていた。
「その功績もあって、道祖神として交通安全の神様として今でも猿田彦命を祀っている神社はたくさんあるからね」神田はそう言って、「あっ」と小さな声を上げた。
「どうしたの?」咲姫は、おどろいて神田を見た。
「いや、少し前に宮島の神社の由来や祭神をまとめるために島内の神社を調べたんだけど」と、神田は5年前のことを思い出した。
「あら、そうなの」咲姫は湯飲みを両手で包んだまま顔を上げた。
「でね、天照大御神の子供や、宗像三女神の市杵嶋姫や、田心姫、湍津姫がお祀りしてある神社が多いのは分かるんだけど、猿田彦命が祀られている神社がやたら多いのには驚いたんだよ」
咲姫はじっと神田の話を聞いている。
「それにね、宮島七浦の神社に祀られている神はどの神も予言や道案内に関する神だったんだ」
咲姫は、
「ああ、それはそうでしょうね。烏が厳島神社の創建場所を捜すために皆の先頭で案内をしたわけでしょうからね」と、当然のような顔をして言った。
「綿津見三神や住吉三神の神様でしょ?」
「よく分かるね」と、言いながらも、咲姫がこうしたことに詳しいのにはもう驚かなくなっていた。
「どの神様も航海の安全や無事を祈るための神様、つまり海の水先案内人、パイロット、でしょ。猿田彦命と同一の神と考えてもいいんじゃないの」と言い、
「塩土老翁がお祀りされている神社もあるのじゃない?」と、神田に聞いた。
神田は、咲姫の知識の豊富さに呆れながら、
「確かに、塩土老翁も包みが浦神社にお祀りされているよ」と言った。
「でしょうね。塩土老翁は、シオツチ、つまり塩の道を知っている神様ということだし、船の先頭を飛ぶ鴎でもあるのよ」
「その鴎の白と、塩の色、海、というイメージから塩土老翁が生まれたのだと思うわ」と言って、
「つまり、白い鳥なら鷺でもいいのよ」と付け加えた。
「知ってる?熱田神宮の神使は鷺だってこと?」と、神田の反応を見るように小首をかしげて神田の顔を見た。
「えっ!?」神田はやはり驚かざるを得なかった。
「烏だという説もあるけど、どちらにしても同じ事ね。御鳥喰式の行事も行われているようだし、烏と関係があるのは間違いないわ」と神田を見つめた。
「どう?厳島神社の神使が烏、富士山本宮浅間神社の神使が猿。熱田神宮の神使が鷺。どの神使も、道を案内する先導者だってことに気がついた?」と、咲姫はゆっくりと、しかし、はっきりとした口調で言った。
「これは・・・、やはり偶然とは思えないな」神田はその咲姫の問いかけには直接答えず、自分自身に言い聞かせるかのようにつぶやき、
「毛利元就の祖先、大江広元って男は相当な知恵者だね」と咲姫の同意を求めた。
しかし、咲姫は、
「広元だけの策じゃないかもしれないわよ。それに、これだけの仕掛けを実行するには闇の勢力も絡んでいるかも」と、含みを持たせた言い方で返した。
「闇の勢力?」神田は聞き返した。
「そう、修験者もそうだけど、忍者集団の風魔とか、非人の頭領の弾左衛門とかね。どっちも北条氏と関わりが深いものね」とニコッと笑って付け加えた。
「おい、おい、そこまで行くと話しがややこしくなるよ」神田は苦笑いをしながらて口元をゆがめた。
「そうね。まずは猿田彦命ね」と、咲姫も肩をすくめた。
神田は、
「猿田彦命ほどその容貌について詳しく書かれている神様も少ないよね」と言い、頭の中でいろいろな神様についての記述を思い出した。
そして、
「たぶん、最初の印象が強烈だったんだろうな」と言うと、
「朝鮮半島から渡ってきた弥生人がそれまで会ったことのない、つまり、彼らとは違う容姿だったんでしょうね」と、咲姫はうなずいた。
神田は、その咲姫の言葉に、
「でもそのこと自体は、邇邇芸命が、つまり、朝鮮半島から今の天皇の祖先が渡ってきた時には、彼らとはかけ離れた容貌をしている人間が、既に日本に居たってことになるよね」と言うと、
咲姫は、すぐに、
「そう、弁慶の祖先がね」と応えた。
「弁慶の祖先?」
「これからが大事なところよ。神田君」