弁慶
「神田のだんな」鉄が遠慮がちに言いながら、手を拭き拭き、カウンターから出てきた。
「何ですか?」神田は、鉄がカウンターから出てくるのを初めて見た。
「さっきから、弁慶さんのお話をされていらっしゃるようですが」そう言って、木の丸椅子をテーブルの下から出して座った。
「ああ、どうやら、鉄さんがさっき言った、毛利元就の三本の矢の教えの、その三本の矢は、どうやら弁慶の命を奪った矢じゃないかってことになったんですよ」と今度は左手で右肩を揉んだ。
「へー、弁慶さんのねー。いやね、弁慶さんと言やー、出雲の出身でござんすからね、あっしもちょいと関わりがござんしてね」と、頭に巻いた手拭を外した。
「あんた、もう、止めときなさいよ」笑いながら、奥から女将が出てきた。
「いえ、女将さん、面白いじゃないですか。関わりがあるだなんて。聞かせて欲しいな」咲姫も興味津津の顔をして振り返った。
女将はテーブルを拭きながら、
「関わりなんて大袈裟なんもんじゃないですよ。ただ名前が山田鉄男だというだけなんですよ」と、軽く言った。
「山田鉄男という名前が関わりがあるんですか?」神田は、鉄の話に興味がわいてきた。
「いえね、あっしの親父は実は、山田一鉄っていいやして、爺さんは山田鉄心っていいやすんで」
「皆さん鉄の字が入るんですね」
それを聞いていた咲姫の顔が、ぱっ、と赤みを帯びた。
「でも鉄さん、弁慶は紀州の出身じゃあ・・・」と神田が言いかけると、
「とんでもねぇ。まあ、そいつぁー、よく言われるこってござんすがね、弁慶さんは、正真正銘、出雲のご出身でござんすよ」鉄は、両手を膝について、肩を張り上げて、言った。
「弁慶さんのお生まれになった場所もハッキリしてやすし、母上のお墓もごぜえやす」顔色もやや赤くなっている。
「もう、神田さん、すいませんね。弁慶さんの話になるとこの人ったら、いつもこうなんです」女将は苦笑いしながら言った。
「いやね、あっしの遠いご先祖さんは出雲の出身でしてね、出雲って言やー、鋼、鉄でござんすからね。それで、山田家の男共の名前には、みーんな、鉄、の字が入っているんでござんすよ」
「弁慶と鉄と関係があるんですか?」
「そいつぁー、おおありでござんすよ、神田の旦那」鉄は体を前に倒し始めた。
キャシーは、笑みを浮かべて鉄の話を聞いている。
しかし、咲姫の顔は赤みを帯び、真剣な表情のままだ。
「弁慶さんのお袋さんは弁吉さんと言いやしてね、このお袋さんが紀州のご出身でござんすよ。で、弁慶さんを身ごもった時に、あんまりつわりがひどくてね、それで、鉄の鍬を食べて、十本目の鍬を半分食べたときに弁慶さんをお生みになられたんでござんすよ」鉄の目は真剣そのもので、神田も笑いをさしはさむ余地などなかった。
「鉄さん、その話は聞いたことがあるよ」と、神田が応えると、
「そうでござんすかい」と、鉄は喜びを顔に表し、
「おい、おとみ、さすがに、神田のだんなはご存知だぜ。こいつぁー間違えねぇーぜ」と大声を上げた。
「何しろ、弁慶さんは、お袋さんが身ごもってから十三ケ月目の仁平元年三月三日にお生まれになり、そのお姿は髪も長く、歯が二重に生えて、すでに二、三歳児のようだったってんですから驚くじゃありやせんか」と、腕組みをして、しきりにうなずいた。
鉄は、右手で左肩をさわり、
「さらに左肩には、摩利支天、右肩には、大天狗、の文字があったんでござんすからねぇ。立派なもんでごぜえやすよ」とますます声が大きくなった。
「鉄さんは弁慶のことに詳しいんですね」神田は笑いながらも、鉄の意外な面を見て驚いた。
「へへ、こりゃ、面目ねえ。あっしは、小せえ時分に、爺さんから、弁慶さんについちゃあ、さんざん聞かされていやしたからね。それで、あっしも弁慶さんのように薙刀を背負って歩きたかったんでござんすよ」
それを聞いた女将が、
「ぷっ」と吹きだしたが、鉄はそれには構わずに、
「それが、へっ、どこでどう間違っちまったか、匕首を持って、・・・へっ、こりゃ、面目ねえ」と、話を続け、右手を頭にやった。
神田は、鉄の話を聞いて、
「うーん、確かに、弁慶の周りには、鉄にまつわる言い伝えが多いですね。さっきの、お袋さんが十丁の鍬を食べて弁慶を生んだとか、全身は鉄で覆われていたけど、のどぶえの四寸四方だけはむき出しだったとか」
「弁慶さんの泣き所ってやつでござんすね」
「今では、七つ道具って言えば選挙の七つ道具なんかによく使われる言葉だけど、もともとは、弁慶が背負っていた・・・」神田は弁慶の姿を頭に描きながら指を折って道具を数えた。
「薙刀や鉄熊手、鉞大槌、のこぎり、なんかを言ったんでしょ?それらは全部、鉄を使って作られた道具ですからね。あと、さすまた、と・・・何だったかな・・・」と考えていた時、
「源平の合戦の後、弁慶さんが義経さんとご一緒に、出雲へいらした時にゃあ、大山寺の釣鐘を、昔、弁慶さんが修行をなすった鰐淵寺まで担いで帰られたんですからね。立派なもんでござんしょ!?」と、鉄が自慢げに言った。
「エ、ええ、まあ。それに、出雲は砂鉄発祥の地ですし、鉄にまつわる話は古事記の昔からありますからね」確かに、鉄の話になると弁慶の周りにはたくさんある。
「へい。八岐大蛇のお話も、そうでござんしょ?」と、鉄は神田に聞いた。
キャシーが、
「オロチ、って何ですか?」と鉄の顔を見た。
「大きな蛇でござんすよ。ドラゴンって言うんですかい?英語では?」
女将が、テーブルを拭きながら、またもや「ぷっ」と吹いたが、鉄は、それには構わず、
「そいつは、こう、頭が八つ、尻尾も八本ござんしてね」と身振り手振りで話し始めた。
「目はホウズキのように赤く、体には苔や桧、杉なんぞが生えていやしてね、腹はただれていつも真っ赤な血が流れていやして・・・」ここまで言うと鉄は立ち上がり、
「その体は、八つの谷と八つの峰にまたがるほど大きかったと言われているんでござんすよ」と、両手をいっぱいに広げた。
その話を聞きながら、神田は先日の宮島の山津波を思い出した。
そして、昭和20年の枕崎台風で発生した山津波は、先日、神田達が経験した山津波の数倍の規模であったことを思うと、まさに、大きな岩をゴロゴロと転がし、流れてくる途中でなぎ倒した大木を泥流に突き立て、大きく波打って谷を流れる様子は、八岐大蛇が獲物を追いかけている様そのものであったことだろうと思った。
そして、その時発生した、山津波は、何百トンもの土砂で紅葉谷を埋め尽し、その土砂の中から、鉄の棒が発見されたのだ。
「そのドラゴンの尻尾から鉄の剣が発見されたんでござんすよ」鉄は、剣を抜くまねをした。
「とてもおもしろい御伽噺ですね」とキャシーが言うのを聞いて、鉄は、
「御伽噺なんかじゃござんせんぜ。現に、その時の剣が三種の神器のうちのひとつの草薙の剣として名古屋の熱田神宮さんにお祀りしてごぜえやすから」と、眉を寄せていった。
神田は、「待てよ、ひょっとして、斐伊川の氾濫か、山津波で、上流から鉄剣が流されて来て、それの発見がこの古事記の話の元になっているのかもしれないな」と思った。
現実に1984年(昭和59)には、谷間の急斜面から358本という大量の銅剣が発見され、日本中を驚かせたではないか。
神田はキャシーのほうを向いて、「その、八岐大蛇の赤い腹は、砂鉄で赤く染まった川を表し、さらに、大蛇の尻尾から鉄剣が発見されたという、このお話は、出雲の地方が古代から製鉄が盛んだったことを伝えていると言われているんですよ」と、鉄の話を捕捉するように言った。
「今でも安来市の日立金属は世界最高の鋼、ヤスキハガネを製造していますからね」と、神田が言うと、キャシーは、
「そうですか。以前、咲姫に日本刀を見せてもらったことがありますが、とてもきれいでした。西洋の刀とはまるでちがいますね」
「でしょ?中国山地の砂鉄を使ってタタラという日本独特の製鉄法で作られたものですからね」と言いながら、キャシーの日本に対する関心の高さを改めて感じた。
鉄は、
「あっしの匕首も・・・」
「あんた!!」
「おっと、こりゃ、面目ねえ」と頭に手をやり頭を下げた。
「鉄を制するものは国を制するって言いますけど、昔の出雲も力を持っていたでしょうね」キャシーは、神田の意見を求めるように顔を見て、
「日本だけでなく、世界の歴史を見てもそうですから」と、付け加えた。
神田は、
「そうですね。出雲の勢力圏は今の新潟や信州、紀伊半島、さらには北部九州にまで及んでいたと言う説もありますからね」と、言って、
「女将さん、お茶を」と湯飲みを持つ格好をした。
「新潟には出雲崎と言うところがありますし、鉄さんの田舎の信州は、さっきの国譲り神話の話に出てきたように、天照大御神から命令された建御雷之男神に力較べで負けた健御名方神の亡命先になっているし・・・」ここまで言うと、キャシーは、
「そうでした。それで、逃げて来たその出雲の神様を閉じ込めているのが諏訪大社でしたね」言った。
神田は
「キャシーさん、よく覚えていますね」と驚いた。
「頼朝の居た伊豆も出雲と関係がありそうですしね」と言い、鉄には聞こえないように、
「それに、一般には弁慶の出身は和歌山だと言われていますから」と、付け加えた。
鉄は、
「え?何ですかい?」と、耳を神田のほうに向けた。
「咲姫、どうかしましたか?」キャシーは、咲姫が先程から黙っているのが気になって尋ねた。
咲姫は、
「いえ、なんでもないのよ。ただ・・・」と、言葉を濁した。
「ただ・・・、何ですか?少しお酒飲み過ぎましたか?」キャシーはそう言って、咲姫の前にある空になったグラスを見た。
咲姫は、
「キャシー、私は、キャシーも知っているようにウワバミなのよ」と言って笑った。
「ウワバミ?」キャシーは眉を寄せて、首をかしげた。
「ふふ、大酒飲み、お酒には強いってことよ。これくらいでは・・・」
神田も笑って、
「ははは、学生時代から八岐大蛇なみだったからな、咲姫ちゃんは」
「あら、そんな風に思っていたの?」と、咲姫は、怒ったふりをした。
「いや、いや」神田は目の前で手を振り、
「で、どうしたんだい?」神田も、咲姫が急に黙ったのが気になっていたのだ。
「さっき、ご主人が、出雲の鉄から、そして、弁慶と鉄の関わりについてお話されたでしょ」そう言って主人の鉄の顔を見た。
「それで、頭の中が急に熱くなってきて、いろんな考えがクルクル廻ってね・・・」と、右手の人差し指をクルクル回した。
神田は咲姫が何を言い出すのだろうかと怖くなった。