義経の首
「大江広元は頼朝の懐刀、頭脳でもあったといわれているでしょ。彼がいなかったら頼朝の存在はなかったと思うわ」咲姫は、キャシーのほうを向いて、
「ごめんね。ちょっと退屈でしょ」と言うと、キャシーは、
「大丈夫です。日本の歴史は興味あります」と、膝を組みなおした。
「確かに、頼朝の重要な政策には広元の意見がかなりの部分で取り入れられているよね。守護地頭の設置とかさ」歴史の授業で、何度も繰り返し聞いた言葉だ。
「おそらく、この三本の鉄の棒の件も広元の意向だと思うわ」咲姫は少し首を傾けて、
「今の腰越状の件以降、義経は結局逃亡生活に入り、最後には自刃してしまうわけだけど、頼朝は、義経の死を最後まで確信できなかったのじゃないかしら」と、続けると、神田の顔を見た。
「確かに。頼朝は疑り深い性格だったらしいからね。だから、最後まで義経を信用できなかっただろうね」
神田は、昔、本で読んだ記憶を呼び起こし、
「岩手県の高館から頼朝のいる鎌倉まで義経の首を運んだけど、43日もかかったらしいからね。しかも夏場の暑い盛りだから、義経の首実験をするどころではなくて、海辺に捨てられ、頼朝自身は、実際には義経の首は見ていないと言う説が主流らしいね」昔聞いた義経にまつわる諸説を思い出した。
「そういった話から義経は蒙古に渡ってジンギスカンになった、などという説をとなえる人まで出て来たんだろな」神田はつぶやくように言い、確認するかのように、
「ともかくも、頼朝自身は義経本人の首を確認していないんだ」と繰り返した。
「そうなると、どうなると思う?疑り深い頼朝は、不安で仕方なかったと思うわ」咲姫は顔を神田のほうに向けた。
「いつ、義経が現れて、頼朝に反旗を翻すか。そればかり気になったのじゃないかしら?」
神田は腕組みをし、
「大江広元は、その様子を見て、んーん、・・・」と、しばらく考えて、
「そうだな・・・このままではいけない。このままだと奥州を攻めるどころか、後白河法皇が再び策を巡らし頼朝の権勢を削ぎにかかるかもしれない、・・・と、考えただろうな」と、やや、自信無げに言った。
「そこで、どうやって、頼朝を安心させるか」咲姫は、神田の推理の次を推測した。
「義経の首は、本物であろうと偽物であろうと、頼朝自身が疑いを持っているのだからどうしようもない。でしょ?」と、神田に同意を求めた。
「そうすると、頼朝に安心させるには、どうしたか・・・だな」神田は膝を組み、腕を組んで小首をかしげた。
「義経は自害して果てました、もうこの世にはいません。頼朝様の前に現れることは二度とありませんからご安心下さい、と、安心させるためには」と、ここまで言って、神田の頭の中で、ぼんやりとではあるが、何かと何かが繋がってきたような気がした。
鎌倉の鶴岡八幡宮も保元、平治の乱以来頼朝によって滅ぼされた怨霊を鎮める役割を担っている。
「そして、頼朝自身も義経の影に怯えることなく政に専念するためには、おそらく、頼朝が深く信仰していた修験道の助けを借りたののじゃないかしら?そもそも、頼朝の母も役の行者の信者で、霊鬼を胎して、生まれた子が頼朝で、鬼武者と名付けたくらいですもの。」
「咲姫は、さすがに、宗教関係のことについては詳しいな」と神田は改めて思った。
「お待たせをいたしました」女将が、茄子と茗荷のすまし汁と炊き込みご飯を運んできた。
キャシーは、
「んーん。いい香りですね」と背筋を伸ばして、盆の上にある料理を覗き込んだ。
「野菜と米は、大山の麓の契約農家の有機でござんす」カウンターの中から、主人の鉄が声をかけた。
女将が、
「お待たせいたしました」と湯気の立っている、茄子と茗荷のすまし汁と炊き込みご飯を運んできた。
キャシーは、
「私、炊き込みご飯、大好きです」と声を上げ、テーブルの上の空になった器を脇によせた。
女将は、
「お口に合いますかどうか」と言いながら、テーブルの上に並べた。
「日本の料理は健康的でいいですね。私は、咲姫がスマートな理由が日本に来て分かりました」と、笑いながら言った。
「それと、剣道ね」咲姫は言った。
「あら、こちらさんは剣道をやってらっしゃるんですか?」女将は、驚いた顔をして咲姫を見た。
「ああ、女将さん、この人は学生時代から剣の達人で、面を打たせたら、ちょっと敵う者はいないよ」神田は少し自慢げに言った。そして、
「あっ、そうだ。あの時の郷戸は、ここの親父さんがしばらく面倒を見ていたんだよ」と、カウンターの中にいる鉄を見た。
「あらっ、そうなんですか」咲姫も、驚いた様子で鉄のほうを向いた。
「あの郷戸さんが・・・」咲姫の脳裏に、郷戸の刃のように鋭い印象の顔が浮かんだ。
キャシーは、一瞬、郷戸と言う言葉に反応して顔を上げたが、両手で、茄子と茗荷のすまし汁の椀を包むようにもって香りをかぎ、
「うーん、いいにおいですね」と瞳を閉じて、満足そうな顔をした。神田は、そのキャシーの様子に少し違和感を感じたが、
「あいつも、今頃どうしているんでござんしょうかね」と言う鉄の言葉と
「不思議なものね。いろいろな目に見えない繋がりが私たちにはあるのね」と言う咲姫の言葉に神田は黙って軽くうなずいた。
「そうでござんすね。あいつもにも、こうして噂をしてくださる御仁がいらっしゃるってえのに・・・全く、生きているのか死んでいるのか、人様に迷惑でもかけていやがるんじゃねえかと、あっしらは心配でござんしてねェ。なぁ、おとみ」と女将の顔を見た。
「おっと、いけねエ。湿っぽい話はナシにしやしょう」鉄はそういうと、くるりと背を向けて、鉄瓶の湯を急須に入れた。
神田はカウンターの中の鉄から咲姫に目を移して、
「咲姫ちゃん、さっきの続きだけど・・・」と、話の続きを促した。
「ええ、それでね、私は、大江広元のことだから、義経の首を鎌倉に運ばせたのと同時に、別のものも運ばせたのじゃないかと思うの」そう言いながら、咲姫も、すまし汁の椀から立ち上がる湯気に少し顔を倒して鼻をよせた。
「別のもの?」神田も箸を取り、すまし汁の椀を左手で持った。
「そう、夏の盛りに首実検をするのは難しいことを見越して、いわば、予備の証拠品を別ルートで運ばせたんじゃないかと思うの」ここまで言って、すまし汁を一口すすった。
そして、椀を置き、
「あるいは、最初から、義経の首とセットで頼朝宛てに届ける予定になっていたとも考えられるわ」右手で箸を取り上げて、左手と共に、それを揃え直した。
そして、
「これは、かなりの部分で、私の推測が入るけど、状況から見ると、そういうふうに考えるのが理にかなっていると思うの」そう言うと、
「つまり、義経の首と、もうひとつ、これさえあれば、義経の死は確実に証明できる、そんなものよ」と続けた。
「何だい?その別のものっていうのは?」神田はすまし汁から立ち上がる湯気を通して咲姫を見つめた。
咲姫は、すまし汁を一口すすり、椀をテーブルに置くと、
「義経と頼朝、そして修験道と矢、どう?何か思いつかない?」
「矢、義経の死・・・」神田は、しばらく考えて、
「あ!それはひょっとして・・・」神田が次の言葉を言う前に、
「弁慶の立ち往生」咲姫は言い切った。
「あーッ!! じゃあ、あの、鉄の棒に封印されている矢は・・・」
「おそらく、弁慶の命を奪った矢よ」
鉄の棒に閉じ込められた三本の矢は、宮島、富士山、熱田神宮、それらは海の民、山の民、里の民の支配、すなわち、日本の国土を支配することを意味していた。
しかも、その三本の矢は、日本国の支配者であることの証明書とでも言うべき、三種の神器、すなわち、八咫鏡、八坂瓊曲玉、草薙の剣と関連がある。
そしてそれは、源頼朝と義経の確執にも繋がり、さらには、大江広元へ、そして、毛利元就の三本の矢の説話もここから生まれたのではないかとも考えられるのだ。
そして今、咲姫は、その三本の矢は弁慶の命を奪った矢ではないかと言うのだ。
「弁慶は、義経が持仏堂の中で自らの命を絶つのを邪魔させまいとして、持仏堂の前で無数の矢を体に受けながらも薙刀を地に突き立て、仁王立ちのまま絶命したといわれているわね」咲姫は姿勢を正して話を続けた。
「五条の橋の一件以来、常に義経の身を守り、支えてきた弁慶の最期に相応しい立ち往生だったろうな」神田も感慨深げに言った。そして、
「弁慶は修験道のネットワークを駆使して、義経の逃避行の先導役を務め、義経を支えてきたのは事実だろう」そう言うと、神田は、炊き込みご飯を瞬きもせずに顔を前に向けたまま、一口食べた。
「でも、逆にそのネットワークを伝わる情報が逆流して頼朝サイドへも流れてしまったということも十分に考えられると思わない?」
「そもそも、弁慶自身は修験道グループのアウトローだったじゃないの」
「あー、たしかに、比叡山を追い出され、各地を転々とした後に、修行中の書写山の圓教寺の堂塔に火を放って大騒動を巻き起こしたりした、まさに、暴れん坊だよね」そう言って、神田はNHKの「義経」で弁慶を演じている松平健の顔を思い出し、笑みがこぼれた。
「牛若丸と出合ったのも、その償いのために、千本の刀を得て、お寺再建の釘代を工面しようとしたためだったんだからね」と、弁慶が京の五条の橋の上で牛若丸と闘うシーンを思い浮かべた。
「反弁慶派の存在があってもおかしくはないわ。修験道の反弁慶派のグループが、来るべき頼朝の天下で優位な位置を得ようとする目論見と、頼朝と大江広元の目論見が一致したのじゃないかしら」と言うと、
「つまり、義経と弁慶の排除、という点で一致したって言うことか」と、神田が繰り返した。
咲姫がさらに、
「そして、義経の首と、弁慶の命を絶った三本の矢が頼朝の元へ届けられる予定だったけど・・・」と言うと、
「頼朝の首は腐敗してしまい、首実検に耐えられる状態ではなくなり、三本の矢だけが頼朝の元へ届けられた」神田はその後を続け、「なるほど」十分に考えられるな、と思った。
「頼朝は自分自身で義経の死を確認できなかったために不安で慄き、政に支障を来たすことを危惧した大江広元は、弁慶と義経の怨霊を封じ込めるために三本の矢を鉄の棒に閉じ込めて、海、山、里の象徴である宮島、富士山、熱田神宮のそれぞれに閉じ込めた」神田は一気にここまでしゃべり、息を吸い込み、
「これでご安心召されよ、天孫降臨の古よりの要の地に三本の矢をお祀りすれば、頼朝様の天下掌握は磐石のものとなります、と、こういう訳か」うーん、と神田は目を閉じ腕を組んだ。
咲姫は炊き込みご飯を一口に運び、じっくりと味わうと、
「その実際の作業は、修験道の役小角の末裔達が手を貸したのだと思うわ」と、続けた。
神田は、腕組みをして息を吸い込み、
「ふーっ」と、息を長く吐き出した。
咲姫も炊き込みご飯の椀を左手に持ち、右手には箸を持ったまま、ぼんやりと壁を見つめていた。
そんな様子を見て、キャシーが、
「ふたりとも疲れましたか?」と顔に笑みを浮かべて、下から咲姫の顔を覗き、そして、神田の方に向かって、片目を閉じてウィンクした。
「い、いや、・・・これから先のことを思うと、体に鉄のよろいを着けているようですよ」と言いながら、右手で左肩を揉んだ。そして、
「鉄の棒が宮島、富士山、熱田神宮に隠され、いや、祀られていた、と言うべきかな。その理由は咲姫ちゃんの推理通り、頼朝にとって邪魔になった義経と弁慶の怨霊を封じ込めるため、そして、そうすることが頼朝の日本支配を磐石にするためだとしても、・・・そもそも、どうして、その三本の矢を必要とする人間がいるんだ?」天井を見上げて、首をコキ、コキ、と鳴らした。
咲姫も、口の中で、
「何のために・・・」とつぶやいた。
神田も
「どうして、中国はそれを狙ったんだ」と自分に問いかけた。