金塊
町は悲しみで覆われていた。
和司の盛大な葬儀から一ヶ月が過ぎた頃、江下寛一は旅支度を始めた。江下は和司が届ける予定だった薬品を自らが届けようとしていた。
「江下さん、その仕事、私にやらせて下さい」山口大河は江下に言った。
「え、しかし・・・」机で薬品のリストをチェックしていた江下は顔を上げ、困惑の表情を浮かべた。
「このままでは私の気持ちが治まりません。ぜひやらせて下さい。それに、江下さんが不在になると何かと不都合が起きるんじゃないですか?」
山口にとって和司は命の恩人である。しかも、その命の恩人を殺したのが、何ヶ月か前に山口の命を奪おうとしていた男である。和司がいなければ間違いなく今の山口はいない。それに、テレサの死にも関わっている男だ。このままにしてはおけない。
「・・・」江下は、椅子に座ったまま、目を閉じて腕組みをした。
しばらくの後、江下は山口の目を見つめながら立ち上がり、
「分かりました。お願いします。ありがとうございます」山口の手を右手で取り、両手で覆うように握り締め、頭を下げた。
山口もうれしそうに頭を下げ、左手を江下の手の上から握り締め力をこめた。
江下は、山口に、そばにあった椅子に座るように促し、自らも椅子に腰掛けた。そして、
「ここで少し、私がやっていることをお話しなければなりません」と、改まった声で言った。
「辻政信という男をご存知ですか?」
「はい、確か旧陸軍の参謀でノモンハン事件やインパール作戦の立案者のひとりだと・・」
そして、さらに
「戦後は国会議員になり、その後、ラオスで行方不明になったという噂ですが、・・・その辻のことですか?」と続けた。山口には江下が話そうとしていることとどういう関係があるのだろうかと思いながらも、部屋の隅にあったパイプ椅子を持ち、江下の近くに戻った。
「そうです。実は、私が彼をラオスへ入国させる手筈を整えたのです」江下は丸いすの上で背筋を伸ばしたまま言った。
「えっ!?」山口はパイプ椅子に座りかけたまま江下の顔を見た。
「彼が、国会議員の身分でありながら、その身分を隠し再びタイからラオスへ訪問した目的は、ベトナムに隠した金塊を手に入れることだったのですよ」江下は淡々と話し始めた。
「それは・・・」山口の質問を遮って江下はさらに続けた。
「しかし、スパイ容疑で捕らえられ、その際には、ホーチミンと取引でもしようと画策したようですが・・・」そう言うと腕組みをして天井を見上げ、
「その後は行方不明・・・ということになっています」そう言って再び山口の目を見つめた。
「そのことと今回の私の仕事が何か関わりが・・・」
「あります」
「え?」
「その金塊は私が持っています」江下は顔を山口に近づけ、押し殺した声で言った。
「えっ!?何ですって!?」思わず山口は身を仰け反らせた。
「全部かどうかは分かりません、しかし、それでも相当な金額になります」江下は両肘を両膝に乗せ、体をかがめて重い声で言った。
「まさか金塊を運ぶのが仕事というわけじゃあ・・・」山口のうろたえは声に出た。
「ははは、今回、山口さんにお願いするのは、私が調合した薬や医薬品です」そう言うと、山口の膝を「ポン、ポン」と軽く叩いた。
「私はこの金塊で山岳民族を救いたいのです。アジアには虐げられた山岳民族がたくさんいます。大国の陰で少数民族はいつも犠牲になっています」いつものように穏やかな口調に戻って話を続けた。
「シッキムは独立に失敗しインドに併合されましたが、中国はチベットに侵攻し、何百万人ものチベット人を殺戮しています。その後もシッキムに手を出そうとしましたが、これには失敗しました」江下は眉間に皺を寄せ、再び強い口調で言った。
「しかし、彼らは狙っていますよ。様々の方法で」
「山口さんが私のやっていることに手を貸してくださるのは大変ありがたいことです。和司も喜ぶと思います。でも、私のやっていることは、アジアのある国々にとっては都合の悪いことです。ひょっとすると山口さん・・・」江下はここで言葉を切り、
「あなたの命に関わることになるかもしれません」再び、江下は山口の目をジッと見つめて言った。
山口には、江下の言う意味が分かるような気がした。国家にとって都合の悪い動きをする人間や組織は、たとえ自国民であろうとも、国家内の組織であろうとも潰されるのが歴史だ。歴史の光には常に陰が付きまとう。そして、いつも犠牲になるのは無垢の民衆だ。
山口自身も、これまで陰の中を歩いてきた。いまさら、陰を怖がるよりも、陰の中に一撃でも拳を打ち込むことが出来れば良いではないか。そう思い右の拳をギリギリと握り締めた。
山口大河は覚悟を決めた。
「で、その薬品をどこへ届ければ?」
「私のシアトル時代の幼馴染のお嬢さんに届けてもらいたいのです」
「幼馴染の娘さんに?」
「はい、長谷川喜代治という男の娘さんに、これらの医薬品と、そして、薬草の種類やその調合方法、処方箋などを書き留めた・・・」そう言って、鍵のかかった引き出しの鍵穴に鍵を挿し込み、回すと、「ガチャッ」とロックが外れる音がした。引き出しをゆっくりと手前に引き、中から黒い革の表紙のノートを取り出した。
「この冊子を届けてもらいたいのです」江下は両手で大事そうにそのノートを持った。
「これがあれば、どんな植物が薬草として役に立つか、どんな時にどんな風に処方すればいいかが分かります。」そう言って山口に手渡した。
山口は、そのノートのページをめくった。
「これは・・・」そのノートには植物の絵が細かく描かれ、その処方も絵入りで丁寧に書かれていた。そして、
「インドのアーユルベーダ、チベット医学、漢方。これらを私なりに融合したものです」江下は自信のある声で言った。
「この説明は英語と平仮名ですね」山口はページを繰りながら呟いた。
「はい。娘さんにも分かるように書き換えたものです」
「と言うと?」顔を上げ江下を見た。
「娘さんは2世で、漢字がまだ苦手なようなのです」
「ああ、それで」山口はノートを閉じ、両手で膝の上に置いた。
「で、その娘さんはどこに?」
「ネパールです」江下は窓の外に広がる青い空の向こうを見るように目を細めた。