死闘!!チェンマイ
和司は江下から頼まれた薬を届けるためミャンマー国境の手前にある、幼い頃に家族と共に過ごした村に立ち寄った。
今回はいつもより少しだけ長い旅になる筈だった。
和司は旅の途中、近くを通る時は、時々、この廃村へ立ち寄って一晩を過ごす。かろうじて和司達が寝起きしていた家屋だけが何とか夜露をしのげるのだ。今は、家族はチェンマイ郊外に独立した家を持ち、暮らしている。当時一緒に暮らしていた親戚の者もそれぞれが独立した家を持ち、畑を耕したり、商売をしながら幸せな生活を送っている。
一方で、玉木が和司に託した夢の実現のため、山岳民族の独立運動にも力を貸し、今は医薬品と食料の提供が主な仕事になっている。和司には難しいことは分からないが、日本人の江下に力を貸し、共に働くことだけが自分自身の存在を確認する唯一の方法のように思えた。
今回も仲間のメオと一緒にこの村に立ち寄った。
トラックを村の入り口に停め、そこから、大きく枝を広げた木を見つめた。ここに立つと和司は、その大きく広げた枝の下で、郷戸と共に素振りをしていたことをいつも懐かしく思い出す。郷戸が村を去ってからも和司は「日本人」になるために、来る日も来る日もその木に向かって「突き」を繰り返した。
その穴はやがて貫通し、穴は和司の成長と共に縦に広がっていった。そしてその木は今もこうして大きく枝を張り、青々とした葉は太陽に輝いている。
和司はここで、今では大木となった木を見るのが楽しみだった。
メオは下の川へ水を汲みに行った。和司はその間に夕食の準備をするつもりで、トラックの荷台から野菜と米の入った袋と鍋を取り出した。
その時、トラックのエンジン音が道の向こうから聞こえてきた。
空が急速に曇ってきた。
「誰だろう?」米袋と鍋を荷台に戻した。
「こんなところまで来る人間はいないはずだ。道にでも迷ったのだろうか」と和司は思い、エンジン音のする方角を見つめ、郷戸が和司に残していった仕込み杖を、助手席から荷台に移した。
トラックは、車体を大きくバウンドさせ、埃を舞い上げてこちらに向かってきた。そして、和司のトラックの後につけると「ブルルン」と大きく車体を揺らして停まった。
舞い上がる薄茶色の埃の中から小太りの男が現れ、タイ語で「今晩ここに停めてもらえないだろうか?」と尋ねた。和司は、「いいよ」と言った時、助手席から左目に黒革の眼帯をした男が降りてきた。
「これは偶然ですね。あなた方を捜していました」嬉しそうにそう言って、辺りを見回し、
「山口さんは?」と言いながら、懐から拳銃を抜き出した。
「山口さんは・・・死んだよ」和司は目の端で、最初に話しかけてきた男も腰のベルトから拳銃を抜き出すのを見た。荷台からも男が降りてきた。
「死んだ?いつですか?」男は、怪訝そうに眼帯の上の眉毛を動かした。
「あの2日後だよ」和司はトラックのタイヤにさりげなく片足をかけた。
「もし、そなら、私は幸せですが、証拠はありますか?」片目男は左手を、銃把を握っている右手を包むようにして、胸元に構えた。
「お墓もあるよ」
「どこに?」
和司は視線を左に向け、
「この先の中国人村だよ」と言った。
山の向こうから雲が近づいて来た。
片目男は、和司から視線を逸らさなかった。
「ふふっ、私は、そんな国民党の村には行きたくありません」
「あなたは、タイ人ですか、日本人ですか?」片目男は不思議そうな顔をして聞いた。
「・・・ボクはニッポン人だ」和司は銃を握る男の人差し指をじっと見詰めた。
「残念です。私は日本鬼子が嫌いですから」そう言うと片目男は銃口を和司に向け躊躇いもなく引き金を絞った。
「バーン!!」
和司は片目男の指が動く直前にトラックの荷台の中に転がり込みそのまま仕込み杖を掴んで反対側に飛び出た。まさに風の動きであった。
突然、凄まじいスコールがやってきた。
肌をも射抜くほどの勢いで無数の雨槍は景色を縦に切り裂き、一瞬にして1m先も見えなくなった。村の道は見る間に泥川と化し、つい先ほどまで舞い上がっていた赤い砂埃は粘土の様に足に絡まり始めた。
男達は拳銃を発射し始めたが、天空から泥川に激しく水しぶきを上げて突き刺さる雨槍の中では狙いの定めようがなく、ただ、影に向かって闇雲に弾丸を発射した。
和司は泥の中を前転しながら、以前は倉庫に使っていた家の裏に廻り込み、家畜の柵の補修用に保管されていた竹を仕込み杖でスパスパと斜めに切り、あっという間に数十本になった竹やりを小脇に抱え屋根の上に登った。
スコールは長くは続かない。和司は、仕込み杖をベルトの背中側に差込み、竹槍をまとめて屋根の上に突き立てた。そして、雨でベッタリと体に張り付いた薄い木綿のシャツを引き裂き体の自由を確保した。
男達はトラックの陰に身を伏せ、目の上に手をかざして和司の消えた方向を凝視した。雨はますます激しさを増して来た。鋭い刺激が体中に突き刺さる。その時ひとりの男が「ギャーッ」と悲鳴を上げて銃を放り投げその場に立ち尽くした。
他の男には何が起こったのかわからなかったが、すぐに、降り注ぐ雨に混じって空から竹槍が降っているのに気付き、男たちの顔は恐怖にゆがんだ。最初に悲鳴をあげた男の足は竹槍で地面と縫い合わされていた。
「ザーッ」という雨音の中で男たちの周りには次々と槍が突き刺さった。激しい雨音で男たちの怒声はかき消され、再び「ギャーッ!!」と言う悲鳴と共に、竹槍が肩に刺さった男が片目男の目の前に雨の幕を破って突き出てきた。
片目男は、その男を突き飛ばし、トラックの車体の下に潜り込んだ。
車体の下で伏せている男の体は半分ほど泥水に埋まっている。「ババババ」と絶え間なく叩きつける雨音に混じって、時折、「バシ、バシ」と荷台をも貫くような音が体に伝わって来る。
和司は屋根から飛び降り、泥の川に身を伏せ、そのまま泥の塊になってゆっくりとトラックに近づいた。「ズル、ビシャ・・・」
片目男は全身で周囲の音を聞いていた。連続して泥に突き刺さる雨音の中から「ビシャ、ビシャ」と生き物が泥の中で進む音が聞こえた。やがてその音は5m先で止まった。
和司の前を覆う白い滝を通してトラックの影が見える。「ザーッ」
全身を泥にしてジッとその影を見つめ、背中の仕込み杖に手をかけた。
トラックのタイヤの陰から1つの目が1つの方向を見つめていた。その1本の視線の先には、白い雨飛沫で浮き上がった人間の体があった。
片目男は銃口を白く浮かび上がる輪郭に向けた。
和司は、トラックの荷台の下の片目を確認した。そして、さらに深く泥の中に沈みこみ、右手で背中の仕込み杖を握り、左肘と両膝で泥をかいた。「ビシャッ」
一年に一度の猛烈なスコールであった。風もなく、ただ、ただ、一直線に空から地面に突き刺さる雨槍は地上の全ての音を掻き消し泥と共に流し去っている。
しかし、片目男は、目の前の生き物が動く音を全身で捉えていた。「よし、もう少し来い」泥に浸かった唇の中の、硬く喰いしばった歯の中は渇ききっていた。
和司は仕込みを、「シュラッ」と、抜いた。雨粒が光となって刃を浮き上がらせた。
片目男には、豪雨の中に浮かび上がった刃はコブラが跳躍した時に見せる白い腹に見えた。
引き金を絞った。
「バンッ!!」スコールの中に乾いた音は飲み込まれた。
右耳が一瞬にして吹き飛ばされるのと、和司が泥の中から立ち上がり、トラックに向かって走り始めたのが同時であった。
「バンッ」2発目は和司の右膝を撃ち抜き、和司は体勢を崩した。
「バンッ」3発目は和司の右脇腹を貫通した。
倒れながらも両手で握った仕込みを荷台下へ突っ込んだ。「バシュッ」、タイヤを突き抜け、切先は片目男の頬をかすった。片目男は泥の塊になって反対側から転がり出て体勢を整え、4発目を発射した。「バンッ」
「キーン」高い音と共に弾丸は和司が振り上げた刃に当たり跳ね返った。片目男の一瞬の怯みを捉え、和司はタイヤを蹴って雨に向かって飛び上がった。
「ニッポーンッ!!」
気合と共に振り下ろした刃を、「ギンッ!!」、片目男はトカレフで受け止めた。雲の切れ間から差し込む夕陽が雨粒に濡れた仕込に映り込んだ。
和司は上からギリギリとトカレフごと押し付け、左肘を眼帯の左目に打ちこんだ。
「グッ!!」片目男の力が一瞬抜けた時、片目男の手首をひねってトカレフを奪い、前蹴りをみぞおちに放ち、男を突き飛ばした。
片目男は、泥の中を「ザザーッ」と3m先へ、泥の幕を拡げながら滑っていった。
全身から泥水を滴らせ、片目男はゆっくりと立ち上がり、「ペッ」と、口の中の泥を吐き出し、左手刀を前に、右拳を腰に構えた。
「素手で闘ろうということか」和司は奪い取ったトカレフを投げ捨て、仕込みを鞘に納め、かつて、突きの練習に励んだ大木に立掛けた。
雨は突然止み、薄日が差し始めたが、男達の足は依然として泥流の中にある。泥の流れは大地の切れ目を幾筋もの帯となり、時折り小枝や口の欠けた食器を運んでくる。
「バーンッ」
一発の銃声が夕陽の中に響き渡った。
和司の放った竹槍で足を刺された男が両手でトカレフを握り締め、和司の後に立っていた。弾は背後から和司の胸を貫通した。
和司はゆっくりと振り向き、大木に立掛けてあった仕込に手を伸ばした。再び、
「バーンッ」非情な銃声が鳴り響き、弾き出された薬莢が泥の中に沈んだ。
伸ばした手が仕込みに届く前に和司は大きく体をくねらせ泥の中に大の字に倒れた。バッシャーン。
片目男は和司に近づき、無言のまましばらく見下ろし、跪いて首筋に手を当て死を確認した。足を刺された男が、竹槍で体を支え、泥の中で足を引き摺りながら和司に近づき、「ペッ」と、和司の顔に唾を吐きかけた。「パンッ!!」片目男は男の顔を平手で殴り、和司の見開いた目を閉じさせた。
薄茶けた無数の泡を浮かべた泥流は、ところどころで淀みながら赤い大地の表面を洗い流し終えると、いつものように消え去り、男達もトラックを大きく揺らせ去って行った。トラックが跳ね上げた泥水が斜面の下に身を隠していたメオにかかった。
メオは恐怖で身動きが出来なかったが、ようやく和司のもとに駆け寄った。
風が東から吹き、立て掛けてあった仕込杖が和司の体の上に倒れ、夕陽は、大木の裂け目から倒れている和司の体に射し込んだ。
その赤い一筋の光は和司の眉間から胸を通り、まるで和司の体をふたつに分けているかのようであった。