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歌姫

 1995年(平成7年) 5月 タイ チェンマイ(郷戸がチェンマイにいた23年後)


 山口は任務に失敗した。何年にも渡り警護していた被警護者が死亡したのだ。台湾の世論をリードしている重要人物だった。ホテルからストレッチャーに載せられて搬送されている姿には生気せいきはなかった。


 ストレッチャーに顔を向けたまま目だけであたりをうかがうと、通りの向こうの建物の陰からこちらの様子を見ている男達がいる。先月、香港からチェンマイに来る飛行機でも見かけた男達だ。


 「奴らだ」山口は直感した。「奴らがったに違いない」

 しかし、被警護者が死亡した時点で山口の任務は終了する。山口の任務は被警護者を中国の拉致から守ることだった。その意味では任務は「失敗」とはいえないかもしれない。

 山口は身の危険を感じ、今からチェンマイを去ろうと思った。


 メーピンホテルの前を左に歩き、服や民芸品などのみやげ物を売っている屋台が何百軒も続くナイトバザールの人混みに紛れた。  




 山口は自分の体調が悪いことに気がついていた。数ヶ月前から夕方になると時々微熱が出るようになっていた。今年に入ってからは特にその頻度が上がり、ほとんど毎日のように熱と咳が出る。

 今も、足元がふらつく。熱っぽい頭に左手を当てた時、

 「動かないで下さい」背後から硬いものを背中に突きつけられた。


 山口はすぐにそれが拳銃であることに気がついた。背後の男は、すばやく山口の腰、脇を探った。そして、ひとりが後ろからベルトを掴み、もう1人は利き腕の右腕を掴んだ。

 「動かないで下さい。山口さん」男は日本語で山口の名前を呼んだ。

 「全てはお見通しって訳か」軽く頭を右に回し顔を確認しようとしたが、グイッ、と銃口に力を込められて、後ろは向けなかった。

 「そ、です」冷たい声だ。

 「そのまま、ますぐ歩いてください」男達は3人だ。話している男は右後ろにいる。


 「山口さん。この先の川に沈んでください。さよならです」

 「ゴホッ、ゴホッ」山口はせきをした。

 「大丈夫ですか、山口さん。風邪、ひきましたか?」男は笑いを含んだ声で言った。それを聞いた二人も、

 「ふふっ」と笑いを漏らした。


 「熱い体には、川の中、ちょど、いいですね」

 「教えてくれないか?」山口は、ゆっくりと落ち着いた声で言った。

 「なんですか?山口さん」男は山口との会話を楽しむかのかのように余裕を持った声で応えた。

 「お前たちがったのか?」山口の声には幾分力がこもった。

 「違います。私達ではありません」と、男は、すぐさま否定した。

 「ん?じゃあ、お前たちは?」山口は立ち止まった。

 「私達の仕事、死んだ、の確認と証拠の隠滅です」拳銃を持った男が、グイ、と背中を押した。


 「証拠?」山口は右を見て男の顔を見た。

 「あなたです。山口さん。あなた、証拠です」男は髪の毛をきちっと七三しちさんに分けて整髪料で撫で付けている。

 「俺が?」そう言って再び立ち止まろうとしたが、後ろの男に押された。

 「死んだ、の確認しました。次の仕事、証拠の隠滅です」

 そして、冷たい声で男は続けた。

 「山口さん。あなた、隠滅したら、私達、タイのビールでカンペー(乾杯)します。ふふっ」




 「あんた、日本語うまいな。どこで習った?」後ろの男は右手でベルトを握っている。ということは銃は左手にあるということか。山口は現状を分析した。

 「ありがとこざいます。一所懸命いっしょけんめい勉強しました。国のためです」

 「教えてやろう。こういう場合は、俺は、証拠、じゃなく、証人、というべきだろうな」山口の右腕を握っている男の手は左手だ。

 「ありがとございます。山口さん。あなた日本に帰ったら、病院行きますね。熱、ありますから」

 さっきからペラペラしゃべっている男は、腕を握っている男の右後ろにいる。

 「そすると、あなたの体の中から証拠出てくるかもしれない。だから、山口さん。あなた、証拠です」

 「?・・・」

 「そうか!そういう訳か!」この時、山口は全てを理解した。


 「どこでやった?」いつ感染したんだろう、山口は記憶を手繰たぐった。

 「分かりません」男は、静かに言った。

 「山口さん。あなた。あの人の巻き添えです。巻き添え、この言葉、正しいですか?ふたりが同じ病気だと分かること、都合良くないです」


 ナイトバザールの賑わいから外れて狭いビルの隙間に入った。この路地を抜けた先がビン川だ。




 男達三人が同時に動くことは出来ない狭い路地は山口にとって有利だ。山口は「今しかない」と思った。

 「ゴホッ、ゴホッ」と咳き込んだふりをして体を前に倒しながら左へ体を回し、左手で男の持っている銃の弾倉れんこんを握り、銃口を上へ向けた。銃は消音器付であった。男はとっさに引き金を引いたが、レンコンが回転せず発射できない。


 山口は、そのまま、体を回転させて、右にいた二人の男に銃を持った男の体を押し付け、レンガ壁に強くぶつけた。男達を壁に押さえつけると同時に、右膝を男のみぞおちにめり込ませ、前かがみになった男の後ろにいた男の鼻筋に右拳みぎけんはなった。

 その時、右後ろにいた男の右手刀が山口の左顔面をとらえ、左拳を顔面に向けて突き出してきた。山口はかろうじてそれを右腕で払った。男は右手を左懐に手を差し入れ拳銃を抜こうとした。男の顔面に隙が出来、そこを狙って山口得意の右正拳を放った。しかし、男は右手でそれを払い、左拳を突き出した。それは他の男達の体に邪魔され距離が不足していたものの、山口の顔面をとらえ、山口は鼻から生暖かいものが、バッ、と流れ出るのを感じた。


 山口は左手で掴んでいた男の手首をひねり、拳銃を奪い、右膝をもう一度拳銃を持っていた男の腹にめり込ませた。すぐに右肘を先ほど鼻を潰した男の左顔面に見舞うと二人の男は同時にその場に崩れ落ちた。


 山口が拳銃を抜こうとした男の眉間に銃口を突きつけるよりも男は一瞬速く拳銃を抜き出し、山口の腹に向かって発射した。

 「プシュッ!!」




 山口は後ろに倒れながらも右足で男の右腕を蹴り上げた。男の手からは拳銃が回転しながら飛び、2m先に落ちた。


 そのまま山口は反対側の壁に背を当てて座り込む格好になった。右手で腹を押さえ、左手の銃口は男に向けられている。

 「山口さん。強いですね。若いときは、もっと、強かったですね」男は両手を上げ、唇の左端を吊り上げながら言った。


 「ゴホッ、ゴホッ」顔が火照ほてる。

 「山口さん。血です。たくさんです」男は心配そうな声色こわいろを使った。

 「どしてすぐ撃たないのですか?さきも、銃口をここに当て・・・」そう言って、左手を自分の眉間に当て、

 「・・・すぐに撃たなかったのですか。私、すぐ撃ちます」

 「ふ、俺は、お前と違って、人殺しじゃないんだ」

 「ありがとございます。助かります」

 「ゴホッ、ゴホッ」胸が苦しい。

 「大丈夫ですか?」男はそう言いながら、先に転んでいる銃の位置を目の端で確認した。


 大通りからは観光客の賑やかな声が聞こえてくる。英語、フランス語、日本語も聞こえてくる。遠くから客寄せのタイ音楽も風に乗って聞こえてくる。

 

 「山口さんの右の突き、強いです」男はあごで、腹を押さえている山口の右手を指した。

 「山口さん。右利きです。あなた、今、銃を左手で持てます」そう言うと、顔を大きく左右に揺らし、悲しそうな顔をして、

 「撃ても、当りません」


 「どうかな、ゴホッ・・・」

 山口は、背中を壁に押し当てたまま立ち上がろうとした。男は、男の足元で気絶している男を左足で蹴り上げ、蹴られた男が「ウーッ」と声をあげ、山口がほんの一瞬それに気をとられた時、男は右側方に頭から飛び、地面で1回転して落ちた拳銃を拾い上げた。

 山口は男に向け拳銃を発射した。「バン」、「チンッ」弾は壁に当って跳ね返った。




 山口は倒れこんでいるふたりの男の体の陰に飛び込んだ。

 「プシュ」「プシュ」

 男は仲間には構うことなく2発撃った。一発は倒れた男の腹に当たり、男は「ウッ」と低い声を上げ、苦痛で目を覚ました。


 もう一発が山口の左肩を貫通した。


 「山口さん。も終わりです」銃口を山口に向けたままゆっくりと立ち上がった。

 「そうだな。終わりにしよう」山口も銃口は男に向け、右腕を腹を撃たれて苦しんでいる男の首に回しこんで一緒に立ち上がった。

 「だめです。あなた、撃ても当りません。ほら、手、揺れています」

 「この男の頭なら飛ばせるぜ」銃口を立ち上がらせた男の頭に、ゴリッ、と、突きつけ、そのままの体勢で、倒れているもう1人の男顔面を右足で蹴り、悶絶もんぜつさせた。


 「ダメです。山口さん。あなた、さき、言った。人殺しじゃない、と」男は、ふふっ、と笑った。 





 「私、撃てます」そう言うと、「プシュッ」と、山口がたてにして抱えている男の腹に弾を撃ち込んだ。男の体重がズッシリと山口の右腕にかかってきた。

 山口は銃口を男に向けたまま、男に向かって、抱えていた男を突き飛ばし、建物の陰の中で前転しながら路地を抜けた。脇を「チンッ」「チンッ」と弾が跳ねる音と共に火花が飛んだ。


 山口は振り返って一発発射した。「バンッ」

 男は一発撃ち返した。「プシュッ」その一発が山口の左太腿を貫通した。左手を腹に当てるとべっとりとシャワーを浴びたように濡れていた。鼻から口に入った血を「ペッ」と吐き出したがすぐに流れ込んでくる。呼吸が苦しいのは、熱のせいだけではなかった。


 男も壁に身を同化させ陰の中でこちらをうかがっている。

 川の流れる大通りから一台のトゥクトゥクのエンジン音が近づいてきた。トゥクトゥクのライトが男の顔を照らした瞬間山口は大通りに転がり出て、脚を引き摺りながら走った。突然、右肩に激痛が走った。男の撃った弾が当ったのだ。そして、拳銃を川に落としてしまった。

 「しまった」


 「タタタッ」男が山口のすぐ後ろにまで迫ってきた。覚悟を決めた。山口は立ち止まり振り返った。山口の足元にはおびただしい血がしたたり落ちている。




  男はゆっくりと近づいてきた。右手に持った銃のスライドは開いたままだ。

 「山口さん。私、8発も撃ってしまいました」そう言って、拳銃を川に向かってほおった。闇の中で「ボチャン」と音がした。

 「水はジュブンですね。首を絞めて、沈めます」そう言って「ふふっ」と笑った。


 男は上着を脱いで後ろに、スルッ、と、落とし、山口をにらみながら、両肩を回し、膝の屈伸運動を始めた。やがて、トン、トン、と軽く飛び跳ねながら山口に近づいてきた。

 山口も上着を脱ぎ、そのポケットからいつも持ち歩いている黒帯を取り出し、その黒帯で上着を胴体に巻きつけた。


 山口の両肩、左太腿には激痛が走り、腹からの血は止まらない。足元には血溜まりが出来つつあった。遠のいて行く意識の中で、「今までで最強の奴だ」と思った。山口は中段の構えを取った。




 男は軽く跳ねながら徐々に距離をつめ、右の回し蹴りを山口の左足に放った。山口が大きく左に傾いたところで、そのまま回転した男は左後ろ回し蹴りを山口の左頭部に打ち込んだ。かろうじて左手で防ぎ、左肩の激痛に耐えながら男の顔面めがけて右正面打ちを放った。しかし、男はそれを軽くかわしながら、左足を山口の腹にめり込ませた。「ゴフッ!!」山口は堪らず前かがみに倒れこんだ。


 男は、ポーン、と、山口を跳び越し、山口の背後から右腕を首に絡ませてきた。

 「グッ」しまった、山口は思った。

 「山口さん。あなたには、恨みありません」そう言いながら、山口の首に回した腕に力を込めた。

 「さ・よ・う・な・ら、山口さん」

 山口は息が出来るように両手を首に巻きつけられた男の腕と首の間に差し込んだ。しかし、男の力はさらに強まり、山口の意識は遠くなった。




 山口は、首と腕の間から左手を抜き、ググッ、とこぶしを握って、親指を立て、渾身こんしんの力を込めて自分の頭の後にある男の顔めがけて裏拳うらけんの要領で打ち込んだ。

 男は、「ギャッ!!」と、悲鳴を上げて山口の首に巻きつけていた腕を外し、左目に手を当て立ち上がった。目に当てた手の指の隙間からポタポタと血が垂れ始めた。


 路地から気絶していた男がふらつきながら出てきた。手には拳銃を握っている。山口の後に立ち、目を押さえていた男がなにやら中国語で言うと、その男は、拳銃を構え、通りに出てきた。


 その時、荷物を満載したトラックが「ビッ、ビー」、とクラクションを鳴らしながらその男の前で急停車した。運転席からタイ人が飛び出してきて、なにやら男に怒鳴っている。男はそのタイ人を殴りつけた。殴られたタイ人は地面に倒れこんだが、すぐに起き上がり、なにやら言いながら、ムエタイの構えを取った。

 同時に運転していた男も助手席から降りたが、目を押さえていた男が中国語で何か言うと、拳銃を持っていた男は躊躇ちゅうちょなく、ムエタイの構えを取っていた男の腹に拳銃を発射し、そのまま、山口の方へ歩み寄り、銃口を山口の眉間に向け、引き金を引いた。


 「プシュッ」サイレンサーで消された発射音が山口の耳に聞こえた。




 発射音は山口の足元から聞こえた。

 助手席から降りてきた男が持っていた棒で腕を打ちつけたのだ。

 山口の意識はすでに朦朧もうろうとし、まぶたは半分まで閉じている。

 その山口の耳にタイ語と中国語が聞こえてきた。その会話はやがて日本語に変わった。

 

 「邪魔をしないで下さい。そこの友達を早く病院へ連れて行きなさい」男は左目に手を当て、苦痛でギリギリと歯をかみ締めながら言った。

 「お前は日本人か?」八双はっそうの構えを取っている痩せぎすの長身の男は落ち着いた声で言った。

 「あなたにいう必要はありません」顔を下に向けながらも右目で男を睨み付けた。


 「その男は日本人か?」そう言ってトラックから降りた男は顔を山口に向けた。

 「あなたには関係のないことです」青白くなった顔がヘッドライトの中に浮かび上がった。

 腕を打ちつけられた男が左回し蹴りを放ったが、男がヒラリと身をかわすとその足は空を切った。空を切った足のすねは棒で打ち据えられ、体重の乗った右足が払われると、そのまま倒れ込み、隙だらけになったみぞおちに棒を持った男の右膝が落ちて来た。男は「グッ」という声と泡を吐いて動かなくなった。


 左目を山口に潰された男は、ころがっている拳銃を拾いに左へ飛んだ。男は棒を持った男は地面を蹴った。

 「ザッ」、「バシッ」


 山口はついに気を失った。闇の中で、

 「ニッポーン!!」と言う声を聞いた様な気がした。




片目の男は拳銃を掴もうと伸ばした腕を引っ込め、投げ出した体を2回転させ立ち上がった。そのまま腕を伸ばしたら拳銃を掴んだ腕は、鋭い一撃を受けていただろう。


 男達は3mのたもった。

 やがて車やトゥクトゥクが異変に気がつき1台、2台と停まり始めた。


 片目の男は左目から血をしたたらせながら低く腰をおろして左手を前突き出し、右手は腰に構えてジリジリと足を横に滑らせ間合いを計っている。棒を手にしている男は、再び八双の構えを取り、左足を半歩前に進めた。その瞬間、片目の男の左足が空気を切り裂く音を発すると同時にその左足をすくった。

 それは「ニッポーン!!」という気合で片目の男の左肩に棒が振り下ろされたのと同時であった。片目の男はそのまま棒を持った男の腕を抱え込み体をひねって腰を潜り込ませ、右腕を男の脇の下に差し込んで一本背負いをかけた。棒を持ったまま男は宙で回転して地面に蹲踞そんきょの姿勢で降り立った。


 野次馬が増えてきた。


 「この勝負はまたにしましょう」片目の男は2、3歩下がり、地面に転がっている男を起こし、暗い路地裏へ姿を消した。




 黒い泥の中で手足を動かしているような感覚が山口を支配していた。

 「このまま闇の中に吸い込まれていくのだろうか?」薄く残っている意識の中で山口は泥と光の間でもがいていた。


 「山口さん、私は悲しいです」テレサはそう言った。ここはどこだ?そうだ、平和公園だ。テレサは慰霊碑の前で祈りをささげる老婦人の腕のケロイドをなでながら涙を流した。そしてテレサは闇の中に消えていった。そうだ。俺も彼女の後を追っていかなきゃいけない。足を闇の中に差し入れた。ん?あれは?神田かみたじゃないか?「おい、神田かみた」思わず声をかけた。


 激痛が右肩を襲った。

 「大丈夫ですか?」

 「ん?ここは?」

 「大分うなされてたね。でも大丈夫だよ。あなた頑丈がんじょうだからね」




 「気がつきましたか?」白髪の老人が入ってきた。

 「あなたは?」そう言いながら起き上がろうとしたが、体中に痛みが走り、力も入らない。

 「そのままで」と手で制し、

 「まだ無理をしてはいけません」老人は山口の体を支えながら寝かした。そして、両肩、左太腿、腹、と順番に包帯を取って、傷口を確認し、塗り薬を塗った布を交換した。

 「さ、これを飲みなさい」そう言いながら、緑色の液体が入った湯飲みを口元に持ってきた。

 「和司君」そう言うと、和司と呼ばれた男は液体を飲みやすいように山口の頭を支えて少し起こした。


 「ここは?」山口は液体を飲み干し、体を支えている男に聞いた。

 「ここは山の中だよ。あいつらもここまでは追ってこないと思うよ」そう言いながら山口の体をやさしく横にさせた。

 「あなたが私を助けてくれたのですか?」横になったまま、座っている男に聞いた。

 細身だが鍛え抜かれた鞭のような体はシャツの上からでも分かった。

 「助けたんじゃないよ。あいつらは、ボクの友達を殺したんだ」和司と呼ばれた男はつらそうに顔を伏せた。

 「じゃあ、あの時撃たれた人は・・・」

 「死んだよ」

 「すまない。私のせいだ」山口は顔を伏せた。

 「それは違うよ」男は顔を上げ、山口の目を見つめて言った。


 山口は急に眠くなってきた。

 「ゆっくり眠りなさい」白髪の老人の声が聞こえた。




 山口は、1ヵ月ぐらいしてようやく歩けるようになった。そして、だんだんと様子が分かってきた。


 山口のいる町は、中国人町であった。1949年の中華人民共和国の誕生に伴い、蒋介石しょうかいせきひきいる国民党は政府を南京から台湾に移した。その際、多くの国民党支持者も台湾に移ったが、同時に、ミャンマーやタイへ移動した者も多く、彼らは国境近辺に町を形成したのだ。

 今、山口のいる町はそのいくつもある町のひとつだ。住民達の容貌は他の町の住民とは明らかに違い、会話は中国語だ。

 そして、山口の傷の手当をしてくれている男は江下寛一えげかんいちという日本人であった。彼もまた数奇な運命を受け入れて生きていた。


 「山口さん。私はもともと移民でね。アメリカのシアトルで育ったんですよ」山口の傷の手当をしながら江下は身の上話を時々するようになった。

 「20歳前の頃、東京でオリンピックが開かれると言うのでね、日本へ帰ったら、戦争が始まってね。アメリカにも帰れなくなって、兵隊にとられて、朝鮮からビルマに回されたんです」

 「インパール作戦で負けて、ビルマ軍やイギリス軍に追っかけられて、やっとタイに逃げてきて、そのままここに落ち着いてしまったんです」

 「いまじゃ、こっちに女房も子供もいます」

 「実家が漢方屋だったもんで、見よう見まねで覚えた薬草の使い方がこのあたりの中国人に気に入られて重宝ちょうほうがられているんですよ」


 江下から途切れ途切れに聞いた話は、激動する歴史の中で過酷な運命を受け入れざるを得なかった若者の人生だった。




傷の状態は大分良くなり、咳と微熱も江下えげの調合してくれる飲み薬でおさまりつつあった。


 この町並みには記憶があった。以前テレサと来た町だ。彼女がこの中国人町の存在を知り、どうしても訪ねたいと言い出し、いつも食事をしていたレストランのオーナーの案内で訪れたことがある。そして、彼女は、この辺境の地でたくましく生きている同胞を見て感動し、この町の学校にいくらかの寄付をした。


 山口は、彼女ほど感情の豊かな女性には会った事がなかった。歌っている時も感情が高ぶると大粒の涙を流した。そして、天安門広場の血の弾圧事件直前の香港でも、広島の平和公園でも。


 「起きていて大丈夫ですか?」山口の後から江下えげの声がした。

 「ノックもせず失礼しました。お休みかと思いまして」ドアの前にトレーに薬を載せた江下が立っていた。

 「ありがとうございます。大分良くなりました。江下えげさんのお陰です。命の恩人です」山口は椅子から立ち上がり深く頭を下げた。

 「いえ、いえ、命の恩人は私でなく、和司ですよ」そう言いながら、トレーをそばのテーブルの上に置いた。

 「そう言えば、最近見かけませんね」山口は、頭を下げながら、聞いた。

 「いま、彼には頼み事をしているんですよ」江下は、窓際に行き、カーテンを少し引いて光をさえぎった。

 「頼み事?」

 「はい。調合した薬を届けに行ってもらっています」

 「少し遠くですから、まだしばらくは帰ってこないと思います」

 



 「熱はどうですか」そう言って江下えげは山口の額に手をやって、

 「大分いいようですね。でも、もうしばらくは安静にしていてください」

 山口は、

 「はい。何から何までありがとうございます」と、深く頭を下げた。

 「じゃあ、お邪魔しました」江下えげはそう言うと、中国語の新聞をベッドの上にさりげなく置いて部屋を出て行った。


 その新聞は、テレサの葬儀は5月28日に政府要人も列席して国葬並みの扱いで行われたことを報じていた。山口にはその報道は台湾が大陸の中国人に対して呼びかけたもののように思えた。


 「彼女の純真な心は最後まで政治の駆け引きに利用されてしまったのではないだろうか?」「時の流れに身を任せ」が追悼式ついとうしきに流されたという記事に、山口は、彼女の運命を感じた。



 いつもより長めのスコールが止んだある日、江下えげが慌てた様子で部屋に入ってきた。

 「山口さん。大変なことが起こりました」真っ青な顔をしている。

 「何ですか?どうしました?」山口はちょうど中国茶を飲んでいるところだった。


 「和司が殺されました」江下はそう言うと、頭を抱えてヘナヘナと椅子に座り込んだ。

 「えっ!?」手に持っていた湯飲みのお茶がこぼれた。

 「どう言う事ですか?」山口大河やまぐちたいがは、こぼれたお茶で濡れた湯飲みをテーブルの上に置いた。

 「和司と一緒に行ったメオがたった今ふらふらになって帰ってきて、和司が殺されたと言うのです」青い顔のまま山口を見上げた。


 「和司とメオには、薬を届けるように頼んでいたのです」そう言って白髪の頭を抱え込んだ。

 「その途中で生まれ故郷の村に寄ったところ、誰かに撃ち殺されたと言うのです」

 「何故?一体何が起こったのですか?」あの和司は、ちょっとやそっとのことで殺される男ではない。

 「メオも取り乱してよく分からないのですが、中国人に襲われたらしいのです」

 「中国人?」

 「片目の中国人です」

 「!!」山口にはすぐに和司を殺した男の顔が浮かんだ。

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