チェンマイの剣
1972年(昭和47年) タイ チェンマイ
玉木の家は、チェンマイの市街からビルマ方向へさらに車で30分ほど山の中にあった。もう少し行くと、ビルマとの国境に接する地域だ。
深くえぐれた轍に溜まった泥水を跳ね上げ、トラックの車体は、さながら荒海を行く小船のように揺れた。トラックが大きく揺れるたびに、ルミ子と沙織が「きゃーっ、きゃーっ」と声を上げているのが助手席の開け放った窓から聞こえてくる。
「郷戸はん、ほーら、着きましたで」と、指さす先にヘッドライトの明かりの中の高床式の家の集落が見えてきた。
「この村に住んどるもんは、ぜーんぶワテの親戚や」
「親戚?」郷戸は、体が跳ね上がるのを防ぐために窓枠を掴み、前を見たまま聞き返した。
「せや。ワテの女房の親やら、兄弟姉妹やら、その親戚やら、中には他人も混ざっとるかもしれへんがな」玉木は顔を上下に揺らし、楽しそうに言った。
「せやけど、かまへんねん」
「あんた、一体ここで何をしてるんだ?」
「何をて、あんた、・・・結婚生活やがな。ハッハッハッ」
玉木はトラックから飛び降りると、
「おーい、春子ーッ、今帰ったでー」と、大声を上げた。
遠くからやや小太りの女が満面の笑みを浮かべて、足早にやってきた。暗くてよく分からないが、30歳くらいであろうか、大きな口の白い歯が印象的な女であった。
子供達が、
「きゃー、きゃー」と声を上げてトラックめがけて走ってくる。
数匹の犬がその子供達を追いかけて子供たちの足にまとわりついている。
そして、子供達はトラックの周りに集まって、タイヤに足を掛け荷台にあがろうとしているが、大人たちに引きずり下ろされた。
いつもの光景なのだろう。大人たちは手馴れた様子で荷物を降ろし、近くの高床式の家に運び込み始めた。
「どや、元気やったか?」玉木はそう言って、春子と呼んだ女を両手で抱きしめ、右手で尻をなでた。
他の女達も玉木の周りに集まってきた。
「郷戸はん、こっち来なはれや。紹介しまっさ」
玉木は春子と呼んだ女の肩に右手を回したまま、
「これが春子や、最初の女房や」
そして左手で女達を指差し、
「こっちが二番目の女房の夏子、三番目の秋子は今ちょっと見えへんなぁ。ほんで、あれが四番目の冬子で・・・」
「玉木さん、ちょっと待ってくれ、そんなに覚えきれん」
「そうか?覚え易い名前にしたんやけどなぁ・・・」と額に垂れた髪をかきあげた。
郷戸は、
「あー、それで一番新しい女房が沙織か」と気がついた。
「ま、こっちで飯でも食おう」そう言うと、ひときわ大きい高床式の家へ向かった。
ギシギシと鳴る木の階段を上がり、木戸を開けると左手に大きな瓶が2つ置いてあった。玉木は、そばにあった柄杓で水をすくい、それを飲み、残った水で手を洗った。郷戸もそれに倣った。思いのほか冷たくて気持ちがいい。
その夜は、メコンウィスキーを飲みながら、玉木の女房達が料理した鶏のカレー煮込みと川エビを煮たもの、それにもち米を炊いたものを食べた。
郷戸と玉木が食べている間、玉木の「親戚」が十数人周りを取り囲んで郷戸の食べる様子を興味深げに眺めていた。子供達は、郷戸が一口食べるごとに声を上げて笑った。
翌朝は鶏の声と米を炊くにおいで目が覚めた。鶏の声に混じって「バシッ、バシッ」という音がどこからか聞こえてくる。
郷戸は食事の支度をしている女房達に頭を下げて、階段を降りた。昨夜は暗くて分からなかったが、かなり大きい集落になっている。あちらこちらで鶏が餌をついばんでいる。遠くに見えるのは水田であろうか。
「バシッ、バシッ」と言う音は集落の外れから聞こえてくる。なんとはなく、その音のする方ヘ足が向いた。
そこには、ムエタイのリングが拵えてあった。少年達がムエタイの稽古をしている。幼いのは10歳くらいから、その子供達を指導をしているのが、25、6歳といったところだろうか。
練習をしている少年達の中で一際目立つ少年がいた。幼顔ながらも背が高く目つきが鋭い。細い体はまるで革の鞭のようにしなる。
「なんや、ここに居ったんかいな」玉木が後ろから声をかけた。
「ああ」郷戸は振り向かずに腕組みをしたまま返事をした。
「どや、ええ子やろ」
「ああ」
「強いでェ。ワテの息子や」玉木の自慢げな顔は声を聞けば分かった。
チェンマイに来てから2週間ほどが過ぎた。
こちらに来てからも毎朝1000回の素振りは欠かさなかった。そして、子供達も、日課になっている山での枯れ枝拾いから帰ると、郷戸のまねをして棒切れを振るようになっていた。
そのうち自然に、郷戸は子供達に剣道を教えるようになった。
そんな様子を見ていた玉木はある日、
「郷戸はん。あんさんに頼みがあるんやけどな」と、いつものように大きな声で言った。
「なんだ」汗を拭きながら玉木のいる木陰に入った。
「ワテの子にな、あんたの剣術を教えてやってもらいたいんや」
「剣を?」一瞬汗を拭く腕を止めて玉木を見た。
「せや。ワテの子供はあの子だけなんや」そう言って、素振りをしている少年達のいる方を、顎でしゃくった。
中に一際背の高い少年がいる。玉木の息子だ。
「だからといって俺が教える理屈にはならん。それに、俺の剣は人に教えられるような高尚なものではない」汗を拭き終えてシャツを着た。
「まぁ、そう言わんと。頼むがな。この通りや」と、手を顔の前で合わせ、
「オーイ、ナカッチャン」と、少年を呼んだ。
少年は玉木から呼ばれてうれしそうに走ってきて、郷戸の前で立ち止まり、
「サワッ、ディ、クラップ」と手を合わせ、ニコッ、と微笑んだ。
玉木は少年の肩を抱き寄せながら、
「ナカッチャン、この兄ちゃんがな、お前に剣術を教えて下さんのや」と、少年にゆっくりと言った。
「ま、待て、俺はまだ教えるとは・・・」郷戸は、シャツのボタンをはめる手を止めた。
「ま、ええがな。ちょっと手ほどきしてくれるだけでええんや」玉木は郷戸の言葉を遮り、
「ナカッチャン、ようお礼言わな」と、少年の顔を覗いた。
「ボク、ナカッチャン、ジャナイ。和司ダヨ」少年は、玉木の顔を見上げて、唇を尖らせて言った。
「おお、せやったな。よし、もうエエ、あっち行って仕事し」と、少年の肩を押して、追いやった。
「あの子は、日本人に成りとうてな、自分で和司ゆう名前つけよったんや」そう言いながら右手を頭の後ろにやって、
「まあ、ワテの血が入っとるさかいに、日本人や言うても嘘とちゃうがな」指先で首筋を掻いた。
「しかし、無理な話や・・・」玉木は寂しそうに言った。
「郷戸はん、おそらく、年明けにはワテは国外退去処分になると思う」と、いつもと違う厳しい表情で郷戸の顔を見た。
「国外退去?」シャツのボタンをはめ終えると、郷戸は玉木の顔を見た。
玉木は、
「ああ、日本じゃ、ワテのことで騒ぎ始めとるらしいからな」片手を木にあてて体を預けた。
「何の事情も知らんアホなマスコミのお陰や。ただ、ワテのことをおもしろおかしゅう週刊誌に書きまくって、ワテはそいつらの金儲けの材料にされてしもうたんや」と吐き捨てるような口調で言った。
「おそらく日本政府がこっちの政府に圧力をかけとんのや。もうじき手続きは終了して捕まえにきよる」そう言ってタバコを足元に捨て、ゴム草履で、憎々しげに何度も踏み、2mほど先へ蹴飛ばした。
「いま、ワテが国外退去になったら、ここにおる200人近くの人間の生活の面倒を見るもんがおらんようになる」近くにあった丸椅子を2つとりに行った。
「それに、ワテの夢も中途半端なままで終わってしまう」椅子のひとつを郷戸の近くに置いた。
「何なんだ、あんたの、その夢とやらは」郷戸は椅子には座らず、立ったままで聞いた。
「ここに、こいつらの国を作ってやりたいんや」玉木は、ドッコイショ、と、椅子に腰を下ろした。
「国?」何を言い出すんだ、と郷戸は思って、玉木の顔を見た。
玉木はまじめな顔で、
「せや。見てみ」そう言って、東の空を指差した。
「あの空の下はビルマや。せやけど、タイやビルマやゆうても、この辺りに住んどるもんにとっては関係あらへん。空に線引きはでけんからな」木の幹に体を預け足を投げ出して、遠くの空を見つめながら続けた。
「いろんな部族がタイやビルマと関係無う、生活しとんのや。中には、中国共産党に追われて逃げて来た国民党の連中もいてる」ポケットからマルボロを取り出し郷戸にも勧めた。郷戸は、手を、イヤ、というふうに振った。
「あの辺り一体はな、今、みんなが自分らの文化と生活を守るために命をかけとんのや」
「ワテはそれの手伝いをしてやりたいのや」
「手伝いを?」郷戸は、この男が分からなくなってきた。
「これはワテ等の義務や」そう言いながら、マルボロを1本口にくわえた。
「この辺りは、インパール作戦で負けてもうた日本人の兵隊さんがビルマからタイへ逃げてきた道や」
「ここらのカレン族にとっては日本人は敵やったんや、その敵やった日本人が腹へったり、病気になったりした時にはな、助けてくれたんや」いったん口を、クッ、と結んだ。そして、
「そのお陰で、今の日本があんのや。ありがたいこっちゃがな」と、続けた。
「ついこの間までは、ワテも、そないなことは考えてなかった」マルボロの紫煙は緩やかに風に乗った。
「それがな、ある時、ここの子供らがこの先の洞窟で、日本軍の残して行った小銃を仰山見つけたんや」そう言って郷戸の顔を見た。
「三八式か?」
「せや。どういう経緯で鉄砲があんなとこにあったんかは分からん」そう言って大きく胸を膨らませて煙を吸い込み、フー、と吐き出した。
「ここいらの人間に殺されたり、病気で死んだり、山賊に襲われたりして死んだ兵隊さんのかも分からん」煙の後の言葉はため息混じりになった。
「しかし、そんなことはどうでもええんや。ワテはこの銃でカレン族に恩返しがしたいんや」自分に言い聞かせるように声が大きくなった。
「そん時から、ワテは、日本軍が残していった銃やら、なんやらが見つかった言う話しがあったら、飛んで行っては買うてまんのや」ニヤッ、と笑った。
「どうするつもりだ?」
「ワテはな、その銃を、食料やら他のもんと一緒に、ここいら辺のカレン兵に渡してまんのや」ペッ、と唾を足元に吐き、
「武器の密売か」という郷戸の言葉に、
「密売とちゃう。タダでやってんのや」と、早口で応えた。
「しかし、これは、トップシークレット、ちゅうやつや」冗談めかして、「トップシークレット」と言う言葉に力を入れた。
「今、ワテが隠れたりしたら、捜査の手が入って肝心のトップシークレットがタイ軍やビルマ軍に知れてまう」吐き出した唾で湿った砂をゴム草履でザラザラと消した。
「せやから、今は大人しゅう捕まるつもりや」顎を上に上げて、額に垂れた髪を後ろへやった。
「後のことはワテの女房やら親戚やらに頼むつもりや」そう言って頭を木にもたれさせた。
「それと、俺が、あんたの息子に剣を教えることとどういう関係があるんだ」郷戸は玉木の反対側にもたれて、顔を見ずに聞いた。
「あの子にな、ワテの夢を継いでもらいたいんや」クルッ、と振り向いて郷戸の顔を見た。
「あんたの夢を?」郷戸は、正面を向いたまま聞き返した。
「せや、いざと言う時には自分の身を、家族を、村を守らなあかん」玉木は両手を膝に当て丸椅子から立ち上がった。
「これから先、長い戦いになる。ワテがおらんようになっても、あいつには頑張ってもらいたいんや」パン、パン、と半ズボンの尻を叩いた。
「あんたの勝手な思いだ」郷戸は早口でハッキリと言った。
「そうかもしれへん。けど、それがあの子の運命や」左手を木にあて、郷戸の目を覗き込むように、
「どや、頼まれてくれへんか?」と、言った。
郷戸は返事をせずにその場を離れた。
1973年(昭和48年)1月 タイ チェンマイ
年が明けた。
郷戸は、毎朝、子供達には素振りはさせているが、玉木から頼まれたことに返事はしていない。
玉木もあれ以来そのことは口にしなくなった。
「変わった男だ」郷戸は思った。国を作ろうなんて夢のまた夢だ。玉木にもそれは分かっているはずだ。
郷戸は、最近、村の連中の荷物運びの列に加わってビルマとの国境近くの街まで行くこともある。
ある日、木に背中を預けて空を眺めていると
「またかいな。あの空の下に何がありまんのや。いつもそうやって。バンコクのワテの隠れ家の窓からもそうでしたな」
「日本はあっちでっせ」と、玉木は郷戸の背中に声をかけた。
郷戸は顔の変化を気取られるのを避け振り向かなかった。
「ところで、郷戸はん、パスポート出しなはれ」
「パスポート?」郷戸は振り向いて玉木を見た。
「今から、あの兄ちゃんがマレーシアへ行ってビザの延長をしてくれるさかい。日本に背を向けててもパスポートは要りまっしゃろ」そう意味ありげな笑みを浮かて言って、トラックの泥だらけのフロントガラスを洗っている男を指差した。
「大丈夫なのか?」いつか、トラックを運転してきた男だ。
「大丈夫や。蛇の道はヘビや」
「あの兄ちゃんは、バンコクでワテが世話しとる兄ちゃんや」そう言って、おどけた格好で男に手を振ると、男もおどけて白い歯をむき出しにして「ハッ、ハッ、ハッ」と笑って、敬礼の格好をした。
玉木は再び引き締めた表情を郷戸に向け、
「シンガポールにある日本人墓地には、からゆき(唐行き)さんの墓がありましてな、その墓は日本の方を向いて建てらてまんのや。あん人らはシンガポール沖を通るバルチック艦隊を見ながら自分らを捨てた日本のことを心配してたんや」そう言った。
「人間ちゅうもんは寂しいもんや。どこに骨を埋めらても、最後には故郷の戸を叩いて開けたいもんや。そうは思いまへんか、郷戸はん」下から見上げるようにして郷戸を見た。
「鉄砲横丁のあの親父かて、いろんな事情で日本に引き上げることが出来んとタイに骨を埋める覚悟でしたんやろけど、最後は、あの刀をワテに売ってまでして日本行きの金がほしかったんやからな」
「はは、なんや湿っぽい話になってしもたな」そう言うと声のトーンを変えて、
「あの兄ちゃんは、一週間に一回はこっちに来よるさかいに、これからワテがおらんようになっても、あの兄ちゃんに頼み事したらええ。信用できるさかいな」そう一気に行った。そして再び、男に向かって手を振った。男は、顔の前で手を合わせてニコッ、と笑った。
タイの人間の笑顔は心を和ませるものがある、と近頃、郷戸は思うようになっていた。
「言葉なんか分からんでもかましまへんで」ハッ、ハッ、ハッ、といつものように笑いながら言い、
「言葉が通じて字が読めても何にもならへん」と、手を自分の顔の前で大きく2度振った。
「見てみいな。言葉が通じて、紙切れに約束事書いても、あっちこっちで殺し合いしとるやないか」口の端を上げて言った。
「言葉は通じんでも、字は読めんでも、家族になるのが一番や。ハッ、ハッ、ハッ、せやろ、郷戸はん」
「ま、いざと言う時には、ワテの息子がちょっとだけ日本語がしゃべれるさかいに、少しは役にたつやろ」
玉木の息子は離れたところで、棒切れを持って素振りをしている。最近では様になってきた。棒を振り下ろすたびに「ニッポン!、ニッポン!」と、気合のつもりなのだろう、叫んでいる。
「おーい、ナカッチャン」玉木はナカッチャンを呼んだ。
ナカッチャンは、玉木に呼ばれると、本当にうれしそうに飛んでくる。郷戸の前で裸足の足をそろえて、
「サワッ、ディ、クラップ」と手を合わせた。
「ええか、ナカッチャン・・・」
「和司ダヨ」
「ええか、和司、一所懸命練習して、強うなれよ。強うなって、この村を守るんや。お父ちゃんもそのうち帰ってくるからな」
「帰ってくるとは・・・?」郷戸は汗を拭きながら思った。
「ウン、ボク、ガンバッテ、強クナッテ、オトウサンガ、帰ッテクルマデ、コノ村ヲ守ルヨ」
「よし、よし、ナカッチャン、お前はホンマにええ子や」そう言う玉木の目には涙が浮かんでいた。
「和司ダヨ」
「せやったな。和司」そう言って、両手で、ナカッチャンの肩を抱いた。
玉木は、ナカッチャンの肩に手を置いたまま、郷戸を見上げて、
「郷戸はん。いよいよ、明日、ワテは連行されることになったんや」
「明日?」
「せや、あの兄ちゃんの情報や」と、トラックのタイヤの泥を落としている男のほうを見た。
そういえば最近村の連中の行動がセワセワしていた。
「あの兄ちゃんの情報は確かやからな」
玉木のその言葉には覚悟が滲んでいた。
息子は静かに玉木の話を聞いている。
「郷戸はんはここで気の済むまでゆっくりしたらええ」玉木は息子の肩に手を置いたまま続けた。
「飽きたら、あの兄ちゃんがバンコクから来た時に一緒に帰ったらええんや」そして、息子の顔を覗き込んで、
「ええか、ナカッチャン・・・」
「和司ダヨ」
「ええか、和司、この郷戸はんの言うことをよぉ聞いて、強い男になるんやで。日本の男はな、強ぉないとあかんねん」と、一言、一言、噛んで含めるように言った。
息子も黒い顔を引き締めて、
「ワカッタ。ボク、強クナッテ、日本人ニナルヨ」
息子はそう言って、さっきまで素振りをしていたところに、タタタッ、と駆けて行き、再び、
「ニッポン!、ニッポン!」と声を出して、素振りを始めた。
翌朝、鶏が啼くと同時に、タイ警察の人間が玉木の家屋にやって来た。玉木は明け方近くまで村の者と酒を飲んでいてちょうど寝入ったところであったが、
「ちょっと支度するさかいに下で待っといてんか」そう言って、小ざっぱりとした服に着替え、昨夜から整えてあったカバンを1つ持ち、戸口まで歩み、
「ほな・・・」と、振り返って部屋を見渡した。
部屋の中には20人の女房達とその親や兄弟、姉妹達が暗い顔で立っている。春子は必死で泣くのをこらえ、夏子や秋子に脇を支えられている。
階段をギシ、ギシ、と鳴らして降りると、女房達も後に続いた。
玉木は、前後を制服警官に挟まれ、おとなしく車の停めてある集落の入り口に向かった。車は既に運転席を集落の外に向けて停めてあった、
村の人間達は両脇に立ち並び、あるものは子供達の肩を抱き、あるものは顔を伏せて嗚咽を漏らしている。犬達でさえも何事かと列の中に入り込み玉木の様子を眺めている。
ルミ子と沙織がパタパタパタ、とゴム草履を鳴らして、玉木達を追い越して車まで行き、車の中にいる警官に果物やら飲み物やらを渡し、何やら頼んでいる。
階段の下に居た春子は耐え切れずに大声で泣き始め、それにつられて、他の女房や親戚達も声を上げて泣き始めた。
「オーイ、オイ、オイ・・・オーイ、オイ、オイ・・・」
玉木は車まで2mほどのところまで来て、耐え切れずに振り返り、
「達者で暮らせよォー」と、振り絞るような声を上げ、タタッ、と四駆のトラックへ走りより、荷台に乗り込んだ。
四駆のトラックは、マフラーを、ブルルン、と大きく揺らしてエンジンがかかり、一塊の黒煙を吐き出し、ゆっくりと動き始めた。
加速し始めるトラックの荷台から、ふと、いつもの大木の辺りを見ると、朝日の中で、郷戸とナカッチャンがトラックの方を向いて素振りをしているのが見えた。
ナカッチャンの「ニッポン!、ニッポン!」の掛け声は、いつもより大きく、風に乗ってトラックを追いかけてきた。
ナカッチャンの姿は玉木の瞳の中で揺れ、その掛け声は、玉木の心に刺さった。
何日かして、トラックの定期便がチェンマイへ戻ってきた時、郷戸はドライバーから、パスポートと日本の新聞を受け取った。
その新聞には、玉木はバンコクに連行されて間もなく、タイ政府から「公序良俗を乱した」罪で永久国外追放になったことが大きく載っていた。
ここで暮らす玉木の女房達やナカッチャンはそのことを知っているのだろうか?彼らは、陽が昇る前から働き始め、普段と変わりない生活をしている。
玉木は村のためにトラックを1台購入していた。女達は村の男が運転するトラックに乗って、一週間に何度かチェンマイ市街に出て、自分達が織り上げた布や、野菜を売っている。
男達は何週間も村を留守にすることがある。ビルマとの国境を越えて三八銃を運び込んだり、密貿易をしたりしているのだ。
チェンマイに来てから、半年が過ぎようとしていた。
郷戸は、女達とチェンマイ市街に行ったり、男たちと一緒に密輸ルートを使ってビルマに行ったりしてこの村の滞在を楽しんでいた。
反ビルマ政府の山岳民族同士の結束は固く、自由に国境を往き来できるルートがあり、お互いに協力し合って商品を流通させている。このルートを使えば、インドや、つい3年ほど前にパキスタンから独立したバングラデシュに入国するのも簡単のようだ。逆に村の男たちが帰ってくるときにはビルマやインドの男達が一緒の時もあった。彼らは、ビルマからヒスイ、ルビーなどの宝石から麻薬まで持ち込み、それを売った金でタイ商品やタイ国内に流通している日本製品を大量に買い込みビルマ内に流通させているのだ。
たった半年の間に、ナカッチャンは、天性の敏捷さと感のよさでめきめき腕を上げ、いまや、年長の少年でさえもナカッチャンに敵うものはいない。 最近では、ナカッチャンに「突き」を教えていた。
ナカッチャンが、直径50cm程の木に向かって、「ニッポーンッ!!」の気合と共に突きを入れる姿には鬼気迫るものがあった。
郷戸は、ナカッチャンが剣とムエタイを同時に使いこなすようになるまでにそう時間はかからないだろうと思った。
ナカッチャンが日本人になれる可能性はない。ナカッチャンは、いつかそれに気がつくだろう。いや、もう気がついているのかもしれない。
郷戸は、ナカッチャンが玉木の言いつけを守り、ひたすら練習に励む姿を見るのが辛くなってきた。